【考えの足あと】社会契約

 以前、『燃えよ剣』に関して書いた記事において、「ひとが、一個の人間として、集団から突き抜けてゆくこと」について、触れました。
 そして、「突き抜けた上で、あらためて、他者と、どのように、関係を結んでゆくか」が問題になることも、指摘しました。
 この問題に関連して、また、新たな考えが浮かんできましたので、書き留めておきます。
 「突き抜けた上で、あらためて、他者と関係を結ぶこと」。このことを、法学や政治学においては、「社会契約」と呼ぶのでしょう。

 図にしてみました。
 心理学者・河合隼雄さんによると、人間には、「個人意識」以前に「集合意識」があるそうです。ある集団が形成する意識。「集合意識」のなかに、「個人意識」は、埋没しています。
 この集合意識のなかから、まず、個人意識が、突出します。そして、突出した個人意識は、同じく突出した個人意識と出会い、「他者」がいることを、自覚します。
 「他者」の自覚により、「自己」が形成。「自己」の形成により、成立した「個人」は、「他者」である「個人」と、契約により、関係を、取り結んでゆきます。この契約の集合したものが「社会契約」なのでしょう。
 「動物としてのヒト」(自然)から、「個人としての人間」(理性)へ。この移り変わりについては、ひとそれぞれに、時間差がありそうです。学生時代に、「個人」が成立するひともいれば、社会人になったあとも、「集合意識」のなかにあるままでいるひとも、いるでしょう。
 集合意識から、個人意識が派生する、きっかけ。そのひとつは、「この集団のなかに埋没したままで、自分は、これから、生きてゆくことができるのだろうか」という疑念なのではないでしょうか。

 このことに関連して、個人的に、思い出すこと。生物学者・河合雅雄さんが、『子どもと自然』(岩波新書)において、「現代日本社会において、ひとの思春期は、27歳にまで、延びている」という趣旨のことを、書いていました。
 実際、そうであるとしますと、大学から、会社への移動は、「ある集合意識からの、別な集合意識への移動」であるといえます。このことは、言い方に難があるかもしれませんけれども、「ある動物園の檻から、別な動物園の檻への移動」にも、たとえることができるかもしれません。既に個人意識が芽生えている学生さんにとっては、辛いことでしょう。
 そして、就職してから数年後、「この会社のなかに埋没したままで、自分は、これから生きてゆくことができるのだろうか」との疑念が出てきて、ようやく、個人意識が芽生えてくるひとも、いることでしょう。
 就職した会社との相性が良ければ、そのまま、その会社の集合意識のなかに、埋没したままで過ごすひとも、いるかもしれません。しかし、いずれは、定年が、やってきます。定年後に、居場所がなくなること。そのことは、「それまで埋没していた『会社という組織が形成していた集合意識』からの放出」を、意味しているのかもしれません。

 更に関連して、「司法書士試験の合格年齢が、平均して30歳の前後であること」も、上記してきましたことと考え合わせますと、個人的に、興味深いです。ひとが、会社に就職して、27歳くらいまで過ごしてきて、「このままでは、生きていけない」と考えて、3年くらい勉強して、30歳くらいで、司法書士になる。数の上では、つじつまが合います。

 なお、「必ず、集団から突き抜けて、個人として生きてゆくべきである」。そのようには、日本社会は、まだ、なっていないのではないでしょうか。
 むしろ、現代日本における教育課程は、「群れのなかの人間」として、ヒトを飼いならしてゆき、そのヒトを企業や官庁へ引き渡してゆく、そうした課程になっているように、個人的には、見受けます。
 このことに関連して、夏目漱石が、その講演「現代日本の開化」において、こういう趣旨のことを、語っていました。
「現代日本の開化は、外発的な開化であり、内発的な開化ではない。外発的な開化であるため、日本人は、その開化についてゆけず、路傍に倒れ、気息奄々としている」
 このことを、ひとの内面について、置き換えて言えば、こういうことでしょう。
「日本人は、いままで、『集合意識』のなかにあるままに生きていれば済んだのに、文明開化によって、『個人意識』から派生してくる『個人』として、生きてゆかなければいけなくなった」
 開国から、現代に至るまで、連綿と続いている、日本主義ナショナリズムは、「集合意識」(動物としてのヒトの集団のなかで生きること)からくる、「個人意識」(個人として生きること)への拒絶反応なのかもしれません。
 そして、そうした「集合意識」への愛着が、上記した教育課程にも、反映しているのかもしれません。

 また、夏目漱石は、「個人として生きること」について、別な講演である「私の個人主義」において、こういう趣旨のことを、語っています。
「他人本位でなくていい。自分本位で生きてゆけ。ただし、他人が自分本位で生きてゆくことも、妨げるな」
 この考えは、人権論における自由論、その要諦そのものです。
 明治時代から、「個人として生きること」について、その本質を、十分に把握していた、漱石。だからこそ、その講演は、「古典」(繰り返して読む価値のあるもの)となっているのでしょう。

 そして、「個人としての人間」(理性)として生きることが、「動物としてのヒト」(自然)として生きることよりも、必ずしも、全ての面において優れているわけではないことも、個人的な備忘のために、書き留めておきます。
 人間が「動物としてのヒト」(自然)でもあることについて、人間自身が、そのことを意識から置き忘れて、社会契約により、社会を形成した結果、少子化(子どもが生まれること)及び高齢化(年をとること)についての問題が、起こってきたのではないでしょうか。
 なお、こうした問題については、社会契約自体に内在する「そもそもの」要因のほうが大きいのか、社会契約の一種である「総力戦体制による社会システム形成」という個別事象からくる「時代的な」要因のほうが大きいのか、という「要因についての検討」が、必要になりそうです。
 いずれにせよ、「個人の成立」は、人間にとって、自然なことでは、ないようです。「個人の成立」ができずに、苦しんでいるひとがいるでしょうことも、認識しておくべきことなのでしょう。

 「個人としての人間」(理性)を左として、「動物としてのヒト」(自然)を右として、振り子が左右に振れているのだと想像して、どちらにも振り切れることがないよう、バランスを、とっていく。そうした考え方が、大事なのかもしれません。

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