【読書】鷲田清一『だれのための仕事』講談社学術文庫 ~加速する未来~

鷲田清一『だれのための仕事』講談社学術文庫 2011.12.13
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000211567

□ 問題意識 「ワーク VS ライフ」?

ワークライフバランス。この言葉への違和感。ワークとライフが、なぜ対立しているのでしょう。なぜ、「あちらを立てればこちらが立たず」という関係になっているのでしょうか。

そんなことをアタマの片隅にひそめ、働き方について考えていたら、たまたま本屋で、この本を発見。同じようなことを、先に考えてくれていたひとがいました。鷲田清一さん。臨床哲学者。

□ 加速する未来

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神。禁欲主義のもと、勤勉に働いて、富を天に積む。この働き方を美徳として、資本主義社会は形成発展してきた。
A:富を天に積むこと。すなわち現在よりも未来に価値を置くこと。B:そして仕事を「誰のため」ではなくて「生産のため」のものとすること。この二つの価値観が結びついて一つの道徳(勤勉道徳)となると、その先、どうなるか。未来へ富を積めば積むほど、そのことが「よいこと」になるのだから、生産効率の果てしない追求が始まることになる。
より勤勉に!(長時間労働) より早く・よりたくさん!(生産性向上) 未来へ富を積むために現在の仕事が際限なく加速してゆく。そして仕事は人間にとっての苦役になる。

※ 「生産のための仕事」。過剰な住宅の供給は、その典型ですね。そのなかでも代表的なもの、タワーマンション。老朽化したときの問題を、どう考えているのでしょう。未来に価値を置くといっても、ごく近い未来だけ考えていて、もっと長い目で見た未来は視野の外にある印象です。

※ 「富を天に積む」。この言葉、成年後見に携わっていて、実感することがあります。独身で一生懸命に働いて、多額の財産を築き上げてきたひとたちが、自分のためにも他人のためにもその財産を使うことなく、そのまま天国へ旅立っていきます。遺産の目録を作成しながら、「この人にとって、働くということは、どういうことだったのだろう」。そういう問いかけが湧いてくることがあります。

□ 「仕事」の反対概念としての「余暇」

勤勉道徳によって働いてゆく果てに、仕事が苦役になった。そのことから生まれてくる、「仕事をしていない時間=何も生産していない時間」(余暇)への渇望。
しかし、勤勉道徳にとっては、「何も生産していない時間」は、それはそれで苦痛。そこで「余暇を効率的に過ごそう」ということになる。
1回の旅行で、どれだけ観光名所を回ることができるか。
1日で、その遊園地のアトラクションを、どれだけ回ることができるか。
この結果、余暇の過ごし方も、仕事中の過ごし方と変わらないこととなり、ひとは余暇も楽しむことができなくなる。そして、効率化の仕組みは同じなので、余暇も産業の対象となってゆく。娯楽産業化。

このように考えてきて分かること。ワーク(仕事)とライフ(余暇)のバランスが問題なのではない。ワーク(仕事)とライフ(余暇)が、根本的には同じ道徳(勤勉道徳)に根拠を置いていることが問題なのである。

□ 遊び

ここで「余暇」と類似するようで違う「遊び」という概念のことについて考えてみる。

遊びの意味その1。「遊び」という言葉には、「すきま」「ゆるみ」という意味がある。
たとえば、歯車と歯車を隙間なく完璧に組み合わせて動かすと、すぐに壊れる。歯車は、同一の回転を繰り返しているようでいて、その回転には、回転ごとにズレ・揺れがある。隙間があってこそ、そのズレ・揺れに対応できる。
人間の心と体も同じ。集中して働いている状態は、心が体のすみずみまで制御している、緊張状態。その緊張状態がずっと続くことには、人間の心も体も、耐えることができない。
人間の心は、体を制御することから離れて、体のなかに潜むことができる。たとえば睡眠。人間の心と体にも「すきま」「ゆるみ」が必要である。

遊びの意味その2。「遊び」には、本来、仕事と同等以上の真剣さがあった。
たとえば、バリ島の闘鶏は、その勝敗によってお互いの社会的地位が変動する、自分の存在を賭けた真面目な「遊び」だった。
こうしたことからすると、実は、「仕事=真面目」「遊び=不真面目」という区別は絶対的なものではなく、両者の境界は、あいまい。
だが、「遊び」が持っていた本来の真面目さ、他者との関わりにおいて自分の存在を賭けることは、生産一辺倒の資本主義社会のなかで、「遊び」が「余暇」に変わり、「何も生産していない時間」「無価値な時間」となることで、失われた。
しかし、本当に必要なのは、「遊び」にも「仕事」にも、他者との関わりにおいて自分の存在を賭ける、その真面目さを取り戻すことではないか。

□ 自己実現

仕事と余暇、生活時間のすべてを支配する勤勉道徳は、アイデンティティ(自己認識)にも入り込んでいる。
本来、「自分」とは、「自分にとっての自分」そして「他者にとっての他者」である。
これに対し、仕事を通しての「自己実現」とは、「自分らしい自分」「本当の自分」「理想の自分」、つまり「未来の自分」を目指すこと。ここでも価値は未来にある。「未来」の「自分」に価値を置く。ここには「他者」がない。そして「現在の自分」がない。
「未来の自分」に価値を置く結果、「現在の自分」には、どこにも居場所がなくなる。資本主義社会を風刺した詩に、こういう言葉がある。「どこでもいい、この世の外なら」。
仕事を通しての自己実現を目指す限り、ひとは自己否定を続けることになる。

※ 「自分らしく生きたい」。この言葉は、個人的な印象では、虐待や、それに近い経験のあるひとたちが、特に口にしていました。抑圧強制を受けてきたからこそ、「自分らしく生きたい」。「自分らしく生きること」は、「抑圧強制を受けないこと」なのかもしれない。そう考えていました。
そういう考え方からすると、鷲田さんの指摘は新鮮です。「自分らしく生きる」ということが、自己否定にもつながりうる。そういえば、虐待を受けることは、自己を否定されることでもあります。家庭で自己否定の抑圧強制を受けてきて、そこから自由になるために仕事をして自立した人間になったのに、今度は仕事による自己否定が続く。これでは自己否定の状況からいつまでも脱却できないことになります。
しかも、抑圧強制から自由になるために仕事に取り組むひとほど、過剰なまでに仕事に打ち込んでゆく、そういう印象があります。効率至上主義の企業での、命を削るような長時間労働。そういえば、夜中までスピードを追求して走るのって、なんだか暴走族みたいですね。事故死の危険があることも同じです。自由を求める少年少女たちが、暴走族に参加するように、自由を求める若者たちは、過酷な企業での仕事に打ち込んでいるのかもしれません。

※ 「自己否定」ということからいえば、「仕事のAI化」は、自己否定どころか、人間の存在否定ですね。人間社会は、自分たちで自分たちの存在を否定する方向へ向かっているのでしょうか。連想。ネズミには、大量繁殖して、全ての食物を食べつくした挙句、川・湖・海へ集団で飛び込んで全滅する習性があるそうです。現代の人間も同じことをしているのかもしれません。

□ 家事

勤労道徳からみると、家事は、「何も生産しない行為」。しかもそれが毎日反復継続する。そのことが苦痛となる。
しかし、家事は本来、他者を慈しむことによって、自分が自分であることを確かめることのできる行為だった。その行為が、いま、無価値になっている。
家事に従事する人間がいなくなった現代、その代わりをコンビニエンスストア産業が担っている。コンビニは、家事に従事しない人々にとって、冷蔵庫であり、台所であり、戸棚である。

□ ボランティア

阪神大震災をきっかけに、ひとびとは「ボランティア」に行くようになった。
ボランティアのひとびとは、災害対策本部よりも、現場での肉体労働を望んでいた。被災者たちと顔と顔で向かい合うことができる労働。その労働によって、ひとは、自分が「他者にとっての他者であること」を確認でき、そのことを通じて、「自分が自分であること」を確認できるのである。
本来、仕事が含んでいたはずの価値が、現代ではボランティアのなかにあるのだ。

□ まとめ

「生産するための仕事」ではなく「他者との関係を通じて自分の存在を確かめてゆく仕事」に、ひとは価値を置くべきである。

※ 成年後見に携わってきて、こう感じることがありました。「私は何を生産しているのだろう?」。
成年後見に限らず、高齢化社会における相続業務や介護医療産業は、何らかの財産を生み出す仕事ではありません。高齢者の方々が一生懸命に働いて、天に積んできた財産を、その人のために使う、又は崩れないようにその次の世代へ受け継がせてゆく、そういう仕事です。何も生産していないけれども、誰かの役に立つ仕事。
しかも、高齢化により衰退してゆく社会(個人的には、もっと狭く「自分の暮らす地域」といってもいいです)を支えることは、自分の生活を支えることにもつながります。
「誰かの役に立つ仕事」、しかも「自分のためにもなる仕事」なので、「何も生産していなくても、それはそれでいいんじゃないか」。それが私の勝手な持論でした。ほとんど同じ結論を鷲田さんが書いてくれていて、我が意を得たりです。読んでみてよかった。

ただし、生産を続けることが社会を維持する前提になっているのに、社会において、その生産を続けることができなくなってきていることには、注意を向けておいたほうがよさそうです。
具体的には、高齢者の方々が天に積んできた財産を承継して取り崩していって、その財産が尽きたとき、社会が人々の生存に必要な財産を十分に生産できない状況に、もし、なっていたら、その先に、どういう生き方があるのでしょう。とくに、私からみた子どもたち、彼ら彼女らの世代は、そうした問題に直面するのではないでしょうか。

※ 「他者との関係を通じて自分の存在を確かめてゆく仕事」。いい言葉ですね。
「自分らしさ」についての話題の続きとして、こういうことも書き留めておきます。
作曲家・武満徹さんの言葉。「音と音とは、響き合うと、お互いの波長を変え合い、お互いを違う音に変え合う。そこから音楽が生まれてくる。人間も同じ。ひとの考え方・価値観は、他者との出会いによって、変わることがある。」。
「自分らしさ」にこだわるよりも、むしろ、ひととの出会いによって自分の考え方・価値観が変わってゆくことを楽しんだほうがよさそうな気がします。
それにしては、私、普段すごく頑固ですが笑

※ この本で問題となった、未来一辺倒の歴史観。
未来一辺倒の歴史観は、過去を否定する歴史観でもあります。鷲田さんは、現代社会のファッションにおける「モード」について、こういう指摘をしています。「ファッションにおける『モード』は、それ自体が美しいかどうかではなくて、『新しい』ことに意味がある。常に過去を否定する。『新しいこと』『過去を否定すること』自体が価値になっている」。
こうした歴史観とは違う歴史観として、作家・堀田善衛さんは「重層的歴史観」というものを紹介しています。
・ 私たちが生きている「時」は常に「現在」である。
・ 私たちが見ることができる「時」は、「現在」そして「過去」である。
・ 私たちは「過去」を通して「未来」を見出すことができる。
・ 「現在」には「過去」と「未来」が重なっているのである。
「過去の否定」ではなく、「過去の重視」。過去を否定することではなく、重視することによって、はじめて真の意味での「未来」を見出すことができる。重要な指摘です。
ここまで書いてきて、日本やドイツの歴史修正主義のことを思い出しました。未来のために過去を否定する。未来一辺倒の現代社会の歴史観と、歴史修正主義とは、根っこが同じなのかもしれません。

※ 最後に素朴な疑問。そもそも、なぜプロテスタンティズムは、そこまで勤勉道徳を奨励したのでしょうか。私には「怠慢なカトリックへの反抗」というくらいの知識しかありません。反抗しなくてもよかった道徳、改革しなくてもよかった道徳もあったのかもしれません。興味が湧いてきました。

この本から触発を受けて、自分の仕事観を、とてもよくまとめることができました。すごい一冊でしたo(^-^)o

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