【読書】堀田善衛『方丈記私記』ちくま文庫

堀田善衛『方丈記私記』ちくま文庫 ほ-1-2 1988.9.27
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480022639/

 私にとって、2021年、1冊目の、テキスト批評。
 コロナ下において、今後、自分が、どのように生きてゆくか、個人的に考えておくために、このテキストを、読んでみました。

 作家・堀田善衛さんによる、『方丈記』についての、テキスト批評。
 映画監督・宮崎駿さんは、この本について、次のように評しています
「僕は、このように僕らの一番の芯になっている堀田さんの三作品、『広場の孤独』と『漢奸』、それから『方丈記私記』を、ぜひたくさんの人に読んでもらいたいと思っています。これは強靭な文学です。強靭なものというのは、今これから始まってくる大混乱の時代、何かの形でものを考えたりする時の手掛かりになると思うのです。堀田さんの文学は決して流行った文学ではありません。しかし、それだけの力を持っています。そして僕にとってはとても大事なもので、お前の映画は何に影響されたのかと言われたら、堀田善衛と答えるしかありません」(『堀田善衛を読む』集英社新書)

第1 内容要約

1 東京大空襲

 1945年3月10日。東京大空襲。
 当時、堀田さんは、27才。空襲のあった夜、堀田さんは、洗足にいた。近くの丘へ避難して、視界一面の大火を目撃した、堀田さん。その脳裏に、方丈記の一節が、浮かんでくる。

――火の光に映じて、あまねく紅なる中に、風に堪へず、吹き切られたる焔、飛ぶが如くして一二町を越えつつ移りゆく。その中の人、現し心あらむや。

 明くる日、堀田さんは、焼け跡へ。特に火災のひどかった地域に、当時、親しかった女性が、住んでいた。彼女は、もう、生きてはいないだろう。彼女に、堀田さんは、現場で、訣れを告げたかった。
 焼け跡を歩く、若き日の、堀田さん。
――ここまで、日本が焼けて、すべてが平べったく、つまりは、誰もが平等になるならば、そこから、新しい日本、「天皇のいない日本」が、生まれてくるのではないか…?
 そのように考える、堀田さん。その堀田さんが、偶然、神社の境内にて、天皇による、焦土視察に、遭遇する。堀田さんの考えていたことは、当時は、危険思想。堀田さんは、身を隠す。すると、堀田さんの、思い、動きとは、裏腹に、あちらこちらから、民衆が集まってきて、天皇に対して、土下座を始めた。
「陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざと焼いてしまいました」
 いったい、どっちが謝るべきなのか。責任者の無責任。民衆の優情。なぜ、このような、奇怪な逆転が起こるのか。その疑問で、堀田さんの身体は、いっぱいになった。
 その疑問を、抱いたまま、25年。その疑問に、答えるために、50代になった堀田さんは、この『方丈記私記』を、書き始めた。

2 方丈記

 方丈記には、当時、日本中世、著者である鴨長明が生きた時代に起きた、五大災害のことが、書いてある。大火、大風、遷都、飢饉、地震。

 遷都。
 平清盛が、唐突に、京都から福原へ、都を移した。
 相次ぐ戦乱。群盗の横行。「京都は、もうだめだ」。
 平氏の一族とともに、都を移る、天皇。彼らを追って、名だたる、武家、公卿は、争うように、福原へ、転居していった。
 しかし、遷都は、上手く行かなかった。結局、平氏一族、天皇は、京都へ、戻ってきた。
 福原への移住のために、京都の家屋は、取り壊され、移し替えられ、また、京都への移住のために、取り壊され、戻ってきた。社会における、無駄な労力、無駄な損失の、発生。その結果として、新都へ移っていった家屋は、古都に、完全な形では、戻ってこなかった。
――古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず。ありとしある人は皆浮雲の思ひをなせり。

 飢饉。
 当時、京都に、人口が集中していた。その京都で暮らす人々の食糧は、地方が生産していた。その状況において、天候不良により、食糧が、決定的に不足した。その結果、京都において、飢饉が起こった。餓死した人々の死体が、道のほとりに、ごろごろと、転がる有様。その死体を、高僧が、供養して、回った。彼が、数えただけでも、死者は、4万2300人余に上った。

3 鴨長明というひと

(1)持たざる者

 長明は、神社の禰宜の子として、生まれた。
 禰宜であった父親は、長明が20代・前半の頃に、亡くなった。「みなしご」。父の力を借りることができず、長明は、禰宜の職を、継ぐことができなかった。
 その後、長明は、宮廷の運営する、和歌所の寄人に。寄人として、和歌所に奉公すること、12~13年。「よるひる奉公怠らず」。
 当初、長明の和歌には、心情が籠もっていた。それが、奉公しているうちに、当時の標準、心情も現実も反映しない「幽玄体」に。そのような、「当時の標準に合わせてゆく」ということも、長明には、できた。
 そして、長明の和歌は、『千載和歌集』や『新古今和歌集』に、入った。そのことに、感激する、長明。しかし、長明は、感激について綴った、そのすぐ次の文章で、「但あはれ無益の事かな」。全否定。
 長明は、「持たざる者」として生き、「持てる者」と交わり、その交流のなかで、成果も上げながら、「持たざる者」としての目を、有し続けていた人物だった。

(2)事件

 そのような人物だったので、長明は、事件を、度々、起こした。

 友人との集まり、演奏会において、長明は、「秘曲」を、演奏。「秘曲」は、楽師の家伝の曲。長明が、演奏していい曲ではなかった。その演奏について、宮廷が問題にしたとき、長明の弁明は、ひらき直ったものだった。

 賀茂社での歌合わせにおいて、長明は、ひっかけのある歌を、作った。その歌に、賀茂社の禰宜が、引っかかった。その禰宜と、長明とは、親族であり、禰宜の職をめぐって、対立していた。

(3)出家

 度々の、事件の後、長明と縁のある神社に、禰宜の欠員が生じた。その欠員について、時の上皇(後鳥羽院)は、長明に、その職を、斡旋しようとした。しかし、その斡旋について、賀茂社の禰宜から、異議が出た。この異議は、かつての、ひっかけ歌についての遺恨から、来たものだった様子である。
 そのような異議が出てきたこともあり、長明は、渇望していた禰宜の職に、またしても、就くことができなかった。その職には、異議を出した、賀茂社の禰宜の、その子が、就いた。
 そのことを、気の毒に思った後鳥羽院は、長明に、別な神社の、禰宜の職を、斡旋しようとした。しかし、その斡旋を、長明は、もはや、受けなかった。
 そして、長明は、出家した。
 なお、長明が就くはずだった禰宜の職に就いた、「賀茂社の禰宜の子」は、後日、何者かに、殺された。当時は、官位競望、猟官運動が、激しかった。「戦乱で、どろぼうをしなければ生きられない、あるいは人を傷つけなければ生きられなかった」時代であった。
――世にしたがへば、身くるし。したがはねば、狂せるに似たり。
 この方丈記の一節についての、堀田さんからの、コメント。
「とは言うものの、実のところは、世にしたがへばしたがうほど身くるしく、実状として、したがはねば、ではなくて、したがへばしたがふほど、狂せるに似たり、だったのである。世にしたがへば、狂せるに似たり。したがはねば、身くるし、と言いかえてもよいほどのものだった。むしろ、したがはねば、いっそ楽というものであったことは、長明が晩年に身をもって示したところであったかもしれない」
「長明は、後鳥羽院の二度目の親切な申し出をうけなかった。それをうけてまたまた競合者とともに狂しなければならぬとしたら、心のままにあった方がよいであろう」

(4)方丈

 長明は、当初、父方の祖母の家を譲り受けて、その家に住んでいた。
 その後、父の死により、世に立つ手づるを失い、その家を、持ちこたえることが、できなくなった。
 長明は、その家に比べると、10分の1の大きさの草庵へ、移り住んだ。その草庵は、長明が、設計した。その草庵には、門を立てることも、できなかった。
 そして、長明は、後年、出家と同時に、大原山の、「方丈」へ、移り住んだ。「方丈」は、組み立て式の家。分解して、牛車に引かせて、どこへでも、移り住むことができる。この「方丈」の大きさは、当初の、祖母の家の、100分の1だった。

(5)源実朝

 長明は、方丈へ移り住んで以降、源実朝に、会いに行ったことがある。源実朝は、時の将軍だった。
 京都の朝廷に対する、もう一方の権力である、鎌倉の幕府。鎌倉の幕府は、当時、新しい時代を切り開いて行きつつあるように見える、期待の的だった。
 しかし、長明が、実際に行ってみると、鎌倉は、権力をめぐる、近親殺戮、疑心暗鬼の舞台となっていた。
 京都の朝廷も、崩落。鎌倉の幕府も、崩落。つまりは、当時の歴史の、全的な崩落。このような崩落について、目の当たりにして、長明は、落涙していたという。
 あたらめて、長明による、次の言葉が、堀田さんの脳裏に、浮かんでくる。
――古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず。ありとしある人は皆浮雲の思ひをなせり。

(6)世捨人

――夫、三界は只心ひとつなり。

 長明は、出家することによって、捨てることができるものは、全て、捨てた。
 官職も、和歌も、政治への関心も、全て、捨てた。もともと、妻子は、なかった。長明には、その人生において、愛する女を失った様子がある。
 捨ててこそ、長明は、『新古今和歌集』など、当時の宮廷の編んでいた和歌集について、批判することが、できるようになった。

――阿弥陀仏、両三遍申してやみぬ。
 そして、長明は、終いには、仏道をも、捨て去った様子である。

 こうして、長明は、一個の人間になったのだった。

(7)和歌批判

 長明は、『新古今和歌集』など、当時の宮廷の編んでいた和歌集について、次のような批判を、書き遺している。
「中古の躰は、学びやすくして、しかも秀歌はかたかるべし」
 ひと昔前の歌体(中古の躰)は、自らの心情を籠める歌体。この歌体は、学びやすいので、誰でも詠みはじめることができる。しかし、良い歌を詠むことは、難しい。
「今の躰は習ひがたくして、よく心得つれば、詠みやすし」
 今の歌体(幽玄体)は、心情も現実も反映しない。それでは何を反映するかというと、古典を反映する。古典から言葉をとってきて、その言葉を使って、歌を詠む。そのためには、古典に関する知識が必要になるので、一定の学習が必要になる。このように、学習が必要になるので、今の歌体(幽玄体)は、詠みはじめるまでに、時間がかかる。しかし、一定の学習が修了すれば、詠みやすくなる。
 このように、長明は、当時の宮廷が、熱中して『千載和歌集』や『新古今和歌集』を編んでいた時代に、その歌体について、根本からの批判を、書き遺している。
 このような批判は、長明が、和歌所の寄人であった時期には、書くことができず、世捨人になり、方丈に移り住んでから、はじめて、書くことができるようになった。

4 堀田さんによるテキスト批評

(1)古京はすでに荒れて…

――古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず。ありとしある人は皆浮雲の思ひをなせり。

 この長明の言葉を、堀田さんは、身に染みて、感じてきた。
 一度目は、太平洋戦争当時、東京大空襲以降、敗色の濃厚な日本において。
 二度目は、1968年、ソ連軍の進駐した、チェコスロヴァキアにおいて。
「まことに、状況は、新しい企図、社会主義の『新都はいまだ成らず』、かといって、古きスターリニズムの古都もまたすでに『荒(れ)』果てていて、これから後はどうなるか、社会主義更新のために全身で働いた人々も、また、当時においてすでに硬化していた体制を、“兄弟国”の戦車をつっかえ棒にして恢復しようと欲していた人々も、みながみな『ありとしある人は皆浮雲の思ひをなせり。』という状況にあったものである」

(2)本歌取り文化――現実拒否

 堀田さんは、長明による和歌批判をふまえて、次のように、宮廷文化を批判する。
 古典から言葉をとってきて、その言葉を使って、歌を詠むこと。このことは、二つの拒否を含んでいる。第一は、当時の、現代日本語の拒否。第二は、現実を歌うことの拒否。
「本歌取り、すなわち伝統憧憬がかくまでに極端なことになり、生者の現実を拒否するという思考の仕方は、しかし、700年のむかしのことだけではないのである。1945年のあの空襲と飢餓にみちて、死体がそこらにごろごろしていた頃ほどにも、神州不滅だとか、皇国ナントヤラとかという、真剣であると同時に莫迦莫迦しい話ばかりが印刷されていた時期は、他になかった。戦時中ほどにも、生者の現実は無視され、日本文化のみやびやかな伝統ばかりが本歌取り式に、ヒステリックに憧憬されていた時期は、他に類例がなかった。論者たちは、私たちを脅迫するかのようなことばづかいで、日本の伝統のみやびを強制したものであった。危機の時代にあって、人が嚇ッと両眼を見開いて生者の現実を直視し、未来の展望に思いをこらすべき時に、神話に頼り、みやびやかで光栄ある伝統のことなどを言い出すのは、むしろ犯罪に近かった。天皇制というものの存続の根源は、おそらく本歌取り思想、生者の現実を無視し、政治のもたらした災殃を人民は目をパチクリさせられながら無理矢理に呑み下さされ、しかもなお伝統憧憬に吸い込まれたいという、われわれの文化の根本にあるものに根づいているのである」

(3)責任者の無責任 民衆の優情

「歴史と伝統に本歌取りをすることのみを機能とし、伝統的権威として、存在するから存在し、存続だけが自己目的と化したものを、どう処理するか。
 存在し、存続だけが自己目的と化したものに、他に対する想像力は、ありえない。
 人民の側としても、災殃にあえぎ、いやたとえ災殃にあえがなくても、彼らもまたその日その日を食つなぐだけの、ここでも存続、生存だけが自己目的と化している。
 存続、生存だけが自己目的と化したものに、ここでも他に対する想像力はありえない」
 堀田さんは、日本の文化において、責任者と、民衆との双方に、他方に対する想像力の欠如を、見た。そのことは、更に具体的にいえば、堀田さんの、社会主義運動家としての、挫折をも、意味していた。

(4)宮廷の美学

「この本歌取り宮廷美学と相対して、私は、彼らの宮廷の美を認める者だ、認めざるを得ない、そうして、しかもなお私は、認めた上で長明とともにかかる『世』を出て行く。無常の方へ行く。それが逃避であると見える人は、この国の業の深さを知らない人なのだ」
 その後、堀田さんは、断続的に、長期間、スペインに滞在するようになった。

第2 中島コメント

1 20代の自分への手紙

 堀田さんは、『方丈記私記』について、後年、次のように語っています。
「この間、司馬遼太郎さんと対談したときに、彼が『おれは、まるで戦時中のおれへの手紙を書いているようなものだ』といってましたが、私もまったく同じで、後年の『方丈記私記』(1971年)とか、『定家明月記私抄』(1986年)などは、結局、戦時中に背負い込んだものを戦後になって作品化したものなんです。それから、『ゴヤ』(1973~1976年)にしても、戦時中にゴヤの『戦争の惨禍』という版画集を見たことから始まっている」(『めぐりあいし人びと』集英社文庫)
 堀田さんにとって、『方丈記私記』は、「20代の自分への手紙」だったようです。
 人間にとって、20代は、自分の人生のテーマとなる問題を、抱え込むことになる年代なのかもしれません。
 このことについて、堀田さんは、別なところで、次のように、書いています。
「17歳から22歳までの読書が君の人生を決定する。本当にそうなのだ。怖いことだと思わないか。この世は君一人のものではないのだ。他というものがいるのだ。その他とは何か。どういうものであるかを、教えかつ知らせてくれるということが、読書の中身なのだ。思慮深く、強い決断をもった人間を育ててくれる、最良の手段が読書というものなのだ。君がもう22歳を越えていても、遅すぎるということはない。一冊の書物を手にせよ。出発はそこからだ」(『堀田善衛を読む』集英社新書)
 この、堀田さんの言葉に、私も、共感します。私にとっては、17歳から22歳までに読んだ、司馬遼太郎さんの作品、宮崎駿さんのインタビューが、私の人生を、決定しています。そして、司馬さんと、宮崎さんは、鼎談『時代の風音』(朝日文庫)によって、私に、堀田さんを、紹介してくれました。

2 堀田さんと長明

 堀田さんと、長明とは、それぞれの経歴に、似通ったところがあります。

(1)詩歌から散文へ

 堀田さんは、作家としての出発の当初は、詩人でした。その後、堀田さんは、散文の世界へ、転進しました。
 この堀田さんの経歴は、長明の、和歌(『新古今和歌集』など)から、散文(『方丈記』)へ転進した経歴に、似通っています。

(2)体制批判

 そして、堀田さんも、長明も、世を捨てることによって、現行の社会の体制について、批判する自由を、獲得したひとでした。

 長明は、和歌所の寄人という立場を、捨てることによって、当時の歌体について、批判する自由を、獲得しました。

 堀田さんも、「日本を出て行く」(日本を捨てる)ことによって、かつての国学について、そして現行の日本の体制について、批判する自由を、獲得しました。

 体制からの、言論統制に対して、批判する自由を獲得するためには、その体制を、離れることが、必要になる。
 そのことを、堀田さんと、長明の行動は、示しているでしょう。

(3)人生の伴走

 このように、堀田さんの人生と、長明の人生とは、重なり合う部分があります。
 ひょっとすると、堀田さんは、長明の『方丈記』を、25年間、自身の手元に置き続け、くりかえし、読み続けることによって、長明と、同様の境地に、到達することになったのかもしれません。

3 社会構想

 堀田さんは、『方丈記私記』において、「宮廷の美」を認めて、そのことによって、「体制の変革」について、諦めて、日本を捨てる、という、論法を、とっています。
 しかし、「宮廷の美」という、芸術についての問題と、「体制の変革」という、政治についての問題は、本来、別な問題であるはずです。両者が、堀田さんの指摘するように、根本のところで、関連していたとしても…
 堀田さんが、「体制の変革」について、諦めて、日本を捨てた、その本当の理由は、本書にも出てきたように、「社会主義の更新」が、挫折したことに、あったのではないでしょうか。
――日本の、体制について、変革しようにも、変革するための、構想が、もはや、存在していない。
 このことは、堀田さんが本書を現した1971年から、今日に至るまで、ずっと、私たちの問題として、有り続けています。このことを、別な言葉で、言いかえると、本書において、堀田さんが指摘した問題、「責任者の無責任」と、「民衆の優情」とは、今日に至るまで、ずっと、私たちの問題として、有り続けています。
 「責任者の無責任」については、丸山真男さんが、『日本の思想』(岩波新書)において、その検討の、先鞭を、つけています。
 「民衆の優情」については、「市民運動の失敗」とも、言いかえることができるでしょう。「市民運動の失敗」という問題については、私は、以前の記事、「考えの足あと/堀田善衛さんの足あと」においても、触れたことがあります。
 これらの問題について、私は、興味を持ち続けています。

4 古京はすでに荒れて…

――古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず。ありとしある人は皆浮雲の思ひをなせり。

 長明が、『方丈記』に綴った、この言葉は、まるで、いまの私たちの状況をも、表しているようです。

(1)コロナ禍

 コロナ禍により、東京で暮らしていた、私たちは、いま、行動の面で、様々な制約を受けています。
 そのコロナ禍について、そして、コロナ禍からくる、行動の制約について、私の考えを、ここに書き留めておきます。

ア コロナ・ウイルス 感染の特徴

 厚生労働省が発表している統計である、「新型コロナ・ウイルス感染症の国内発生動向」には、感染者の年代について、次のような傾向が、載っています。

  0代~10代 感染者・死亡者 ともに相対的に少ない
  20代~40代 感染者が相対的に多い 死亡者は相対的に少ない
  50代以上 感染者は相対的に少ない 死亡者は相対的に多い

 この、年代による、相対的な人数の、多い・少ないについての違い、個人的に、興味深いです。
 20代~40代の、最も活動する年代が、感染を拡大してゆく。
 そして、感染を拡大してゆく、20代~40代よりも、50代以上の人々が、コロナ・ウイルスによって、死に至りやすい。
 そのような状況のなかで、0代~10代の、子どもたちは、不思議と、感染者・死亡者が、ともに相対的に少なくて済んでいる。
 このような構図が、上記の統計から、個人的には、見えてきます。

イ 業態

 コロナ禍においては、感染の拡大の防止の観点から、ひととひととが、面談をすることが、難しくなっています。

 一方、私は、司法書士業務のなかでも、必ずしも、面談しなくてもよい業態に、自分の仕事を、特化してきました。不動産相続登記。商業法人登記。個人法務。成年後見。

 状況として、面談が、難しい。しかし、業態として、面談は、必ずしも、必要ではない。
 このように、私の業態は、偶然、コロナ禍から、影響を受けにくいものでした。
 偶然ではありましたけれども、私は、私の業態について、これからの時代の流れに、沿っているものとして、このまま追求してゆく考えでいます。

 なお、「ひととひととの関係」について、大切にするのであれば、依頼者の方々との面談も、もちろん、大切です。
 面談の省略は、コロナ禍においての、一時的な対処法です。そのように、私は、面談の要否について、考えています。

ウ 都市と地方

(ア)子育て・介護

 かねてから、私は、都市、主に東京が、「子育ても、介護もしにくい環境であること」を、問題として、意識していました。そして、その問題への対応として、「子育ても、介護もできる職場にすること」を、個人的な目標にしていました。
 その環境についての問題の、程度が、特に、介護に関して、コロナ禍によって、いっそう加重しました。
 将来の、自分や、スタッフさんたちの、子育て、父母・祖父母の介護について、個人的に考えてみると、同じく、かねてからの目標でした「地方への進出」も、引き続き、維持するべきことになります。

(イ)地方の経済の空洞化

 ただ、『方丈記』が記録している、福原への遷都のように、思い付きで、やみくもに、地方へ移住しても、上手く行かないでしょう。

 そもそも、いまの、日本の地方に関しては、次のことに、十分注意するべきでしょう。
「かつて、地方は、生産拠点だった。その生産拠点が、海外へ、移転した。その移転によって、地方の経済が、空洞化した」
 地方の経済が、空洞化しているからこそ、都市への、人口の流入が、起こっているのです。
 その地方へ、進出するとき、果して、そこに、どのくらい、仕事があるのでしょう。このことについて、十分に確認しておくことが必要でしょう。

(ウ)都市の人口 地方の人口

 そして、もう一点、注意するべき点があります。
 先にも述べたように、いま、地方から都市への、人口の流入が起こっています。
 その結果として…
・ 都市には、ひとが、たくさん、いる。
・ 地方には、ひとが、たくさんは、いない。
 このような状況に、なっています。
 私たち、法律職は、特に、「ひととひととの関係」のなかで、仕事を受注している傾向があります。
 ですので、人口の集中している、都市にいるほど、仕事を受注しやすい、ということにも、なります。
 その法律職が、「ひとが、たくさんは、いない」地方へ進出する場合、なおさら、その地方において、「ひととひととの関係」を、どのように紡いでゆくかが、問題になるでしょう。
 つまりは、法律職が、地方へ進出する場合には、予め、その地方に暮らすひとびととの、関係を作っておくこと――地縁を紡いでおくことが、大事である。そのようなことに、なるでしょう。

(エ)地縁を紡ぐこと

 前の項において述べたことについては、個人的に、似たような経験があります。
 私は、2013年10月に、豊島区にて、独立開業して、7年目が過ぎたところです。
 豊島区にて、独立開業して、7年間、定着することができたことについては、開業以前から、豊島区で暮らすひとびととの、地縁を紡いでおいたことが、大きかったです。
 というのは、こういうことです。私は、2007年、司法書士試験に合格した直後から、豊島区の司法書士事務所において、アルバイトを始めました。そして、そのアルバイトがきっかけとなって、その豊島区の、司法書士の方々による、成年後見業務についての勉強会に、参加するようになりました。そのような、アルバイトを通しての、勉強会の通しての、ご縁が、後年、私が豊島区にて独立開業するにあたって、様々なかたちで、活きてきました。
 また、私が、中学校から大学まで、立教学院に通っていたことも、豊島区のひとびとと、ご縁を紡ぐ上では、大きかったです。
 豊島区において、面白がって、働いたり、学んだりしてきたことが、後年、その地において、自分が独立開業して、定着してゆくことに関して、活きることになりました。このような経験から、私は、私とご縁を紡いで下さった方々への、感謝の念とともに、その地方へ進出する前に、予め、その地で暮らすひとびととのご縁を紡いでおくことの大切さを、しみじみと感じています。

(オ)都市で生きる 地方へも進出する

 前の項において述べましたように、私は、豊島区の地縁を通じて、たくさんの仕事をさせて頂いています。たとえば、豊島区の、高齢者の方々の、成年後見人も、務めさせて頂いています。
 そのように、私にとって、地縁のある地域を、完全に離れることは、たとえ、コロナ禍の状況が、これからしばらく続くとしても、難しい見込みです。
 そうなりますと、私にとっては、「都市で生き、地方へも進出する」という、「2拠点」の考え方が、重要となります。
 ※ 余談。この考え、映画『もののけ姫』の、アシタカの台詞のようですね。「サンは森で、私はタタラ場で暮らそう」。
 なお、「都市で生きること」について、コロナ禍のなかで、あらためて決意するということは、私自身が、コロナ・ウイルスに感染することについて、覚悟しておく、ということをも、意味することになるでしょう。

(カ)都市の特性 地方の特性

 私が、いままで述べてきましたことについて、あらためて、自分でも読み返してみまして、新たな問題意識が、芽生えてきました。
 私の考えていることは、まとめると、次のとおりです。
「都市で暮らしていると、子育て・介護について、問題が生じる。その問題が、コロナ禍によって、加重もした。だから、地方へも進出しよう」
 この考えにおいては、「地方」のイメージが、具体的では、ありません。「都市ではない場所」。その程度のイメージしか、ありません。
 都市の特性とは、何か。地方の特性とは、何か。それらのことについて、本当に、地方への進出を考えるなら、私は、より具体的に考えてゆくべきでしょう。
 そして、ひとくちに「地方、地方」と言っても、地方ごとに、そして、その地方のなかの地域ごとに、それらの特性は、千差万別でしょう。

 以上が、私の、コロナ禍に直面しての、考えです。

(2)政治・経済・社会

 ここからは、コロナ禍よりも、視野を更に広げて、「政治・経済・社会」という視点から、長明の、「古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず」という言葉について、個人的に、考えてみます。

ア 解釈改憲

――古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず。
 この言葉と、現代の日本の政治とを、照らし合わせてみるとき、私は、まず、「解釈改憲による、集団的自衛権の行使の容認」を、連想します。
 この解釈改憲をはじめとして、時の政権は、日本国憲法を無視した政治によって、戦後の、日本国憲法が形成してきた憲法秩序を、破壊しました。
 一方で、時の政権は、憲法改正を、実現することは、できませんでした。
――古京(いままでの憲法秩序)はすでに荒れて、新都(新しい憲法秩序)はいまだ成らず。ありとしある人は皆浮雲の思ひをなせり。
 この、長明の言葉に、800年の時を経て、私も、共感します。

イ 経済政策失敗

 また、同じ政権は、経済政策にも、失敗しました。

問題 少子高齢化による社会保障収支の赤字拡大
対策 経済成長
結果 日本銀行が逆ざやのリスクを抱えることに

 このように、当該政権の、経済政策は、功を奏さず、問題について、解決することができず、かえって、その政策のために、日本銀行が、新たな問題を、抱え込む結果となりました。

ウ 責任者の無責任 民衆の優情

 憲法秩序の破壊。経済政策の失敗。
 その責任者でした総理大臣が、辞任するとき、ツイッター等で、彼への感謝のコメントが、相次ぎました。
 その感謝のコメントを、目にして、私は、堀田さんが、本書において書き留めた、「東京大空襲の翌日、焼け跡で、天皇に対して、土下座する民衆」のことを、思い出しました。
 責任者の無責任。民衆の優情。
 堀田さんが問題にした、日本の文化は、いまも、根強く、残っているようです。

エ コロナ後に見えてくるもの

 このように、個人的に、書きながら考えてみますと、コロナ後に、問題になってくるであろうことが、見えてくる気がします。

問題 少子高齢化による社会保障収支の赤字拡大
対策 経済成長
結果 日本銀行が逆ざやのリスクを抱えることに

 上記の問題・対策・結果について、ふまえた上で、あらためて、どうすればいいのか。
 そのことが、現代日本社会の抱える、解決できていない、根本の問題として、コロナ後に、あらためて、表面に出てくることになるでしょう。
 この、根本の問題について、コロナ禍が、ひとびとの目を覆い隠すような、役目を果たしている。そのように、個人的には、見えています。

オ 新保守主義の敗北

 それにしても、なぜ、前の政権の、強いリーダーシップによる政治は、うまくいかなかったのでしょう。そのことについて、個人的に、大きな社会的な文脈のなかで、考えてみました。

 社会主義の崩壊。
 その結果としての、新自由主義の台頭、隆盛。
 新自由主義の考えは、ひとことでいえば、「自然に任せる」。
 つまり、社会主義の崩壊は、「人間の理性が、人間の自然に負けた」ということでした。
 それでは、新自由主義の考え、「自然に任せる」なかで、どのように、ひとびとを、組織してゆくのか。そのことが、問題になります。その問題について、一応の答えを用意した考えが、「新保守主義」でした。「新保守主義」による、「道徳の強制」。「道徳」は、人間の集合のなかで、自然に発生するものです。「自然に任せる」新自由主義と、「自然な道徳に従わせる」新保守主義とが、結合することは、それこそ、「自然」な流れでした。

 前の政権も、「自然に任せる」新自由主義について、経済政策の基本としながらも、ひとびとのことを、新保守主義による「道徳の強制」によって、統率しようとしていたのでしょう。
① 単一の道徳によって、ひとびとを統率する。
② 統率したひとびとの力を結集して、状況を、打開する。
 このような順序で、物事を進めてゆくことを、前の政権は、考えていたのでしょう。
 しかし、その結果は、前の政権が、考えたようには、なりませんでした。
① 単一の道徳によっては、ひとびとを、統率することができなかった。
② 統率することができたひとびとの力を結集しても、状況を、打開することは、できなかった。
 このことは、次のことを、意味しているでしょう。
「ひとびとが自然に形成する、大きな政治・経済・社会の動きに対して、『道徳』によって、ひとびとを統率して、そのひとびとの力を結集することで、影響を及ぼそうとしたけれども、それが、できなかった」
 このことは、新自由主義に対する、新保守主義の、敗北を、意味しています。

 コロナ禍は、前の総理にとって、これまで述べたような、失敗や敗北について、うやむやにできる、格好の、辞任の機会を、提供したのかもしれません。

カ 民衆暴力

 そもそも、道徳は、大まかに言えば、「みんなが、そうしている」ということに、その根拠を置いています。
 「みんなが、そうしているから、そうしなさい」。そのように、道徳の名目において、ひとに指示をするときには、次の、二つの問いが、返ってくることになります。
A なぜ、みんなが、そうしているから、そうしなければならないのですか?
B みんなが、そうしていることについて、私も、そうしたからといって、私は、生きてゆくことができるのですか?
 特に、Bの問いは、「新自由主義に基づく経済によって、貧富の格差が拡大してゆくなかで、貧困層に陥ることとなったひとびと」が、切実な問いとして、発することになるでしょう。

 「自然に任せる」新自由主義に基づく経済が、続くなかで、新保守主義による「道徳の強制」も、効き目がなくなってきたとき、最後に残るものは、「道徳による制約すらない、剥き出しの暴力」です。
「戦乱で、どろぼうをしなければ生きられない、あるいは人を傷つけなければ生きられなかった」
 そのような時代が、これからまた、やってくるかもしれません。そのことを、私は、懸念しています。

キ 在宅勤務 全体主義 その進展

 民衆暴力が気になる一方で、私にとっては、いまの全体主義システムが、いっそう発展しているように見えることも、気になっています。

 具体的には、「在宅勤務」の普及が、個人的に、気になっています。
 「在宅勤務」の普及は、言い換えますと、「国家や企業が、家族のなかに侵入してきた」ということを、意味しているでしょう。
 私たちは、コロナ前に、「仕事を、家庭に持ち帰りなさい」との指示を受けたとして、その指示に、素直に従っていたでしょうか。
 「コロナ禍だから」。そのように、理由を付けて、「ライフ・ワーク・バランス」でいう、「ワーク」が、「ライフ」に、入り込んできた。国家、企業による、全体主義システムが、家族を、いっそう、取り込んだ。
 このことが、コロナ後、どのように、ひとびとの生活に、影響してくるのか。そのことについて、私は、注目しています。

5 飢饉

――当時、京都に、人口が集中していた。その京都で暮らす人々の食糧は、地方が生産していた。その状況において、天候不良により、食糧が、決定的に不足した。その結果、京都において、飢饉が起こった。

 この状況は、現代の日本、特に、その主要な都市である、東京にも、当てはまるのではないでしょうか。
 東京の、食糧自給率の低さ。ひいては、日本の、食糧自給率の低さ。そのことが、個人的に、気になっています。
 いずれ、食糧のある地方への疎開、または、食糧のある外国への疎開を、考えるべき状況が、ひょっとしたら、やってくるかもしれません。

 だからこそ、なおさら、私は、「都市で生き、地方へも進出する」という、「2拠点」の考え方について、重視しています。

6 世にしたがへば…

(1)就職活動

――世にしたがへば、身くるし。したがはねば、狂せるに似たり。

 この長明の言葉から、私は、いまの、学生さんたちの、就職活動のことを、思い起こしました。
 生き方のモデルとして、問題のあることが、既に分かっている、正社員として、就職しなければ、生活してゆくことが、難しい。
 しかし、だからといって、就職活動しないでいると、その学生さんには、「ニート」等、その精神に問題のあるような、レッテル貼りが来る。
 まさに、「世にしたがへば、身くるし。したがはねば、狂せるに似たり」です。

(2)自営業 自分の世話は自分でする

 世に従わなかった、鴨長明。その、大原山の、方丈での生活は、相当大変なものだったようです。そのようなことを、堀田さんが、本書において、指摘しています。
 そのことについては、私も、「自営業として、働いていて」「単身者として、生活している」ので、長明の大変さが、少しは、分かるような気が、しています。
 私は、いま、スタッフさんたちに、自分の仕事について、相当な部分を、分業して、助けて頂いています。そのことによって、本当に、助かっています。しかし、私は、最終的な責任者ですから、場合によっては、その全てについて、自分で、手がけなければならなくなることが、あるかもしれません。
 そのように、個人的に考えるとき、私の脳裏に浮かんでくる言葉は、「自分の世話ができてはじめて、他人の世話ができるようになる」ということです。いま、スタッフさんたちに、分業して頂いている、ひとつひとつのことについて、私自身が熟達して、はじめて、スタッフさんたちに、的確な指示を、出すことができるようになるのでしょう。
 ただ、先の言葉を、更に敷衍すると、次のような疑問が、個人的には、出てくることになります。
「本当に、自分の世話が、自分一人でできるようになった場合、その上で、他人と一緒にいる意味とは?」
 自立した個人は、他の、自立した個人と、どのような関係を、結びうるのでしょう。そのことが、個人的に、気になっています。
 そして、長明は、他人と一緒にいる意味を、見い出さなかったからこそ、出家して、方丈に、移り住んだのでしょう。
 なお、この問題については、フランス政治学者の宇野重規さんが、度々、その著作で、意見を発表しているようです。たとえば、『<私>時代のデモクラシー』岩波新書。『未来をはじめる』東京大学出版会。

7 本歌取り宮廷美学

(1)言語論的転回

 『新古今和歌集』など、長明存命当時の宮廷が、古典を基にして、和歌を詠んでいたことについて、私は、個人的に、「言語論的転回」という言葉を、思い出しました。
 「言語論的転回」とは、哲学における、次のような、発想の転換のことを、指しています。
「思考から言葉が生まれるのではなく、言葉から思考が生まれる」
 『新古今和歌集』などが、古典の言葉から、思考を生み、また新たな言葉を紡いでゆく、そのような方法をとったことは、「言語論的転回」の考えにも、即しています。
 『新古今和歌集』などは、堀田さんの指摘する、本歌取り文化という問題を、含んでいます。しかし、一方で、「言葉の用法」に関しては、『新古今和歌集』などは、言葉の本質に、即していたのかもしれません。
 ただ、『新古今和歌集』などが、言葉と言葉との間に、「思考」を、挟んでいなかった場合には、その歌は、現代社会における、「コピー&ペースト」と、そう変わらないことになります。

(2)言葉と心情

 また、『新古今和歌集』などの歌体である「幽玄体」が、詠み手の心情を反映しない歌体であることについても、個人的に、興味が湧きました。
 言語学者・岡ノ谷一夫さんが、『言葉の誕生を科学する』河出文庫において、次のように、語っています。「言葉は情動を乗せない道具」。
 また、法学者・青木人志さんは、『法律の学び方』有斐閣において、次のように、語っています。「法は、人間の内心、つまり、その思想・良心には、踏み込んではいけないことになっている」。なお、法は、「言葉」で、できています。
 言葉は、ひとの心情・情動・内心を、乗せないで、使うことができる。この言葉の特徴は、個人的に、興味深いです。

8 映画『もののけ姫』『風立ちぬ』

 余談です。
 この『方丈記私記』は、宮崎駿さんの映画作品に、様々、影響を与えているようです。

(1)『方丈記私記』のアニメーション化

 まず、宮崎さんは、そのエッセイにおいて、次のように語っています。
「堀田善衛の『方丈記私記』のアニメーション化、それも商業映画としてつくること、いや、つくれるか。この途方もなく常識はずれで、成算も何もないと判っている思いつきを、空想の中で転がしている。
 (中略)
 途は遠い。でも、この楽しみを手離す気にはなれない」(『出発点』徳間書店)

(2)『もののけ姫』

 堀田さんは、『方丈記私記』において、大風の記録について、『方丈記』の、次の一節を、紹介しています。
「家のうちの資財、数を尽して空にあり」
 この記述から、私は、映画『もののけ姫』の終盤、デイダラボッチが、その巨体を森へ倒し、大風になって去ってゆく場面を、連想しました。大風は、タタラ場の家屋、家財を吹き上げて、それらの資財は、「空にある」ように、見えていました。

(3)『風立ちぬ』

 映画『風立ちぬ』には、堀越二郎が、組み立て式の飛行機を、牛車に引かせて、運んでゆく場面が、出てきました。この場面について、私は、個人的に、鴨長明が、組み立て式の方丈を、牛車に引かせてゆく光景を、連想しました。

以上

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