【読書】岩宮恵子『フツーの子の思春期』岩波書店
岩宮恵子『フツーの子の思春期』岩波書店 2009.4.24
https://www.iwanami.co.jp/book/b262941.html
著者の岩宮恵子さんは、臨床心理士。スクールカウンセラー。『生きにくい子どもたち』は、好著。
岩宮さんの指導教官は、河合隼雄さん。河合さんの『子どもの宇宙』も、好著。
黒板に牛乳パックを投げつける子ども。
「イケてる女の子グループ」からの排除が、不登校に直結する子ども。
岩宮さんが、彼ら彼女らの心の内を、見守りながら、丹念に読み解いていく。
あぁ、子どものころ、あのときの自分の気持ちは、こういう気持ちだったんだ。そう懐かしく鮮やかに思い出すことのできる、読み解きがいっぱい。
1 内面の形成
「このひとは、こうだから嫌い。あのひとは、ああだから嫌い」
思春期になって、両親や友達を嫌いはじめる子どもたち。
そのうち、その矛先は、自分へと向くようになる。
「そう言っている自分が嫌い」
自分へのまなざし。そのまなざしがあってこそ、その子どもは、自分の内面を形成してゆくことができる。
自己嫌悪は、思春期における大事なステップである。
自己嫌悪に遭遇して、内面を形成しはじめた子どもにとって、必要となる人物は、優れた「聞き役」である。「聞き役」にとって、必要な力は、曖昧なメッセージに堪える力。そして、自分自身の感情の動きについて、モニターできる力である。
まだ内面のない子どもが、よく口にする言葉。「フツー」。
「何か困っていることがあるんじゃないの?」
「いや、別に、フツー」
「ちゃんと言葉にしないと分からないじゃない!」
しかし、その子どもには、まだ「自分が困っている」ということを認識することのできる「内面」がないのである。
以前は、自分の葛藤を表に出さないために、意識して「フツー」と言っている子どもも、いた。そうした子どもたちは、カウンセラーとの会話を積み重ねてゆくうちに、安心して、自分の葛藤について、話し始めてくれていた。
しかし、だんだん、どこまでいっても「フツー」ばかりの子どもたちが増えてきた。内面の形成のない子どもたち。
場合によっては、20代、30代、40代になって、はじめて、思春期に直面するような、内面の問題に直面するひとも、出てくるようになった。
〔中島コメント〕
思春期にやってくる自己嫌悪は、自然なことなんですね。
「いまの子どもには、自己肯定感がない。だから何々しよう」。そうした問題意識・対策意識は、持たなくてもいいのかもしれません。
また、「内面を形成すること」と「意味を理解すること」とは、連動しているのではないでしょうか。
子どもが自分の内面を形成してゆくときに、言葉がどういう役割を果たしているのか、個人的に興味があります。
内面形成と意味理解とが、連動して進んでゆくのだとしたら、新井紀子さんの意見、「子どもに読解力を」についても、読解力についての教育のみでは、十分な効果は期待できない、ということになりそうです。
2 解離
自分の心にとって、堪えることのできない衝撃がやってきたときに、そのことをなかったことにする、心の動きがある。このことを「解離」という。
「解離」は、日常に適応するために、ある程度は、必要である。しかし、「解離」が過ぎると、自分の内面と、自分の生活との関係が、切れる。たとえば、楽しいことを、楽しむことができなくなる。悲しいことを、悲しむことができなくなる。
また、「解離」しないで生きるひとがいることによって、周囲のひとも含めて、その生きる世界が、一貫性を取り戻してゆくこともある。
3 喪失体験・超越体験
「どうして自分は〇〇なのだろう」
「どうして自分は××ではないのだろう」
思春期の子どもたちは、自分の資質・能力を超えたものと、現実の自分とを同一視しようとして、苦しむ。
たとえば、子どもがよく抱く、「芸能界へ入りたい」という願望も、「自分がいる現実とは違う世界へ行きたい」という願望の現れであることがある。
超越した存在でも何でもない、普通の自分、現実の自分を見定めてゆく「喪失体験」も、思春期における大事なステップである。
その一方で、「自分は、周囲の人間とは、違う人間なのである」という「超越体験」から、その超越した世界へ到達するために、常軌を逸した努力をする子どもも出てくる。そうした子どもは、それまでの一体的な人間関係のなかから突き出て、ひとりで走ってゆく。
〔中島コメント〕
解離、喪失体験、超越体験。
個人的に、自分の大学時代、司法書士を目指すと決意した時期のことを、思い出しました。
私の思春期は、大学時代にあったのかもしれません。
自分が、思春期の子どもたちのこころに寄り添うことになったときに、大事なヒントを示してくれそうな、素敵な一冊でした。