【読書】今村仁司『近代の労働観』岩波新書

今村仁司『近代の労働観』岩波新書 新赤版584 1998.10.20
https://www.iwanami.co.jp/book/b268403.html

 「労働の喜びとは他者から承認されたいという欲望が充足されるときである」

 カバーの裏に書いてあった、この言葉が気になって、読んでみました。

1 古代の労働観

 古代ギリシアでは、労働は蔑視すべき行為であり、余暇における公的活動にこそ価値がある、ということになっていた。

 ニューブリテン島の「マエンゲ」という人々は、古代の風習を現在も保持している。彼ら彼女らにとって、労働である農作業は「祈り」である。彼ら彼女らは、自分たちが一年間で耕した田畑を対象として、お互いにその出来を評し合う、共同儀式を執り行う。

2 近代における労働

 近代ヨーロッパ、資本主義社会の形成過程において、「労働」とは、「社会が人々を馴致していくための手段」だった。
 当時、農村から都会へ、人口が移動。しかし、都会に来たところで、すぐに職があるわけでもない。農村から出てきた労働者たちは、貧民と化した。彼ら彼女らは、教会の運営する「救貧院」において、労働に従事。そこでの生活は、教会ゆずりの「規則にのっとった正しい生活」。救貧院で、人々は、農業に慣れていた自然な身体から、工業に適応できる人為の身体へと、その身体を作り変えていった。
 救貧院は、その「社会に適応していない人々を、労働によって馴致する場所」という性質から、その後、刑務所になっていった。

 労働の喜び。それは救貧院・刑務所の運営側が考え出した願望だった。「規則にのっとった、正しい生活のなかで、敬虔さが生まれてくる。それが労働の喜びをもたらすはずだ」。
 しかし、プロテスタンティズムの禁欲道徳や勤勉道徳が身に付いたとして、それが自分自身のためになる立場の人々は、「資本家」である。「労働者」が禁欲に勤勉に働いたところで、彼ら彼女らの労働が生み出す価値は、基本、資本家のものになる。
 労働者にとって、「労働の喜び」は、子どもが砂遊びに熱中するような状況になる以外には、存在しえない。

 なお、近代ヨーロッパにおける商品生産工程の機械化について、人々は、「これで人間にとって自由な時間が増えるのでは」と、期待していた。

3 承認願望

 1920年代、ドイツにおける労働者たちへのインタビュー調査があった。
 その内容について、よくよく読んでみると、彼ら彼女らは、労働自体よりも、職場内での人間関係や、職場外での人間関係において、他者から承認を受けているかどうかを気にしている。他者からの承認を感じているひとは、自分の労働に満足している。感じていないひとは、満足していない。
 人々は、労働それ自体よりも、他者からの承認に、喜びを見い出しているのだ。

4 進むべき方向

 狭い職場内において、他者から承認を受けることを求めるよりも、人々は、古代ギリシアのように、余暇における公的活動に、価値を見いだすべきである。
 しかし、より公的で大きな共同体への志向は、「政治的国家への同一化」や「ナショナリズムへの埋没」に直結しやすい。
 マエンゲの人々のように、「身体があるかぎり必要である労働」(すなわち最小限の労働)と「公共的討議空間」とが分離しない生活形態を形成してゆくべきである。

5 中島コメント

 「労働」が「刑罰」(懲役)である社会。考えてみると、すごい社会ですね。社会で「まともに」(?)暮らしている(ことになっている?)大多数の人々が従事している「労働」、その「労働」をすることが、苦役として、「刑罰」になるのですから。それでは、逆に言うと、社会において、大多数の人々は、日々、「刑罰を受けている」ということになるのでしょうか。目の覚めるような指摘でした。

 いままで、学生さんたちへの進路選択イベントに関わってきて、彼ら彼女らから聞いた、個人的に印象に残っている言葉があります。「仕事よりも、自分のお家で、読書したり、音楽を聴いたりする時間を大切にしたい」。「仕事は10年くらいで辞めて、あとは旅行して暮らしたい」。これらの言葉には、「そもそも(なるべく)働きたくない」という含意があります。ひょっとしたら、こうした言葉を語っていた学生さんたちは、上に述べたような労働の本質を、意識的にか・無意識的にか、感じていたのかもしれません。

 労働の喜びは、救貧院・刑務所の運営側が考え出した願望だった。
 このことからは、学生さんたちに対する大学側・企業側からの「仕事で自己実現ができる」という言説を、個人的に連想します。社会からの、人々への禁欲道徳・勤労道徳の刷り込みは、形を変えて、いまも続いているようです。

 肝心の、私がこの本を読むきっかけになった「他者からの承認が、労働の喜びになっている」という指摘については、根拠が「1920年代、ドイツにおける労働者たちへのインタビュー調査」のみでした。根拠づけが弱かったです。
 今村さんは、どうして、マズローの欲求段階説を援用しなかったのでしょうか。
 個人的には、「他者からの承認」も、生きていく上では大事ですけれども、「自分で自分を承認すること」も、同じくらい大事だと考えます。そして、「自分で自分を承認すること」については、「自分のしていることが、自分にとって、他者にとって、どういう意義があるのか」ということを内省することが、重要であると考えます。

 また、「近代ヨーロッパにおける商品生産工程の機械化について、ひとびとは、『これで人間にとって自由な時間が増えるのでは』と、期待していた」。この言葉からは、最近流行の「AIによって生産性が向上して、人間の労働時間が減る」という言説を、個人的に連想します。開高健さんの言葉、「変われば変わるほど、いよいよ同じ」。

 進むべき方向については、個人的には、今村さんに同感しつつ、若干、見解の違いも感じました。
(1)「自分にとって熱中できる面白い仕事に取り組む」(子どもが砂遊びに熱中するような状況になる)
(2)「自分で自分のボスになる」(自営業つまり資本家になる)
 こうした二つの方向性があってもよいのではないでしょうか。
 個人的な体験としては、司法書士の仕事において、面白くて仕事に熱中できて、そのことが喜ばしかったことが、何度もありました(1)。
 また、小さな資本で独立開業できるようになった現代日本では、労働者ではなくて自営業(資本家)になる道も、選択しやすくなっています(2)。

 また、公的領域とは反対方向、私的領域、つまり家事への配慮が、今村さんに欠けていることも、気になりました。「身体があるかぎり必要である労働」(すなわち最小限の労働)に、家事も含んでいる、ということなのでしょうか。それにしても、今村さんの視野には公的領域のことばかりが入っている印象です。

 考えるヒントが詰まった、面白い一冊でした。

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