【映画】ロジャー・メインウッド『エセルとアーネスト ふたりの物語』 ~「普通」と「標準」~

ロジャー・メインウッド『エセルとアーネスト ふたりの物語』
https://child-film.com/ethelandernest/

 原作者は、イギリスの絵本作家、レイモンド・ブリッグズ。彼の両親が歩んだ人生について、物語にして、絵本に。その絵本を、映画化。

1 出会い

 自転車で町を行く、アーネスト。
 彼がふと見ると、建物の窓から、メイドが手を出して、窓そうじで汚れた布巾を振り、汚れを散らしていた。
「おっ、僕に手を振っているように見える…」
 手を振り返してみた、アーネスト。
 それが、妻・エセルとの出会いだった。

 素敵な出会いー(*^_^*)

2 父親像

 出会いのエピソードからも分かるとおり、アーネストは、大らかで朗らかな性格。
 日曜大工で、自宅に必要な戸棚や家具、戦争時には防空壕まで、こしらえていた姿が、個人的には、印象的でした。
 働いて収入を得るのみならず、家庭のことについても、きちんと手入れをする、父親像でした。

 ※ 書籍メモ:養老孟司『手入れという思想』新潮文庫

3 母親像

 結婚して、メイドを辞め、専業主婦になったエセル。
 アーネストの収入が、新聞報道がいう貧困世帯の収入に該当しても、「うちは労働者の階級ではありません」。
 息子が、進学校へ入ったことを喜び、美術学校へ転進すると、がっかりする。

 「教育ママ」の典型例のような母親像でした。

 そして、そうした母親のもと、息子レイモンドは、窃盗事件を起こします。警察による注意を受けたあと、自宅へ戻ってきた彼。どうしてそんなことをしたのか、当の本人にも、もちろん母親にも、分かりません。それぞれ、おいおいと泣く二人のもとに、アーネストがやってきて、困った顔で立ち尽くしていました。
 現代日本の家族にも、通じるものがあるように、個人的には見受けました。

 なお、エセルは晩婚で、息子レイモンドを妊娠した頃には、37歳になっていました。
 自宅での出産。難産。立ち会った医師は、「危険な出産でした。次のお子さんは、あきらめた方がよいでしょう。奥さんをとるか、次のお子さんをとるか、です」。
 「女性が安全に出産できるのは、35歳まで」という、現代日本の女性たちを結婚へ駆り立てている定説にも似た話が、エセルの時代にも、出て来ていました。

4 パートナーシップ 「我慢」と「分かち合い」

 第二次世界大戦が勃発。二人は、息子レイモンドを、田舎へ疎開させることになります。
 息子を手放したくない、エセル。
 一緒に住んでいると、息子も死ぬことになるかもしれないと、疎開させようとするアーネスト。
 二人は対立しながらも、最後は、息子と離れることになる悲しみに、お互いを抱きしめ合います。

 また、アーネストは、造船所での死体処理に動員、従事。労働すること、14時間。くたくたに疲れ果て、子どもたちのバラバラ死体に、心を痛めて帰ってきます。「泣かせてくれ…」「泣いていいのよ…」。エセルが、アーネストを、抱きとめます。

 こうした二人の姿を見ると、パートナーシップに必要なのは、「我慢」ではなく「分かち合い」なのではないかという考えが、個人的に、浮かんできました。

 「我慢している」⇒「我慢していることを分かってほしい」

 「伝えたい」×「受け容れたい」

 後者のパートナーシップの方が、パートナーシップを続けてゆきやすいのではないでしょうか。「個人と個人とが、全面的に理解し合うことは、難しい」としても、です。
 なお、河合隼雄さんは、「人間理解は、命がけの仕事である」と、『こころの処方箋』(新潮文庫)に、書いています。その理由は、「他人を本当に理解しようとすると、自分の生き方の根っこが、ぐらついてくるから」だそうです。
 「分かち合う」ことも、一筋縄では、いかないようです。

 余談。「我慢」と同じ趣旨の言葉に「忍耐」があります。「忍耐」という言葉は、大江健三郎さんの『ヒロシマ・ノート』(岩波新書)及び『個人的な体験』(新潮文庫)における、キーワードでした。
 『ヒロシマ・ノート』にて、大江さんは、広島の被爆者さんたちの「忍耐」に、大いに共感していました。
 逆に、『個人的な体験』においては、主人公(大江さん)が、障害のある子が生まれてきたこと、そのことについての思い悩みを、その妻と共感すること、分かち合うことは、ありませんでした。
 社会における他者には共感するけれども、家族とは共感しない。このあたりに、ひょっとすると、現代日本の家族における、パートナーシップについての問題点が、潜んでいるのかもしれません。

 また、劇中では、広島に原子爆弾が落ち、10万人が死亡したことを、ラジオが報じていました。10万人の死亡について、アーネストは、衝撃を受けていました。一方、エセルの反応は、「これで戦争がなくなるわね」。
 大江さんとは逆に、家族との分かち合いはできても、社会における他者との分かち合いはできないひとの姿が、そこには、ありました。

5 自宅 ガス・電気・水道 自動車

 エセルとアーネストの世帯は、貧困世帯でした。
 しかし、彼らは、新婚当初から、自宅を25年ローンで購入。水道、電灯つき。コンロも、ガスのものに変更していました。
 自動車は、アーネストが60歳になった頃、購入していました。

 現代日本では、若者が住宅を購入しにくいことが、問題になっています。
 しかし、アーネストたちの時代では、貧困世帯でも、住宅が購入できていたようです。
 住宅の価格だけ、特に日本においては、戦後、値上がりが著しかったのかもしれません。

 ※ 書籍メモ:『若者たちに住まいを!』(岩波ブックレット)

 そして、アーネストは、定年まで、同じ職場に勤め続けていたようです。
 自宅購入、住宅ローン、終身雇用。現代日本において標準となっている生き方に、そっくりです。そっくりというよりも、むしろ、このような生き方の原型は、イギリスないしヨーロッパにあったのかもしません。

6 戦争国家⇒家族統合⇒福祉国家

 第二次世界大戦。
 息子レイモンドは、疎開。エセルは通信事務に、アーネストは消防隊に死体処理に、動員。
 国家が戦争を起こして、その戦争体制のなかに、家族を組み込んでゆく。その様が見えてくる気が、個人的にしました。
 そして、1942年の「ベヴァリッジ報告」。傷病手当、失業手当、老齢年金、児童福祉、無償医療。国民統合のために、戦争国家が、福祉国家になってゆきます。

 ※ 書籍メモ:山之内靖『総力戦体制』(ちくま学芸文庫)

7 二人の最期

 エセルは、認知症を発症。最後の入院のときには、夫であるアーネストが誰であるかすら、分からなくなっていました。
 そして、病院にて死亡。遺体は、ストレッチャーの上に、無造作に安置。息子レイモンドは、「なんで、こんなところに、ほったらかして、置いておくんだ!」と、悲しみます。

 アーネストは、エセルを失い、すっかり意気消沈。二人で暮らしていた自宅に、一人で暮らし、一年も経たずに、急逝しました。
 彼も、最期は、病院のベッドの上で、迎えていました。

 ※ 書籍メモ:耕治人『一条の光・天井から降る哀しい音』(講談社文芸文庫)
 ※ 書籍メモ:茨木のり子『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)

8 「普通」と「標準」

 この映画のコピーは、「“普通”を懸命に生きたすべての父と母へ」。
 しかし、この二人の人生は、「普通」とまでは言えないのではないかと、個人的には考えます。

「なぜ、住宅を購入するために、25年もローンを組むことになるのか」
「なぜ、子どもを疎開させる羽目になるのか」
「なぜ、国家の起こした戦争に、協力する羽目になるのか」
「なぜ、病院で死ぬことになるのか」

 二人の人生について、私個人としては、こうした疑問を、抱きます。
 二人の人生は、「普通」ではなく、国家が「標準」とした生き方だったのではないでしょうか。
 そもそも、戦争で死ぬような体験をした人生について、「普通」といってよいものなのでしょうか。
 こうした疑問を持つことは、人間が生きていくにあたって、必要なことなのではないか。そう私は考えます。そう考えたとき、私の脳裏には、いつも、息子の徴兵を拒否した、金子光晴さんのことが、浮かんできます。
 また、作曲家の武満徹さんは、こう書いています。
「国家はいつでも簡単に価値観の変更を強いた。私にとって、社会は疑問符そのもののような環境であり、それに対する<解決>はいつでもいっそう大きな疑問符となって立返ってきた」
 社会は疑問符そのもののような環境。この言葉に、私も共感します。
 私は、大勢順応ではなく、体制批判の傾向のある人間であるようです。私が親しんで読んできた作家さんたち、司馬遼太郎さん、宮崎駿さん、開高健さん、堀田善衛さんにも、そのような傾向がありました。

 ※ 養老孟司『かけがえのないもの』(新潮文庫)
 ※ 金子光晴『金子光晴詩集』(岩波文庫)
 ※ 武満徹「暗い河の流れに」『武満徹 エッセイ選』(ちくま学芸文庫)

 なお、「人間の人生には苦難がつきものであって、その苦難すら含めて『普通』である」という考え方は、ありうるかもしれません。
 「専業主婦は、自宅でゴロゴロしていてよくて、それでも、お金が入ってくるから、楽だ」という意見を、女性自身が口にしている場に、何度か、居合わせたことがあります。この意見は、専業主婦として生活していく苦労を、経済ないし社会の変動によって降りかかってくる苦労を、つまりは「普通」に生きてゆくために必要な苦労を、想定していない意見のように、個人的には考えます。専業主婦でしたエセルも、劇中では、相当苦労していました。
 ただ、だからといって、国家が、家族、個人を巻き込んで、戦争を起こしてよい道理には、ならないはずです。堀田善衛さんのエッセイによると、中世ヨーロッパには、「妻の承諾がないかぎり、夫を戦地に連れ出すことはできない」という法があったといいます。

 ※ 堀田善衛『天上大風』(ちくま学芸文庫)

 そして、本作の描く、イギリスにおける家族の「標準」が、現代日本における家族の「標準」に、似通っていることも、個人的に、興味深いことでした。
 日本が、イギリス(ないしヨーロッパ)の社会システムを、輸入したのかもしれません。
 イギリスが、その社会システムによって、日本に先行して、どのような道を辿ったのか。たとえば、高齢化の問題は、劇中にも、出て来ていました。そのような問題に、どのように対応していったのか。個人的に、興味があります。

 ※ 川北稔『イギリス 繁栄のあとさき』(講談社学術文庫)

9 統合失調症

 劇中において、息子レイモンドが妻とした女性が、統合失調症の患者であったことも、個人的に、印象に残りました。
 中井久夫さんによると、「統合失調症は、社会が生み出した病」であるそうです。
 現代の社会システムと、統合失調症との関係も、個人的に、学習してみたいです。

 ※ 中井久夫『分裂病と人類』(東京大学出版会)

 仲むつまじい夫婦、親しみやすい、彼らの歩んだ人生を通して、時代を、社会を描き出す、いい映画でした。

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