【読書】平田オリザ『わかりあえないことから』講談社現代新書

平田オリザ『わかりあえないことから』講談社現代新書 2177 2012.10.20
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000210663

 著者の平田オリザさんは、劇作家。小中高大、それぞれの段階でのコミュニケーション教育に携わってきた。

1 ダブルバインド

 就職活動における「コミュニケーション能力」重視への違和感。
 企業は、採用段階では、「異文化コミュニケーション能力を重視する」という建前をとる。経済活動のグローバル化のなかで、価値観も考え方も違う相手と協力していく能力。
 しかし、採用後、新社会人に企業が求めるのは「日本的コミュニケーション能力」。察する能力。空気を読む能力。周囲と足並みを揃える能力。
 この状況(採用段階と採用後とで学生へ・新社会人へ企業の求める能力に違いが出てくる)のことを、平田さんは「ダブルバインド」と呼ぶ。
 結局のところ、就職活動で有利な学生とは、「年上の人間たちとの付き合いに慣れている学生」。たとえば、体育会系の学生。アルバイトをたくさん経験してきた学生。

〔中島コメント〕

 ダブルバインドの問題については、本田由紀さんの『軋む社会』(河出文庫)にも指摘がありました。

 「日本的コミュニケーション能力」の基礎となってきた、日本的な人間関係。中根千枝さんが『タテ社会の人間関係』(講談社現代新書)で指摘した人間関係でしょう。読みたくなりました。

2 日本的コミュニケーション能力 前提の崩壊

 日本的コミュニケーション能力は、日本社会における人々の生き方が画一的で、同質性が高かった時代でこそ、通用した。しかし、日本社会での人々の生き方が多様化した今日、その能力は通用しなくなってきている。「黙っていても通じ合う」ことが難しくなってきているのである。

〔中島コメント〕

 タテ社会の崩壊。私個人としては、その崩壊の中で、タテの人間関係をヨコの人間関係に直して、広げてゆく人間でありたいです。

3 会話と対話

 日本社会にて人々が身に付ける話し合いの方法は、「会話」。価値観も考え方も似通った間柄で話し合う方法。
 価値観も考え方も異なる間柄で話し合う方法として、「対話」がある。
 対話において重要な精神。「異なる価値観や考え方の触れ合いのなかから、共有できるものを見つけ出して広げてゆくことのできる精神」。あるいは、「お互いがお互いに価値観や考え方に変化を与え合うことを喜ぶことのできる精神」。
 とはいえ、特にビジネスの場においては、対話について、いつまでも続けることができるわけではなく、一定の時間で・一定の結論を出す必要にかられることもある。価値観も考え方も異なる間柄で話し合い、一定の時間で・一定の結論を出すことができる能力。それこそが、これからのリーダーシップにおいて必要な「異文化コミュニケーション能力」である。

〔中島コメント〕

 「お互いがお互いに価値観や考え方に変化を与え合うことを喜ぶことのできる精神」。武満徹さんのエッセイ「暗い河の流れに」を思い出します。このエッセイ、このところ頻繁に思い出します。

4 弱者のコンテクストを理解する

 一方で、これからのリーダーシップには、「弱者のコンテクストを理解する」能力も必要である。コンテクストとは、「相手が、どういうつもりで、そのことを言っているのか」という「文脈」のことである。
 社会的弱者は、言語的弱者でもあることが、ままある。たとえば、子どもが「宿題、忘れたのに、田中先生、怒らなかったよ!」と、嬉しそうに走ってきたとする。子どもの発言のなかに直接には表れていないが、このとき子どもが親に伝えたかったものは、田中先生への好意であろう。これからのリーダーは、弱者のコンテクストを理解することのできる人間であってほしい。

〔中島コメント〕

 「弱者のコンテクストを理解する」能力。大事な能力であることに同感です。
 子どものコンテクストについては、河合隼雄『子どもの宇宙』、岩宮恵子『生きにくい子どもたち』(岩波現代文庫)が興味深いです。
 認知症の症状のある方々のコンテクストを理解するためには、小澤勲『認知症とは何か』(岩波新書)や『老いのこころ』(有斐閣アルマ)が有益でした。
 なお、神谷美恵子さんの『生きがいについて』は、死にゆくひとのコンテクストを理解しようとした一冊でした。

 また、職場において人事権・指揮命令権のある立場にいるひとは、その権限の対象となる人々とコミュニケーションをとるとき、いくら自分が気さくに話しかけている自信があっても、その立場からくる権限が、相手のコンテクストに影響を与えうることを、十分認識しておくべきでしょう。

5 単語でしゃべる子どもたち

 「対話」の重要性が増してきているにもかかわらず、日本における言語教育には、従来から変化がない。
 熱心な教師が、子どもの首を絞めて、「表現しろ」と促しているように見える。

 そもそも、同じクラス・同じ担任のなかで学校生活を過ごしてきている生徒たちに、「自己表現しろ」と促しても、表現相手たちは既にその生徒のことを十分に知っているではないか。

 同様に、家庭においても、両親が子どもに対して「察する」ことで、子どもが表現する前に、その機会を無くしていることが、ままある。「ケーキ」と単語だけ言えば、ケーキが出てくる。ときには、何も言わなくてもケーキが出てくることすらある。

 学校においても家庭においても、子どもが「自分のことを伝える必要性を感じる」ことが少ない状況にある。

6 不定形な日本語

 国語も、まるで統一された言語規範があるかのように教えている。
 国語の統一は、明治以降、強い国家、強い軍隊、強い組織の形成のためには、必要だった。
 しかし、国家も軍隊も組織も、必ずしも国民を守るわけではない。そのことを、いままでの歴史は示している。
 国家にも軍隊にも組織にも頼らずに生きていくことが必要であり、しかも、価値観や生き方が多様化している今日では、むしろ、国語教育は、「日本語は、不定形で変化を続けているものである」という認識を基礎として行うべきである。

〔中島コメント〕

 若い人の書いたメールを見ていると、何か架空の模範に合わせようとしたかのように、文章がカチコチになっていることが、たまにあります。
 形式にとらわれない、日本語での自由な表現は、日本の作家さんたちが模索してきています。私自身は、文章表現については、司馬遼太郎さん、開高健さん、堀田善衛さんのエッセイや評論から影響を受けてきました。

7 「ランダムをプログラミングする」教育

 現在の教育は、期末試験システムからくる「早く・たくさん覚える教育」。
 しかし、期末試験を乗り切った後、覚えたことを卒業までに忘れるのでは仕方がない。「よく覚える教育」こそ必要である。
 よく覚えるためには、そのとき生徒たちにとって興味のある出来事を題材にして、授業を組み立てるのがよい。ワールドカップが話題なら、サッカー選手に手紙を書いたり、曲がるシュートがどうして曲がるのか考えたり。このような方法での教育を「ランダムをプログラミングする」教育という。
 ただし、「ランダムをプログラミングする」ためには、その教育課程で教えておくべきことを、教師がきちんと把握しておく必要がある。そうでないと教え漏れが起こる。

〔中島コメント〕

 「ランダムをプログラミングする」。オンザジョブトレーニング(OJT)にも通じる考え方ですね。OJTのためには、教える側が、「教えるべきこと」をきちんと把握しておく必要があるでしょう。重要な指摘です。

8 仮面の集合としての自分

 人間は、社会において様々な役割を演じながら生きている。勤め人、親、PTAの役員、等々。その社会的役割のことを「ペルソナ」という。「ペルソナ」は「仮面」という意味。「自分」は「仮面の集合」である。「本当の自分」というものは、ない。社会的役割を演じ分けてゆくこと、そのことを楽しむことができるように、子どもを育ててゆくことが大切である。

〔中島コメント〕

 河合隼雄さんが『日本文化のゆくえ』で指摘した、「単一の倫理」「複数の倫理」にも通じる指摘です。平田さんの立場は後者であるようです。
 一方、法学においては、「単一の人格がある」前提で法体系を構築しているようです。この違い、たいへん興味深いです。

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