【法学】青木人志『法律の学び方』有斐閣 ~ちいさな本で法学入門②~

青木人志『法律の学び方』有斐閣 2020.11.25
http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641126213

 初学者へ向けての、「超」入門書。
 著者は、青木人志さん。「動物の権利」など、基礎法学分野について、研究してきた教授さん。

第1 内容要約

1 学問の総まとめ

 研究者が、法学入門に関して、講義を担当するときには、それまでの、自分の学問研究についての、全てを総合して、その内容を組み立てることになる。

2 自然・社会

 自然状態では、ヒトの群れは、動物のように、弱肉強食になる。
 その状態から脱するために、人間は、法によって、社会を形成してきた。

3 法学の意義

 その法を、学ぶ意義とは?
 法学部の卒業生たちのうち、法曹(弁護士・裁判官・検察官)になる人数は、ほんの一部。法曹にならない、法学部の学生たちにとっての、法を学ぶ意義とは? そのことが、いま、問題になっている。

4 抽象的な言葉 専門的な言葉

 法学は、最初、つまらない。法律の条文には、抽象的な言葉が並んでいて、初学者には、理解しにくい。たとえば、民法・第87条。

(主物及び従物)
① 物の所有者が、その物の常用に供するため、自己の所有に属する他の物をこれに附属させたときは、その附属させた物を従物とする。
② 従物は、主物の処分に従う。

 この条文は、たとえば、次のようなことを、意味している。「マウスのつながった『パソコン』を売買するときには、基本、『パソコン』のみならず、マウスも対象になる」。このように、その条文の適用場面について、そこに登場する、人間の姿、人間の動きを、想像することが、大切である。

 また、この条文については、当事者が、次のように合意した場合には、合意の方が、優先することになっている。
「主物の処分には、従物は、従わないことにする」(先の例でいえば、「パソコンだけ売買して、マウスは売買しない」)
 このように、当事者の合意が優先する規定のことを、「任意規定」という。逆に、当事者の合意に優先する規定のことを、「強行規定」という。
 どの条文が「任意規定」で、どの条文が「強行規定」かについては、法律上、明確な記載は、ない。そのような、条文が定めていないルールについて、学ぶことも、法学の意義のひとつである。

 法律の条文が、抽象的な言葉でできている理由は、「膨大な具体例について、ひとことで表すことができるため」。
 たとえば、「売買契約における売主と買主」、「賃貸借契約における貸主と売主」等々。これらの当事者は、お互いに、権利を有し、義務を負う。このように複雑な権利・義務の関係についても、「債権(者)」と「債務(者)」という言葉によって、ひとことで表すことができるようになる。

 日常用語ではない法律用語であっても、その言葉の含意する「仕組」や、その「意義」について知ると、理解しやすくなるし、その背後にある、人間としての温かさも、分かるようになる。
 たとえば、「未成年者―親権者」「成年被後見人―成年後見人」。これらの言葉が含意する制度は、次のような制度である。「弱い立場にいる人を、その弱さの程度に応じて、その人の自律性にも敬意を払いつつ、必要な範囲で保護する制度」。

5 内心 法が踏み込まないもの

 法は、人間の内心、つまり、その思想・良心には、踏み込んではいけないことになっている。思想・良心には、たとえば、友情や恋心も含む。法が規制できるものは、「人間の外面的な行動」。法は、ストーカーの行為については、規制できるけれども、ストーカーの恋心については、どうすることもできない。
 法が、人間の内心に踏みこむと、耐え難い副作用が起きることになる。

 たとえば、民法は、市民社会における、市民相互の関係について、財産関係を中心として、規律する法律である。民法も、人間の内心には、踏み込まない。たとえば、精神的な損害については、慰謝料(おカネ)で解決することになっている。
 おカネくらい、普遍的で便利な価値尺度は、他にない。

6 刑法 憲法

 民法に続いて、刑法についての、説明。
 刑法を含む「刑事法」という分野の法律は、次のことについて、定めている。
・ 何が犯罪になるか。
・ 犯罪の成立について、どのような手続で確定するか。
・ 有罪が確定したひとを、どのように処遇するか。

 刑法の条文には、たとえば、次のような、大きな構造がある。
第38条(故意)
第199条(殺人)
第210条(過失致死)
第211条(業務上過失致死傷等)
 原則規定から、例外規定へ。このような、「大きな構造」(整然とした秩序)があることについて、理解することができるようになると、法学が、面白くなってくる。

 刑事法は、「ひとを処罰から守るため」、つまり、「ひとの自由を守るため」にある。刑罰法規の内容について、事前に明確に決めておく。そのようにすることによって、処罰する力の及ぶ範囲が、きっちり決まる。処罰する力が及ばない場所では、みんなが自由に活動していいことになる。
 処罰する側(権力者)も、処罰される側(犯罪者)も、入れ替わることがある。犯罪者が権力者になることだってある。そこで、法は、弱者を標準にして、ルールを作っている。「人間はとても弱くて傷つきやすいものだということを、お互いに認め合っている」。
 このことについては、刑法ではなく、憲法に、定めがある。第31条・第39条。このように、各個の法律に関して、その最も重要な定めが、憲法に、のっていることが、ままある。
 憲法については、高校でも、学習することになっている。その理由は、「いちばん大切なことが、のっているから」。
 しかし、「いちばん大切なことが、のっている」ので、憲法の適用範囲は、広い。そのため、憲法の適用対象となる事件には、たくさんの法律が関係してくる。たくさんの法律について、まだ学んでいない、初学者の段階では、個々の憲法事件について、理解が十分にはできないことも、ままある。そして、それはそれで仕方がないことであるので、心配はせずに、学習を進めてゆくべきである。

7 平等の実現

 自然状態での、弱肉強食。
 その状態から脱するために、法は、平等の実現を、目指してきた。
 奴隷の解放、民法・第3条第1項。女性の選挙、憲法・第15条第3項。
 これらの法ルールは、人間社会が、長い苦闘の歴史の末に、やっとたどり着いた、誇るべき到達点である。
 そして、これからは、ひょっとすると、動物などが、権利の主体となる時代が、やってくるかもしれない。

8 裁判

 法についての、実際の適用場面である、「裁判」の特徴は、次の通り。
① 裁定ルールの承認
 法という「あらかじめ定められたルール」に、みんなが従うこと。
 現代日本社会においては、法ルールの正当性の根拠は、「民主主義」にあることになっている。
② 公平性
 公平な審判者が裁くこと。日本では、審判者は、裁判官。
 日本の裁判は、裁判官の専門合理性について、民主的な基盤以上に重視している。
③ 合理性
 証拠と論理によって、「理性的」に争い、「合理的」に裁くこと。
④ 最終性
 裁判により、もめごとや、犯罪の処理が「終わる」こと。

 裁判の目的は、「紛争の解決」である。
 当事者たちが、前を向いて新しく歩き出すために、最終判断としての裁判がある。

9 概念装置

 経済学者・内田義彦さんの、『読書と社会科学』岩波新書。
 この本において、内田さんは、次のようなことを、書いている。「脳中に概念装置を組み立てて、それを使ってものを見ると」「肉眼では見えない、いろいろの事柄が、この眼に見えてくる」。

 法学の、概念。たとえば、意思表示、契約、所有権。これらの概念は、世界を見るための、新しい概念装置になる。

10 論理

 論理について、鬱陶しいものだと思ってはいけない。
 論理は、普遍的で、多くのひとが、最も受け入れる、大切なもの。
 理屈っぽいひととは、付き合いにくいかもしれない。「法律家は悪しき隣人」。
 しかし、その時々の気まぐれな感情で結論を左右するひとは、もっとずっと、付き合いにくい。

 論理に関しては、代表的なものとして、「三段論法」がある。

11 社会の築きなおし

 東日本大震災。コロナウイルス・パンデミック。
 安定した秩序について、維持することは、実は大変なことなのである。

「現在もいろいろ大変な時代だ。
 (中略)
 そういう時代だからこそ、法律を学ぶ意味を切実に理解できるかもしれない。均衡や安定が崩れたことで、失われてしまった正義や秩序や自由や平等や自律をどうやって取り戻すか。どうしたら生き甲斐に満ちた豊かな社会を築きなおすことができるか。法はそのための武器になる。新しく生じた先例のない問題に、既存の法を使ってどのように対応できるか。既存の法ではどうしても対応できないとき、どのような法を新しく作ればいいのか。こういった課題は、将来法律家になろうとしている人にとっても、なんとなく法律を学んでいて法律家になる気がない人にとっても、同じように切実な問いのはずだ。進路にかかわりなく、法律を学ぶ人にはそういう志をもって、人間社会が営々と築きあげてきた宝物である法を味わい、学び、そしてそれぞれの人生の持ち場で、その改良のために力を尽くしてほしい。困難な時代であればあるほど、法律家のみならず法律を学んだ市民の工夫や創造性が広くそして深く試されるに違いない」

 法学教師にできることは、「現在の法的価値の体系について、学生たちに伝えること」。
 学生たちは学生たちで、「自分にとっての正解は何か」について、考えていくことが、大事である。

 いまの当たり前は、10年後の当たり前では、なくなっているかもしれない。
 そのとき、法学の生み出す、新しい概念装置が、必要になるだろう。

第2 中島コメント

1 自分なりの理解

――研究者が、法学入門に関して、講義を担当するときには、それまでの、自分の学問研究についての、全てを総合して、その内容を組み立てることになる。

 この記述に関連して…
 私は、自分が実務で経験したことや、学習してきたことについて、まとめる、その参考とするために、ここ最近、「法学入門」についての書籍を、何冊か、読んできました。その読書を通じて、個人的に感じたことは、「著者の方々は、法について、自分なりに研究してきて、自分なりに理解できた範囲で、法学入門を書いている」ということでした。
 「法の、全ての分野に関して、全ての視点からの見方について、網羅して紹介している、入門」。そのような入門を書くことは、誰しも不可能なのでしょう。当たり前といえば、当たり前のことなのかもしれませんけれども…

2 自然状態 弱肉強食

――自然状態では、ヒトの群れは、動物のように、弱肉強食になる。
 このことは、私の敬愛する作家さんたちも、異口同音に、指摘していました。開高健さん、司馬遼太郎さん、堀田善衛さん…
 特に、司馬遼太郎さんには、「法」という題名の、エッセイがあります。

「スポーツがルールでできあがっているように、近代国家も、法という人工的なものでできあがっている。ただし古代以来の雑菌にまみれた自然土壌も残っていなくはない。
 自然がすべて善だというのは、迷信である。
 むろん人体が、大腸菌をも含んだ自然の存在である以上、自然を忘れてなにごとも存在できない。
 が、自然が悪である場合もある。ヒトという動物は、社会を組んで生きている。もしヒトがもつ自然――欲望――を野放しにすれば、たがいに食いあって社会をほろぼしてしまう」
(司馬遼太郎『風塵抄』二 中公文庫)

 このエッセイ、私は、高校生の頃に、読みました。大学の、法学部へ入学する前から、司馬さんが、私に、法の意義を、教えてくれていました。

3 法学部の学生たちにとっての「法学を学ぶ意義」

 法曹にはならない、学生さんたちにとっての、「法学を学ぶ意義」。
 この問題については、国際法学者・早川吉尚さん(立教大学)も、『法学入門』有斐閣についての鼎談において、指摘していました。
 また、法思想学者・中山竜一さんも、類似の問題意識から、『法学』岩波書店を、執筆したとの旨、同書に記載があります。更に、中山さんは、法を学ぶ意義について、「ひとびとが生活する空間を創造すること」にある旨、同書において、述べています。
 中山さんの言葉、「ひとびとが生活する空間を創造すること」。そして、本書における青木さんの言葉、「社会の築きなおし」。両者は、似通っています。

 法学の意義について、個人的に、つかむことのできたような気が、少し、してきました。

4 想像力

――その条文の適用場面について、そこに登場する、人間の姿、人間の動きを、想像することが、大切である。

 想像力の大切さについては、中山さんも、前掲『法学』において、指摘していました。
 言葉をもとに、想像をする。そのようなことのできる能力が、法学の学習にあたっては、やはり重要なのでしょう。

5 保護 隔離

 青木さんの、未成年後見、成年後見についての、制度理解。
――弱い立場にいる人を、その弱さの程度に応じて、その人の自律性にも敬意を払いつつ、必要な範囲で保護する制度。
 この理解に関しては、個人的には、「保護は、隔離でもあるのではないか」との問題意識を、持っています。未成年後見制度、成年後見制度は、未成年者・認知症高齢者について、取引社会から隔離する、もっといえば、排除する制度でも、あるのではないでしょうか。

6 おカネの危うさ

(1)河合隼雄さんからの指摘

――おカネくらい、普遍的で便利な価値尺度は、他にない。

 この記述から、私は、河合隼雄さんからの、次の指摘を、思い出しました。

「近代社会は、数々の夢を現実化した。月にだって行った。その結果、夢の方が貧困化した。
 近代社会における現実は、近代科学による数量化により単層化した現実。数量は金銭に換算できる仕組みになっている。この社会で夢を叶えるためには、お金を稼ぐことが必要となり、稼ぐために人々は、たくさん働くことになる。その結果、なおさら夢と遊びが減ってゆくことになる」
(河合隼雄『日本文化のゆくえ』岩波現代文庫 G279 2013.1.16)

 河合さんによると、おカネは、「夢と遊びが減ってゆくこと」について、一役を買っているそうです。
 この指摘については、私も、自分自身の働いてきた経験から、同じように感じます。

(2)利益の最大化

 おカネについては、個人的に、次のようなことも、気になっています。
A 同じ金額で、同じモノを、より多く買うことができれば、その方が、お得である。
B 同じ金額で、同じ役務について、より多く受けることができれば、その方が、お得である。
 これらの判断基準について、一言で表現すると、「利益は最大化できたほうがいい」ということになります。
 この判断基準は、学生さんにとっては、次のような判断に、つながりうることになります。
「同じ学費で、同じ大学の授業を、より多く履修することができれば、その方が、お得である」
 このような判断基準で、実は、私自身、大学時代を、過ごしていました。しかし、今から振り返ってみると、履修した授業が多すぎて、それぞれの内容について、よく理解した上で、自分なりの問いを立てることが、難しくなっていました。

 また、この判断基準は、「おカネを払う」側(消費者)にとっての判断基準です。
 学生さんは、就職すると、大学時代とは逆に、「役務を提供する」側(生産者)になります。そして、「おカネを払う」側(消費者)となる、企業にとっては、「労働者が、同じ賃金で、より多く働けば、その方が、お得である」ということになります。
 このように、「おカネを払う側」と、「役務を提供する」側とが逆転した状況で、大学時代と同じく、「消費者」(企業)にとっての「利益は最大化できたほうがいい」との判断基準に従って、働くとしますと、その学生さんは、働きづめに働くことになります。
 学生さんが就職するときには、自己認識に関して、先述の判断基準に関する立場について、「おカネを払う」側(消費者)から、「役務を提供する」側(生産者)へ、変更しておくことを、個人的には、おすすめします。
 そして、「利益の最大化」よりも大事なことは、「自分も、他者も、共に生きてゆくことのできる関係を、形づくること」でしょう。

7 暴力の自制

――刑事法は、「ひとを処罰から守るため」、つまり、「ひとの自由を守るため」にある。

 このことは、次のように、言いかえることが、できるでしょう。

――刑事法は、個人が暴力を自制するために、社会が暴力を自制するためにある。

 刑事法の存在する理由について、「暴力の自制」と、捉えてみることで、個人的には、刑事法に、より興味が湧いてきました。

8 奴隷解放 女性選挙

――これからは、動物などが、権利の主体となる時代が、やってくるかもしれない。

 動物の権利について、研究してきた、青木さんならではの、指摘です。

 その前の段階として、「未成年者」「子ども」の、選挙権の獲得が、ありうるかもしれません。実際、選挙権を得る年齢は、20歳から、18歳になりました。

――公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する(憲法・第15条第3項)。

 なぜ、「成年者」にのみ、選挙権があることに、なっているのでしょう。このことが、最近、私には、気になっています。

9 裁判の特徴③ 合理性

――証拠と論理によって、「理性的」に争い、「合理的」に裁くこと。

 「理性」とは、何なのでしょう。「合理」とは、どういうことであることを、指すのでしょう。
 これらの言葉は、一見、明瞭であるようでいて、定義しようとすると、個人的には、はたと困ります。

10 裁判の特徴④ 最終性

――裁判により、もめごとや、犯罪の処理が「終わる」こと。

 このことは、より具体的に言いかえると、次のようになるでしょう。

――国家による暴力の行使が、終わること。

 裁判の結果の実現は、国家による暴力の行使でもあります。
 自制のなかでの、最低限の、暴力により、物事を動かした後は、同じ事件についての、再度の、暴力の行使は、ない。
 そのようなことが、「裁判により、もめごとや、犯罪の処理が『終わる』こと」の、より具体的な意味なのでしょう。

 そして、紛争は解決しても、内心の葛藤は、残ります。「法は、内心には、立ち入らない」からです。実際、私は、司法書士としての仕事を通して、法律では解決できない、内心の葛藤を抱えた方々と、度々、向き合ってきました。そのような方々と接するときには、法学ではなく、文学や心理学が、よい手がかりになりました。

11 内田義彦『読書と社会科学』岩波新書

 青木さんが紹介している、この本、私も読んだことがあります。そして、たまたま、前回のテキスト批評(河野哲也『レポート・論文の書き方入門』慶応義塾大学出版会)において、この本に触れていました。この本は、青木さんの推薦するように、読書によって、自分なりの概念装置を作りたくなる、いい本でした。

 内田さんには、他にも、同じ岩波新書に、『社会認識の歩み』『資本論の世界』があります。特に、前者は、人間の自然状態(人は人に対して狼である)について論じたホッブズについての紹介が、書いてあるようです。これらの本についても、個人的に、興味津々です。

12 意思表示・契約・所有権

 後日紹介する、商法学者・森田果さんの『法学を学ぶのはなぜ?』有斐閣においても、「契約」という概念、「所有権」という概念について、「この社会における、基本となるルール」として、紹介がありました。

 意思表示、契約、所有権。これらはすべて、民法において用いることとなる、概念です。

 本書といい、『法学を学ぶのはなぜ?』といい、初学者の方々が、民法を学びたくなるような、方向づけを、個人的に、感じます。そして、まずは民法について学習することが、大事であること、私も同感です。

13 法律家は悪しき隣人

 法律職として、仕事をしていると、「貴方は、ひとの気持ちが、分からない」と、ひとから言われることがあります。
 しかし、その「ひとの気持ち」が、「無茶な主張」と、一緒になっていることも、ままあります。その、「無茶な主張」が通ることを、法学の知見によって、防ぐことができます。
 「悪しき隣人」としての「法律家」であることは、悪いことでは、ないのかもしれません。

14 三段論法

――論理に関しては、代表的なものとして、「三段論法」がある。

 そういうことには、なっています。そして、そういうこととして、私も、「三段論法」を、使っています。
 しかし、そもそも、なぜ、「三段論法」が成立すると、前提が正しいかぎり、その結論も、正しいことになるのでしょう。
 「三段論法」についても、「理性」について、「合理」についてと、同様の、そもそもからの疑問が、私の中には、あります。

15 人間自身による人間社会の破壊

――安定した秩序について、維持することは、実は大変なことなのである。

 この青木さんの言葉に、私も共感します。
 そして、東日本大震災などの、自然災害の他に、人間自身が、人間社会を破壊することも、ありうるでしょう。たとえば、戦争。
 「人間自身による人間社会の破壊」については、それが人間の悪意を含んでいることがありますので、そうしたときには、個人的に、やるせない気持ちになります。
 ただ、「人間自身による、悪意を含んでの、人間社会の破壊」があったときにも、人間は、自分たちの社会を、再建してきました。たとえば、大江健三郎さんの『ヒロシマ・ノート』岩波新書。この本には、原爆の落ちた後の広島において、自分の身体の再生について、自分たちの社会の再建について、実る保証のない努力を、誠実に続けてゆく人々の姿が、書き留めてあります。
 人間の悪意に触れたとき、私にとっては、この『ヒロシマ・ノート』の記述や、司馬遼太郎さん・堀田善衛さん・宮崎駿さんの言葉、「澄んだニヒリズム」(『時代の風音』朝日文庫)が、支えになってきました。

16 大変な時代

 内容要約・11において引用しました青木さんの言葉から、私は、宮崎駿さんの言葉を、連想しました。

「風が吹き始めました。
 この20年間、この国では経済の話ばかりしてきました。まるではちきれそうなほど水を入れた風船のようになっていて、前にも後にも進めない。何時破裂するのかヒヤヒヤしながら、映像やらゲームやら、消費行動やら、健康やら、犬を飼ったり、年金を心配したりして、気を散らしながら、けっきょく経済の話ばかりしてきました。不安だけは着々とふくらんで、20歳の若者も60歳も区別がつかなくなりました。
 何かが起こるだろうという予感は、みなが持っていたように思います。それでも、どんなに立派な戦争より、愚かな平和のほうが尊いと思うようにしていました。
 そして、突如歴史の歯車が動き始めたのです。
 生きていくのに困難な時代の幕が上がりました。この国だけではありません。破局は世界規模になっています。おそらく大量消費文明のはっきりした終わりの第一段階に入ったのだと思います。
 そのなかで、自分たちは正気を失わずに生活をしていかなければなりません。
 『風が吹き始めた時代』の風とはさわやかな風ではありません。おそろしく轟々と吹きぬける風です。死をはらみ、毒を含む風です。人生を根こそぎにしようとする風です」
「僕らの国はつくる以上のものを消費することをやめるしかありません。貧乏にもなるでしょう。戦争すら始まりかねません。世界中がはじけそうにふくらんでいます。こんな時期に大丈夫なんて言えません。
 大きな墓穴と呼んでいる次の映画だって、終わりまでちゃんとつくれるかどうか、大きな経済変動で翻弄される可能性は十分あると思っています。そうなったとしても姿勢は崩すまいと思うしかありません。
 やけくそのデカダンスやニヒリズムや享楽主義は一段と強くなると思います。ギスギスするでしょう。自分の父親はそのなかにいたのだと思うと、彼のある種の能天気な気楽さが懐かしくなります。一方、絶望の深さも前より分かります。歴史が動き始めたんです」
(宮崎駿『本へのとびら』岩波新書 新赤版1332 2011.10.20)

 青木さん、宮崎さん。先人の方々が、共通して指摘していること。「いまは、大変な時代だ」。この指摘から、私は、映画『風立ちぬ』スタジオジブリに出てくる、次の言葉を、連想します。

――風が立つ。生きようと試みなければならない。

 そして、生きようと試みるためには、自分たちの生きる社会について、自分たちの歩む道のりについて、過去・現在・未来を、くりかえし、見つめ直すことが、必要でしょう。

17 大学で学ぶ意義(人生面)

 最後に、法学部を超えて、「大学で学ぶ意義」について、個人的に考えていることを、書き留めておきます。
 いままで、自分が学んできたこと、経験してきたことからしますと、大学での学びには、次のような意義があります。

① 社会観の形成(一般教養)
② 形成した社会観に基づく進路選択
③ 自分の選んだ仕事に取り組むための専門知の獲得(専門学科)

 河合隼雄さんによりますと、ひとにとって、「大人になること」は、「自分なりの社会観を形成すること」であるそうです。そのために、大学の、一般教養科目は、あるのでしょう。そして、一般教養により、形成した、自分なりの社会観があってこそ、よき進路選択ができるのでしょう。そして、その進路を選んだ後に、専門学科による、専門知の獲得が、大事になってくるのでしょう。

18 大学で学ぶ意義(実際面)

 大学で、私の学んだ「レポート・論文の書き方」は、依頼者の方々への案内文書を、起案するときに、役に立っています。
 のみならず、「レポートを書くこと、論文を書くこと」は、私が、自分自身の人生について、テキスト批評などを通して、絶えず模索してゆくための、重要な手段となっています。

 そして、私にとって、司法書士という仕事は、「毎日の仕事が、法学部の期末試験である仕事」です。一行問題は、「制度説明」。事例問題は、「解決提案」。法学部の、期末試験において、出てくるかたちの問いに、私は、毎日、直面しています。法学部の授業、そして、期末試験は、私にとって、「仕事のための、基礎訓練」でした。
 それにしても、こうしてあらためて書いてみますと、「毎日が期末試験」だなんて、そんな仕事、我ながら、よくも選んだものです…笑

19 高校以前 ひとりひとりの人間には物語がある

 なお、高校以前においては、私は、司馬遼太郎さんの小説作品を通じて、「ひとりひとりの人間には、物語がある」ということを、学んできました。
――このひとは、こういう物語で、自分の人生を、生きていったんだ。
――このひとは、自分なりに、このように社会について捉えて、このように自分の人生を選んで、生きていったんだ。
 そのように、フィクションであっても、他者の人生について「読んだ」経験は、実際の、私自身の人生を「読む」ことについても、私にご縁のあった方々の人生を「読む」ことについても、いまに至るまで、貴重な手がかりになっています。

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