【読書】海野つなみ『逃げるは恥だが役に立つ』講談社

海野つなみ『逃げるは恥だが役に立つ』講談社 全9巻 2013.6.13~2017.3.13
https://kisscomic.com/c/nigehaji.html

 題材は、家族×仕事。気になっていたコミック。読んでみました。
 最初はマジメに、働き方について登場人物が語ることが多かったのが、だんだんラブコメ路線へ。「あはは、みくりちゃん、よかったねー!」って声をかけたくなるような、ほのぼのとしたマンガでした。
 このマンガ、家族法×労働法の視点で、読み込んでみると、面白そうです。それはまた他日…

 今回は、主人公である平匡の言動について、個人的に感じたことを書きとめておきます。

1 高齢童貞

 平匡は、「高齢童貞」。カベを作る平匡に対し、ヒロインのみくりは、「契約結婚」「恋人役割」を、段々に提案して、平匡は、それらにのってゆき、最後には、二人は本当に結婚します。みくりが徐々に距離を縮めていった印象。「めんどくさ~」とは言いつつも、努力を続ける、みくりの姿が微笑ましいです。
 ただ、実際、平匡のような男性が、「契約結婚」「恋人役割」という提案にのるかどうかということを考えると、どうなのでしょう。

2 大義名分

 高齢童貞が、なぜ、高齢童貞になっているのかというと、「大義名分にこだわるから」ということが、ひとつの原因として、ありそうです。たとえば、「恋人になるなら、愛し合っているひとと」というコダワリを、平匡のような男性は、持っているのかもしれません。
 そうした場合、みくりが「契約結婚」「恋人役割」という提案をしても、「たとえ名目だけであるとしても、愛し合っていないひとと、そういう関係になることはできない」と、断る確率が、高齢童貞においては、相当な割合で、あるのではないでしょうか。たとえ、みくりがいなくなって、不便になるとしてもです。

 ※ 高齢童貞のこうしたコダワリのことを「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」というそうです。このイデオロギー、誰が、いつ、男性にインプットするのでしょう? 個人的な推測としては、キリスト教における倫理に、その起源がありそうな気がします。

 ※ そういえば、私が、恋愛に関する記述において、よく引用している、鷲田清一さん、河合隼雄さんによる、下記の言葉たちについても、両方とも男性が記したものです。鷲田さんも、河合さんも、「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」から、影響を受けているのかもしれません。

 ・ 鷲田清一さん「三人称の視点から『あの人は社会的にああだ、経済的にこうだ』ではなく、二人称の視点から『わたし、あなた』の関係になること。自分を賭けること」

 ・ 河合隼雄さん「現実の社会において、社会的な地位に関して、どのように成功しても、『他の誰でもない固有な人として接することのできる相手』がいなければ、たましいに必要な課題を達成したことにはならない」

3 いまが楽しければ、それでいい

 このマンガにおける、高齢童貞の描き方には、「若くて可愛い女の子が近づいてきたら、男性は、手を出すだろう」という先入観を、個人的には感じます。その先入観は、言い換えてみると、「いまが楽しければ、それでいいだろう」という人生観でもあるのではないでしょうか。

4 前の愛情と後の愛情

 劇中にて、平匡の独白に、「自分の愛情が届かなかった経験をしてきた」という趣旨のものがありました。この独白について、作者の海野さんは、もっと掘り下げてみてもよかったのではないでしょうか。
 大義名分にこだわる高齢童貞としては、愛情が届かなかったからといって、その愛情を次の相手へ切りかえることは、難しいからです。「切りかえることができるのならば、前の愛情は、自分にとって、何だったのか」ということになるからです。
 もし、その愛情を、「新しく自分に近寄ってきた女性が若くて可愛いかったから」といって、切りかえると、高齢童貞にとっては、前の女性に対する愛情も、後の女性に対する愛情も、そして自分自身にとっての愛情も、説得力を失うこととなります。あとに残るのは、茫漠とした毎日です。踏み出してみて、後悔している高齢童貞も、いるかもしれません。

 こうした考え方については、みくりタイプの「いまが楽しければ、それでいいだろう」という考え方の女性からすると「何て面倒くさい」という感想が出てくるかもしれません。
 ただ、高齢童貞の考え方からも、また、こういう反論が出てきそうです。
 「童話『アリとキリギリス』しかり、『いま』ではなく『未来』へ向けて、何事か一貫して、蓄積していくことも、生きていくためには必要なのではないか」
 これはこれで一理あるような気も、個人的には、します。ただ、この考え方は、鷲田清一さんが『だれのための仕事か』において問題視している、プロテスタント倫理、そのものですね。

5 開高健さんの「一滴の光」

 ここまで書いてきて、思い出した小説があります。
 開高健さんの最後の作品、「一滴の光」。59歳、最後の病床で執筆した作品です。
 筋書きは、開高さんとおぼしき男性が、20代とおぼしき女性と、飲んで・食べて・遊ぶ、というシンプルなもの。
 その小説のなかに、こういう趣旨の言葉が出てきます。「飽きたら、この娘は、私を捨ててゆくだろう」。
 5年以上、前に、この小説を初めて読んだときには、個人的に、こういう感想でした。
 「いい年をしたおじさんが、若い女の子と、だらしなく遊んでいる、品の悪い作品だなぁ」
 でも、ここまで、男性と女性の関係について考えてみたとき、別な感想が出てきました。
 「男性は、女性からの愛情について、あまり期待しない方がいいのかもしれない」
 懐に飛び込んできたら、いっしょに遊んで、飛び立っていくときには、ただ見送る。愛情にこだわらずに、女性が好きに生きるに任せた方が、男性も女性も、こじれることなく、生きてゆくことができるのかもしれません。
 男性の役割は、「女性が自由に生きることのできる居場所を作ること」なのかもしれません。

 さらに、連想。詩人・吉野弘さんが、その娘さんにあてて書いた詩「奈々子に」に、こういう言葉が出てきます。
 「お父さんは、お前に、多くを期待しないだろう」
 「私がお前にあげたいものは、自分を愛する心だ」
 つまり、吉野さんは、娘さんからの、自分に対する愛情についても、多くを期待していない、ということになります。
 こちらの詩と、開高さんの小説とは、親子としての男性・女性と、パートナーとしての男性・女性との違いはありますけれども、「男性が、女性からの愛情について、多くを期待しない」という点においては、共通するものがあります。

6 女性の結婚願望

 残る、気になることは、「いまが楽しければ、それでいいだろう」という、みくりタイプの女性たちも、どうして結婚したがるのか、ということです。結婚は、女性にとっては束縛の多い制度だからです。
 そのひとつの答えとして、「結婚と子どもが、つながっているから」ということが、ありうるでしょう。『ワンオペ育児』に、そうした傾向を示している、社会調査結果についての紹介が、のっていました。
 ただ、日本の最高裁判所は、婚外子に対する、相続における差別について、憲法違反とする判決を下しました。つまり、日本の社会は、特定の政治勢力からの反対はありつつも、婚外子を承認する方向へ、一歩を踏み出しています。
 結婚しなくても、子どもを生んで、育てていい。そうした社会になったあとに、女性の結婚願望は、続いてゆくのでしょうか。

7 夫の消滅 父親の消滅

 もし、将来、女性の結婚願望が消えたとしたら、そのことに伴って、男性の「夫としての役割」「父親としての役割」も、薄れることとなります。
 実際、霊長類の群れにおいては、人間を除き、「父親」という役割が、あまり存在していないそうです。
 人間の社会は、女性が自由になるごとに、自然な社会へ戻ってゆくのかもしれません。

8 両親の存在と子どもの成長

 ただ、留意しておいたほうがいいこととして、「両親の離婚が、その子どもの人生に、決定的な影響を及ぼすことがある」ということがあります。
 私にも、実際、「両親の離婚が、このひとの人生に、影響したのだろう」と、感じた経験があります。
 両親が、一緒にいること。そのことが、子どもの成長にとって、実際には、どの程度、大切なことなのか。興味があります。

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