【考えの足あと】定義メモ「誠実」

 「誠実」とは、「自分のした意思決定について、その結果を引き受けること」。
 法における「信義誠実の原則」と、「(未)成年後見」「契約」「不法行為」(要件に故意・過失がある)とを、整合的に捉えると、こういう定義になります。
 信義誠実の原則は、被後見人の行為能力を制限することについて、また、契約がお互いを拘束することについての根拠になっているのみならず、通常の成人した自然人に関しては、「意思決定を誤った結果、他人に対して損害を与えた場合には、その損害を賠償すべきである」という規範として、機能しています。そうしたことからすると、民法システム社会においては、その社会で生活する全ての個人に、「経済的で合理的な意思決定のできる人間であれ」というプレッシャーが、絶えず、かかっている、ということができるでしょう。
 一方、心理学においては、「人間には、意識を包含するかたちで、無意識がある」ということが、分かってきています。こうした知見からすると、民法システム社会は、「意識に偏った社会」ということもできるでしょう。
 意識が高まり続けると、どうなるか。統合失調症が発症します。精神科医の中井久夫さんは、「統合失調症は、社会が生み出した精神疾患である」という趣旨のことを書いています。
 まとめると、「誠実も、度が過ぎると、病気になる」。しかし、そうだとすると、「適度な誠実」についての線は、どういうところに引くべきなのでしょう。この問題については、堀田善衛さんが『ミシェル 城館の人』において示した判断枠組が参考になりそうです。理性的存在(意識的存在)としての人間、自然的存在(無意識的存在)としての人間、これら双方における、人間の在り方を、更に経験したり・学習したりしてゆくうちに、また新たに、個人的に分かってくることが、あるかもしれません。

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