本田由紀『軋む社会』河出文庫 ほ8-1 2011.6.10
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309410906/
教育社会学者、本田由紀さんの論考集。
1 学歴社会論
ひと昔まえの学歴社会論は、就学以後、学歴がそのひとの職業人生に及ぼす影響を問題にしてきた。
いま現在の学歴社会論は、就学以前、そのひとがどのような家庭に生まれてきて、そのことが学歴にどのような影響を及ぼすかを、問題にするようになってきた。
国公私立の大学について比較してみると、1950年以前に創立の私立大学グループが、最も正社員就職率が高い。
〔中島コメント〕
私立大学の学費は、国公立の大学よりも高いでしょう。
出身家庭の格差が、そのまま教育格差になり、就職格差へとつながってゆく。そうした構図が見えてくる気がします。
2 「機会の罠」「人間力」「柔軟な専門性」
戦後、日本の教育水準は向上。大卒者が増えた。しかし、高等教育に見合う、高度な知識を必要とする仕事の総量は、大卒者の増加に比べて、増え方が鈍かった。このことから、せっかく高等教育を修了しても、その高等教育に見合った仕事に就くことができない大卒者が出てくるようになった。この状況のことを「機会の罠」という。
フォーディズム式の大量生産による、耐久消費財が普及してゆく時代は終わった。
現在は、多品種少量生産、または、サービス業の時代である。
「多品種少量生産」。生産する製品は、付加価値が高く・生産サイクルが短いもの。製品の企画には、新規の需要を開拓する能力が必要になる。
「サービス業」。この仕事には、ルーティンとして対人関係をこなしてゆく能力が必要になる。
新規需要開拓能力。対人関係能力。どちらにも共通するのは、それが非認知的で非標準的な「感情操作能力」(いわゆる「人間力」)であることである。
「機会の罠」のなか、ただでさえ過当競争の状況にある大卒者に対し、企業は昨今の経済状況及び経営状況から、正規雇用と非正規雇用を峻別して、正規雇用について、厳選採用の態度をとる。
その基準になるのが「人間力」。「コミュニケーション力」ということもある。
しかし、その具体的な内容は? 基準が曖昧であることから、大卒者は就職活動にどう対応したらよいか、苦しむことになる。
本田さんは、「人間力」という曖昧な能力に代えて「柔軟な専門性」という能力を提唱。
まずは、特定の専門知識、専門能力を身に付ける。そして、その専門という切り口から、総合的な知識、総合的な能力を獲得してゆく。これからの若者たちの能力獲得の流れは、こうあったほうがよい。
〔中島コメント〕
「人間力」について、もう一歩、具体的に分類して紹介する書籍として、大久保幸夫『仕事のための12の基礎力』(日経BP社)があります。私が社会人になりたての頃、この本を読んで、大変参考になりました。
「柔軟な専門性」。専門から総合に至る。その順番の大切さに同感です。
たとえば、宮崎駿さんも、「いっとき専門の世界にこもることを通して、『これが世界の秘密なのかな』というようなものが見えてくる」という趣旨のことを書いています(『本へのとびら』岩波新書)。
私自身、司法書士という「法律」の専門分野において学問・仕事をしているうちに、だんだん、総合的な知見を織り込んだ学問・仕事をするようになってきました。たとえば、不動産登記においては、経済の動きが業務の繁閑に関わるため、自ずと経済学を意識するようになりました。商業法人登記においては、会計・税務を意識するようになりました。成年後見においては、社会学、心理学、精神医学、死生学、そして哲学を意識するようになりました。
現実に起こっている現象は、ひとつ。その現象を、まずは、特定の専門分野から読み解くことができるようにする。そうしているうちに、だんだん、多面的な視点から、その現象を読み解くことの大事さが、分かってくる。視点が多面的になってゆく分、柔軟に、広く深く、その現象に取り組むことができるようになる。
「柔軟な専門性」とは、そうした能力獲得の流れを意味した言葉なのでしょう。
3 家族福祉依存社会
もともと、日本では、国家による福祉が、薄かった。
その薄い国家福祉を、企業による福祉、家族による福祉が、補っていた。
そして、非正規雇用の増大により、企業福祉も、薄くなった。
非正規雇用で生計を立てることができないひとびとを、いま、家族福祉が支えている。しかし、その家族福祉も、戦後の経済成長のなかで祖父母たち・父母たちが貯蓄してきた資産があるからこそ、成り立っている。今後、世代の交代が進んでゆくなかで、その資産は尽きてゆくだろう。そのあとに残るのは、自分自身の収入で生計を維持できない状況に陥っている、膨大な数の非正規雇用者たちである。
また、家族福祉の担い手となっている、「お母さん」への負荷は、高まり続けている。
子育てに全力を尽くすのが、よき母親。そんな先入観のもと、「この子が育ったら、私はまた自由になれる」と、頑張り続ける母親たち。しかし、雇用状況が劣化した今日では、子どもが、いつまでたっても、自立できないことすらある。それでは、「お母さん」に、自由は、いつ来るのだろうか?
〔中島コメント〕
成年後見も、うがった見方をすれば、いま現在は、戦前に生まれ、戦後の成長のなかで財産を蓄えていらした高齢者の方々から、報酬を頂くことによって、採算が立っている状況です。
これから、高齢者の方々について、世代交代が進むなかで、それらの方々の財産の規模は、全体的に、小さくなってゆくでしょう。
そうなった後、いかに成年後見業務を続けてゆくことができるか。そのことが課題になりそうな予感がします。
「お母さん」に、自由は、いつ来るのだろうか?
ご自身、「お母さん」でもある、本田さんならではの鋭い指摘です。
加えて、家族心理学者、柏木惠子さんは、「親が子育てに力を注ぎ過ぎると、子どもが自立できなくなる」と指摘していました(『おとなが育つ条件』岩波新書)。
これからの子育てには、どういう方法がありうるのでしょうか。重要な問題です。ヒントになる書籍として、柏木さんによる『子どもが育つ条件』(岩波新書)があります。
4 自己実現系ワーカーホリック
正規雇用が一般的で、企業福祉が十分あった時代は、「会社のために、みんな長時間、力を尽くして働いているのだから、お前も同じように働け」という、集団強制系ワーカーホリックが成立した。
しかし、非正規雇用が増え、企業福祉が乏しくなった今では、そうした集団強制は成立しない。
その代わりに出てきたのが、「自己実現系ワーカーホリック」。「この仕事なら自己実現できます! 過酷なのに低賃金ですけど!」。仕事にやりがいを求める若者たちが、自ら望んで、過酷で低賃金な仕事に没入してゆく。本田さんは、この状況を「やりがいの搾取」と呼ぶ。
〔中島コメント〕
自己実現系ワーカーホリック。個人的にも心当たりがあります。
そうしたひとたちを眺めていて、また、そうしたひとたちと接していて感じるのは、「『仕事に打ち込んだ時間』イコール『獲得した知識と経験の深さ広さ』ではない」ということです。いま、自分は、その仕事を通して、いったい何をしているのか。どこへ向かっているのか。それらのことと向き合う、仕事以外の時間を確保することが大事なのではないでしょうか。そうした時間を通してこそ、仕事で得た知識や経験が身に付いて、広まり・深まってゆく印象があります。
5 やる気のない若者?
せっかく就職したのに、すぐ辞める。そうしたことを繰り返しているひとたちがいる。
彼ら彼女らにかかる言葉。「根性がない」「意欲がない」「やる気がない」。
しかし、湯浅誠さんのルポによると、「職業体験が十分に蓄積できていないひとは、どの職場に就職しても、『私には、この仕事は無理だ』と感じがちになる」。
労働市場からの排除を受けたひとが、どんどん仕事に対する自信を喪失していって、ついには労働市場から、自分自身を排除する。仕事を探さなくなる。そうしたことが、ままある。そして、最後には、自分自身を自分自身から排除することも。自分自身を自分自身から排除すること、それは自分の命を絶つことである。
〔中島コメント〕
学生さんたちへのキャリア支援に携わるひとたちから、異口同音に出てくるアドバイス。「やりたくないことは、やらなくていい」。この言葉には、個人的に違和感がありました。
上記、湯浅さんの指摘を通じて、違和感の中身がハッキリしました。
大学卒業までの教育内容からして、職業体験を十分に蓄積できない状況にある学生さんたち。彼ら彼女らが「やりたくないことは、やらなくていい」となると、「この職場での仕事は、私には無理だ」そして「仕事自体、私には無理だ」と、職場そして労働市場から、自分自身を排除する方向へ、向かいかねないのではないでしょうか。そして、その流れの結末として、生きていくことが、いやになったら? 「生きたくないので、死ぬことにします」となったら、困りものです。
自分の直面した問題に、向き合い、取り組むことが、大事な場面もあるはずです。
たとえば、大江健三郎さんの『個人的な体験』(新潮文庫)。脳に障害を負って生まれてきた、我が子。主人公としては、「育てたくない」。いったんは子どもを殺そうとまで考えます。しかし、最後は、その子を育てるべく決意します。
同じく大江さんの『ヒロシマ・ノート』(岩波新書)。後遺症に苦しむ被爆者たち。治るあてのない治療の日々。生きることが嫌になっても、おかしくない日々。それでも、治療を続ける。生き続ける。
私自身が学生時代に触れて、生きることをあきらめない、その支えになってきた書籍たちです。
ただ、だからといって、なんでもかんでも、たとえば違法残業・違法指示に、「これが自分の仕事なんだ」と、向き合い、取り組む必要は、ないでしょう。
根性、意欲、やる気。そうした単純な精神論と、大江さんが書いた人間たちの姿との違いは、「倫理」の有り無しにあるのではないでしょうか。
倫理とは、「外部の参照軸には依拠せずに、ときにそれに抗してなされる決断。個人の選択と深く結びついている善悪の基準」です(河合隼雄『日本文化のゆくえ』岩波現代文庫)。
6 プロレタリア文学運動
かつてのプロレタリア文学運動は、労働者たちが言葉を獲得してゆくこと、つながってゆくことを、重要な主題として取り上げていた。
〔中島コメント〕
言葉の獲得。
学生さんたちと、就職支援イベントにおいて、対話していて、興味深かったこと。それは、言葉がなかなか出てこないひとが、一部、いたことです。
少し意味合いは違うかもしれませんが、宮崎駿さんの『千と千尋の神隠し』にて、湯婆婆が、千尋の名前を奪ったことを思い出しました。
言葉を獲得する機会、言葉を表出する機会が、いまの学生さんたちに、どれだけあるのでしょう。このことも、大事な問題です。
つながること。
かつての労働運動は、おそらく、労働者たちが、知性や理性の面から団結できなかったことが一因で、失敗に終わりました。
高等教育を修了したひとびとが増えた現在こそ、労働運動が広がってゆく可能性があるような気も、個人的にはします。
若者たちによる、労働組合の組成ができないか。そのことに、私は今、興味を持っています。