【映画】新海誠『すずめの戸締まり』

新海誠『すずめの戸締まり』
https://suzume-tojimari-movie.jp/

 短評。

 扉の向こうには、すべての時間があった――

1 自然へ還る廃墟

 かけまくもかしこき日不見の神よ
 遠つ御祖の産土よ
 久しく拝領つかまつったこの山河
 かしこみかしこみ
 謹んで
 お返し申す――

 ヒロイン・鈴芽と、主人公・草太。二人は、人口の減少、経済の縮小により、廃墟となった、地方の集落や遊園地を、自然へと、還してゆく。
 そこで暮らしていた、ひとびとの、思い出とともに。

 本当ならば、「コンクリートを、ひっぺがす」くらいのことまで、やってから、還した方が、いいのでしょう。
 ただ、コンクリートを突き破って生えてくる新芽があるように、ひとが作ったものも、ひとが想像もできないような、長い時間をかけて、いつかは、自然へと、還ってゆくのかもしれません。

2 異界願望

 異界へ通じる、扉。後ろ戸にして、開けたままにしておくと、生命を呑み込む、赤い濁流が、迸ってくる。
 扉の向こうは、死者たちの世界。空には、朝・夕・夜が並び、満天に、星がまたたいている。美しい。
 しかし、扉は、開け放しておくことは、できない。

 ひとは、誰しも、自分の意思によらず、この世界に、生まれてくるものです。詩人・吉野弘さんの「I was born」。
 ひとが、生まれてくること自体には、そのひとにとっての、意味や目的は、ありません。意味や目的を、どのように見出すかは、そのひと次第です。見出さないまま、生きて、死んでゆくひとも、いるでしょう。そのような人生も、また、ひとつの人生です。
 ただ、この世界は、意味や目的を見出すか否かにかかわらず、「生きようとしなければ、生きてゆくことができない世界」です。
 そのような世界で、生きてゆく決心がつかなくて、異界へ憧れるひとも、いるでしょう。異界を想像する力も、生きてゆくためには、大事です。ただ、異界へ憧れているばかりでは、この世界で、生きてゆくことは、できません。
 この物語は、鈴芽と草太とが、この世界で生きてゆくことを、引き受けてゆく、物語でした。鈴芽や草太のような年齢のひとたちに、おすすめしたい、物語です。

 そしてまた、年を重ねた先に、誰もが、異界へと還ってゆきます。そのために、扉を開くとき、生命を呑み込もうと、迸ってくる流れは、赤い濁流ではなく、星空の映るような、澄んだ流れなのかもしれません。

3 母との別れ 夫との出会い

 草太は、鈴芽にとって大切な、母との思い出の品を、彼女と共有します。

――自分にとって、大切な思いを、相手にも分かち合ってもらいたい。

 このような願望は、初恋のとき、お互いに抱くことのある、願望なのかもしれません。
 このことに関連して、私は、作家・芥川龍之介が、婚約者と、その人格を合一しようとしていたことを、思い出しました(テキスト批評『芥川龍之介の世界』)。
 大切な思いの、分かち合い。人格の、合一。このようなことは、仮に、近いような状態まで実現できるとしても、「親子のように、長い年月をかければ、あるいは実現できるかもしれない」くらいのことでしょう。
 更に関連して、臨床心理学者・河合隼雄さんは、次のように、書いています(『こころの処方箋』新潮文庫)。

――家族関係の仕事は大事業である。

 ひとが、初恋の相手に、「大切な思いの分かち合い」や「人格の合一」を求めること。そのことは、純朴な青少年である、親離れしようとしている年齢のひとたちにとっては、人の性として、やむを得ないことなのかもしれません。彼ら彼女らは、親から離れる代わりに、自分がひっつく、相手が欲しくなるのでしょう。とはいえ、出会ってから、まだそうは、年月の経っていない相手に、そのような大事業を求めることは、無理がやはりあるでしょう。
 そして、あえて、そのような関係について、描いている、この映画は、「恋に恋するような映画」でした。なお、同じく新海誠さんによる映画である、『君の名は。』も、同じように「恋に恋する」映画でした。
 ただ、ひとには、人生において、恋に恋するような時期があっても、いいのでしょう。それもまた、そのひとの人生において、かけがえのない時期なのでしょう。
 きっと、新海誠さんにも、そのような時期があったからこそ、このような物語を紡ぐことができたのでしょう。自分にもあった、そのような時期のことを、大切に、憶えている、新海さん。素敵な、映画監督さんです。

 余談。映画監督・宮崎駿さんによる『崖の上のポニョ』も、「母と別れ、妻と出会う」映画でした。
 また、『すずめの戸締まり』に出てくる「遊園地の廃墟」は、宮崎さんの『千と千尋の神隠し』に出てくる、「テーマパークの廃墟」にも、似ています。
 そして、『すずめの戸締まり』には、『魔女の宅急便』のオープニング・ソングも、そのまま出てきます。
 新海さんは、先人の紡いだ物語も承け継ぎつつ、自分なりの物語をも紡いでゆく、語り手さんであるようです。

4 子どもだった頃の自分を抱きしめる

 鈴芽は、子どもだった頃の自分を、抱きしめます。
 このことに関連する、作家・吉本ばななさんの言葉(『おとなになるってどんなこと?』ちくまプリマー新書)。

――大人になるということは、子どもの自分をちゃんと抱えながら、大人を生きるということです。

 人生は、通学・通勤に伴って、6年・3年・3年・4年、そしてその後は、数年ごとに、分断してゆくべきものでは、ないのでしょう。
 『すずめの戸締まり』は、吉本さんの『おとなになるってどんなこと?』とともに、若いひとたちにおすすめしたい、作品でした。

5 開けっ放しの後ろ戸

 生命を呑み込む、赤い濁流。
 その濁流を、鈴芽と草太と、二人の力で、抑え込むことができる。
 この映画が、そのような物語であること。そのことは、若いひとたちに、希望を持ってもらうためには、いいことでしょう。

 ただ、日本政府の累積債務をはじめとする、現実に迸っている、赤い濁流は、押しとどめることが、なかなかできそうにありません。
 このことに関連して、作家・司馬遼太郎さんが、その講演のなかで、次の趣旨のことを、語っています(「訴えるべき相手がないまま」『司馬遼太郎全講演2』朝日文庫)。

――この社会について、このまま、子どもたちに渡してゆくことは、ニトログリセリンの入った壜を、渡すようなものです。

 私としては、そのような、ニトログリセリンの、また、赤い濁流の、その直撃を受ける世代が、私たちの世代であって、私たちの子どもたちの世代ではない様子であることが、まだよかったと、個人的には、思っています。いや、楽観的すぎるかもしれません。
 赤い濁流のなかで、何とか生き抜いて、少しはマシになった社会を、次の世代に、渡してゆきたいものです。

6 短評の戸締まり

 私にとっては、この映画は、若いひとたち・子どもたちに、送るにふさわしいと、思うことのできる、素敵な映画でした。

 最後に、この映画を観ることによって、個人的に思い出した、詩人でしたラングストン・ヒューズの詩を引いて、この短評を、戸締まりします🚪(茨木のり子『詩のこころを読む』岩波ジュニア新書)

 みんな、云っとくがな、
 生れるってな、つらいし
 死ぬってな、みすぼらしいよ――
 んだから、摑まえろよ
 ちっとばかし 愛するってのを
 その間にな。

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