【読書】佐藤眞一ほか『老いのこころ』有斐閣アルマ

佐藤眞一ほか『老いのこころ』有斐閣アルマ 2014.6
http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641220164

この本を読む際の問題意識。「介護拒否するひとが、介護を受け入れるようになるには、そのひとの心のなかで、どのような過程をふむことが必要なのか」。
この論点のほかにも、興味深い記述がいくつもありましたので、抜粋します。

1 高齢化による能力の減退

(1)身体能力

転倒する原因になるのは、「筋力の低下」ではなく「平衡感覚の低下」。そうなんですね…

(2)知能

「流動性知能」(情報処理能力)は20代をピークにして下降してゆく。
「結晶性知能」(言葉の意味理解・運用能力)は70代まで上昇を続ける。おっ、私はいま、32歳。あと40年以上、読書を楽しむことができるんですね。やったーo(^-^)o

ただし、結晶性知能が高まってゆくといっても、それは必ずしも「現実社会に対する問題解決能力」ではない。いわば抽象的な思考能力。
また、結晶性知能は、社会が豊かになり、教育を受ける人数が増えた世代ほど、平均値として高くなる傾向がある。世代間の比較は、教育水準においては不公平な状況での比較になっている可能性がある。

※ 余談。社会が豊かになるほど、ひとびとの抽象的思考能力が高くなるという指摘は、作家・堀田善衛さんの「文明は滅びる直前に現実から切れた美しい芸術を生み出す」という指摘にも合致します。個人的に興味深いです。

(3)自覚

高齢化による能力の衰えには、自分で気付くことが必要。
他者からの「あなたはこの能力が低下してきています」という告知による自覚は、鈍い。
能力が低下していくとき、まず、ひとは、外界へ働きかける。能力が低下した自分でも生活していくことができるように、自分よりも周囲を変えようとする。どうしても周囲を変えることができないと自覚したのち、自分の内面において、生き方についての価値観を変化させる。

※ たとえば、アルツハイマー型の認知症は、その自覚のないことが特徴です。うーん、自覚できなくて介護拒否しているひとに対する、成年後見人としての適切な接し方とは? 認知症になっても残る能力があるのだとしたら、その能力のなかで自覚できるかどうかが問題になってきます。もし自覚できないのであれば、前もって認知症に備えておくことが大事になるのかもしれません。認知症になる前から、認知症を自覚しておく。でも、そこまですると、なんだか生き急いでいる印象もあります…

(4)最適化

ひとが老年を自覚すること。そのことは、「人生に残された時間が限られている」ということを自覚することでもある。
そうなると、ひとは、自分を取り巻く環境を最適化する。具体的には下記の通り。

①情報や金銭的なものへの執着が低下する。
②情動的な満足を求める。
③既存の社会関係を深め、豊かな人生を味わおうとする。

若年者・青年者にとっては、「人生にはまだ無限の時間がある」。

①情報を集める
②世界を広げる
③社会関係を求める

※ 私は、拠点を立教×豊島に置いたことで、30代にして、老年へ一歩、踏み出したようです。遅いか早いかは考えず、我が道をゆきます(^^)

(5)孤独と知能

「引退や大切な人との死別などがきっかけとなり、長期に孤独状態が続くと知能が低下する」。
定年後の両親、そして、その先、配偶者と死別した片親とどう向き合うか。そのことを考えるときに重要な指摘です。
父方の祖父は、20年以上、ひとり暮らしで、しかも時事問題について縦横無尽に語るひとでした。どうやって、ああいう知能を保っていたのでしょう。祖父の遺したノートには、独自の持論がびっしり書いてありました。このことがヒントかもしれません。

2 智恵

智恵とは、「基本的で実践的な生活場面での熟達した知識と判断」そして「優れた知性と感情の調和」。
智恵は、ただ単に年齢を重ねるだけでは・経験を重ねるだけでは、身に付かない。
大切なことは、経験への開放性・外向性・調和性。自分の力ではどうしようもない、とりかえしのつかない、辛いライフイベント。たとえば、年齢を重ねてきて、「いままでの人生が、自分の望んだような人生ではなかった」と気付くようなイベント。そのライフイベントに、自分から対処する。何かを学び取ろうとする。他者と調和しながら解決する。そうすることで知恵が身に付く。
青年よりも中高年のほうが、「ある経験から学んだ教訓を他の文脈に一般化させること」「経験をより大きな文脈で捉えること」が上手だった。経験を活かす力。

※ この指摘に似通う話として、学生時代に読んだ大江健三郎さんの『新しい文学のために』(岩波新書)を思い出しました。「自分の目で見たことから、何を読み取るか。それが文学において大事だ」という内容でした。

※ 私自身、30代になって、「自分の人生は、どうしてこうなったのか」と振り返ったときに、「自分が何をやりたいかではなくて、どんな人の役に立ちたいか、そしてその人は何を望んでいるか、その思いに寄り添うことが大事だ」という教訓を得ました。この本の「智恵」に関する指摘は、自分自身の経験からも得心のいく指摘です。

※ この本は、老年学を超えて、生涯発達心理学のテキストとしても興味深いです。各年代で直面するライフイベント、それを克服して身に付けるべき智恵の見取り図も載っていて、参考になります。

3 超高齢期

(1)超高齢期の出現

いままで、人生の捉え方は、大まかに1・2・3期だった。未成年期・成年期(就労)・高齢期(定年後)。しかし、長寿化とともに、超高齢期という第4期が出現した。いままで高齢期だった年齢において、ひとは、まだ、自立して生活して、健康に働くことができるようになった。健康面の問題から、自立して生活すること、働くことが難しくなるのが超高齢期である。

(2)超高齢期の迎え方

超高齢期を生きていくために肝心なこと。

①他者との信頼関係の構築
②自己の内面の充実
③自律性の確保

周囲から支援できるのは、①ですね。介護拒否するひとに、成年後見人として、介護を受け入れてもらうように働きかけるには、本人との信頼関係の構築が肝心。当たり前と言えば当たり前の話ですね(;^_^A
でも、文章で書くと簡単なようでいて、やっぱり難しい問題があるように個人的には感じます。典型的な正社員×専業主婦の夫婦で、どちらも職場または家庭での交流しかなく、地域の人々との交流に慣れていないひとたちが、超高齢期になった時点で、地域の福祉関係者や成年後見人との交流を結んでいくことは、結構大変なことなのではないでしょうか。
また、1999年の「高齢者のための国連原則」には、「自律」という考え方が欠けていたそうです。「自律」とは、自分で周囲の環境をコントロールできること。成年後見の実務でも、「自律」は、かなり欠けている印象です。「本人との信頼関係の構築により、本人の自律を支援すること」よりは、「本人をコントロールすること」に軸足が置いてある観があります。なお、原則の5要素は、①自立、②参加、③ケア、④尊厳、⑤自己実現とのことです。

(3)まとめ

「介護の受け入れ」は、「自分は自立して生活することが難しくなった」ということを受け入れることでもあります。死に一歩、近づくことでもあります。本人にとっては、とても辛いライフイベントでしょう。認めたくない、でも認めないと生活できない、という葛藤。
私個人の見聞では、このライフイベントの受け入れについては、「自分で納得がいくまで一人で生活する」ことで対応するひとが多い印象です。そして自宅で倒れているのが見つかって、入院・入居。
心理学者・河合隼雄さんが、「本人が葛藤を克服するためには、命に関わるような儀式が必要になることがある」と言っていました。自宅で倒れるまで一人で暮らすこと、それが本人にとって必要な儀式なのかもしれません。しかし、その儀式には、早期発見できず、死に至る可能性も勿論あります。
本人のひとり暮らしを支援しつつ、倒れる前に、介護の受け入れができる心境になるよう、信頼関係を構築していく。この本を読むときの問題意識に対する答えです。うわー、手間ひまがかかりそう!笑
そして、この受け入れを通して、超高齢者の方々には、どのような知恵が備わるのでしょう。寄り添いながら、私も勉強させて頂きたいです。

(4)信頼関係構築のために~ケアの相互性~

ひとがひとをケアするとき、一方的にケアする・ケアされるだけの関係では、ケアを受ける側にとって、そのことが重荷になる。また、ケアする側にとっても、何かしらの報いがない状態は、辛い。「社会的交換」が必要である。

なお、特に、家族介護における「無償の愛による介護」は、お互いがお互いを束縛する関係になりがち。

4 追記:どう老いていくかについての基礎理論

欧米における基礎理論。
「サクセスフル・エイジング」。生産的に自立的に社会貢献していく。
「プロダクティブ・エイジング」(生産的な老い)。収入にならないけれども、市民としての価値ある活動を通して、社会にとって有用な貢献をしていく。
どちらの言葉にも「生産」という概念が入っていることにビックリしました。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が、老後まで追いかけてくるんですね。「富を天に積むこと」、つまり生産することが倫理であり精神であること、そういう人間でないと人間として扱ってもらえないみたいです。
そして、「社会貢献(無償労働)は高齢者」という考え方の反対解釈として、「有償労働は非高齢者」という考え方も気になります。連想。民法学者の道垣内弘人さんが、こういう趣旨の文章を書いていました。「民法が想定している人間像は、自分でお金を稼いでゆく商人である」。有償労働できないひとは人間として扱わないという、その考え方が、社会の基本となる法の基礎になっているようです。大変な社会だなぁ…
この基礎の前提(人間は合理的に意思決定できる存在である)から再考することも必要なのかもしれません。

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