【読書】小川洋子『ことり』朝日文庫

小川洋子『ことり』朝日文庫 2016.1.7
https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=17676

 小川洋子さんの小説。
 小父さんのお兄さんは、物心がついて間もなく、人間の言葉をしゃべることが、できなくなった。その代わりに、彼がしゃべるようになった言葉は、小鳥にだけ通じる、「ポーポー語」。
 小父さんとお兄さんは、両親を亡くした後も、二人で慎ましく暮らした。
 お兄さんを看取った後、小父さんは…

1 言葉による防壁

 他人が理解できない言語。「ポーポー語」。
 この設定から、個人的に、精神科医・大平健さんのエッセイを、思い出しました。『やさしさの精神病理』(岩波新書)。
 大平さんによると、ひとは、他人と接することに、耐えることができないとき、支離滅裂な言葉を話して、相手に対する防壁を形成することがあるそうです。『やさしさの精神病理』にも、支離滅裂な言葉ばかり話す、少年のエピソードが出てきます。ちなみに、その少年の持つヌイグルミの名前は、「ポポ」。偶然でしょうか?

 劇中のお兄さんも、他人と接することが苦手で、言葉による防壁を、つくっていたのかもしれません。
 実際、彼は、旅行に行くはずだったのに、家から出て、しばらくすると、「帰る」と言いはじめ、本当に、そのまま帰宅しました。他人と出会うであろうことに、実際に出会う前から、耐えることができなかったのかもしれません。

2 父親の不在 分かり合えない母親

 お兄さんが「ポーポー語」を話すようになってから、父親は、どうしたらいいのか分からず、離れに閉じこもりがちになりました。そして、突然の水死。
 父親のいた離れは、朽ちて崩れ、「父親の墓のように」なりました。その墓は、小鳥の餌場になりました。

 一方、母親は、お兄さんの「ポーポー語」を理解できるよう、努力を重ねました。しかし、結局、お兄さんとの会話について、逐一、分かり合えるようには、なりませんでした。母親は、お兄さんの言葉を勝手に解釈して、お兄さんが話してもいない事柄について、返事をしたり、世話を焼いたりしていました。

 ちぐはぐな家族関係は、小川さんの小説の特徴のひとつです。

3 意識の集中

 お兄さんの好物、キャンディー。小鳥のマークの付いた、包装紙。お兄さんは、その包装紙をため込み、広げて、重ね合わせ、見事なブローチをつくります。
 お兄さんがブローチをつくっている場面。完璧主義といっていい、繊細な手つき。
 こうした、登場人物が、何らかの作業をすることについて、意識を集中して、完璧なものをつくりあげてゆく様子もまた、小川洋子さんの小説の特徴です。

 この様子からの、個人的な連想。
 「意識の集中」は、統合失調症の前兆でもあります。
 また、「妄想」も、統合失調症の症状のひとつです。劇中では、周囲の人々が、小父さんのことを、「ことりの小父さん」から転じて「子取りのおじさん」と、誘拐犯に仕立て上げてゆきます。周囲の人々からの「子取りのおじさん」呼ばわり、ひょっとしたら、小父さんの妄想なのかもしれません。
 ※ ちなみに、先述した『やさしさの精神病理』に出てきた少年についても、口にした言葉から、似たような言葉が次々と派生していって、意味不明な防壁が出来上がっていっていました。
 統合失調症は、社会が生み出した病であるそうです。社会に適合することができない、お兄さん・小父さんたちの行動・認識について、統合失調症に親和性があることは、偶然ではなさそうです。
 なお、「誘拐」という言葉は、以前紹介した『不時着する流星たち』にも、出てきました。ここではない、どこかへ、誘拐すること。その「どこか」は、現実ではない、異界かもしれません。

4 老人と子供

 異界とのつながりは、大人よりも、老人と子供が、色濃く、有しています。
 この小説にも、老人と子供が、登場します。
 老人は、虫箱に聴き入りつつ、その箱に興味を示した子供に対して、「この箱のなかには、小人が入っている」という、幻想を、吹き込みます。
 その子供は、お兄さんが、ずっと小鳥を眺めていたフェンスに、お兄さんと同じ格好で寄りかかり、小鳥を眺めるようになります。
 虫の鳴き声も、小鳥のさえずりも、自然のなかの言葉です。「自然」は、「神様」と言い換えても、いいかもしれません。
 連想。河合隼雄さんの『「老いる」とはどういうことか』(講談社+α文庫)に、こういうことが載っていました。アイヌのひとびとは、認知症になったお年寄りがしゃべる、支離滅裂な言葉について、「神様の言葉」と表現しているそうです。
 小父さん、お兄さん、老人、子供。彼ら彼女ら、この小説の登場人物は、みんな、「自然の言葉」「神様の言葉」が分かるひとびとであるようです。

5 心の理論

 お兄さんは、相当な年齢になってから、いつもキャンディーを買っている薬局、その店主である女性に、キャンディーの包装紙からつくりあげたブローチを、プレゼントします。
 そのブローチは、もともとは、亡き母親に、プレゼントしたものでした。
 そのような意味のあるブローチであることは、薬局の女性には、もちろん、分かりません。
 小父さんにも、なぜ、お兄さんが、その女性に、そこまで大事なブローチをプレゼントしたのかが、分かりませんでした。

「自分の分かっていることについて、相手は、どこまで分かっているか」
 このことについて、考えることができるか。考えることができるひとには、「心の理論」がある。そういう表現が、心理学上、あるようです。
 幼児の段階では、この「心の理論」が十分にはなく、「自分の分かっていることは、当然、相手も分かっているはずだ」という意識になりやすいそうです。自分の意識と、他人の意識との、混同。
 お兄さんには、幼児と同じく、「心の理論」が、十分には、なかったようです。
 自分の意識と、他人の意識との、混同。この現象は、統合失調症の急性症状、「自分と他人との区別がつかなくなる」という現象にも、似ています。

6 言葉の力 考える力

 お兄さんからの、薬局の女性に対するアプローチがうまくいかなかったように、小父さんからの、女性に対するアプローチも、うまくいきませんでした。
 小父さんは、自分が管理人として勤めるゲストハウスに、プライベートで女性を招き入れ、中を散歩して、備品のチョコレートを振る舞います。
 そのことについて、小父さんは、始末書を書く羽目に。しかし、小父さんには、どうして始末書を書くことになったのかが、よく分かりませんでした。
 小父さんは、お兄さんの話している「ポーポー語」が、理解できました。むしろ、お兄さん、そして家族以外の人間と、話すことは、苦手でした。

 この小父さんのエピソードを読んで、個人的に、堀田善衛さんが『天上大風』(ちくま学芸文庫)にて紹介していた、次の詩を、思い出しました。W・H・オーデンの詩です。

  人喰い鬼はまことに人喰い鬼らしく
  人にとって不可能なことをやってのけるものだ
  しかし獲物として一つだけ奴の手の届かぬものがある
  人喰い鬼は言葉をものにすることは出来ないのだ
  圧伏された平原を横切り
  絶望と殺戮のなかを横切り
  人喰い鬼は尻に手をあてがって
  唇からよだれをほとばしらせて歩いて行く

 言葉の力は、考える力でもあります。この詩にもあるように、言葉の力がないと、まっとうな行いとは、どういう行いであるのか、十分に考えることが、できなくなるのではないでしょうか。
 小川さんは、言葉のない人々の人生に寄り添いつつ、その怖さも、書きとめているのかもしれません。

7 落ちてきた小鳥

 お兄さんを看取り、ゲストハウスを定年退職し、小父さんは、なすことのない、寂寥の日々を送ることになります。
 そうした日々のなか、思いがけず、小父さんは、その自宅の庭先で、ケガをして落ちていた、メジロの子供と、巡り会います。
 子育てにも似た看病。ミルクを飲ませる。温かいタオルで包む。メジロの子供を育てているうちに、小父さんは、いつしか、ポーポー語を話すことができるようになっていました。
 「ポーポー語を話すことができるようになった」。この表現、上記しました、アイヌのひとびとの慣用句に似ています。認知症を発症して、神に召される日の近づいた、お年寄りについて、「神様の言葉を話すようになった」。
 小父さんは、メジロとポーポー語で対話して、さえずりを、歌を、教えます。小鳥にとって、さえずりは、歌は、生きていくために必要な手段です。
 立派に育ったメジロを目にして、小父さんが抱いた思い。「もうじき、この鳥籠を開け放とう」。親しい子供であっても、抱え込まずに、自由に羽ばたかせる。
 発達心理学についての書籍である『老いのこころ』(有斐閣アルマ)にも、「若者は、より多くの経験を求めて、より広い社会へ、活動範囲を拡大してゆくものである」という趣旨の記述がありました。一方、中年、老年にさしかかるにつれて、人間は、その身体機能の減退に合わせて、その活動範囲を縮小していくそうです。自分の活動範囲の縮小に伴って、子供のことも閉じ込めたがる、親の心と、外へ出たがる、子の心。ここに葛藤が生まれることになります。しかし、この小説において、小父さんは、そのような心境には、陥りませんでした。見事な大人です。

8 包み込む 閉じ込める 母親

 登場人物としての小父さんは、見事な大人でした。
 ここまで書いてきて、視点を変え、作者としての小川洋子さんの姿勢について、個人的に気が付いたことがありますので、書きとめておきます。
 小川洋子さんの小説の登場人物には、小さな世界に、おさまっていたり、閉じ籠っていたりするひとが、多いです。
 こうした登場人物たちにとって、小川洋子さんは、生みの親。つまりは、母親です。
 うがった見方かもしれませんけれども、小川洋子さんは、母親として、登場人物たちを、小さな世界に包み込み、閉じ込めているのかもしれません。
 河合隼雄さんは、日本社会の病理として、母親が、子どもたちを優しく包み込み、閉じ込める傾向があることを、指摘していました。
 小川洋子さんの小説世界に、全的に没入すると、ひょっとしたら、閉じ籠りがちになり、社会で生きていく力を、失うことになるのかもしれません。小川洋子さん、本当は、怖いひとなのかも…笑

 個人的に、この『ことり』という作品を読んだ、その動機は、「人間は、どのように、他人と意思疎通してゆくための言葉を、獲得するのだろう」という興味からでした。
 しかし、書いてあった物語は、逆に、人間の言葉を、喪失してゆくひとびとを、主人公としていました。
 私自身、「神様の言葉」を話す、ご高齢の方々と接していますので、この小説の意義は、十分に感じます。そうした方々の住む異界も、この世界には、存在しているのです。
 一方で、人間社会において生きてゆくためには、「人間が言葉を獲得してゆくこと」、そのことについての探究も、必要であると、私は考えます。
 幼いメジロに、小父さんが、さえずりを、歌を教えたように、私も、私よりも若いひとたちに、他人と意思疎通してゆくための言葉について、教えてゆく必要を、個人的に感じています。ひとが「教える」のではなく「育つ」のであることは、重々、承知しながらも…
 小父さんがメジロを空へ放したように、私も、若い人たちを閉じ込めないようにしつつ、彼ら彼女らの言葉と、自分の言葉とを、響き合わせてゆきたいものです。

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