K-3【基礎法学】「法」という字から見えてくるもの ~個人的な体験としての「支配の解消」「契約の推進」「解離の発見」~
私にとって、「私が仕事で見ている世界」について、書きはじめることは、私自身、法学について再入門してゆくような、試みでした。
その再入門の一環として、様々な入門書について、読み進めてゆくうちに、私は、ふと、次のことが、気になりました。
――そもそも、「法」という字は、どのような含意のある、字なのだろう?
その問題意識から、私なりに漢和辞典(山口明穂ほか『岩波 新漢語辞典』〔第3版〕岩波書店)を調べてみると、その字義について、個人的に興味深いことが、分かってきました。そして、その学びから、私にとっては、社会の構造、時代の状況、個人の今後についてまで、考えが広がってゆきました。
それらの考えについて、ここに書き留めておきます。
第1 「法」の字義
まずもって、「法」は、次のように、3種類の異なるルールについて、まとめて表現することのできる字であるそうです。
・ 中国に発祥した儒教・道教に基づくルール 例「法家」
・ インドに発祥した仏教に基づくルール 例「仏法」
・ ヨーロッパに発祥した近代法に基づくルール 例「憲法」「民法」
原理の異なるルールなのに、日本語においては、それらのルールを、「法」という、ひと文字でもって、まとめて表現しています。このことからは、次のようなことが、いえるでしょう。
・ 日本の社会においては、複数の異なるルールが、混在している。
・ 日本の社会にとっては、ルールは「外からやってくる」ものである。
これからの観点から、以下、私なりに考えたことを、書いてゆきます。
第2 異なるルールの混在
1 中国発祥の原理――「支配」の原理
(1)「法」――檻に閉じ込めて去勢する
最初に、「法」という漢字の生まれた、中国に発祥する原理について、みてみます。
「法」という字には、次のような字義があるそうです(前掲書)。
――「灋」の略体。「水」(水牢)+「廌」(珍獣の名)+「去」(ひっこむ)。珍獣を檻の中に囲みこむ意。転じて、おきて、のりの意。
「去」には、「とりさる」という意もあります。その用法での代表例として、「去勢」という言葉があります。
つまりは、「法」を「人間」に適用するとした場合、字義どおりに解釈すれば、「人間を、動物とみなし、檻に閉じ込めて、去勢する」ことになるようです。
人間の去勢。そのことについては、中国の歴史のなかに、実例があります。「宦官」が、それです。
このように、中国に発祥する原理は、大まかにいえば、「人間を、動物とみなし、檻に閉じ込めて、去勢する」という、「支配」の原理であるようです。
(2)消えた神獣――正当性のゆくえ
私にとっては、もともとの「灋」という字のなかから、「廌」という字が消えたことも、興味深いです。
その「廌」という字には、次のような字義があるそうです(前掲書)。
――伝説上の神獣の名。鹿に似た一角獣で、足は馬に似、悪者にふれるとその非を正すと信じられた。
つまり、「廌」は、「正当性」という意味を象徴する、神獣でしたようです。その神獣が、「灋」という字のなかから消えて、「法」という字になったこと。そのことは、「法」という字が、「正当性」を、含意しなくなったということでしょう。
「法」によって、「人間を、動物とみなし、檻に閉じ込めて、去勢すること」。そのことにあたって、その「正当性」は、問わないとなれば、残るのは、次のような関係性でしょう。「暴力において優越する人間が、暴力において劣後する人間を、支配する」。「暴力による支配」が、「支配」の原理の、その正体であるようです。
そして、この関係においては、次のような現象が、起こりやすくなるでしょう。「支配される側が、武力で優越したときに、支配する側を圧倒して、支配・被支配の関係が、逆転する」。
このように、「支配」の原理による社会は、支配している側の勢力が、弱まったときに、クーデターの起こりやすい社会でもあるのでしょう。
このような、暴力の応酬による、支配・被支配の関係の逆転の、そのくりかえしについて、防止するためには、ルールというものについて、「正当性」という判断の基準を導入しておくことは、やはり、必要でしょう。「正当性」という判断の基準によって、「正義の戦争」などという、また別の問題が発生することになるにしても、です。
なお、アリストテレスの定義していた「正義」について、あらためて、ここに書き留めておきます。
――「正義であること」とは、「平等であること」である。
2 ヨーロッパ発祥の原理――「契約」の原理
中国に発祥した「支配」の原理について、その対照をなす原理が、ヨーロッパに発祥した「契約」の原理です。
まず、「契約」の原理も、「支配」の原理と同様に、ひとを動物であるものと見なします。
「人は人にとって狼である」
イギリスの政治哲学者であるホッブズ(1588-1679)が語っていた、この言葉。この言葉は、古代ローマ時代から、ヨーロッパに存在していた言葉であるそうです(柳沼重剛『ギリシア・ローマ名言集』岩波文庫)。
人間もまた動物である。その認識は共通しつつ、中国とヨーロッパでは、その対応が異なっています。その対応に関する、社会心理学者・山岸俊男さんの言葉を、ここに抜粋します(「やっぱり正直者で行こう!」ほぼ日刊イトイ新聞)。
――信頼というものには「関係を広げていく」というかたちもある。
――アメリカで暮らしていると、まずは「受け入れて」、それから「どうしようか」と考えるんです。
――いちばん極端な例が、ローマ帝国でしょう。
――敵対する国を次々と支配下に取り込んで大きくなっていきましたよね。
――つまり、かつて敵味方の関係にあったとしても、いちど仲間になったら「信頼」するんです、彼らは。
ひとびとが、相互に、動物としての野性はそのままに、去勢しないで、信頼しあって、関係を結ぶ。そして、社会を構築してゆく。そのような、「信頼」の原理、いいかえれば、「契約」の原理が、ヨーロッパに発祥した原理の正体であるようです。
3 日本の社会における混在
(1)せめぎあい
以前、私は、映画『SPY×FAMILY』に関する批評において、次の趣旨のことを、書いていました。
――日本の社会は、個人にとっての「思想・良心の自由」について、その侵害が起こりやすい社会である。
――日本の社会においても、戦後、「個人の尊重」が、まがりなりにも、進んできた。
これらの記述は、自分で書いたことながら、一見、矛盾しています。結局のところ、どちらなのか? 私自身、考えてみた結果、次のように整合して理解することになりました。
――日本の社会においては、「支配」の原理による「思想・良心の自由についての侵害」と、「契約」の原理による「個人の尊重」とが、混在していて、いまも、せめぎあっている。
そのような、日本の社会のありようが、「法」という字のありようにも、反映しているのでしょう。
(2)現象から歴史へ
「支配」の原理と、「契約」の原理の、せめぎあい。このような、社会の構造についての見方は、私が以前にテキスト批評『女の子はどう生きるか』において書いた、「現代日本社会において、『支配』の原理と、『契約』の原理が、並存している」との観察とも、整合します。
テキスト批評『女の子はどう生きるか』における、私の観察は、現代日本社会における現象の、観察にとどまっていました。
本稿において、考えたことから、その表面的な「現象」についての観察に、「歴史」という時間軸ができたように、私としては感じています。
(3)象徴――宮崎駿『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』
日本の社会における、「支配」の原理と、「契約」の原理の、せめぎあい。その象徴として、私は、映画監督・宮崎駿さんの作品である、『もののけ姫』と、『千と千尋の神隠し』を、見るような気がしています。
『もののけ姫』においては、中国発祥の「廌」に類する姿をしている「シシ神」の、その首を、ヨーロッパ発祥の火縄銃が、吹き飛ばしていました。この場面は、「灋」という字のなかから、「廌」という字が消えたこととも、重なります。首のなくなった「シシ神」は、無秩序に、周囲の生命を奪いながら、さまよい歩くことになりました。
中国発祥の原理は、その力を失い、しかしまた、ヨーロッパ発祥の原理も、根付いていない。そのような、現代日本社会における、「寄る辺のなさ」について、『もののけ姫』における、この場面は、表しているのかもしれません。
『千と千尋の神隠し』においては、主人公である千尋が、ブタになった両親を、複数頭のブタの居並ぶなかから、見つけ出そうとする場面があります。ブタは、イノシシが「去勢」を受けて、家畜になった姿でもあります(「支配」の原理)。
そして、千尋の答えは、「ここに、お父さんと、お母さんは、いない」。この答えは、「私のお父さんもお母さんも、ブタではありません」という意味でしょう。
たとえ、相手がいったんはケダモノに見えたとしても、あくまでも、その相手を、人間として扱い、関係を結んでゆく(「契約」の原理)。そのような、宮崎さんの決意を、千尋の姿勢を通して、私は感じます。
そして、私も、千尋の答えに、大いにうなずきます。そうとも、千尋。きみのお父さんも、お母さんも、ブタじゃない。
『千と千尋の神隠し』にみるように、宮崎さんは、「契約」の原理に基づいて、生きてゆこうとするひとであるようです。このことに関連する、宮崎さんの言葉も、ここに引いておきます(「憲法を変えるなどもってのほか」『熱風』2013年7月号)。
――日本の伝統の中に根拠となる思想がなくても、やっぱり基本的人権よりいい考え方はないんだと思います。
――東のはずれにある国として、そういうものなしにやってこられたけれど、世界化、国際化する時には、共通の言葉を持たなきゃいけない。人権という考え方を輸入せざるを得ないんですよ。
――それを自分たちの文化的な伝統や色々なものの中になんとか見つけなきゃいけないんです。
私も、同じ考えでいます。
なお、「日本の文化的な伝統の中に、国際的に通用するものを見つけ出す」という、宮崎さんの発想は、もともとは、作家・大江健三郎さんが強調していた発想です(『あいまいな日本の私』岩波新書)。大江さんからの、宮崎さんへの影響を、私は、このところ、感じています。
(4)仏教の役割――生死の実務
なお、ここまで、私は、最初に挙げた3種類の原理のうち、「支配」の原理と、「契約」の原理についてのみ、言及してきました。
残る、もうひとつの原理である、インドに発祥した原理である、仏教の原理については、本稿の最後において、少しばかり取り上げます。
この項目においては、現代日本社会における、仏教の役割について、言及しておきます。その役割とは、「葬儀」です。
かつて、江戸時代、仏教の寺院は、「戸籍」を管理していました。「戸籍」は、ひとびとの生き死にについて、具体的に記載して管理するための帳簿です。
ですので、江戸時代、ひとの葬儀に僧侶が来るということは、「その僧侶が、そのひとの死亡について確認して、戸籍に記入する」ということをも、意味していたでしょう。
その名残として、現代日本社会においても、いわゆる「葬式仏教」が、存在し続けているのでしょう。
また、私は、作家・司馬遼太郎さんの語っていた、次のような死生観から、影響を受けています。この死生観は、仏教における一派である「華厳宗」を参考にしたものであるそうです(「訴えるべき相手がないまま」『司馬遼太郎全講演2』朝日文庫)。
――ひとは、自然をめぐる、生命である。
このような、死生観の普及といい、生死の実務についての管掌といい、日本の社会において、仏教は、「現世に関する原理」というよりも、「あの世に関する宗教」として、存在しているのかもしれません。
第3 ルールの外来性
1 小国としての日本
日本の社会においては、江戸時代までは、中国に発祥した「支配」の原理が、優勢でした。
そして、明治維新以降は、ヨーロッパに発症した「契約」の原理が、優勢でした。
つまり、日本の社会は、その時代々々において優勢である国のルールにのっとって、社会を営んできました。
優勢な国。ルールの設定できる力のある国。つまりは、「覇権のある国」。そのような国について、「大国」と呼ぶならば、日本は「小国」であることになるでしょう。
2 建前と本音(「明文化してあるルール」と「実効性のあるルール」)
日本の社会が、大国のルールにのっとって、社会を営んできたこと。このことから、私は、「建前と本音」という言葉を、思い出します。
大国のルールを、建前としては、設定する。しかし、「本当は、日本には日本のルールがあるのだ」と、本音は別なところにあるものだとする。このような、「建前と本音」の構図は、いまの、日本国憲法と日本国政府の関係にも、見て取ることができます。こうした「建前と本音」の構図は、「面従腹背」といえば、聞こえはいいですけれども、素直な表現にすれば、「へそまがり」ということでしょう。それが、日本人の国民性であるとするならば、あまり好ましくない国民性でしょう。
そして、「建前と本音」が、日本人の国民性であるとするならば、たとえば、仮に、自由民主党による「日本国憲法改憲草案」での憲法改正が実現したとして、今度は、その新しい憲法が「建前」になり、「あの憲法改正には問題があった」とする、「本音」を主張する勢力が、台頭して、勢力を伸ばしてゆくことになるのかもしれません。
3 覇権のゆくえ――無極化
小国としての日本は、いま、これまで大国と見なして依存してきたアメリカの、その覇権のゆらぎに、直面しています。
冷戦が終焉したことによって、それまで二極あった覇権が、アメリカの覇権に一極化しました。その後、アメリカに覇権のある時代が、おおよそ40年間、続いてきました。
いま、そのアメリカが衰退し、覇権を無くしつつあります。その先に待っている状況は、「無極化」という状況でしょう。
「無極化」のなかで、かつての冷戦と同様に、日本が、「中国・ロシアと、アメリカとの関係」について、「新しい冷戦」と見立てて、アメリカの側に立つことは、かえって、対立を煽るような結果を、もたらすでしょう。
かつて、戦後まもない日本において、論争になった、「単独講和か全面講和か」という問題に類した問題が、あらためて、立ち現れてくることでしょう。そして、その問題についての解決が、日本における、ルールにまつわる複数の原理のあいだの優劣についても、影響してくることでしょう。
4 株価暴落――国際政治から国際金融への影響
国際政治の帰趨は、国際金融の安定にも、影響します。
2024年8月に、アメリカに発した世界同時株安の、その一因は、アメリカ大統領選において、トランプ候補の対立候補であったバイデン候補が、撤退したことに、あったでしょう。
――アメリカの国民は、まともに、アメリカを統治できるのか?
その「政治的リスク」について、回避するために、国際金融において、巨大な資金の移動が起こったのでしょう。この「巨大な資金の移動」について、私は、『もののけ姫』に登場した、「アタマを失ったシシ神」を、あらためて、思い出します。
国際金融において、巨大な資金の移動が起こること自体は、不思議なことではありません。情報通信技術の発達によって、電子信号になった巨大資金が、国際金融市場のあいだを、瞬時に移動するようになったこと。そのことは、かつてのリーマン・ショックに関する検証においても、指摘のあったことでした。
――資金は、ありあまるほど、ある。
――しかし、投資先がない。
それが、国際金融における、現状なのでしょう。
そして、その「投資先の消失」は、先に述べたように、「政治的リスク」によって、起こりました。その「政治的リスク」とは、つまり、「アメリカの国民、その多くが、トランプ候補を支持していること」。そして、その支持層は、新自由主義経済によって登場してきた、「格差にひずむ大衆」です。この「格差にひずむ大衆」と、同じように、新自由主義経済によって登場してきた、「新たな富裕層」。この両者が、国民として、どのように行動するかが、今後の、「政治的リスク」の大小に、そして、「巨大な資金のゆくえ」に、影響してくるでしょう。
第4 私の事務所で試みたこと――その結果
いままで、私は、歴史、社会、国際関係といった、巨視的な観点から、本稿を書いてきました。
ここからは、いままで述べてきたことについて、参照しつつ、私自身の足もとである、私の事務所において、試みたことと、その結果について、書き留めることにします。
1 勤務司法書士時代――「支配」の原理
「支配」の原理は、歴史のなかの、過去の話ではなく、私が、勤務司法書士時代に、複数の事務所において、見て・聞いて、体験してきたことでした。
――上司が、部下のやることなすことについて、すべて、「ダメだ」と、否定する。
――どうやっても否定されるならばと、部下が上司に最初から指示を仰ごうとすると、「どうして自分で何も考えないのだ」。
――自分から提案してもダメ、自分から指示を仰いでもダメ。その状況において、部下は、最終的に、「上司から言われたことのみ、行う、人間」になってゆく。
このように、上司が部下を支配する状況ができあがってゆく、その様子を、私は、複数の事務所において、目の当たりにしてきました。
上司から部下への、上に述べたような叱責は、一見、当初は、叱咤激励のようにも見えます。しかし、そのような構図のなかで、ときたま、次のようなことも、起こることがありました。
――部下が組み立てた、適切な仕事の進め方を、上司が「ダメだ」と、不適切な進め方に、組み立てなおした。
――その結果、仕事の進行が行き詰まり、上司が依頼者に謝ることになった。
そのような出来事からして、「この上司は、部下に『ダメだ』と言いたいがために、『ダメだ』と言っているようだ」と、見受けることが、私には、度々、ありました。「ダメだ」と言いたいがために「ダメだ」と言うこと。そのことは、相手を支配したいがために、「ダメだ」と言うことであるでしょう。
私が、法学において、学んできた、「契約」の原理。その「建前」が、現場において、実効しておらず、むしろ、「本音」としての、「支配」の原理が、実効している。そのことについての、カルチャー・ショックというべき、驚きが、社会人になりたての頃の、私には、ありました。このような、新社会人にとってのカルチャー・ショックについては、劇作家・平田オリザさんも、指摘しています(『わかりあえないことから』講談社現代新書)。
そして、どうやら、そのような上司たちも、かつては、自分たちの上司だったひとたちから、同じような仕打ちを受けてきたようなのです。「親から子への虐待」については、次の世代の「親から子」へも、連鎖してゆく可能性があることが、問題になっています。「上司から部下への支配」も、同じように、連鎖しているのかもしれません。
2 私の事務所での試み――「マイナス」を「プラス」に
私は、そのような、「支配」の原理が連鎖してゆくことは、私の代で止めにしたいと、考えました。私自身は、「支配」の原理による、いわば「マイナス」の力を、受けたこともあったけれども、私の次の世代には、「契約」の原理による、「プラス」の力を、伝えてゆきたい。そして、「プラス」の連鎖が、続いてゆくようにしたい。そう考えたのです。
――相手を信頼する。
――たとえ、相手の、仕事の組み立て方が、不適切であったとしても、具体的に、「ここは、こうして下さい」と、促せばよい。「ダメだ」などという、人格の攻撃は、する必要がない。
そのように、私の事務所においては、私とスタッフさんたちとの関係を、結ぶように、心がけてきました。実際、どのくらい、うまくいったかは、心許ありません。
ちなみに、社内において、スタッフさんたちに、そのように接するようになってから、私は、社外において、ほかのひとに接するときにも、同じような態度をとるようになりました。そうでなければ、不公平だと、私としては考えました。それまでしてきた、先に述べた「上司」のような「オッサン」に出会ったときの「かみつき」も、やめました。やめてみると、私が「オッサン」だと思い込んでいたひとたちが、実は、紳士的・淑女的なひとたちであったと分かることも、度々ありました。独立開業してみて、人間関係が、「支配」の原理から、「契約」の原理に、変わってきたことについて、私は、そのご縁に、感謝しています。
3 「ゼロ」の発見――「解離」という症状
「支配」の原理から、「契約」の原理へ。「マイナス」から「プラス」へ。
そのように、私の事務所の内外において、試みた結果、実際に、「契約」の原理によって、関係を結ぶことのできたひとたちが、確かに現れました。
その一方で、次のようなひとたちもが、私の前に現れることになりました。
――何もしないでいることができるなら、何もしないでいるひとたち。
「支配」の原理にもよらない、「契約」の原理にもよらない、ひとたち。「マイナス」でもない、「プラス」でもない、いわば「ゼロ」の状態にある、ひとたちです。
このような、「ゼロ」の状態にあるひとたちについて、私は、これまでも出会うことがあり、個人的に印象に残ってきました。その出会いについては、次のテキスト批評に、書き留めてあります。
「小泉今日子さんが、そうしていたから」(ほぼ日刊イトイ新聞)
『顔をなくした女』(岩波現代文庫)
また、宮崎駿さんも、このようなひとたちが、この社会に現れてきていることについて、指摘しています(『虫眼とアニ眼』新潮文庫)。
――たとえばセル画に絵の具を筆で塗るという作業があるんですが、ちょっと糊みたいな特殊な絵の具なもので、普通に塗ると塗りムラが出てしまうんですね。ですから、絵の具を置くようにして塗っていく。そんなコツなんて、それこそ初めは戸惑うかもしれないけど、3カ月もやれば誰でも覚えてたんですよ。いまは2年かかっても覚えられない若いのがいるんです。それが美術系の最高学府出ていたりする。そのくせ自分の絵を描くとなったら、可愛らしい絵を描くんです。これは適性のあるなし以前の問題で、なにか別々の経験を統合する力とか、子どものときに訓練すべき当たり前のことが欠けたのか、という問題ですね。トトロのビデオばかり見てたんじゃないかなんて……(笑)。結局、スタジオジブリもデジタル化することになりましたから、いまはもう、絵の具も全部片付けて、コンピュータがズラッと並んでいるんですけれど。けど、ことは色を塗ることばかりじゃないんですね。モノを仕上げる最終イメージを頭の中に作って、どういう手順で作業を進めれば、効率よくキレイに仕上がるか、普通に考えたってある程度予想がつくものでしょう。ところがつかないんですよ。もちろんつく子もいますよ。つく子もいるけど、いまはつかない人間が圧倒的に増えている。笑い話じゃなくて、ウチのスタジオでは、曲線を描いておいて、時間内にハサミで切り抜いてくださいとか、ナイフで鉛筆を削ってもらうテストから始めたんですね。
――もちろん生まれてこの方、鉛筆削り器にブーンって突っ込んできたわけですから、うまく削れない。箱を貼り合わせろといっても、ホチキスかセロテープで留める経験ばかりで、糊塗ってじっと押さえて我慢するなんてこともやってない。いまは瞬間接着剤だから、飛行機を作って、セメダインが固まらないうちに飛ばして、壊れたなんていう経験もない。日本は高度成長をやりながら、よってたかってみんなで限りなく国を滅亡させようとしてきたんです。世界はかくて平和になるって言いながら。
――これ、少なくともぼくらの現場に関しては、かなり深刻な問題です。本人たちはみんな真面目で気がよくて、実に優しいいい子たちなんだけれど、一方で信じられないくらいに、生きていくための武装に欠けている。武装というとおおげさだけど、世界のことを予見する知恵とか、当座の困難を手先で切り抜ける方法といったことを備えずに、なにも持たずに出てくる。まあ、自動小銃まで持たなくていいから、せめて火縄銃は撃てるとかハサミくらいは使えるとか、なにか武器を手に入れなきゃいけないでしょう。そのまま30歳になって、大人になるのを拒否している。だから、ぼくが子どものために映画を作ろうと言っても、若いスタッフの士気が上がらないんです。だって、みんな自分の子どもがいないんだもん。子どもがいなくて、いつまでたっても自分のために映画を作りたいんですね。こんな人たちなんて、もう放っておけばいいんだと思うこともありますよ。みんなが支え合いながら緩やかに安楽死していけばいいって(笑)。
このようなひとたちは、どのような行動様式でもって、このように行動している(正確には「行動していない」)のでしょう? そのことが、私には、気にかかりました。そこで、私は、作家・小川洋子さんも、その作品である『シュガータイム』(中公文庫)に書いているように、そのひとたちと、「とことん付き合ってみる」ことにしました。
そして、私なりに、体験して、調べて考えてみて、そのひとたちについて、分かってきたことは、次のようなことでした。
――ひとの心身は、すべての問題に対して、向き合うことができるようには、もちろんできていない。
――ひとの心身には、その健康のために、問題に対して、「向き合わず、忘れる」という習性もが、備わっている。
――その習性について、精神医学では、「解離」と呼んでいる。
私が、テキスト批評『或る「小倉日記」伝』(角川文庫)において、探求の対象として設定した、「人間の弱さ」についての、その現れのひとつが、「解離」という症状であるようです。
4 「統合」と「解離」――「憶えること」と「忘れること」
精神医学によると、ひとの心身には、「統合」と「解離」という、対照をなす、ふたつのはたらきがあるようです。
「統合」は、問題に対して、向き合い、憶えてゆく、はたらき。
「解離」は、問題に対して、向き合わず、忘れてゆく、はたらき。
統合が過ぎれば、ひとは、問題を抱え込み過ぎて、「統合失調症」になります。そのようにならないためにも、「解離」という、はたらきは、存在しているようです。
しかし、「解離」という、はたらきも、万能ではありません。自分にとって、重要なはずの問題に対して、向き合わず、忘れようとすると、「その問題について憶えている人格」と、「憶えていない人格」との、分離が起こります。いわゆる「多重人格」です。「多重人格」について、正式には、「解離性同一性障害」というそうです。
ひとの心身は、「統合」という、はたらきと、「解離」という、はたらきとの間を、振り子のように、揺れ動いているようです。
そして、現代社会においては、「統合」に、重心があることになっています。「統合」にこそ、価値があることになっています。なぜかといえば、「統合」のはたらきが、強いひとであるほど、生き延びやすいためであるそうです(中井久夫『新版 分裂病と人類』東京大学出版会)。
確かに、「契約」の原理は、「統合」のはたらきを、前提としているでしょう。「相手と向き合う」。「契約したことについて、憶えている」。これらの、「統合」のはたらきがあってはじめて、契約は、成立することになるでしょう。
その「統合」に重心がある社会にあっては、精神医学において、まず、「統合失調症」が、問題になってきました。「統合失調症」についての研究が、進展するなかで、1990年代になって、新たに問題として立ち現れてきたのが、「解離」という症状であったようです。
なお、「解離」という症状が、病的に生じる、その主な原因として、「青少年期に、虐待を受けたこと」が、あるそうです。
5 「支配」の原理の弱まり――「解離」の症状の現われ
私の見るところ、社会において、「支配」の原理が弱まったときに、「解離」の症状が、ひとびとにとって、問題として立ち現われてくることになるようです。「支配」の原理が実効している状況にあっては、「解離」の症状は、目立たないのでしょう。
私の小さな社会においても、そうでしたように、現代日本社会においても、同様の問題が、生じてきているのかもしれません。たとえば、「Z世代」(「組み立てが既にできている仕事がやりたい」世代)という呼称のある世代の登場も、ひとびとのなかでの、「解離」の症状の、その現れなのかもしれません。
なお、「解離」の傾向が強いひとについては、「支配」の原理のほうが、取り込みやすいのかもしれません。「支配」の原理に関して、古代中国の言葉に、「解離」と似た発想の教訓が、存在しているのです。
「君子、危うきに近寄らず」
「支配」の原理もまた、ひとの習性に応じての根拠のある、原理ではあるのでしょう。
「解離」の傾向が強いひとについて、「支配」の原理のなかには戻さずに、「契約」の原理によって、関係を結ぶには、そのための工夫が、必要になるようです。
6 考える手がかりとしての「解離」――「契約」の原理の検証
「支配」の原理について、解消した上で、「契約」の原理によって、ひとびとと関係を結ぼうとしたところ、今度は、「契約」の原理(「統合」のはたらき)の対照として、「解離」のはたらきが、見えてきたこと。そのことについて、ここまで、私は、るる述べてきました。
その「解離」のはたらきは、私にとって、新しい発見でした。このはたらきと、「契約」の原理(「統合」のはたらき)とを、対比することによって、「契約」の原理(「統合」のはたらき)について、再度検証してみたい。そのように、私としては、考えています。
というのも、「解離」について、私にとって、印象に残る、個人的な体験があったのです。
私が、おなかに赤ちゃんがいるスタッフさんと、一緒に働いていた時期のことでした。そのスタッフさんに、複雑な相続の事案を、担当してもらうことになりました。その事案においては、相続が、「3回」、発生していました。ですので、その事案に合わせた書類を作成することが、必要でした。その案件において、そのスタッフさんは、相続が、「2回」、発生している内容での、文案を、作成してきました。そのひとは、ふだん、私などよりも優秀なくらいのひとで、このような文案を作ってくることは、珍しいようなひとでした。そのひとが、数日前から、言動がフワフワしていたので、私としては、この文案の件を機に、「熱でもあるのですか」と、体調について、尋ねてみました。すると、私にとっては、予期していなかった答えが、返ってきました。
「おなかに赤ちゃんがいて、そっちに血が集まっていて、アタマに血が回ってきていなくて、ボーッとしているような、気がするんです」
この症状は、「悪気はなくても、向き合いたくても、向き合いきれない」という趣旨の、「解離」の症状でもあるしょう。
このような現象は、私が、男性の身体で、いくら努めても、体験できないことでした。おなかに赤ちゃんがいると、そちらに血流が集まる。だからこそ、赤ちゃんが育つのでしょう。転じて、私がしているような仕事である「人様の問題に向き合って解決する」という作業(「統合」のはたらきによる作業)は、身体にとっては「アタマに血流を集めること」であるのでしょう。
ですので、「統合」の傾向が強い、この現代社会は、「絶えず、ひとびとのアタマに、血がのぼっているような社会」でもあるのでしょう。ひとびとの、おなかに血が集まらず、アタマに血がのぼってゆく社会。そのような社会においては、当然の結果、少子化が進んでゆくでしょう。
「統合」の傾向が強い社会においては、いま生きている個体は、生き長らえやすいけれども、新たな個体は、生まれて来にくいのでしょう。
現代社会において、子どもが生まれてくるように、その環境を整えるためには、「統合」のはたらきについて、緩める必要が、あるようです。「統合」のはたらきについて、緩めるということは、「解離」のはたらきが、その分、大きくなることを、容認する、ということにもなるでしょう。
付記。ここまでの記述に関連して、私は、映画監督・庵野秀明さんの作品である、『シン・仮面ライダー』を、思い出します。
あの映画では、主人公が、最後に、ヘルメットだけになりました。その姿に、茫然としながら、私は映画館を後にしました。あの姿が、私には、解剖学者・養老孟司さんの指摘している「脳化社会」が、行き着いた果ての姿であるかのような気がしました。「脳化社会」は、まさに、「絶えず、ひとびとのアタマに、血がのぼっているような社会」でもあるでしょう。
ひとが、アタマだけになったのであれば、あとは、また、カラダを生やしてゆくべきことになるでしょう。「カラダの再発見」が、この社会において、ひとびとにとって、必要になってくるのでしょう。その手がかりのひとつとして、「解離」のはたらきが、ありえるのかもしれません。
そして、「解離」のはたらきによる、「向き合わず、忘れること」は、一時的なものであれば、「休むこと」にも、通じてゆくのかもしれません。
7 今後の展望――「開業11年」
以上、「法」という字を通して見えてきたことから、「支配」の解消、「契約」の推進、「解離」の発見という、私の個人的な体験によって見えてきた諸問題についてまで、話を広げてきました。
私の小さな社会において、「マイナス」が、いったん、「ゼロ」にできた。しかし、今度は、「ゼロ」を「プラス」にしてゆく、という課題が見えてきた。そして、「ゼロ」には「ゼロ」の意義があることも、分かってきた。それが、私の現状であるようです。
私が、独立開業してみて、仕事と人生についての原理を、自分なりに設定してみて、実践してみた結果が、以上の気付きでした。
いままで、どうしても分からなくて、個人的に困っていた、「何もしないでいることができるなら、何もしないでいるひとたち」の行動様式について、「解離」という手がかりが見えてきたことが、私の仕事と人生にとっては、重要な収穫でした。
私としては、次には、今回のような、原理に関する抽象的な話題ではなく、より具体的な、今後の展望を、「開業11年」と題して、書くつもりでいます。
最後に、1点、私の気付いたことについて、書き留めておきます。
「解離」という、「問題に向き合わず、忘れる」という、人格がまるでないかのような、人間のありようは、仏教における「無」の思想に、どこかで通じているのかもしれません。