池袋の司法書士・行政書士中島正敬┃中島司法書士事務所

【読書】河合雅雄『子どもと自然』岩波新書

河合雅雄『子どもと自然』岩波新書 新赤版113 1990.3.20
https://www.iwanami.co.jp/book/b267932.html

 著者の河合雅雄さんは、人類学者。ちなみに、心理学者・河合隼雄さんのお兄さん。
 人類学の観点から、子育ての原点を探る。

1 子どもを宿す場所 巣から腹へ

 かつて、人類の祖先は、森のなかで巣をつくって暮らしていた。その巣の場所は、一か所に決まっていた。そして、その巣のなかで、子どもを育てていた。
 しかし、食糧を得るたびに、決まった巣に戻ることは、煩わしい。そこで、彼ら彼女らは、決まった巣を持たず、移動しながら暮らすようになった。そうやって暮らしていくうちに、巣の中で育てていた子どもを、巣の代わりに、女性の腹のなかに、長期間、宿すようになった。巣が腹へ移ったのである。

〔中島コメント〕

 人類の歴史においては、まず、定住から移住への変動が、あったのですね。
 現代日本社会は、定住社会です。移住から定住への再度の変動が、いつ、どんな理由で、起こったのか。個人的に興味があります。

2 人口抑制

 人類の祖先は、森のなか、広い範囲を渡り歩くことで、たくさんの食料を手にすることができるようになった。
 天敵も、いなかった。
 このような状況では、人口が増えていくことに、歯止めがきかなくなる。人口が増えすぎると、いくら食糧がたくさんあっても、足りなくなる。
 そのため、人類の祖先は、子どもを出産する間隔について、生理面での長期化によって、人口を抑制するようになった。

〔中島コメント〕

 都市の人口が増加して過密になると、その都市における出生率が下がるのも、この話と同様に、人間自身が、自然に、人口の増加を抑制しようとしているのかもしれません。

3 人間の成熟

 人間は、身体に関しても、頭脳に関しても、26歳から27歳くらいで、成熟する。
 この観点から、若者のモラトリアム現象を、考え直してみるべきではないか。
 現代日本社会において、人間は、20歳で成人することになっている。しかし、この年齢設定は、人生が50年だった時代のもの。その後、人生は80年超まで延びた。その分、人間が社会において成熟する年齢も、延びているのではないか。
 人間の成熟する年齢が伸びているにも関わらず、従前の通り、20歳での成熟を若者に対して求めることが、彼ら彼女らの20歳から26・27歳までの模索の時期を、「モラトリアム」として否定的に捉えることに、つながっているのではないか。
 身体面から、頭脳面から、そして社会面から考えて、27歳までを青年期とするべきである。

〔中島コメント〕

 27歳までが青年期。生身の人間から考えても、社会の目線から考えても、説得力のある意見ですね。
 私自身、独立開業した時期が、27歳ごろでした。個人的な経験からも、河合さんの意見に賛成します。

4 早期教育

 ヒトの脳は、6歳児までに急速に発達する。
 特に、3歳児までの伸びが大きい。3歳児になると、脳の重量が、成人の83%にまで達する。
 このことに注目して、「早期教育を施すことが大切だ」という意見がある。
 しかし、幼児の脳が、どのように世界を把握していくのか、そのメカニズムは、まだよく分かっていない。そうした状況で、予想と期待にのみ基づいて、早期教育を進めることは、危険である。

〔中島コメント〕

 早期教育については、個人的に、次のような価値観を感じます。
「子どもは、教えたら、覚える」
 子どもを、パソコンのように、操作の対象とする価値観です。
 新井紀子さんの提案、「AI社会への対応として、子どもには読解力を身に付けさせるべき」にも、こうした価値観と通じるものを、個人的に感じます。
 読解力は、身に付けさせようと思って、身に付けさせることができるものなのでしょうか。

5 母性行動 ――本能か学習か――

 母性行動そのものは、生得的に備わっている。しかし、それを適切なかたちで表出するには、学習や経験が必要である。
 飼育下のサルは、自分の子どもが生まれたとき、本能から、自分の手で育てようとする。しかし、自分自身が育てられた経験がなかったり、群れのなかで子どもを育てた経験がなかったり、子育てについて学習したことがない場合には、自分の子どもを上手く育てることができず、死なせてしまう。

〔中島コメント〕

 糸井重里さんの言葉、「愛するには技術が必要である」を、個人的に思い出しました。

ほぼ日刊イトイ新聞 ダーリンコラム <あたえる技術・愛する技術>
https://www.1101.com/darling_column/2006-05-22.html

6 子別れ

 サルの子育ては、通常、依存と自律をない交ぜながら、うまく子どもが自立していくようになっている。
 母親は、子どもがある程度、育ってくると、依存してくる子どもに対して、咬みついたりして攻撃して、自立を促すようになる。

〔中島コメント〕

 自立を促すことは、子育ての集大成なのですね。
 柏木惠子さん・平木典子さんの『家族を生きる』に、こういう言葉がありました。
「親が子育てに全力を尽くした結果、子どもは何でもやってもらいすぎて自立できない人間になる。親も自分で生きていく生活基盤を構築しそこねて、子どもに依存せざるをえなくなる。こうした相互依存関係ができあがることもある」
 それにしても、どうして、現代日本の母親のなかには、子育てに全力を尽くしすぎるひとがいるのでしょうか。
 その原因として、日本における「母性愛神話」があるのではないでしょうか。個人的な仮説です。
 母性愛神話、その内容のひとつが、「子育てに全力を尽くすこと」。その結果、母親において、子別れのための子どもへの攻撃行動が、抑制を受けることになります。しかし、母親としての本能としては「子どもを自立させたい」。こうした葛藤から、子どもを抱え込みつつ、どうしても攻撃してしまう、虐待が生じることがあるのではないでしょうか。
 子どもへの虐待、その事案のうち一部は、母性愛神話(学習)と、母性本能(自律)との矛盾が、表面化したものなのかもしれません。

7 子どもとあそび ――社会性――

 子どもの親離れを推し進めるためにも、兄弟姉妹や、近い年齢の子ども同士での遊びは、重要である。
 かつては、井戸端会議というものがあった。子ども同士で遊んでいるそばで、母親たちが会話していて、自然に見守りができていた。いまは、そうした状況がない。子どもは、家のなかで、物を相手に遊んでいる。
 こうした状況においては、母親は、教育にばかり目を向けるのではなく、「子どもと遊ぶ」こともするべきである。
 遊ぶにあたって、大切なことは、母親も、子どもも、お互いが対等な関係であること。

 子どもは、2歳から保育所へ通い、遊び友達をつくるとよい。仲良くなった子どもたちについては、家族ぐるみで付き合うとよい。

〔中島コメント〕

 私自身も、井戸端会議のようなことができたらいいなぁと、個人的に考えます。
 公園のほとり、1階に、ガラス張りの事務所を設けて、子どもたちが遊ぶ様を眺めながら、仕事ができる環境を整えてゆきたいものです。

8 ブタ化する子ども

 人間の身体能力が、退行してきている。
 現代での教育は、アルファベットを覚えて駆使する等、分析的・総合的な認識を重視している。しかし、全体像を直観的に認識する能力も、人間には必要である。
 また、細かい指使いや、二足歩行していく能力も、母親がボタンをかけてあげたり、目的地が近くてもクルマで連れていってあげたりすると、退行してゆく。
 これらのことから考えると、イノシシがブタになっていったように、人間も、野生を喪失していっているのではないか。
 文化人類学には、「人類の自己家畜化」という言葉がある。人類は、動物のみならず、自分自身をも、家畜のように、運動をせず、自ら生きるための努力も放棄するような状況に、陥れているのではないか。

〔中島コメント〕

 「ブタ化する子ども」。すごい言い方ですね…
 言い方は、ともかく、個人的にも、思い当たるふしがあります。
 柏木惠子さんの『おとなが育つ条件』に、こうした調査結果が載っていました。
「男子大学生は学業成績をはじめ課外活動、友人関係など大学生活への適応が全て女子学生よりも低く(立教大学2007)、自我発達も弱く将来の自立にも自信がない傾向が強い」
 ひょっとしたら、学校は、子どもたちにとって、家畜小屋のようになっているのかもしれません。だからこそ、元気の無い子どもたちが、出てきているのかもしません。
 こうした意見を書きながら、個人的に、動物園を連想しました。動物園は、動物を、自然から隔離して、管理している場所でもあります。その動物園にいる動物には、元気がありません。どうしたら、動物が元気になるのか。そのことを考えたとき、動物を自然に帰すことが、一番なのではないでしょうか。
 そうした考えから、更に連想すると、もし、学校が、子どもたちにとって、動物園と同じ環境になっているのだとしたら、「学校のなかで、いかに子どもを元気にするか」を考えるよりも、「学校以外に、どれだけ多様性のある居場所を複数確保するか」が、大事なのではないでしょうか。

9 家族が成立する条件

 河合さんの仮説。
 家族は人類に特有のもの。家族に食料を持ち帰るために、二足歩行が発達した。このように、家族は人間にとって自然なものである。であるから、家族が崩壊することは、自然に反することである。
 家族が成立する条件は、下記の通り。
(1)配偶者間に経済的な分業が存在すること
    例)男性:狩猟 女性:育児
(2)インセストタブーが存在すること
(3)外婚制が存在すること
    ※ 外婚制とは「異なる家族(群れ)の間でのオスまたはメスの交換」
(4)コミュニティーが存在すること
    ※ より具体的には「単位集団が相互に親和的な関係で結ばれていて、単位集団によって上位の社会組織が作られていること」

〔中島コメント〕

 この条件設定、河合さんの生きた時代からの影響を、個人的に感じます。なお、河合さんの生年は、1924年です。

 性別役割分業。男性は狩猟、女性は育児。こうした考え方は、現代日本においては「性別によって人間を差別している」という理由から、問題になるのではないでしょうか。

 コミュニティーにおいて、「単位集団によって上位の社会組織が作られる」。家族が国家を形成する、ということでしょうか。もし、そうだとしたら、国家は個人が形成するものであって、家族が形成するものではありません。家族は、国家の形成単位ではありません。

10 父親とは何か

 父親とは、人類が500万年前に誕生して、家族が成立したときに現れた、社会的な存在。
 父親は、母親に比べて、はるかに歴史が浅い。母親は、それまでの2億年にわたる哺乳類の歴史のなかでも、ずっと母親であった。
 父親が出現するまで、霊長類の群れのなかでは、雄は、子種を提供する存在でしかなかった。
 それが、人類における父親については、下記の通り、役割が変わった。なお、子種を提供することは、彼自身の役割において、必須のものではない。
(1)単位集団に所属する雄であること
(2)単位集団の防衛にあたっていること
(3)単位集団の生活の維持のための経済活動をすること
(4)子どもの養育にあたること
 戦後、日本の父親は、(2)(3)にばかり、あたってきた。しかし、(4)子どもの養育もしてこそ、父親である。
 男親としての父親の役割としては、①母親の子どもへの過干渉を止めること、②子どもに自分の生き方を示すことがある。

〔中島コメント〕

 「子種を提供することは、彼自身の役割において、必須のものではない」。
 しかし、戦前の家父長制モデルと、戦後の正社員×専業主婦モデルとを、個人的に考え合わせてみると、これらは、男性にとって「自分の子どもを産んだ女性を、自分の家に閉じ込めて、自分の子どもを育てさせる」家族モデルとして、機能していたのではないでしょうか。
 そうした考えからすると、「女性の自由」について、追求して考えるときには、「夫からの解放」すなわち「パートナーシップを解消する自由」にまで、考えを及ぼすべきなのかもしれません。
 しかし、「パートナーシップを解消する自由」を肯定するとなると、「それでは、人間の愛情とは、何なのだろうか」という問題に、つながってきます。前者は法規範の問題であり、後者は倫理規範の問題である、とすれば、一応の整理はつきます。でも、もう少し、個人的に考えたことを、書き留めておきます。
 まず、河合隼雄さん、鷲田清一さんの言葉を、またしても、引用しておきます。
「三人称の視点から『あの人は社会的にああだ、経済的にこうだ』ではなく、二人称の視点から『わたし、あなた』の関係になること。自分を賭けること」
 「現実の社会において、社会的な地位に関して、どのように成功しても、『他の誰でもない固有な人として接することのできる相手』がいなければ、たましいに必要な課題を達成したことにはならない」
 こうした言葉たちの含む、「夫婦は1対1の関係である」という考え方、その起源は、どうやらキリスト教にあるようです。そうした起源と、その歴史のなかでの変容、そして日本における受容、その後の変化について、知りたいです。

 父親の役割①、母親の子どもへの過干渉を止めること。上記6のコメントにおいて指摘した、母親による子どもの虐待についても、それを父親が止めるという役割は、重要でしょう。

 父親の役割②、子どもに自分の生き方を示すこと。この役割については、河合隼雄さんも、指摘していました。河合兄弟の間で、意見の交換があったのかもしれません。

11 サルの文化 ヒトの文化

 サルの文化においては、規範に違反しても、制裁はない。
 ヒトの文化においては、規範に違反すると、社会的な制裁がある。
 サルの文化においても、それまでの規範を破り、新しい文化を創造する者がいる。そういう者には、劣位のサルが多い。
 ヒトの文化においても、若者には、それまでの規範を破り、新しい文化を創造してほしい。

12 日本人の自然観

 日本人にとっては、自然は、「人間をはるかに超越した不動の存在」であるようである。
 しかし、開発技術の発展により、日本人も、もはや回復できないほどに、自然を破壊するようになってきた。
 日本人には、ハイキングやキャンプを通して、ぜひ自然に親しんでほしい。
 自然に触れておくことは、いつか自然に還るときのための、心の準備にもなる。

〔中島コメント〕

 「日本人にとっては、自然は、『人間をはるかに超越した不動の存在』」。
 同じ趣旨のことを、宮崎駿さんも語っていました。
 こうした自然観に関する指摘と、イノシシがブタになっていったという指摘とから、宮崎さんの映画『もののけ姫』を、個人的に思い起こします。

 また、ハイキングやキャンプによって、本当の意味での自然への親しみは、湧いてくるのでしょうか。
 「自然のなかで暮らすことは、草むしり等、絶え間なく手入れが必要になるということである」。そうした趣旨のことを、養老孟司さんが、語っていました。
 将来、私個人としては、自然の豊かな場所で、老後を過ごしたいと考えています。そのことは、自然のなかで暮らす、ということでもあります。そのことが、具体的な生活としては、どういうことになるのか、そのことも知りたいです。

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