【読書】今井むつみ『ことばの発達の謎を解く』ちくまプリマー新書

今井むつみ『ことばの発達の謎を解く』ちくまプリマー新書 191 2013.1.7
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480688934/

 著者の今井むつみさんは、認知科学者。赤ちゃんが、子どもが、どのように言葉を獲得してゆくのか、研究。

1 内容要約

(1)名詞

 まず、赤ちゃんは、周囲でざわめく音のなかから、頻繁に現れる「音の塊」を、認識する。たとえば、「アラアカチャンミルクガホシイノネ」等、一連の音のなかから、「ミルク」という「音の塊」が、何度も繰り返し、出てくることを、認識する。そして、「ミルク」が、「ものの名前」つまり「名詞」であることを、認識する。

(2)意味のシステム

 ものには、名前があること。そのことは、「言葉が意味のシステムを形成していること」を意味する。赤ちゃんは、そのことを、早くから、認識する。
 このことに関連する事件として、ヘレン・ケラーの「water」事件がある。ヘレンは、水に「water」という名前がついていることから、「この世界の全てのものには名前がついていること」(言葉が意味のシステムを形成していること)を認識した。そのことに感動して、ヘレンは、どんどん、たくさんの言葉を覚えるようになっていった。

(3)動詞

 名詞の次に、子どもは、動詞を認識する。「〇〇が××している」。または、「〇〇が△△を××している」。一連の言葉のつながりのなかで、何が名詞なのか、何が動詞なのか、区別するためには、助詞(「が」や「を」)が重要な手がかりとなる。

(4)形容詞 色 位置関係

 形容詞、色、位置関係は、相対的な意味合いの言葉なので、子どもにとって、認識することが、特に難しい。
 たとえば、形容詞の「高い」については、「高い・低い」の他に、「高い・安い」という組み合わせもある。他方、色の「赤」については、どこまで薄くなったら、「ピンク」になるのか、基準が曖昧である。こうした「意味の相対的な言葉たち」については、実際にその言葉の対象となるものを見たり触れたり、その言葉を使ってみたりして、その言葉の使い分け、その基準を、子ども自身が整序して身に付けていくことになる。
 位置関係を示す言葉についても、言語によって、その意味が「絶対的」(自分から見た位置)なのか「相対的」(相手から見た位置)なのかが異なる。子どもが、「相対的」な位置関係を示す言葉を操ることができるようになるには、一定の年齢に達することが必要なようである。

(5)発見 類推 創造 修正

 子どもは、ある言葉の意味を「発見」して、他の対象に、その言葉を当てはめることができるかどうか、「類推」して、実際に当てはめて、使ってみることができる。この「類推して、使ってみること」は、コンピューターにはできない、創造的な行為である。そして、ある言葉を、別の対象に、「類推」して、使ってみた上で、その対象に、その言葉が当てはまらないことが分かったら、子どもは、自分の有している「言葉のシステム」において、その言葉の意味を「修正」してゆく。
 このように、「ひとつひとつの言葉と、言葉たちの総合としてのシステム」とは、相互補完の関係にある。ある言葉を使ってみることで、その言葉は、システムからの修正を受ける。そして、その言葉の修正によって、システムは、より全体の体系を洗練してゆく。

(6)コンピューターにはできないこと

 上記(5)において述べたように、言葉の意味を「類推して、使ってみること」は、コンピューターには、できない。
  問題の発見
   ⇒ 適用するべき言葉の取捨選択
    ⇒ 問題への言葉の適用
 コンピューターは、「問題が所与」であり、「適用するべき言葉が決まっている」ときのみ、その言葉を適用することができる。
 逆に、コンピューターの得意なことは、「人間が与えた大量のデータのなかから、一定のパターンを発見すること」。

(7)言葉と思考

 ある概念を、理解すること。その概念を含んでいる、知識体系があることを、認識すること。その知識体系のなかから、また別な概念を創り出すこと。
 こうした思考のことを、「科学的思考」という。科学的思考の展開してゆく流れは、実は、子どもの言葉が発達してゆく流れと、近似している。
 「科学的思考」としては、たとえば、「太陽と惑星との関係についての概念理解」が、「原子と電子との関係の解明」をもたらすことになった。このように、「よく理解されている現象」と「まだ仕組みが分かっていない現象」について、「要素の類似性」を削ぎ落して、「関係の類似性」(構造の共通性)を見い出す思考が、「科学的思考」である。

(8)外国語の学習法

 言語には、システムがある。このことは、外国語の学習法についても、参考になる。
 自分の有している、日本語のシステムに、外国語の単語を、組み込む。そうした方法で覚えても、その外国語を使えるようには、ならない。「その言語には、その言語のシステムがあり、そのシステムの要素として、その単語がある」。そうした認識が重要である。
 たとえば、英語の「wear」は、日本語の「着る」とは、意味が完全には一致しない。英語には、同じ「着る」を表す単語として、「put on」がある。「wear」と「put on」とを、一緒くたにして、日本語システムのなかの「着る」として、覚えるべきではない。「wear」と「put on」は、英語システムを構成する単語たちであるから、「その英語システムのなかでは、それらの単語たちを、どのように使い分けているのか」ということについて、十分に認識した上で、習得してゆくことが、重要である。

(9)大人がすべきこと

 大人がすべきことは、「協力」であって「教え込み」ではない。言葉の意味や文法を、子どもに直接に教えることは不可能である。子どもが自分で考え、自分で習得してゆくしかない。
 子どもの周りの大人がするべきことは、「上質の言語のインプットを、子どもにたくさん与えること」。
 子どもにとって、上質の言語のインプットとは、「日常のなかの、気持ちを通じ合わせた、言葉の一つ一つを丁寧に使った、赤ちゃんとの対話」。赤ちゃんは、どんなに質が高いものでも、直接対面してのやりとりがない、メディアからの一方的な語りかけでは、言語をよく学べない。

2 中島コメント

(1)コンピューターにはできないこと

 本書にも、「人間にできて、コンピューターにはできないこと」についての記述が、出てきました。ただ、立花隆さんの『「知」のソフトウェア』講談社現代新書や、新井紀子さんの『AIvs.教科書が読めない子どもたち』東洋経済新報社とは、指摘の仕方が、若干、異なっています。
 「問題の発見」。「適用するべき言葉の取捨選択」。本書に出てきた、これらの指摘は、より分かりやすく言い換えると、こういうことでしょう。「問いを立てること」。「その問いを解く方法を、考え出すこと」。
 思えば、新井紀子さんが開発している「東ロボくん」のように、「所与の問題を、一定の解法に従って、解くロボット」は、開発できるでしょうけれども、「出題するべき問題について、その試験の対象となる解法にのっとって、考え出すロボット」は、開発できないでしょう。
 「問いを立てること」。「その問いを解く方法を、考え出すこと」。これらの能力は、学問一般についての、そもそもの目的である、「真理の探究」のために、必要な能力ではないでしょうか。そうだとすると、ますます、「AIの能力が、人間の能力を超えるときが、やってくる」などと、「AIが、人間の仕事を、奪う」などと、主張しているひとは、何を学んでいるのだろう、ということに、なってくるでしょう。

 ただ、新しく問いを立てて、その問いを解く方法を、考え出した上で、「その問いを継続して解いてゆく、一定の体制を構築してゆくこと」も、また重要でしょう。
 たとえば、司法書士にとっての遺産承継業務など、「様々な要素はありつつも、総体としては一様な内容の問題を含んでいる業務」について、「継続して、各依頼者に対して、平等に公平に、適切な速度で対応して行くことのできる体制」(業務対応体制)を構築してゆくことも、また重要なのではないでしょうか。そして、そうした体制を構築することができた際には、その業務のなかでの定型作業は、コンピューターによって、更に効率よく対応してゆくことができるようになるのかもしれません。

(2)意味のシステム

 「言葉が意味のシステムを形成している」。
 「『ひとつひとつの言葉と、言葉たちの総合としてのシステム』とは、相互補完の関係にある。ある言葉を使ってみることで、その言葉は、システムからの修正を受ける。そして、その言葉の修正によって、システムは、より全体の体系を洗練してゆく」。
 そして、科学的思考とは、「ある概念を、理解すること。その概念を含んでいる、知識体系があることを、認識すること。その知識体系のなかから、また別な概念を創り出すこと」。

 今井さんによる、上記の指摘から、立花隆さんが『「知」のソフトウェア』において、「入門書は、3冊、読んだ方がよい」と推奨していることを、個人的に連想しました。
 入門書は、その学問分野の有している「意味のシステム」のなかで、専門用語(より厳密に言えば「基礎概念」)について、それらが集まって、どのような体系を形成しているのかについて、大まかな知見を、整理して、提供するものです。
 最初に、基礎概念、システム、その両方を、複数の入門書によって、把握しておく。そうすることは、最終的に今井さんの言う「科学的思考」に至るためには、理に適った着手方法でしょう。
 なお、「複数」の入門書を読むことについての意義は、「複数の入門書に、共通して出てくる、基礎概念理解・システム理解こそが、その学問分野において、ひとびとが共有している、基礎概念理解・システム理解である」ということにあるでしょう。ある基礎概念理解・システム理解が、その著者による、独自の見解なのか、その学界における、共通の見解なのか。そのことを検証するために、「複数」の入門書を、読む意義があるのでしょう。

 なお、法学も、まさに「専門用語が集まって、意味のシステムを形成している」学問です。今井さんの学問理解は、法学理解についても、そのまま当てはめることができそうです。

(3)認知科学における「類推」と法学における「類推解釈」

 科学的思考とは、「よく理解されている現象」と「まだ仕組みが分かっていない現象」について、「要素の類似性」を削ぎ落して、「関係の類似性」(構造の共通性)を見い出す思考である。

 本書の紹介している、上記「科学的思考」は、「法的思考」に、よく似ています。
 たとえば、井田良ほか『法を学ぶ人のための文章作法』〔第2版〕有斐閣においては、法的思考、その過程について、次のような紹介がありました。
  事案分析 → 規範発見 → 事実抽出 → 解決提示
 これらのうち、「事実抽出」は、「要素の類似性を削ぎ落すこと」に当たります。また、「解決提示」は、「関係の類似性を見い出すこと」に当たります。
 そして、本書において、今井さんは、こうした思考過程のことを指して、「類推」(アナロジー)と呼んでいます。
 しかし、法学においては、こうした思考過程は、いわゆる「類推解釈」のみならず、「文理解釈」「目的解釈」においても、経ることになります。
 認知科学における「類推」は、広義の言葉で、法学における「類推解釈」での「類推」は、狭義の言葉であるようです。それでは、広義の「類推」と、狭義の「類推」とは、その意味範囲において、何が異なるのでしょう。個人的に、興味深い問題です。

 なお、「絶対的」「相対的」という言葉も、法解釈において、問題となる言葉です。
 認知科学と、法学とにおいて、言葉の用い方が、一定程度、共通していること。個人的に、興味深いです。

(4)家庭 職場 学校

 子どもにとって、上質の言語のインプットとは、「日常のなかの、気持ちを通じ合わせた、言葉の一つ一つを丁寧に使った、赤ちゃんとの対話」。

 こうした対話が重要であることは、相手が赤ちゃんであるときはもちろん、相手が職場仲間であるときや、学校仲間であるときも、同様でしょう。

ア 職場

 私が、いま、法学方法入門3部作など、法学に関する書籍を、初級のものから、あらためて読み直し始めているのも、「私の独自の言葉」ではない、「特定の職場以外でも、特定の学校以外でも、通用する言葉」で、仲間たちに、語りかけてゆくためです。この読み直しが、上手くいっているのか、自分自身でも、確信が、まだ持てていませんけれども…
 言葉の一つ一つを丁寧に扱うために、そして、その言葉で、相手に語りかけてゆくために、絶えず、自己学習が必要であること。そのことを、本書によって、あらためて確認することができました。

 このことに関連して、もうひとつ、個人的に、気がついたことがあります。
 司法書士業務についての、私のなかの意味システムにおいて、基礎になっている概念は、受験勉強にて使用していた、受験指導校の発行しているテキストから、得たものでした。このテキストは、個人学習には、便利でした。しかし、いざ、実務において、職場仲間と、業務に関する概念を共有しながら、仕事をしてゆくにあたっては、このテキストは、本屋では購入できないですし、内容の更新もないですし、そうした意味で、不便でした。
 個人用の受験テキストから、仲間用の汎用テキストへ。
 私のなかの意味システムも、こういった「基礎テキストの更新」が必要な時期に、さしかかっているのでしょう。同じ職場で、人様に働いて頂くようになってから、既に4年くらいが経っているので、もうちょっと、早く気が付いてもよかったかな、私…(^_^;)

イ 学校

 子どもの言葉の発達にあたっては、学校の担う役割も、重要でしょう。
 家庭での、両親と赤ちゃんとの対話においては、それが上質なインプットなのか、そうでないのか、家庭によって、ムラがあるでしょう。親が、言葉について、十分に豊かな「意味のシステム」を有しているかどうかは、個々の親によって、まちまちだからです。
 「対話」が十分ではないどころか、「対話」とは逆に、子どもの言葉を、自分の言葉で、封じ込める親も、一定の数、いるようです。そうした親のいる子どもであっても、言葉が豊かな場合があります。そうした子どもたちが、言葉を豊かに育んだ環境としては、学校をはじめとした「家庭以外の場所」が、重要だったのではないでしょうか。仮説です。
 なお、「親が子どもの言葉を封じ込める」ことについて、物語として表現した小説作品として、青木和雄ほか『ハッピーバースデー』〔文芸書版〕金の星社があります。この作品に出てきたような「言葉を失った子ども」が、言葉を失ったままに、大人になって、今度は自分が親になったとき、彼は・彼女は、自分の子どもが、豊かな言葉を育んでゆくことを、十分に支援することができるのでしょうか。沈黙の連鎖。それが、個人的には、恐ろしいです。子どもは、私たちにとって、「やがて、一緒に、言葉によって、社会を形成してゆくことになる、仲間」。こうした考えから、私は、子どもを取り巻く「言葉の現状」について、個人的に、興味を持っています。

 「学校での言葉の教育」に関連して、早川吉尚さん(立教大学教授/国際私法)の語っていた言葉を、個人的に、思い出しましたので、ここに引用しておきます。
「立教大学で法学教育に関わってから21年になるのですが、昔の答案と今のものを比較すると、文章力や内容の理解力という点で、大きな差があると感じることがあります。つまり、ゆとり教育やその他の様々な事情によって、20年前の学生と比べた時、現在の学生は、同じカリキュラムを与えたとしても、それを完全に消化するのがなかなか難しくなっているのではないかということです。しかも、知識量に着目したときに、『法学』の中身としてはむしろ量は増えている。つまり、教えなければいけない量は増えているので、まともにやっていると学生たちが悲鳴を上げるのは当然であるように思えます」(「法学教育・法学の方法・法学部」(上)『書斎の窓』2016年9月号/有斐閣)
 私も、学生さんたちと接してきた乏しい経験から、「昔と今」の比較こそできませんけれども、「同じ今」の個々の学生さんによって、文章力・理解力が、歴然と違うことを、感じてきました。
 いま、高校以前の国語教育が、どうなっているのか。個人的に、興味があります。
 もし、学校教育において、「豊かな言葉を、子どもが育むこと」について、大して期待することができない状況になっているのだとすれば、学校以外の場所において、どのようなかたちで、子どもたちに、その機会や環境を提供するかが、問題になってくるでしょう。
 そして、そうした機会や環境を提供するにあたって、重要な観点が、本書においても、述べてありました。
「大人がすべきことは、『協力』であって『教え込み』ではない。言葉の意味や文法を、子どもに直接に教えることは不可能である。子どもが自分で考え、自分で習得してゆくしかない」
 この観点、様々な立場のひとが、共通して、主張しています。
  大村はまさん(国語教師)「子どもたちは、学びたがっている」『新編 教えるということ』ちくま学芸文庫
  柏木惠子さん(家族心理学者)「子どもには自ら育っていく力がある」『子どもが育つ条件』岩波新書
  河合隼雄さん(心理学者)「総じて、日本における教育は、子どもとの関係を切断して、子どもを操作する対象として扱っている。これからの教育においては、一人一人の子どもが、どのようにして生きていこうとしているのか、その物語に寄り添っていくことが必要になるだろう」『日本文化のゆくえ』岩波現代文庫
  中原淳さん(経営学者)「教育とは、個人による学習を支援すること」『企業内人材育成入門』ダイヤモンド社
 今井さんをはじめ、上記の方々が主張していることを、ひとことで表すとすると、次のようになるでしょう。
「子どもたちには、人権としての『教育を受ける権利』(子どもたちが大人たちに積極的に求めてゆく権利)がある」(堀尾輝久『人権としての教育』岩波現代文庫)

(5)直接対面

「赤ちゃんは、どんなに質が高いものでも、直接対面してのやりとりがない、メディアからの一方的な語りかけでは、言語をよく学べない」

 今井さんのこの指摘も、個人的に、興味深かったです。最近、ふと目にした言葉に、「感情は、内蔵の反応である」というものがありました(三木成夫『いのちの波』平凡社)。感情が、内蔵の反応であるとすれば、ひとは、対面してこそ、感情のこもったやりとりができる、ということになるでしょう。直接、対面することの、大切さ。この大切さは、液晶画面での対話が普及してゆく今日、再度確認しておく価値が、あるのではないでしょうか。

 言葉とは、何か。そのことについて、考えてゆくにあたって、基礎文献となる、いい一冊でした。読んでみて、よかったです。

Follow me!