池袋の司法書士・行政書士中島正敬┃中島司法書士事務所

【私の方丈記】インテリアとしての写真 ~壁に空を開く~

 「私の方丈記」について、その後、進展がありましたので、ここに書き留めておきます。

1 白い壁――白いキャンバス

 私の部屋に、もともとあった、ハンガーラックや洋服棚を移動し、その空間に、ベッドを設置したことによって、そのベッドにそって、幅が2メートル、高さが天井までの、白い壁ができました。
 白い壁が、日光や照明を照り返し、部屋が、以前よりも、明るくなりました。
 その白い壁を、見ているうちに、私には、その壁が、白いキャンバスに思えてきました。

――この壁に、絵画や写真を飾ったら、どうなるだろう?

 そう思い付いて、実際に、飾ってみることにしました。わくわく。

2 選定――小樽・赤岩海岸

 飾るにあたって、せっかくならと、私が、いままで、旅先にて、スマートフォンで撮ってきた写真から、思い出を振り返りつつ、選定をしてみました。
 その結果、私にとっては、北海道へ旅をした際に、小樽港から出ている観光船である「あおばと」に乗って見た、赤岩海岸の景色が、心に最も深く残っていることが、分かりました。陽の光に、白く輝く、かもめたち。本当に、きれいでした。

3 写真の用意

(1)ニトリ――白いフレーム

 写真のための、白いフレームは、ニトリで買いました。A3サイズの掲示・A4サイズの掲示が、兼用できるもの。
 ニトリで、以前、家具の更新にあたって、品物を見ていたとき。そのときに、絵画や写真のための、フレーム等のコーナーがあったことを、私は、意識の片隅で、覚えていたのです。

 ちなみに、私は、「白い壁」に合わせて、「白いフレーム」を、選びました。
 色彩の統一。このことについては、マンガ家・安野モヨコさんが、「ふしん道楽」という連載で、書いていたことが、私にとって、参考になりました。

――家具の色彩について、統一すると、部屋が整って見える。

 このことを参考に、私の部屋は、もともと、「フローリングに、白い壁」でしたので、家具の色彩も、「木」か「白」で、統一してあります。

(2)キンコーズ――写真の印刷

 写真の印刷は、キンコーズに、頼みました。キンコーズには、写真の品質で印刷ができる紙があり、そのための印刷機もあります。

 写真の印刷にあたって、問題になったのが、そのサイズでした。
 私の、スマホのカメラで撮影した画像は、A4サイズまでなら、写真の品質での印刷に、対応できました。それ以上のサイズで、印刷するとなれば、スマホのカメラでは、解像度が足りず、デジタルカメラを購入するべきことになるようです。
 結果として、A4サイズで印刷して、飾ってみると、ワンルーム・マンションの部屋には、そのサイズが、ちょうどよい大きさでした。

4 白い壁に青い空――壁に空を開く

 「陽の光に、白く輝く、かもめたち」。その写真を、白い壁に飾ってみると、その白いフレームを通して、その奥に、空と海とが、広がったようになりました。このように、写真を飾るだけで、ひとの感じる空間に、こんなにも奥行きと広がりができるものなのですね。思っていた以上の効果に、自分のしたことながら、嬉しい驚きを、感じました。
 味をしめた、私。他にも、2か所、私の部屋には、写真を飾ることのできる、小さな白い壁が空いていたので、それらにも、写真を飾ってみることにしました。
 玄関と部屋とをつなぐ、戸の脇に、小樽港の写真を。
 ベランダと部屋とをつなぐ、ガラス戸の上に、観光船「あおばと」から撮った、水平線の写真を。
 そのように、3枚の写真を飾ってみると、私には、私の部屋が、小樽の海に浮かんでいる、船のように、思えてきました。「たゆたえど沈まず」。えへへ(≧▽≦) ← 何だか嬉しい
 何の変哲もない、ワンルームだった、私の部屋が、「旅先の写真」と、「ホーム・ライブラリー」によって、まさに「私の部屋」になったような気がします。
 「旅先の写真」を、自分の部屋に、飾ってみること。やってみて、よかったです。
 そして、また、私が旅をして、その先々で撮った写真で、部屋に飾る写真を更新してゆくことも、面白いかもしれません。

5 カメラと人間の関係――鮮明に捉える・意味を与える

 「陽の光に、白く輝く、かもめたち」。その写真を、見つめていると、私は、その写真を撮ったときの状況をも、思い出します。
 かもめたちは、正面から、陽射しを浴びながら、船に並行して、飛んでいました。その船に乗っている私も、かもめたちとともに、太陽へ向かって、波の上を走っていっているような、気持ちになっていました。
 波しぶき、風。それらから感じる涼しさとともに、その「心が洗われるような気持ち」を、私は、この写真を通して、何度も思い出します。
 関連して、私は、成年後見業務を通し、ひとびとを見送ってきた、その「個人的な体験」から、次のように考えるようになりました。

――自分が死ぬときには、「この世界は、ひどいことも目にしてきたけれども、やっぱり、きれいだったなあ」と思い出しながら、死んでゆきたい。
――世界について、美しいと感じたことのあるひとは、たとえ、ひどい状況に陥ることがあったとしても、きっと、最後の最後には、世界を肯定することができるはず。

 そのような、私の考えに応えてくれるのが、この光景であり、この写真でした。このような光景を、これからも、私は目にし、そして、写真で捉えてゆきたいです。

 このように、カメラは、ひとの視覚が一瞬で捉えて逃すはずの光景を、ひとの肉眼以上の奥行きと広がりをもって、鮮明に捉えることのできる道具であるようです。
 そして、そのカメラが撮った写真に、ひとは、自分なりの意味を与えることになるようです。
 カメラが鮮明に捉え、ひとが意味を与える。カメラと、ひととの間には、このような関係があるのかもしれません。

6 見ることと見つめること――液晶画面と写真との比較

 スマホのカメラで撮った写真を、A4サイズで、写真の品質で、印刷すること。
 そのことを通して、私にとって、新しく気が付いたこともありました。そのことについても、ここに書き留めておきます。

 先に述べたように、私は、次の3枚の写真を、印刷しました。

写真A 小樽港
写真B 赤岩海岸
写真C 水平線

 印刷した写真を眺めているうちに、私は、次の2点に、気が付きました。
 その1。写真Aについて、その右上に、ゴマよりももっと小さい、黒い点が浮かんでいました。どうやら、海鳥か何かが飛んでいたようです。
 その2。写真Cについて、写真AとBよりも、画面が明らかに暗かったのです。なぜなのか、考えているうちに、私は、写真Cを、観光船の内側から、ガラス窓を通して、撮ったことを、思い出しました。その窓ガラスは、直射日光について、和らげるため、遮光性のあるガラスだったでしょう。レンズが浴びる、光の具合で、画面の明暗が、写真にすると、こんなにも違ってくるものなのですね。
 これらの点について、私は、スマホやパソコンの液晶画面を通して、画像のデータを眺めていたときには、気が付きませんでした。
 液晶画面と、写真とでは、「見ること」に関して、対象が同じであっても、「見つめること」について、違いが生じるようです。その違いには、おそらく、次のような原因があるでしょう。

原因1(サイズ) 液晶画面では、画像のサイズが小さくなりがち。特に、スマホの場合に、そうなる。また、たとえば、フェイスブックに画像をアップロードするとき、その画像が大きかった場合には、自動的に縮小を受ける。
原因2(解像度) 液晶画面では、画像の解像度も、低くなりがち。たとえば、フェイスブックに画像をアップロードするとき、その解像度が高かった場合には、自動的に解像度が落ちる。
原因3(ブルーライトカット機能) 液晶画面では、ディスプレイに「ブルーライトをカットする」という機能がある。その機能を適用している場合、その分、画面が暗くなる。
原因4(ブルーライトカット眼鏡) 液晶画面に向き合って作業するひとたちのために、眼鏡屋が、「ブルーライトがカットできる眼鏡」を販売している。その眼鏡をかけて、ひとが液晶画面を見るときには、その分、画面が暗く見える。
原因5(ブルーライトそのもの) 液晶画面からは、ブルーライトが、いくらカットしても、どうしても、目を射してくる。

 このように、ひとが、液晶画面を通して、画像を見るときには、最大で5段階にわたって、その画質が落ちることになるようです。
 これらのことが、先に述べた、私の気付いた点1・2の生じた、原因にもなっているのでしょう。
 ここまで考えてきたことからすれば、ひとにとって、液晶画面は、「見ること」はできるけれども、「見つめること」には適していない、画面であるようです。
 液晶画面は、様々なアプリから、様々な通知が届くことも、あいまって、ひとにとって、「見ているけれども、見つめていない」という現象が、起こりやすい、画面なのでしょう。

 いままで述べてきたことと関連して、私は、次のことを、思い出します。仕事において、起案した文案について、画面で見るよりも、印刷して見た方が、細かい誤字や脱字が、見つかりやすいのです。そのことの原因も、おそらく、先に述べた原因と、共通しているのでしょう。
 こうしたことからして、私としては、最近、次のように、考えるようになっています。

――パソコンの液晶画面に、なるべく向き合わないで、作業ができるようになりたい。

 現代におけるオフィスは、1人あたり1台、机を設置し、その机に、1人あたり1台、デスクトップ・パソコンも、設置するようになっています。となれば、ひとは、机に向き合っているかぎり、パソコンで作業していなくても、液晶画面に向き合い続けることになります。
 しかし、少し前までは、このような環境は、当たり前では、ありませんでした。パソコンが、まだ貴重なものだった時代には、オフィスに人数分のパソコンはなく、ひとは、必要なときにだけ、パソコンのある机に座って、作業をすることになっていました。
 そして、たとえば、私にとっては、パソコンで文案を作成する前に、そもそも「どのような文案を作成するのか」について、いわゆる「設計」をする時間が、最も大事だったりします。そこで、「設計」をするための机と、「起案」をするための机(つまりはパソコンを設置してある机)を、分けて設けてみたい。そのように、私は、このところ、考えを巡らせています。

7 調べて考える環境――「個人的な体験」としての「立教大学図書館」

 作業のための環境。つまりは、調べて考えるための環境。
 そのことについて、考えているうちに、私にとって、派生して、思い浮かんできたことがあります。
 先に述べた、「青い空と海」の写真を飾ってできあがった、私の部屋が、私が司法書士試験の受験勉強のために、何か月もこもっていた、「立教大学図書館」に、環境として、似通っているのです。
 たとえば、私が、私の部屋のなかで、調べもの・考えごとをしていて、ふと目を上げると、私は、青い空や海を、眺めることになります。
 似たようなことが、私が受験勉強に打ち込んでいた時期に、立教大学図書館において、起こっていたのです。その図書館は、天井がガラス張りになっていました。私は、受験テキストから、ふと目を上げると、ガラス窓を通して、青空を眺めることができたのです。
 私は、無意識のうちに、自分の部屋に、自分が調べて考えることに打ち込んでいた時期の環境を、再現したのかもしれません。

 余談。このことに関連して、私は、作家・司馬遼太郎さんが書いていたことを、思い出します(『ひとびとの跫音』中公文庫)。
 詩人・ぬやまひろしさん。ぬやまさんは、戦時中、共産主義運動のため、思想犯として、投獄。ぬやまさんは、牢獄の、ベッドの上で、壁に向かって、ひたすら思索に耽る日々を、送ることになりました。そして、釈放後も、ぬやまさんにとっては、考えごとをするときには、ホテルに泊まり、そのベッドの上で、壁を見つめることが、ずっと習慣になっていたそうです。
 ひとには、ひとりひとり、その身体にしみついた、調べて考えるための、習慣があるものなのでしょう。
 なお、司馬さんが書き残している、ぬやまさんの言葉が、私の心に、いまも残っています。その言葉も、ここに書き留めておきます。ぬやまさんを、釈放するために、占領軍の事務官が、ぬやまさんの牢獄に、やってきたときの、言葉です。

「占領軍でなく、日本の国民が、私を釈放するまで、私は待っています」

8 まとめ――小樽への興味

 以上、私が、自分の部屋に、自分の写真を飾ったことから、考えたことの、書き留めでした。

 先に述べたように、私の部屋は、偶然の、写真の選定から、小樽の海に浮かぶ、船のようになりました。
 また、私が、部屋の改造にあたり、家具を買い揃えた「ニトリ」は、小樽に美術館を開設しているそうです。似鳥美術館。このことも、不思議な偶然です。
 そういえば、小樽市は、全国の平均に比べても、人口の減少が早く、そのことが問題になっている市であるそうです。
 このことに関連して、私は、以前、「私が仕事で見ている世界」の、余談において、次のように書きました。

――東京において、流入する人口よりも、死亡する人口が上回って、年々、人口の減少がはじまることとなったときに、経済における転機のひとつが、訪れることになるのかもしれません。
――そのとき、東京という都市は、「地方の都市が、これまで、人口の減少に、どのように向き合ってきたのか」について、学ぶことになるのかもしれません。

 その学びについて、小樽市の、いままでの取り組みは、参考となるかもしれません。
 これらのことから、私は、小樽市に、興味が湧いてきました。
 そして、小樽へ、また、旅がしたくなりました。

【壁に飾った物語】港を出て…

 

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