堀田善衛『定家明月記私抄・続篇』ちくま学芸文庫 ホ-3-3 1996.6.10
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堀田さん、後期主要作品のひとつ。『路上の人』の次の作品。
平安時代後期から鎌倉時代前期にかけて生きた歌人、藤原定家の日記、『明月記』。
この『明月記』に出てくる言葉、「紅旗征戎、吾ガ事ニ在ラズ」。意訳すると、「天皇が戦争を起こそうとしているようだが、私の知ったことではない」。この言葉に、堀田さんは、学生だった頃、触れた。堀田さんの当時は、学生たちが、戦争の脅威にさらされていた。天皇の起こす戦争について「私の知ったことではない」と言い放つことのできる定家に「一生涯つづくような衝撃を受けた」。
60代になった堀田さんは、本書の執筆を通して、『明月記』を読み解き、定家の人生に寄り添ってゆく。
関東武士の勃興。その勃興に伴う、朝廷による各地の支配力の弱体化。朝廷は、各地からの徴税について、各地の武士たちに依存するようになってゆく。そのことが面白くない、後鳥羽上皇。深まってゆく対立。乱世の兆し。
そんななか、定家は、息子の嫁を、関東武士のなかでも豪族の家柄から、もらい受ける。政略結婚。
他の公卿たちも、あらそって関東武士たちと婚姻関係を結んでゆく。武士の子女たちが大挙して京都に流入してくる。彼ら彼女らの多くは、文字を知らない。定家の編んだ『新古今和歌集』が代表する平安文化は、終焉してゆく。
関東武士との政略結婚、それと並行して、官位の昇進運動。官位の昇進に伴って増えてゆく荘園。そして、荘園からの収入。定家は、人間関係も・財産も、着々と積み重ねてゆく。
そんななか、定家は、後鳥羽上皇から、突然の「勘勅」を受ける。柳について詠んだ和歌が、後鳥羽上皇の逆鱗に触れた。後鳥羽上皇は、以前、定家の庭にあった柳が欲しくなり、勝手に抜き取ったことがあった。「あのことを皮肉っているのか!」。どうも定家は、そこまでの意味を、歌に込めたわけでは、なさそう。
和歌は、当時の朝廷にあっては、芸術作品であると同時に「コミュニケーションの手段」であった。詠み手は思いを歌に託し、読み手は、その思いを読み取る。こうしたコミュニケーションは、お互いの立場・背景・事情が分かり合えているときのみ、成立する。定家と後鳥羽上皇は、疎遠だった。勅勘は、没コミュニケーションの結果だった。
勘勅の一件からも、言えること。
定家の歌は、朝廷の芸術作品、そしてコミュニケーションの手段であることを離れ、独自の境地に達していた。
その歌学は、家学へと変化してゆく。勅勘による謹慎のなか、定家は、その歌の技法を、門外不出の家芸とするべく、基礎文献の執筆、そして、参考文献の編成に執心する。
このように、定家は、「家についた芸」の先駆者でもあった。
その後、後鳥羽上皇は、関東武士を打倒するため、挙兵。承久の乱。
詩歌でしか各地を見たことのない、現状認識。関東武士に勝つために、最も力を入れたことは、祈祷。そんな後鳥羽上皇は、戦闘に熟練した関東武士たちに、あえなく敗退。進退がきわまった彼は、味方だった公卿たちを「首謀者」として「断罪」。そして配流の身となる。こんな無責任な、天皇としての在り方が、どうして有り得るのだろうか。
承久の乱の結果、政治の実権は、関東武士たちに移った。
それでも、定家のいる京都には、「京都に行けば食える」と、各地から、あぶれた民衆が流入してくる。彼らは暴徒化。寺社仏閣を荒らす。公卿の屋敷に押し入る。
そこに加えて、干ばつ。全国規模の作物不振。京都という都市は、各地から運ばれてくる食物によって、住民たちの食事をまかなっていた。そのため、京都で飢饉が発生した。
餓死した遺体が京都に満ちるなか、最上級の公卿たちは、贅沢三昧。歴然たる貧富の差。
群盗の跋扈や、飢饉のなかで、定家が生き延びることができたのも、彼が、きちんと年貢のあがってくる荘園を、複数保有していたからだった。
乱世にありつつも、定家は、官位を極め、和歌についても、右に出る者のない権威になっていった。
『明月記』のなかで、定家が68歳になったとき。堀田さんも、「この文を書いている私も、今、68歳である」と書きつける。そして、『明月記』からの引用文について、カッコを外す。定家の思いが、堀田さんの思いに重なる。
老いて不自由になってゆく身体。定家は視力の低下に悩む。堀田さんも「緑内障によって片目が不自由である」。
親しかった友人たちの他界。「当初ノ僚友、往キテ留マル無シ」。
定家は80歳で、その生涯を閉じる。「定家卿よ、さらば」。
〔中島コメント〕
堀田さん、「承久の乱」を通じて、「太平洋戦争」を振り返っているようでした。
架空の現状認識。「神風が吹いて日本が勝つ」。
後鳥羽上皇による戦争指揮と、日本軍による戦争指揮、よく似ています。
そして、「こんな無責任な、天皇としての在り方が、どうして有り得るのだろうか」。太平洋戦争の結果、昭和天皇が在位を続けたこととも、通じる話ですね。
この問題について研究していたのが、丸山眞男さんだったのではないでしょうか。日本政治思想史についての丸山さんの研究、読んでみたくなりました。そのことは、某政党が「日本の伝統」と主張している政治思想が、本来の日本の政治思想であるかどうか、検証することにも、つながるはずです。
「和歌は朝廷におけるコミュニケーションの手段であった」。「こうしたコミュニケーションは、お互いの立場・背景・事情が分かり合えているときのみ、成立する」。平田オリザさんが『わかりあえないことから』で触れている「日本的コミュニケーション」そのままの方法です。こうしたコミュニケーション方法は、中世から現代まで、連綿と続いてきているようです。
また、宮廷にも関東武士にも属さないひとたちが、京都という都市へ流入してくる状況も、現代と似ています。中央にも地方にも、居場所のないひとたちが、東京という都市へ流入してくる状況。
しかも、この本にも名前が出てきた網野善彦さんの研究によると、こうした流民たちの呼び名は「無縁」だったそうです。現代の社会についても「無縁社会」という言葉がありますね。現代の「無縁」も、中央にも地方にも参加できないひとたちのことを指しています。この一致は、偶然なのでしょうか。
コミュニケーションの方法といい、流民の発生といい、「戦後レジーム」ではなく「中世レジーム」が、現代まで続いてきている観があります。
そして、中世では、都市の人口が膨張したのち、干ばつによって、飢饉が発生しました。東京も、中世の京都と同じく、各地から(そして外国から)買い入れた食糧で、住民たちの食事をまかなっています。もし、経済状況の悪化によって、各地から・外国から、食料を買い入れることができなくなったら? 考えすぎかもしれませんけれども、個人的に、そうした危惧を感じます。
なお、網野さんの「無縁」論は、日本史研究者からは、突飛な意見だとして、批判も多いそうです。
また、中世での「無縁」には、「自由」という含意もあったとのことです。「無縁」で「自由」なひとたちは、次の時代の形成に、どのように関わっていったのでしょうか。興味深い問題です。
また、文字の読めない関東武士の子女たちが京都に来ることで、平安文化が終焉したという話からは、堀田さんが回顧談において「大学入学のため富山から東京に出てきて、東京は文化が低いと感じた」(『めぐりあいし人びと』)という話を、個人的に思い起こします。
現代の東京にも、文化はあるのでしょうか。ちなみに、豊島区の「アート・カルチャー都市構想」における目玉のひとつは、アニメです。アニメについて、一概に、文化と呼んで、よいのでしょうか。
学生時代に、定家の「紅旗征戎、吾ガ事ニ在ラズ」という言葉に触れてから、60代の終わりごろまで、定家と付き合い続けた、堀田さん。
「定家卿よ、さらば」。ご自分の青春にも、別れを告げるような言葉ですね。堀田さんの内面において、またひとつ、「<老い>の成熟」があったのではないでしょうか。
33歳、人生の折り返し点にさしかかったばかりの若造からすると、この『定家明月記私抄・続篇』は、「大成したひとにしかできない、人生のふりかえり方だったなぁ」と感じました。
堀田さん自身、数々の文学賞・栄誉賞に輝き、財産も充実。苦心と努力とを積み重ねて、人生を歩んできた実感があったでしょう。だからこそ、官位と歌道をきわめた定家に、ご自分を重ねることができたのでしょう。
私自身は、素寒貧のままでいいと考えています。私と、私にご縁のあるひとびととで、これからの時代を、生き抜いていく。そのことに主眼を置いてゆきます。