【読書】松本清張『或る「小倉日記」伝』 ~自分の基礎に弱さを置く~

松本清張『或る「小倉日記」伝』角川文庫 ま-1-43 1994.12.15
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 作家・松本清張さんの、芥川賞・受賞作。
 初出は、1953年。そのとき、松本さんは、43歳。

1 あらすじ

 熊本の有力者、白井正道。彼には、「ふじ」という、美しい娘がいた。ふじには、いくつもの縁談が、舞い込んできた。あちらを立てれば、こちらが立たず。思い悩んだ末、正道は、ふじを、甥である田上定一と、結婚させた。いとこどうしの、結婚。
 二人の間に、主人公、田上耕作が、生まれた。
 耕作は、生まれつき、口が閉じず、涎を垂れ流していた。発声も、思うままには、ならなかった。片足も、うまく動かず、引きずって歩いていた。

 正道は、定一と、ふじの生計のため、心を配った。定一の就職を、小倉で世話した。また、貸家5軒を、与えた。
 その後、正道は、政治にばかり執心し、家産を蕩尽した。正道の死後、ふじの実家には、ふじを援けるための財産は、もう、無かった。
 耕作は、子どものころ、貸家のうち1軒に、よく遊びに行った。その家には、老夫婦と、5つくらいの女の子が、いた。老夫婦も、女の子も、耕作の人体を気にせずに、接した。耕作は、幼心に、その女の子に対して、淡い思いを、抱いていた。
 その家のおじいさんの仕事は、「でんびんや」。その仕事が、どのような仕事なのか、子どもであった耕作には、分からなかった。おじいさんは、杖に鈴を付けて、歩いていた。早朝・夜中、おじいさんが町へ仕事に出かけてゆくとき・町から帰ってくるとき、耕作は、いつも、鈴の音を耳にした。物悲しい音だった。
 その家族は、一年ほどして、夜逃げした。空っぽになった家に、「貸家」と書いた紙が、貼られた。その無残な様子を、耕作は、目の当たりにした。

 耕作の父である定一は、耕作が10歳の頃に、他界した。
 そのとき、ふじは、30歳だった。その美貌には、年齢に伴う、高雅さが備わっていた。
 その、ふじに、再婚の縁談が、次々と、舞い込んできた。
「嫁になるなら、耕作の治療費を、いくらでも出す」
 しかし、そういう話は、ふじには、好餌に聞こえた。
――私が嫁に行った家で、耕作が、どんな目に遭うか。
 そのことについて心配したふじは、一切の縁談を、断った。耕作と、一生、共に生きてゆく、決心をした。ふじは、耕作に、妻のように仕え、彼が幼児であるかのように、世話をした。

 思うように、話せない。思うように、歩けない。
 しかし、耕作は、勉強は、よくできた。級中でも、一等だった。
 それが、耕作の、自信になった。彼にとって、たったひとつの、救いだった。
 耕作は、自分の身振りについて、あえて、大げさに、阿呆のように振る舞うことも、あった。大げさに振る舞うことで、彼には、自分の身体が思うように動かないこと自体、気のせいなのかもしれないと、思えることも、あった。
 彼は、自分の身振りについて、ひとに見せつけることによって、かばっていた。

 その耕作に、中学以来、唯一の友人、江南ができた。江南は、文学青年だった。
 江南は、耕作が、その人体について、ひとから、からかわれたとき、いつも、かばった。
「耕作は、君らより、余程、ましなんだぞ」
 その江南が、耕作に、森鴎外の『独身』という作品を、勧めた。『独身』は、鴎外が、小倉に住んでいた頃のことを書いた、作品だった。
 その作品に、「伝便屋」(でんびんや)のことが、出ていた。
「伝便屋は、辻々に立って、鈴のついた杖を鳴らしながら歩き、恋文や、手荷物を、届けて回る」
 あのおじいさんの仕事だ。懐かしい思い出が、耕作の脳裏に、よみがえる。このことが、きっかけとなり、耕作は、鴎外の作品を、好んで読むようになった。鴎外の枯渋な文章は、耕作の心に、響いた。

 ふじは、耕作の将来のため、耕作を、洋服の仕立て屋に、弟子入りさせた。
――手に職を、つけさせたい。
 しかし、耕作は、左手も、思うようには、動かなかった。また、職人という仕事が、性に合わなかった。
 結局、耕作は、生涯、収入のある仕事には、就かなかった。
 耕作と、ふじの、一家の収入は、ふじの裁縫仕事による賃金と、家賃のみ。
 二人の暮らしは、貧しかった。

 そのような境遇にある耕作を、江南は、小倉の有力者、白川に、紹介した。
 白川は、病院長であり、知識人だった。
 白川は、大学での調べものを、耕作に、任せた。また、次々と購入する蔵書の整理も、耕作に、任せた。
 その蔵書のなかに、岩波書店が新たに出版した『鴎外全集』があった。
 『鴎外全集』には、鴎外が小倉に滞在していた時期の日記が、欠落していた。どうしても、見つからないという。
――その欠落を、埋めよう。取材して、回ろう。
 そのように、耕作は、決心した。そのような情熱を、耕作が、燃やすのは、初めてだった。
 耕作が、物事に対して、情熱を燃やしたことを、ふじも、喜んだ。
 この耕作の着想には、当時、流行していた、民俗学が、影響していた。

 耕作は、まず、小倉時代の鴎外に、フランス語を教えた宣教師、ベルトランを、訪ねた。
「それは、いい考えだ」
 ベルトランは、両手をすり合わせて、賛意を示し、当時のことを、語ってくれた。
「鴎外は、時間について正確で、長い間、遅刻はなかった」

 次に、耕作は、鴎外の友人、「安国寺さん」の未亡人を、訪ねようとした。
 安国寺さんの未亡人は、義弟の家に、寄寓していた。その家は、小倉から、4里(約16km)も、離れていた。
 まず、バスで、2里。バスを降りてから、徒歩で、山道を、2里。耕作は、必死の思いで、足を引きずりながら、訪ね先である家のある部落に、辿り着いた。
 その耕作を、部落に暮らすひとびとからの、好奇の目が、取り囲む。
 訪ねて行った家の、義弟が、耕作の人体を、うさんくさそうに、見る。
 耕作が、たどたどしく、「オウガイ」「オウガイ」と、繰り返す言葉も、義弟には、伝わらなかった。
「姉は、いま、留守です」
 耕作の努力は、水の泡となった。彼は、重たい足どりで、また、長い山道を、帰ることになった。
「どうだった?」
 ふじが、疲れ切った耕作を、出迎える。
「留守だった…」
 耕作が、その身体を、重たそうに、畳に横たえる。
 それで、ふじには、彼が、どういう仕打ちを受けてきたかが、分かった。不憫でならなかった。
「明日、もう一度、行ってみよう。お母さんも一緒にね」
 耕作と、ふじは、人力車2台に乗って、あらためて、寺を訪ねた。人力車2台が、並んで走るのは、この部落では、婚礼のとき以外には、そうそうないことだった。二人にとっては、この車代は、毎月の生活費、その半分に相当する、出費だった。
 ふじが丁重に来意を告げると、義弟は、恐縮して、安国寺さんの未亡人を、紹介した。
 未亡人は、亡き夫から聞いていた、鴎外の話を、聞かせてくれた。

 耕作は、ベルトランと、安国寺さんの未亡人から聞いた話を、まとめて、詩人K・Mへ、書き送った。K・Mは、鴎外全集の、編集委員だった。
――自分のやっていることに、意義があるのか。
 そのことについて、確かめておかないと、不安でたまらなかった。
 そして、K・Mからの、返信が来た。
「なかなかよいものと感心しています。このまま大成したら、立派なものができそうです。小倉日記が不明の今日、貴兄の研究は意義深いです」
 詩人から、文学青年への、励ましを込めた、返信。期待以上の評価だった。
――さあ、これで方向は決まった。
 耕作の心に、地底から、出口の光明を見出したような、希望が湧いた。
 詩人からの評価を、ふじも、江南も、白川も、喜んでくれた。

 しかし、それからの取材は、難航した。
 鴎外の、鍛冶町の、旧居。新魚町の、旧居。それらへ、耕作は、出向いたけれども、鴎外のことを知っているひと、覚えているひとは、いなかった。
 新魚町の、旧居の、家主は、耕作の人体を、意地の悪そうな目つきで、一瞥した。
「そんなことを調べて、何になります?」
 家主の言葉が、耕作の、内心の深部に、突き刺さる。
 実際、こんなことを調べていて、何になるのだろう。空しいことなのではないか。K・Mからの手紙も、一片の世辞だったのではないか。
 希望が消え、真っ黒い絶望が、おそってくる…

 そんなある日、耕作が白川の病院を訪ねると、ひとりの看護師が、なれなれしく、寄ってきた。目鼻立ちのはっきりした娘だった。
 その娘は、山田てる子といった。
「あなた、森鴎外のことを、調べているんでしょう。私の伯父が、お寺の僧侶で、鴎外に会ったことがあると言っていたわ」
 その寺は、福聚禅寺といった。
 耕作の、福聚禅寺への訪問に、てる子が、付き添う。てる子は、耕作に歩調を合わせ、その手をとって、連れて歩いた。
 柔らかな手。甘い香り。女性に縁がなく、あきらめていた、耕作の胸が、ときめく。
 てる子の伯父の話では、鴎外は、新妻と、この寺を、訪ねてきたという。
 その新妻が、この寺で、詠んだ歌を、てる子の伯父が、覚えていた。
――このお寺の開祖の顔が、夫の顔に、似ている。
 という意味の、歌だった。
 てる子と、耕作とが、連れ立って、開祖の木像を、見に行く。
 開祖の顔は、怪奇だった。
「鴎外も、こんな顔を、していたのかしら」
 そう言って、てる子は、おかしそうに笑った。

 てる子は、耕作の家に、よく、遊びに来るようになった。
 てる子は、人づきあいがよく、病院の、どの男性とも、仲良くしていた。
 しかし、耕作の家に、よく遊びに来るような女性など、いままで、ひとりも、いなかった。
 耕作にも、ふじにも、てる子の真意が、分からなかった。単に、仲良くしているのか。特別な、好意があるのか。
 それまで、ふじは、耕作に、見合いの話を、懸命に、持ってきてはいた。しかし、耕作は、顔面が怪奇で、足をひきずって歩いていて、しかも、仕事に就いていない。そういう耕作に、嫁の来手が、あるはずはなかった。見合いの話は、相手から断られるのが、常だった。
 縁談ばかりで困っていた母親の、その息子が、嫁の来手がなく、困っていた。
 その耕作のところに、遊びに来る、てる子。彼女に、ふじは、奇跡のような、期待を抱くようになった。

 てる子が耕作に紹介した、福聚禅寺の僧侶である、彼女の伯父。彼は、耕作に、次の取材のための、手がかりも、与えた。
「鴎外は、東禅寺へ、よく、禅に行っていました」
 その東禅寺を、耕作と、ふじとが、訪ねる。
 住職は、無愛想に、二人を迎えた。
「祖父の代の話です。知っていることは、ありません」
 40年という歳月。時間のなかに埋もれてゆく史実。
 耕作は、ふじと、失望しながら、帰途につく。
 その後ろから、住職が、追いかけてきた。
「思い出しました。その頃に、寺が寄進を受けた、魚板があります」
 住職は、根は、親切なひとらしかった。
 魚板には、鴎外の名前とともに、彼と親しかったらしきひとびとの名前もが、刻んであった。彼らの名前は、耕作にとって、大きな手がかりだった。彼らの名前を、耕作は、書き取った。

 この頃、戦争が始まった。戦争は、徐々に進行していった。

 耕作は、鴎外が小倉に滞在していた時期の、地元紙の、支局長のことも、探した。
 鴎外は、地元紙を通して、新聞に、著作を、発表していた。その当時の、支局長であれば、鴎外のことを、何か、知っているかもしれない。
 40年前に、支局長であった人物は、相当な高齢であるはず。行方が分かるかどうかについても、存命であるかどうかについても、望みは薄かった。
 その元・支局長の、行方が分かり、存命であることも、分かった。
 大いに喜ぶ、耕作。彼は、ふじとともに、彼の住まう寺を、訪ねに行った。
 だが、その寺のある町には、寺が24も、あった。どの寺が、その寺なのか、分からない。途方に暮れる、二人。ふじが、耕作を励まして、一寺一寺を、訪ね回り始める。
 その途中で、二人は、町役場を見かける。役場なら、元・支局長の住まう寺が、分かるかもしれない。
 役場の職員である、若い娘が、元・支局長の住まう寺を、見つけ出してくれた。その娘は、てる子に、似ていた。
「耕作、てるちゃんは、お嫁に来てくれるかねぇ」
 ふじが、耕作に、問いかける。耕作は、苦い顔のまま、何も答えなかった。
 ふじは、耕作のために、てる子に、思い切って話を切り出す、決心をした。

 元・支局長は、鴎外と、直接に接触していた。彼の話は、期待以上だった。
「鴎外先生は、むつかしいひとのようでいて、私たちには、ざっくばらんでした。散歩に誘って下さったり、軍医部長室に招いて頂いて、笑いながら話をして下さったりしました」
「ただ、公私の区別は、はっきりしていました。ひとが軍服の姿で会いに行くと、かわいそうなくらいの扱いでした。ですが、そのひとが私服の姿で会いに行くと、和やかにお迎えになりました」
「時間には、たいへん厳しいひとでした。約束の時間に遅れたひとは、どんなに偉いひとであっても、会いませんでした」
「女性にも、配慮していらっしゃいました。女中は必ず二人以上、やむを得ず、女中が一人のときには、近所の家に、泊まらせていました」
「公務に当たられ、そして、『即興詩人』の訳にも、当たられていました。たいへんな勉強家でした」
 元・支局長は、東禅寺の魚板に名前が刻んであったひとびとのことも、よく知っていた。
 鴎外をめぐる、点在していたひとびとが、線となり、つながり合いはじめた。

 耕作に宛てて、鴎外の関係者から、便りが来るようになった。
 鴎外の弟である潤三郎からは、「小倉に住んでいた時期の鴎外について、知っていることを、教えてほしい」との、手紙が来た。
 鴎外が、よく宴会で使っていた旅館の、主人。鴎外の家に女中でいた、女性。彼ら彼女らからも、連絡があった。
 彼ら彼女らへの取材に、耕作は、いままでよりも、躍起になった。いままでよりも、躍起になった、きっかけ。それは、てる子が、耕作との縁談を、断ったことだった。
 ふじからの申し出に対して、てる子は、朗らかに笑った。
「いやね、小母さん。本気で、そんなことを、考えていたの」
 耕作と、ふじ。あらためて二人きりになった、母子の結びつきは、お互いを温め合うかのように、いっそう、強くなった。

 耕作の集める、資料の嵩が、厚くなるにつれ、戦争も、激化していった。
 空襲が、始まった。耕作は、爆弾の雨の中を、逃げ回るようになった。
 耕作の取材は、困難になっていった。

 戦後、状況は、より、ひどくなった。
 食糧不足、栄養失調。耕作の症状は、増悪して、寝たきりになった。
 インフレ。貸家の賃料の、値上げでは、追いつかない。貸家を、ふじが、一軒ずつ、売却してゆく。
 そのうち、耕作は、箸を握ることも、できなくなった。手づかみで、ヤミ米、ヤミ魚を、食べるようになった。
――元気になったら、集めた資料をもとに、いままで調べたことを、まとめて、書こう。

 戦後、数年。
 貸家は、全て、売却した。耕作と、ふじとは、老い朽ちた住居の、表側は、ひとに貸して、裏側の三畳に、小さくなって、暮らした。
 ますます、衰弱してゆく、耕作。
「・・・鈴の音が、聞こえる・・・」
 彼の耳に、響くはずのない、懐かしい音が、響きはじめた。

 昭和25年12月、冬のある日、耕作は、息を、引き取った。
 雪が降ったり、陽がさしたり。鴎外が、「冬の夕立」と評した、空模様の日だった。

 ふじは、熊本の、遠い親戚の家に、身を寄せることになった。
 耕作の遺骨と、彼の集めた、風呂敷いっぱいの資料が、彼女の大切な荷物だった。

 昭和26年2月、鴎外の、小倉日記が、見つかった。
 耕作は、小倉日記を見ずに、死んでいった。
 このことは、彼にとって、幸いだったのか、不幸だったのか…

第2 中島コメント

 この「或る『小倉日記』伝」を読むことで、私の、松本清張さんに対するイメージが、変わりました。
 これまで、私は、松本さんのことを、「社会派・推理小説作家」という通称から、「社会の問題に取り組む、クールでドライなひと」つまりは「強い個人」であるかのように、勝手にイメージしていました。
 しかし、この作品において、松本さんは、耕作の姿と行いとを通して、人間の幼さや、弱さを、見つめていました。松本さんは、「強い個人」であると同時に、「弱い人間」をも認容する、温容なひとでしたようです。
 そのような観点から、以下、私が、この作品について、考えたことを、書いてゆきます。

1 松本さんの半生との重なり合い

(1)松本清張記念館の展示・説明から

 前回の記事で紹介しました「松本清張記念館」。その記念館が紹介していた、松本さんの半生に関して、この作品には、重なる記述が、複数、ありました。

ア 父親の不在

――耕作の父である定一は、耕作が10歳の頃に、他界した。
――その後、正道は、政治にばかり執心し、家産を蕩尽した。正道の死後、ふじの実家には、ふじを援けるための財産は、もう、無かった。

 松本さんのお父さんは、若くして亡くなりはしなかったものの、商売が下手なのに、商売が好きで、いつも、家計について、お母さんを困らせていたそうです。
 松本さんのお父さんは、「権威ある父親」でも、「養育する父親」でも、なかったようです。

イ 文学青年との交流

――その耕作に、中学以来、唯一の友人、江南ができた。江南は、文学青年だった。

 松本さんも、新聞社で版下工として働いていた、若い時代に、八幡製鉄などに勤務する文学青年たちと、交流していたそうです。

ウ 恋文の配達

――伝便屋は、辻々に立って、鈴のついた杖を鳴らしながら歩き、恋文や、手荷物を、届けて回る。

 松本さんは、衛生兵として、朝鮮の京城へ出征していた頃、ひとから頼みがあって、恋文を届けたことが、あったそうです。
 このように、松本さん自身、「伝便屋」であったようです。

エ 手仕事

――しかし、耕作は、左手も、思うようには、動かなかった。また、職人という仕事が、性に合わなかった。

 松本さんも、先に述べましたように、新聞社で版下工として働いていました。
 松本さんも、版下工という手仕事が、性に合わなかったのかもしれません。

オ 作家からの手紙

――「なかなかよいものと感心しています。このまま大成したら、立派なものができそうです」

 松本さんも、最初の作品である『西郷札』について、その原稿を、作家・大佛次郎さんに送り、励ましのこもった返信を、もらっていたそうです。

カ うわごと

――「・・・鈴の音が、聞こえる・・・」

 松本さんは、衛生兵として、朝鮮の京城へ出征していた頃に、兵士たちの死を、看取っていたそうです。そして、その兵士たちのなかには、脳症が昂じて、うわごとを言いながら、亡くなってゆくひとも、いたといいます。
 耕作という人物は、後に述べますように、「松本さんの子どもの頃の姿」でもあり、そして、「松本さんの目の前で亡くなっていった仲間たちの姿」でも、あるのかもしれません。

 ひとの死に触れること。そのことは、自分の死について考える、きっかけにもなります。そして、自分の死について考えることは、自分の生について考え直す、きっかけにもなります。仲間たちの死に触れて、松本さんには、それからの、自分の生について、思うことが、あったのでしょう。

キ 母との死別

――ふじは、熊本の、遠い親戚の家に、身を寄せることになった。

 松本さんのお母さんは、この作品の、およそ5年後に、亡くなったそうです。
 松本さんは、この作品の執筆において、お母さんとの別れをも、予感していたのかもしれません。

(2)「家」制度という「血の縛り」――いとこどうしの結婚

 耕作は、いとこどうしの結婚によって、生まれた子どもでした。
 この血縁の濃さから、私は、個人的に、血縁を重視する、戦前の「家」制度のことを、連想しました。
 その「家」である、ふじの実家は、ふじの父が、家産を蕩尽して、没落してゆきました。
 この作品における、ふじの実家の没落は、日本における「家」の没落をも、意味しているのかもしれません。

 余談。「血縁の濃さ」ひいては「血の縛り」について、私にとって、個人的に気になっていることを、ここに書き留めておきます。
 「古事記」において、日本という国を生んだことになっている、イザナキとイザナミは、兄妹でしたそうです(三浦佑之『古事記の神々』角川ソフィア文庫)。「兄」と「妹」。同じ父と母を持つ男女が、子どもをもうけること。そのことは、「兄」(男性)の血と肉とが、次の世代にも、そのまま続いてゆくことを、意味しています。なお、「妹」は、「女性が男性よりも若いこと」(生命として新しいこと)を、意味しているでしょう。
 「古事記」における、このような挿話は、男性にとっての「自分の生命が、長く、続いてほしい」という願望を、表しているのかもしれません。
 ただ、実際に、そのようなことをすれば、「古事記」にも記述がありますように、身体に問題のある子どもが、生まれやすくなります。そのような子どもが生まれやすい、願望について、男性が、女性を、付き合わせる。そのような構図を、私は、「古事記」に、見て取ります。
 「古事記」について、これを基礎とする社会は、「自分が死ぬことを、受け入れることができない男性が、そのことに対しての悪あがきに、女性を付き合わせている社会」でも、あるのかもしれません。

(3)1950年代――新しい時代

 耕作は、昭和25年、1950年に、亡くなったことに、なっています。
 そして、同じ年に、松本さんは、最初の作品である、『西郷札』を、発表しています。
 これらのことに比して、新しい憲法である、日本国憲法の施行は、1947年のことでした。
 耕作の死と、松本さんの作家としての執筆の開始と、新しい社会・新しい時代の到来とは、それぞれの時期が、近接しています。
 日本国憲法の施行。「家」制度の廃止。新たな自由の獲得。
 この時機に、松本さんは、自分の半生を、作品として、まとめ上げて、新しい時代を、作家として、自由に、生き直そうと、思い立ったのかもしれません。そして、その思いのなかには、「出征した先で、亡くなっていった仲間たちの分も、自分が生きよう」という思いも、こもっていたのかもしれません。
 そして、その思いが形になった作品が、この『或る「小倉日記」伝』だったのでしょう。

(4)43歳――長かった半生

 松本さんの、新しく生き直すための作品が、『或る「小倉日記」伝』だったとして、その執筆をしたときには、松本さんは、43歳になっていました。
 耕作の歩みの遅さは、そのまま、松本さんの、人生の歩みの遅さでも、あったでしょう。

 このことから、個人的に、次のように、想像します。
 松本さんのもとへ、若者が、人生相談に行ったとすれば、松本さんは、たばこの煙をくゆらせながら…
「まあ、人生、ゆっくり行こうじゃないか」
 そのように語って、若者に、温かな笑みを向けたのではないでしょうか。

 耕作が、取材に行った先で、断られ、肩を落として、帰る姿。
 その姿に、たとえば、営業職に就いた若者は、親近感を、覚えるでしょう。彼ら彼女らもまた、営業に行った先で、断られ、肩を落として、帰ったことが、度々あるはずです。

2 子どもから大人になってゆく過程――自分が普通の存在であることの自覚

 上記の1において述べましたように、この『或る「小倉日記」伝』は、松本さんが、その半生について振り返り、勤労青年から、作家として、生まれ変わるために書いた作品でもあったようです。
 そのような観点から、この作品を読んでみますと、私には、耕作の「涎を垂らし」「足を引きずって歩く」という特性が、赤ちゃんの「涎を垂らし」「這い這いをして(足を引きずって)歩く」という特性に、重なって見えてきます。
 そうしたことからしますと、先の「生まれ変わるために」という言葉は、「子どもから大人になるために」と、言いかえることも、できるでしょう。
 子どもから、大人になるための、作品。その観点から、以下、この作品について、個人的に考えたことを、書いてゆきます。

(1)臆病な自尊心・尊大な羞恥心――中島敦『山月記』との比較

――思うように、話せない。
――思うように、歩けない。
 これらの、耕作の特性は、子どもにとっての、次のような気持ちを、表しているでしょう。
――ひとと話すことが、億劫な気持ち。
――ひとと会うことが、億劫な気持ち。
 これらの気持ちの、奥底にあるものについて、個人的に、考えてみるとき、私は、作家・中島敦さんが、その作品である『山月記』に書いた「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」に、思い当たります。
――己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。
 上記しました「億劫な気持ち」たちは、「瓦に伍することができない気持ち」でもあるでしょう。
 耕作もまた、『山月記』の李徴と同じく、「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」とを、その胸の内に、抱えていたのでしょう。
 ただ、『或る「小倉日記」伝』と、『山月記』とには、その主人公について、明らかな違いがあります。
 『山月記』の主人公は、雄偉な虎でした。『或る「小倉日記」伝』の主人公は、涎を垂らし、足を引きずって歩く、怪奇な青年でした。雄偉な虎は、「強き異形」であり、怪奇な青年は、「弱き異形」です。
 このように対比してみますと、松本さんは、「人間の強さ」よりも、「人間の弱さ」の方に、注目した作家さんでしたようです。
 そして、「人間の弱さ」の、その象徴となる人物である耕作は、地道で丹念な取材の果てに、著作とするに足る、十分な資料を集め終えた上で、この世を去ってゆきます。
 このことに関連して、心理学者・河合隼雄さんが、次のような言葉を、書き残しています。
――生まれ変わるためには、死なねばならない(『こころの処方箋』新潮文庫)。
 河合さんが書いているように、「弱い人間」(子ども)としての耕作が死ぬことによって、「強い個人」(大人)としての、作家・松本清張さんが、新たに生まれることになったのかもしれません。

(2)自分が特別な存在ではないこと

 ここまで書いてきて、私は、臨床心理士・岩宮恵子さんが、『フツーの子の思春期』に書いていたことを、思い出します。
――超越した存在でも何でもない、普通の自分、現実の自分を見定めてゆく「喪失体験」も、思春期における大事なステップである。
 「自分が超越した存在ではないこと」の、自覚。このことは、「自分が特別な存在ではないこと」の、自覚とも、言いかえることができるでしょう。
 そして、「自分が特別な存在ではないこと」の、自覚には、次の2種類が、ありうるでしょう。
――自分が特別に「優れた」存在ではないこと。※優越感についての宥恕※
――自分が特別に「劣った」存在でもないこと。※劣等感についての宥恕※
 中島さんの『山月記』が、前者について主題とした作品であったとすれば、松本さんの『或る「小倉日記」伝』は、後者について主題とした作品であったと、言えるでしょう。
 松本さんは、この作品を書くことで、自分のなかの、子どもっぽい劣等感について、相当程度、乗り越えることができたのでしょう。
 だからこそ、松本さんのなかの、「子ども」の象徴である耕作が、この世を去ることにも、なったのでしょう。

(3)春の海のようにゆたかな自信――地道で丹念な行いの積み重ね

――自分が特別に「劣った」存在でもないことの、自覚。
 この言葉に関連して、私は、作家・司馬遼太郎さんの、次のような言葉を、思い出しました(『風塵抄』中公文庫)。
――ひとには、春の海のようにゆたかな自信が、必要である。
 春の海のようにゆたかな自信とは、多少の失敗や刺激による投石があっても、たゆたう水面が、それらからの衝撃を呑み込むような、自信のことでしょう。
 そして、そのような自信は、耕作が長い年月をかけて続けた取材のような、地道で丹念な行いの積み重ねによって、湧いてくるのでしょう。まるで、潮が静かに満ちてゆくように。
 このように書いてみますと、私には、「耕作が、風呂敷いっぱいに集めた資料」が、「松本さんが、その半生において培ってきた知見」であるように、見えてきます。そして、それは、松本さんの、「春の海のようにゆたかな自信」の、源泉となり、それがまた、松本さんが、作家として、出発してゆく、基礎となったのでしょう。

(4)自分で自分を承認すること

 「春の海のようにゆたかな自信」に、関連して、「自分で自分を承認すること」についても、ここに、私の考えを、書いておきます。
 作中の、耕作は、自分の取材についての、他者からの評価に、一喜一憂していました。つまり、彼は、他者からの承認を、求めていました。
 他者からの承認を、求め過ぎること。そのことの根にも、自分と他者とを比較しての、優越感・劣等感の働きが、あるでしょう。
 ただ、「他者からの承認」を、求め過ぎると、ひとは、その本心を、見失うことになります。
 ひとにとっては、「他者からの承認を得ること」と同時に、「自分で自分を承認すること」もまた、大事なことであるでしょう。
 しかし、「自分による承認」に、安心し過ぎると、それはそれでまた、ひとは、独りよがりに、陥ります。
 「他者からの承認」と、「自分による承認」とについて、その均衡を、図ってゆくこと。そのこともまた、ひとが大人として生きてゆくために、大事なことなのでしょう。

(5)自分で自分を承認するために――自分なりの社会観(死生観も含めて)

 前の項において、私は、「自分で自分を承認すること」が大事である旨、述べました。
 そのように、自分で自分を承認するために、必要なこと。そのことについて、河合隼雄さんは、次のような言葉を、残しています(『大人になることのむずかしさ』岩波現代文庫)。
――大人になるということは、自分なりの社会観を持つことである。
 自分なりの社会観を持つことによって、はじめて、ひとは、自分のしていることが、社会にとって、また、社会のなかの自分にとって、どのように意義があるのか、見定めることができるようになるのでしょう。そして、そのような意義づけによって、ひとは、自分で自分を承認することができるようになるのでしょう。

 なお、いくら、自分で自分を承認したとしても、自分がしていることの意義について、突き詰めて考えるとき、ひとは、「なぜ、いつかは死ぬのに、生きるのか」という問いに、突き当たることになります。
 その問いについての、ひとつの答えとして、作家・堀田善衛さんが、旧約聖書・伝道の書の、次の言葉を、紹介しています。この言葉は、私の社会観を超えて、死生観になっている言葉でもありますので、ここに書き留めておきます(「創世記と伝道の書」「空の空なればこそ」『天上大風』ちくま学芸文庫)。

――私は、いままでの人生を通して、エルサレムの誰よりも、財産を積み上げ、しもべを抱え、知識と智恵とを身に付けてきた。
――いま思う、すべては空しいことであったと。
――あの世には、財産も、しもべも、知識も智恵も、持ってゆくことができない。
――しかし、空しくても、だからこそ人は、つかの間の人生のあいだ、力を尽くして生きるべきだ。
――あの世では、財産を積むことも、しもべを抱えることも、知識と知恵を身に付けることも、何もできなくなってしまうのだから…

(6)小括――琥珀色の抜け殻

 これまで述べてきましたように、この『或る「小倉日記」伝』は、松本さんにとって、自分のなかの子どもを見つめ、その物語について、書き上げることによって、大人になってゆくための、作品でもあったようです。
 そのように、捉えてみますと、私には、この作品が、蝉が羽化を終えて残した、琥珀のように透き通って輝く、美しい抜け殻のように、思えてきます。
 まるで、作家・小川洋子さんの作品である「ひよこトラック」(『海』新潮文庫)において、女の子が窓際に並べて、陽に透かしていた、美しい抜け殻のように、です。

 思えば、小川さんも、その初の長編である『シュガータイム』(中公文庫)において、自分の内面の、子どもっぽさを、見つめていました。
 小川さんといい、松本さんといい、ひとは、自分のなかの子どもを、切り捨てるのではなく、見つめることによって、大人になってゆくのかもしれません。

 余談。このことに関連して、小川さんの作品について、ここのところ、個人的に気になっていることを、ここに、書き留めておきます。
 『シュガータイム』のあと、小川さんは、『まぶた』や『ホテル・アイリス』を、書いています。これらの作品は、少女が、父親以上の年齢の男性と、逢瀬を重ねる物語であるようです。
 小川さんは、これらの作品のなかで、自分のなかの、子どもとしての気持ち、つまりは、「父親のような存在を求める気持ち」を、更に丹念に、見つめようとしたのかもしれません。

3 子ども心――純粋な情熱

(1)小川洋子さんによる批評

 上記の2において述べましたように、『或る「小倉日記」伝』は、松本さんにとって、子どもから大人へ生まれ変わるために書いた、作品でしたようです。
 そして、子どもから大人へ生まれ変わることは、自分のなかの子どもを、切り捨てるのではなく、見つめることによって、達成できるようです。
 このことに関連して、小川さんは、この作品について、次のように述べています(『みんなの図書室2』PHP文芸文庫)。
――耕作はお金や名誉といったはっきりした目的のために努力したのではありません。彼を突き動かしたのは、言葉にできない純粋な情熱のみでした。人生を真の意味で偉大なものとするのは、勲章でもお金でもなく、結局、この情熱なのかもしれません。
 小川さんの言う、耕作の「純粋な情熱」。その源泉は、彼の、子どもの頃の、思い出に、ありました。「鈴の音」。その「鈴の音」は、彼の情熱の、出発点となりました。そして、その「鈴の音」は、彼が、その人生の到達点である、死に臨むときにも、彼の脳裏に、よみがえりました。
 ひとは、自分のなかの「子どもの頃の思い出」そして「子ども心」を見つめて、子どもとしての人生の延長線上に、大人としての人生を歩んでゆくことで、はじめて、充実した人生を、送ることができるのかもしれません。
 ひとくちに、「子どもから大人になる」といっても、その時期においては、乗り越えるべきもの(優越感・劣等感)と、見つめるべきもの(子ども心)とが、混在しているようです。

 そして、松本さんが、『或る「小倉日記」伝』を通して、自分のなかの子どもである、耕作を見つめて、その先にあらためて見出した、自分の歩む道が、「文学をする」そして「作家になる」だったのでしょう。
 耕作の、鴎外に対する、ひたむきな情熱は、そのまま、松本さんの、文学に対する、ひたむきな情熱でも、あったのでしょう。

(2)社会による子ども・大人の区別――外形からの区別

――ひとは、自分のなかの「子どもの頃の思い出」そして「子ども心」を見つめて、子どもとしての人生の延長線上に、大人としての人生を歩んでゆくことで、はじめて、充実した人生を、送ることができる。
 そのような考えと、比べますと、いまこの社会では、「ひとりひとりが、自分のなかの子どもを、見つめること」という、内面からの区別ではなく、「一定の年齢に達すること」そして「学校を卒業すること」という、外形からの区別によって、子どもと大人とを、区別しています。
――内面においては、子どもとしての自分を見つめる時機が、まだ来ていないのに、外形によって、大人としての扱いを、受けることになった。
 そのようなことになって、困惑しているひとたちが、実際には、相当な人数、いるかもしれません。そして、そのようなひとたちにとっては、松本さんの『或る「小倉日記」伝』や、小川さんの『シュガータイム』は、よき、考えるヒントに、なるかもしれません。

4 家族との関係――母・父・妻・子

 この項目では、『或る「小倉日記」伝』における、耕作、そして著者である松本さんと、彼らの家族との、関係について、私が考えたことを、書いてゆきます。

(1)慈しむ母親・抱え込む母親

――ふじは、一切の縁談を、断った。耕作と、一生、共に生きてゆく、決心をした。ふじは、耕作に、妻のように仕え、彼が幼児であるかのように、世話をした。

 このように、ふじは、耕作を、慈しみ、抱え込むような、母親でした。
 ふじは、母親として、耕作のことを、どんなときにも、承認していました。
 そして、人力車が、2台、ふじと耕作との、まるで婚礼であるかのように、並んで走るようなことも、ありました。
 これらの場面から、私は、個人的に、耕作と、ふじとの、へその緒で、まだつながっているかのような、結びつきの強さを、感じました。
 そして、この作品の最後に、耕作と、ふじとは、死別します。
 この作品は、著者である松本さんにとっては、お母さんへの強い愛着を、手放すような意味のある、作品であったのかもしれません。

 連想。慈しむ母親、抱え込む母親という構図については、小川洋子さんの作品である『ことり』(朝日文庫)にも、類似した構図の、表現があります。
 『或る「小倉日記」伝』においての、てる子からのふじに対する「小母さん」という呼び方に関しても、『ことり』に登場する人物についての、「小父さん」という呼称に、通じるものがあります。
 そして、『ことり』の「小父さん」は、老年に達し、死が近付いてきた時期に、「ポーポー語」という、不思議な言葉を、話すようになります。この展開は、『或る「小倉日記」伝』において、耕作に、死が近付いてきた時期に、彼の耳に「鈴の音」が聞こえるようになった展開と、類似しています。
 ひょっとすると、小川さんは、『或る「小倉日記」伝』に、自分の書きたい物語の、その原形を、見出したのかもしれません。

(2)森鴎外――きちんとした父親(権威ある父親・養育する父親)

 『或る「小倉日記」伝』においては、耕作による取材を通して、森鴎外の、厳しい面、優しい面、その両方が、見えてきていました。
 明治時代の、家長の一人であった、森鴎外。
 その森鴎外の足跡について、耕作が、訪ねて歩く旅は、耕作が、その父親を、訪ねて歩く旅でも、あったのかもしれません。
 そして、耕作は、自分の追い求めていた、鴎外の「小倉日記」には、接することなく、この世を去りました。
 このことに関連して、著者である、松本さんのお父さんは、先にも述べましたように、きちんとした父親(権威ある父親・養育する父親)では、ありませんでしたようです。
 この作品について、書くことを通して、松本さんは、きちんとした父親を求める、自らの思いについて、整理をしたのかもしれません。

(3)てる子――妻への求婚

 この物語においては、ふじが、てる子に、耕作との結婚を、申し込んでいました。
 自分の結婚について、その申し込みを、親に頼る、子。この構図は、「家」制度を、反映しているでしょう。その「家」の子について、その嫁を、誰にするかは、親が決める。そのことは、また、戦前の「家」制度においては、身体的にも・精神的にも、大人である子であっても、自分の配偶者に関する選択について、親に委ねざるを得なかったことをも、示しています。そのようなことから、個人的に考えますと、戦前の「家」制度は、子を、社会的に、ずっと子どものままでおく、制度でもあったのかもしれません。
 この構図に比して、戦後の、日本国憲法・第24条は、次のように定めています。
――婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
 「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立する」。ということは、逆に言えば、婚姻について、男女の両親は、その意思の決定に、関与するべきではないことになります。そして、男女も、自分たちの親に、自分たちの結婚についての「申し込み」と「承諾」とを、頼るべきではないことになります。

 余談。このことに関連して、再び、「古事記」に関して、私にとって、ここのところ、気になっていることについて、ここに書き留めておきます。
 「古事記」には、イザナミ(男性)とイザナキ(女性)が婚姻するにあたって、二人よりも更に偉い神が、「イザナミ(男性)から求婚するように」と、促した旨の、記述があるそうです(福永武彦『古事記物語』岩波ジュニア新書)。
 必ず、男性から女性へ、求婚するようにすること。このことは、男性が保護者(支配者)であり、女性が被保護者(被支配者)である構図を、固定することにも、つながります。
 私は、これまでの人生のなかで、様々なひとたちから、「男性から女性へ求婚するべき」との発言を、度々、聞いてきました。その発言の根は、ひょっとすると、「古事記」にまで、つながっているのかもしれません。
 ただ、現代の、日本国憲法には、「必ず、男性から女性へ、求婚すること」との文言は、もちろん、ありません。
――婚姻は、両性の合意のみに基いて成立する。
 そのような社会のなかで、女性が、自分の意思で、自分の人生を、選び取ることを、望むのであれば、女性から男性へ求婚することも、もちろん、あっていいでしょう。

 閑話休題。この『或る「小倉日記」伝』において、耕作が、てる子との結婚を、断念したこと。そのことは、著者である松本さんにとっては、「青年期を過ぎて、若い娘への執着を、手放したこと」を、意味しているのかもしれません。

(4)我が子――人の親になること

 松本さんに関する年表によると、松本さんは、29歳で、父親になったようです。
 この『或る「小倉日記」伝』を、松本さんが書いたとき、松本さんは、43歳。松本さんの、お子さんが生まれてから、10年以上が、経っています。
 このことも、松本さんが、「子どもから大人になるための作品」を書いた、その動機の、ひとつであったかもしれません。いつまでも、「子どもが子どもを育てている」わけにも、いかないでしょう。

 このことに関連して、ここに、私の、個人的な体験を、書き留めておきます。
 私が、成年後見人として、はじめて、亡くなってゆくひとを見送った、その後。私の内面においては、「自分が育つことは、もういいから、ひとを育てたい」という、心境の変化が、訪れました。
 そして、実際に、人様に働きに来て頂き、そのひとたちを育てようとしたところ、そのひとたちは自分たちで立派に育ち、かえって、私自身が、またあらためて、育ちの機会を得ることになりました。
 家族心理学者・柏木惠子さんが書いているように、「ひとを育てることは、自分を育てること」でもあったようです(『おとなが育つ条件』岩波新書)。

5 まとめ――自分の基礎に弱さを置く

 この『或る「小倉日記」伝』は、松本さんにとって、その作家としての活動の、基礎となる、初期の作品でした。その初期の作品において、松本さんは、その主題として、「人間の弱さ」を、取り上げていました。
 このことに、私は、共感して、ここまで、長々と、テキスト批評を、書いてきました。
――自分の基礎に、弱さを置くこと。
 このことは、私が、ここのところ、問題として考えていることについての、ひとつの答えでもありました。

 私の仕事である成年後見は、老いてゆくひとの、「弱さ」に、向き合う仕事です。
 その仕事を通して、私は、この社会が、「強い個人」を前提として、できあがっていることに、気が付きました。
 「強い個人」は、「元気な男性」と、言いかえることもできます。そして、いまこの社会では、更に限定して、「元気な中高年の男性」と、言いかえることもできます。
 「元気な中高年の男性」の、一部が、自分たちが高齢者になることについて、目を瞑ったまま、走り続けてきたことが、いまの、少子化・高齢化の問題に、つながっているようです。
 そして、彼らに比べて、「弱い人間」である、高齢者、女性、子ども、若者が、その少子化・高齢化の影響を、受けているようです。
 そこで、私は、成年後見によって、社会の高齢化に対応すると同時に、「子育てのできる職場」を目指すことで、社会の少子化にも、対応しようとしてきました。
 「子育てのできる職場」は、「女性が働き続けることができる職場」でも、あります。
 「女性が働き続けることができる職場」。そのような職場を目指すことを通して、私には、職場において、女性の(男性に比べての)身体面での「弱さ」に、配慮することが必要であることが、あらためて、分かってきました。そして、私には、「そのような、女性の身体面での『弱さ』につけこんで、社会が、女性が社会面でも弱く育つように仕向けているのではないか」という、問題意識もが、芽生えてきました。
 更に、「子育てのできる職場」に関して、その実現について考えるとき、私には、人間のなかでも、最も弱い存在である、「赤ちゃん」の「弱さ」に、向き合うことが、必要であることも、分かってきました。
 また、「子育てする女性」は、「若者である女性」でも、あります。そうなりますと、私にとっては、一緒に働く仲間としての「若者」(子どもと大人の中間にあるひと)について、彼ら彼女らを、社会が「弱い人間」という状態にしている、その状況を理解して、彼ら彼女らの思いを汲んでゆくことも、大事になってきます。
 このように、私がしようとしていることども、それらの基礎には、「弱さ」があります。
 人間の「弱さ」について、探求してゆくこと。それが、私の、これからの仕事と学習に関しての、ひとつの方向です。

 なお、人様から、お仕事の依頼を頂いて、仕事をさせて頂くときには、ある程度、「強い個人」であることは、必要です。「強い個人」と「強い個人」とが、契約を締結して、取引をすること。そのことが、いまこの社会では、経済が動いてゆく、その前提となっているからです。
 また、通常の取引から、更に進んで、「ひとが、その弱さのために、ある葛藤について、解消できないままでいて、その葛藤に、他の葛藤が絡みついて、それらを解きほぐすために、かえって、余程の強さが必要になること」も、あります。
 このように考えてみますと、私にとっては、これから、「弱い人間」と、「強い個人」との間を、振り子のように往復しながら、それらの両方について、経験して・学んでゆくことが、必要になるでしょう。

 「弱い人間」と、「強い個人」との間を、振り子のように往復しながら、それらの両方について、経験して・学んでゆくこと。
 そのことについて、あらためて、私が、自分の考えをまとめるきっかけに、この『或る「小倉日記」伝』は、なりました。
 私にとって、意義の深い一冊でした。

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