【考えの足あと】詩人・吉野弘さん ~ひとつの理想的な父親像~

 「こどもの日」に、「父親」についての話題。

 ジャーナリスト・立花隆さんの言葉。「あるテーマについて考えるときには、まずは3冊、そのテーマについての本を、読んでみなさい」(『「知」のソフトウェア』講談社現代新書)。
 この言葉に触れたとき、私は、ちょうど、「父親」というものについて、興味を持っていました。興味を持った、そのきっかけは、糸井重里さんの『すみません、ほぼ日の経営。』日経BP社を、読んだことでした。この本のなかで、糸井さんは、社長の役割と、父親の役割とを、同視して、語っていました。私自身、ごく小さい職場の、社長です。そして、父親であってもおかしくない年齢でもあります。そこで、次の3冊を、読んでみました。

  大江健三郎『個人的な体験』新潮文庫 ~父親ができるか~
  森健『祈りと経営』小学館文庫 ~父親ができなかった経営者~
  開高健『珠玉』文春文庫 ~父親の最期~

 これら3冊を、読んでみて、個人的に、印象的だったこと。それは、『祈りと経営』の小倉昌男さんや、『珠玉』の開高健さんが、次のことで、つまずいていることでした。

1 子どもを「立派な」人間に育てようとしていること(小倉昌男さん)
2 子ども(特に娘)に対して晩年になってから愛着を示していること(二人とも)

 これらのことに関連して、詩人・吉野弘さんの「奈々子に」という詩を、個人的に、思い出しました(『妻と娘二人が選んだ「吉野弘の詩」』青土社などに収録)。
「奈々子 お父さんは お前に 多くを期待しないだろう」
 子どもに、多くを期待しないこと。このことは、次のことを、示しているでしょう。

1 子どもの生き方への基本的な信頼と承認
2 子どもに対する父親としての愛着の自制

 1については、大江健三郎さんの『個人的な体験』において、父役である「義父」が「信頼」を、母役である「火見子」が「承認」を、主人公である「鳥」に対して、示していました。
 ※ なお、これらのことからしますと、『個人的な体験』は、「青年が父親になることを引き受けること」についての小説というよりは、「青年が自立すること」についての小説であるのかもしれません。
 2については、開高健さんの『珠玉』において、初老の作家が、娘のような、若い愛人とのパートナーシップを、自制していました。
 吉野弘さんの「奈々子に」は、1と2、それら両方を、表現しています。

 吉野弘さんの、父親としての在り方は、市井に生きる父親の、ひとつの理想像として、参考になりそうです。吉野弘さんは、どのような人生を、歩んだひとだったのでしょう。前々からの、個人的な興味が、更に深まりました。

 吉野弘さんの「奈々子に」について、あえて、個人的に気になる箇所を、挙げるとすれば、次の一節です。
「苦労は 今は お前にあげられない」
 子どもに、苦労を、させたくない。そうした親の思いは、子どもにとって、必要な経験を獲得する機会を、かえって奪うことにも、つながるようです。『祈りと経営』には、小倉昌男さんが、娘さんに関して、娘さん自身が行うべきことを、代わって行っていた旨、指摘があります。
 このことに関連して、日本政治思想学者・藤田省三さんによる、次の指摘を、個人的に、思い出します(『全体主義の時代経験』みすず書房)。
「全体主義は、戦後も、続いている。戦後における全体主義は、『安楽への全体主義』である。ひとびとは『安楽を得て』その代わりに『経験を喪失』した」
 子どもが可愛いあまりに、子どもが経験を獲得する機会を奪うことがないよう、父親は、留意したほうがよいのでしょう。このことについては、吉野さんも、「奈々子に」のなかで、娘さんに対して「今は」苦労はあげられないと、時的な留保を、つけています。

 ただ、だからといって、父親が子どもに対して、あえて苦労を与えるように振る舞うことも、筋としては、違うようです。
 同じく、吉野弘さんの詩に、「父」という題名のものがあります。子どもが、なぜ自分が生まれたのか、自分自身に問うているとき、そして、自らの人生を引き受けようとするとき、父親は、子どもから、無視されたり、避けられたりする。そうした趣旨のことが、この詩には、書いてあります。
 思えば、そもそも、子どもが「自立」してゆこうとするときに、父親が、苦労を与える意味でも・苦労を減らす意味でも、「手を出す」ことは、筋が違い、控えるべきなのでしょう。

 立花隆さんが声を務めた、映画『耳をすませば』に出てくる、ヒロイン「雫」の父親が、このように語っています。
「よし雫、自分の信じるとおり、やってごらん。でもな、人と違う生き方は、それなりにしんどいぞ」
 自立してゆこうとする、子どもに対して、励ましつつも、手は出さない。いい言葉です。
 この言葉が含んでいる意味は、前に述べた「子どもの生き方への基本的な信頼と承認」ということと、そして「もしも上手く行かなかったときには、子どもが再び自立を目指すまで、その居場所を、確保する」ということでしょう。
 もし、子どもの自立の失敗を、父親として、引き受ける気がないのであれば、上記の言葉は、「やってごらん」ではなく「勝手にしなさい」であったはずです。
 このことに関連して、更に、詩人・黒田三郎さんの「紙風船」という詩を、個人的に、思い出しました。

  落ちてきたら
  今度は
  もっと高く
  もっともっと高く
  何度でも
  打ち上げよう
  美しい
  願いごとのように

 黒田さんの詩は、ひとの美しい願いごとが、紙風船のように脆くて、何度も落ちてくるものであることを、示しています。また、黒田さんは、『小さなユリと』という、娘さんについての詩集を著すほど、お子さん思いのお父さんでもありました。

 本稿において、いままで書いてきたことからしますと、父親の役割とは、突き詰めてみると、「子どもが自立に挑んでゆくための、居場所を確保すること」なのかもしれません。

 更に関連して、映画『星めぐりの町』は、家から飛び出していった子どもを追わずに、彼が帰って来るまで待つ、おじいさんの姿を、描いていました。この映画において、おじいさんが子どもに対して果たした役割は、「子どもが自立に挑んでゆくための、居場所を確保すること」という、父親の役割と、通じるものがあります。

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