【考えの足あと】みずがめ座のイメージ ~永遠の少年/水瓶から迸る洪水~

 こどもの日に。

 先日紹介した『宙の名前』(角川書店)には、次の趣旨の記載がありました。

――「みずがめ座」は、「水瓶を抱える少年」のイメージを、表している。

 その「みずがめ座」のイメージについて、もう少し詳しく、分かったことがありますので、ここに書き留めておきます。

1 ガニュメデス――永遠の少年

 児童文学翻訳家・百々佑利子さんの『星ぼしでめぐるギリシア神話』(岩波少年文庫)によると、「みずがめ座」に関しては、次のような神話が附随しているそうです。

――ガニュメデスという美少年がいた。
――ギリシア神話における最高神・ゼウスは、巨大な黒いワシと化し、彼を、連れ去った。
――彼の身を案じる、父母のもとに、ゼウスからの使いが、やってきた。
――「ガニュメデスは、オリュムポス山にある神がみの大宮殿において、水がめをもつ役目をあたえられました。いまでは天の酒ネクタルを、大神ゼウスの黄金のさかずきにそそいでいます。しかもあの子は、神の宮にあって年をとることがありません」

 「みずがめ座」に附随する「少年」のイメージは、「年をとらない少年」つまりは「永遠の少年」であるようです。
 「永遠の少年」については、臨床心理学者・河合隼雄さんが、現代日本社会においても、その姿を見て取ることができる旨、指摘しています(『働きざかりの心理学』新潮文庫)。たとえば、「子どものような活発さで、活動を拡大するけれども、現状を改革するには、遂には至らない青年」。

 ゼウスとガニュメデスとの関係からは、次のような教訓を、読み取ることができるのかもしれません。

――父が、子を、その権力によって、抑圧している限り、その子は、成人しない。

2 永遠の少年――ピーターパン

 私は、いままで、「永遠の少年」の原型は、『ピーターパン』にあるものだと、思っていました。その原型は、更に古く、「ガニュメデス」にあったのですね。

 また、「ガニュメデス」や「ピーターパン」のような「永遠の少年」のイメージは、河合隼雄さんの説くように、現代日本文化においても、確かに見て取ることができます。

 たとえば、鳥山明さんによる『ドラゴンボール』(集英社)。主人公である孫悟空は、ピーターパンのように、空を飛び回ります。しかも、悟空は、年をとりません。彼に、孫ができても、彼は、青年のような姿のままでいます。そのような、彼の姿を見て、最終話において、「ずるい」と、他の登場人物が、怒っています。

 そして、青山剛昌さんによる『名探偵コナン』(小学館)。主人公である工藤新一は、高校生ながらに、探偵という仕事を持ち、可愛いガールフレンドもいて、これから意気揚々と大人になってゆくものかと思いきや、第1話で、幼児に退行します。彼がそのような姿になったまま、『名探偵コナン』の連載は、30年ちかくにわたり、いまも続いています。

 孫悟空や、コナンの姿からは、「永遠の少年」のイメージを、見て取ることができるでしょう。
 ひとは、誰しも、子どもから大人になるときに、「大人になりたくない」と、思うことがあるのかもしれません。そして、そのような思いが、孫悟空やコナンの姿に、結実しているのかもしれません。
 ただ、彼らの特徴は、「いつまでたっても、大人にならないこと」です。
 たとえば、作家・大江健三郎さんの『個人的な体験』(新潮文庫)においても、主人公である「鳥」が、いったん、幼児に退行していました。しかし、彼は、その後、自分にできた子どものことを引き受けて、大人になってゆきます。
 このような「鳥」の姿と、孫悟空や、コナンの姿とは、対照的です。

 いつまでたっても、大人にならない、孫悟空や、コナンの姿。
 彼らの姿から、私は、霊長類学者・河合雅雄さんによる、次の趣旨の指摘も、思い出します(『子どもと自然』岩波新書)。

――現代社会においては、思春期が、長期化している。

 孫悟空や、コナンの姿は、そのような「思春期の長期化」も、表しているのかもしれません。
 そして、『ドラゴンボール』は、全42巻で、完結しました。1984年から、1995年。
 これに対し、『名探偵コナン』は、既に100巻を超えています。1994年から、現在へ至るまで。
 「長期化した思春期」は、更に長くなってきているのかもしれません。

 なお、『ドラゴンボール』の連載終了と、入れ替わるように、『名探偵コナン』が連載開始していることも、私にとっては、興味深いです。
 『名探偵コナン』の作者である青山剛昌さんは、インタビューにおいて、次のように語っています(「『名探偵コナン』という終わりなき謎」CUT・2019年5月号)。

――それまでの少年漫画の、逆を行く設定で、『名探偵コナン』は、作り始めたんです。
――逆を行く設定ですから、人気が出ずに、すぐに連載が終わるものだと、自分では予想していました。
――連載が、こんなに続くことになるとは、自分自身、思ってもみませんでした。

 「逆を行く設定」。そういえば、孫悟空と、コナンとは、その設定が、対照的です。
 孫悟空は、身体を中心に、活動します。コナンは、頭脳を中心に、活動します。
 孫悟空は、空を自由に飛びまわります。コナンは、閉じた空間で、じっと推理しています。
 両者の、マンガの主人公としての、設定の変遷は、そのまま、子どもたちの生活についての変遷をも、表しているのかもしれません。
 たとえば、私は、『名探偵コナン』の、アニメの放映が、テレビで始まった頃に、小学校5年生でした。その頃の私は、外で遊ぶどころではなく、夕方に始まる『コナン』のアニメを観ながら、カップ麺をすすり、それから学習塾に通っていました。学習塾では、狭い教室のなかで、問題に対する解答を、日夜、考え続けていました。
 思えば、学習塾における、私たちの姿は、『コナン』の姿に、類似していました。
 付言。『コナン』に見て取ることのできる、「ごく狭い人間関係のなかでの犯人さがし」は、「いじめ」にも、通じているのかもしれません。
 余談。私は、学習塾へ通うための腹ごしらえとして、カップ麺を食べ続けているうちに、「緑のたぬき」が、好物になりました。笑。

3 水瓶から迸る洪水

 『星ぼしでめぐるギリシア神話』においては、「みずがめ座」について、次のような物語も、紹介してありました。

――地上に不徳が満ちたとき、ゼウスは、ガニュメデスに命じて、その水瓶から、洪水を起こさせた。
――洪水は、地上の、すべてのものを、洗い流した。
――後には、一組の男女のみが、残った。

 この物語は、旧約聖書における、「ノアの方舟」や、「アダムとイヴ」にも通じる、物語です。そのことが、私には、まず、興味深いです。

 次に、私にとって、興味深いこと。
 この物語が示していることは、次のようなことかもしれません。

――子どもたちには、既成の秩序について、押し流してゆくような力が、備わっている。

 たとえば、この「洪水」の物語から、私は、映画監督・宮崎駿さんによる『崖の上のポニョ』において、ポニョが「津波」を起こして、世界を作り変えたことを、思い起こします。
 宮崎さんも、子どもたちの備えている力を、「洪水」のような「津波」として、表現しようとしたのかもしれません。

 ただ、現実には、洪水・津波というものは、東日本大震災による大津波のように、甚大な被害をもたらすような、大きな力を備えています。
 子どもたちの備えている、「大きな力」も、その行使について、まかり間違えれば、大きな被害をもたらすことになるのかもしれません。このように書いている、私の脳裏には、昭和・前期の、青年将校たちによる、クーデター未遂事件が、思い浮かんでいます。

――子どもたちについて、「永遠の少年」にはせずに、その大きな力を、どのように制御して、どのように活かしていくか。

 そのことが、子どもたちと接するにあたって、大切な問題の、ひとつになるのかもしれません。
 そして、そのことについて考えるとき、私は、法理学者・田中成明さんによる、ある言葉を、思い出します(『法学入門』〔第3版〕有斐閣)。
 田中さんは、「パターナリズム」つまりは「父権保護主義」について、次のように述べています。

――パターナリズムの正当化を考える場合、最も大切なことは、個人は、賢明でない誤った判断であっても、そのような判断行為自体から学びつつ、試行錯誤的に判断能力を高め、各人各様の統合的人格を徐々に形成し、その自律的な個性を完成してゆくものであると、個人の人格概念を発展的動態的にとらえることである。そして、具体的なパターナリズム的介入が、個々人の善き幸福な生き方を自主的に選択し追求する自己決定権と両立するためには、このような統合的人格の形成・維持・発達という観点からみても是認できるようなものでなければならない。

 それならば、パターナリズムが、最小限、正当化できる場面があるとすれば、その場面は「暴力の制御」となるのではないでしょうか。
 法が形成する、社会システムの、その最も基本となる機能は、「暴力の制御」です。ですので、「子どもの暴力を制御するとき」に、最小限、パターナリズムが正当化できるのかもしれません。
 そのような場面について、生活に即したかたちで述べるとすれば、「ひとを、殴ったり、怪我をさせたり、しないようにさせる」ということになります。

 そして、家族心理学者・柏木惠子さんによると、子どもたちは、大人たちが「口で言っていること」よりも、「行いで示していること」から、物事を学び取るそうです(『子どもが育つ条件』岩波新書)。
 そうであるならば、まずもって、大人は、子どもに対し、次のような態度をとるべきなのでしょう。

――私は、君に対して、暴力を振るいません。
――だから、君も、他の人に対して、暴力を振るわないで下さい。

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