【映画】企画・脚本・庵野秀明 監督・樋口真嗣『シン・ウルトラマン』

企画・脚本・庵野秀明 監督・樋口真嗣『シン・ウルトラマン』
https://shin-ultraman.jp/

 短評。

――そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン。

 前作である『シン・ゴジラ』が、原子爆弾を作って落とす、人間への嫌悪のかたまりだったとすれば、『シン・ウルトラマン』は、人間への好意のかたまりのような映画でした。

1 美しいウルトラマン

 登場人物のひとりが、ウルトラマンが立ち現れたとき、次のように、つぶやきます。

――きれい。

 美しい、ウルトラマン。
 それが、この映画を企画した、庵野秀明さんの、撮りたかった、ウルトラマンでしたようです。

――美しいウルトラマンが、撮りたかった。

 この想像から、私は、映画監督・宮崎駿さんの『風立ちぬ』を、連想しました。
 その主人公である、堀越二郎は、次のように、述べています。

――美しい飛行機が、作りたかった。

2 文化の爛熟

(1)美しいもの

 庵野さんの『シン・ウルトラマン』の原点が、宮崎さんの『風立ちぬ』であったとして、その宮崎さんの『風立ちぬ』の原点は、作家・堀田善衛さんの、次の言葉にあったようです(『時代と人間』徳間書店)。

――文化が爛熟して、崩壊するとき、極めて美しいものが現れる。

 その例として、堀田さんは、平安末期に成立した『新古今和歌集』を、挙げています。平安末期は、公家政権が崩壊し、その後に武家政権がいったん成立し、その武家政権もが崩壊しようとしていた時代でした。

 宮崎さんも、庵野さんも、いまこの時代を「崩壊の時代」と見て取って、自分なりの「美しいもの」を、それぞれの作品によって、表現しようとしたのでしょう。

 付記。庵野さんは、宮崎さんの作品である『風の谷のナウシカ』において、巨神兵の登場する場面を、描いたひとでした。その巨神兵のイメージは、後に、庵野さんの作品である『エヴァンゲリオン』に、つながってゆきました。
 なお、『シン・ウルトラマン』において、炎のなかにウルトラマンの姿が浮かぶ有様は、『ナウシカ』において、炎のなかに巨神兵の姿が浮かぶ有様に、相似しています。
 ちなみに、『ナウシカ』に登場する「王蟲」は、堀田さんが脚本に参加した映画である『モスラ』の幼虫が、そのイメージのもとになっているようです。
 堀田さんから、宮崎さんへの。そして、宮崎さんから、庵野さんへの。イメージの継承を、私は、見て取ります。

(2)本歌取り

 『新古今和歌集』は、『古今和歌集』など、過去の和歌から、言葉を抽出して、また和歌を作る、「本歌取り」の手法によって、制作してある和歌集でした。

 この「本歌取り」の手法は、過去の映画から、イメージを抽出して、また映画を作る、『シン・ゴジラ』『シン・ウルトラマン』にも、見て取ることができます。更に、次回作として、『シン・仮面ライダー』も、公開予定であるそうです。

 人間への、巨大な嫌悪。そして、人間への、巨大な好意。その後に、等身大の主人公が、立ち現れてくる。『シン・仮面ライダー』は、人間への嫌悪も好意も取り込んで、どのような物語になるのでしょう。

 そして、『シン・仮面ライダー』の、更に後に、庵野さんの制作する作品にも、私は注目します。
 このことに関連して、かつて、宮崎駿さんは、『もののけ姫』を制作する前に、スタジオジブリのアニメーター・近藤喜文さんの協力を得て、近藤さんを監督として、『耳をすませば』を制作しました。
 この経緯について、宮崎さんは、次の趣旨のことを、語っています(『風の帰る場所』文春ジブリ文庫)。

――『耳をすませば』の制作は、私にとって、大事なステップだった。
――ただ、私が『耳をすませば』を監督すると、『もののけ姫』に、力を尽くすことが、できなくなる。
――だから、近藤さんに、『耳をすませば』を、撮ってもらった。

 『シン・ウルトラマン』も、監督は、庵野さん自身ではなく、樋口真嗣さんです。
 庵野さんは、樋口さんの協力を得て、『シン・ウルトラマン』を撮りつつ、他の、自分が本当に表現するべきものについての、準備を進めているのかもしれません。

 付記。そういえば、『シン・ウルトラマン』の「人間が好き」という言葉は、『もののけ姫』の「人間なんか大嫌いだ」という言葉に、呼応しているのかもしれません。

(3)コピー&ペースト? 文化の爛熟?

 過去の作品から、また新しい作品を、制作する。この行為が、単なる「コピー&ペースト」に終わるのか。それとも、「文化の爛熟」(文化に豊かさを加えること)につながってゆくのか。その違いは、どこにあるのでしょう。
 その違いは、「自分の体験から、本当に言えることが、加わっているか」に、あるのかもしれません。
 紙のプリントは、そのままコピーすればコピーするほど、画質が粗くなってゆきます。イメージが薄くなってゆきます。
 過去の作品、いわば「古典」に、いまを生きるひとが、自分の体験をも読み込んでこそ、「古典」もまた、新しい意味をも含み込んで、現代にも通用する作品として、蘇えるのでしょう。

3 人間への好意――庵野さんの体験

 それでは、『シン・ウルトラマン』における、庵野さんが「ウルトラマン」にその息を吹き込んだ、自分の体験とは、どのような体験であったのでしょう。
 そのことについて考える手がかりとして、この作品には、次のような場面が出てきました。

――登場人物のひとりが、力を落として、その場から、離れる。
――それでも、もうひとりが残って、その場を、保ち続ける。
――そのうちに、離れていたひとりが、また力を取り戻して、帰って来る。

 この二人の関係は、庵野さんと、その妻である、安野モヨコさんの関係でも、あったでしょう。
 庵野さんも、安野さんも、それぞれ、「うつ」になった時期があり、その時期には、働くことのできる方が働いて、支え合っていたそうです。
 特定の誰かが、自分を犠牲にし続けるのではなく、お互いが、支え合う関係。
 そのような、ひととひととが支え合う関係を、庵野さんも体験して、庵野さんは、人間への好意を、抱くことができるようになっていったのかもしれません。
 思えば、上に述べた場面のみならず、劇中にて、ウルトラマンも、人間も、支え合っていました。
 このような、支え合いの関係は、家庭に限らず、職場にも、その他の場所にも、見ることができるでしょう。
 そのような関係を、人間は、形成することができる。それが人間のいいところでしょう。私も共感します。

4 まとめ

――そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン。

 この言葉に、私は、ひとりの観客として、次のように、付け加えます。

――私も人間が好きだ、ウルトラマン。

 思えば、私の個人的な体験としては、ひとと支え合う関係を、私の力が及ばず、結ぶことができなかったことも、ありました。相手に、その力が、なかったことも、ありました。
 そして、成年後見業務においては、「ひとと支え合う関係を結ぶ」のではなく、「そもそものこの世との関係を解いてゆく」ひとたちに、私も付き添ってきました。
 それでも、いまの私があるのは、ひとと支え合う関係が、あったからです。私は、自分が生きている限りは、ひとと支え合う関係を結ぶために、手を差し伸べ続けてゆこうと考えています。

 コロナ下の2年間、その間に、ひとと会うことが、億劫になってきていたひとに、おすすめです。
 まさにいま、公開するべき、時宜に適った、映画でした。

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