【読書】山極寿一『父という余分なもの』新潮文庫

山極寿一『父という余分なもの』新潮文庫 や-74-1 2015.2.1
https://www.shinchosha.co.jp/book/126591/

 著者は、霊長類学者、山極寿一さん。長年、ゴリラを研究してきたひと。

1 父親という存在

 父親は、霊長類の長い歴史のなかで、人類の誕生とともに、はじめて誕生した。
 母親と子どもという関係は、人類以前にも、あった。
 母親と子どもから、父親としての承認を受けて、はじめて男性は「父親」となる。

 父親としての承認を、母親と子どもから、受ける方法は、2通り、ある。
(1)制度上の父親
 ⇒ 地位と権限を利用して、父親であることを、強制的に認めさせる。
(2)養育上の父親
 ⇒ 子どもの養育に参加することによって、父親であることを、認めてもらう。

〔中島コメント〕

 この記述から、是枝裕和さんの映画『そして父になる』を、個人的に思い出しました。
 主人公の良多は、自分が優れた稼ぎ手であるという、その地位と権限を利用して、妻と子どもに、自分が父親であることを、認めさせていました。
 しかし、その方法では、妻と子どもから、承認を得ることができないようになり、孤立してゆきました。

 河合隼雄さんも、「戦前の父親は、立場上、威張ることができていただけ」との見解を、どこかで述べていました。

 あくまで個人的な経験からの印象論ですけれども、戦前にとどまらず、戦後においても、家族内でも、社会的にも、「養育上の父親」の役割を果たすことができるひとが、多くはいなかったのかもしれません。
 いまも、40代・50代の男性たちの一部に、「制度上の父親」がいること、いままでの職場や任意団体での活動のなかで、個人的に経験してきました。
 「制度上の父親」が多く、「養育上の父親」が少なかったことが、少子化、そして若い労働者の不足に、つまりは「ひとが育ってこないこと」に、つながっているのではないでしょうか。

 ただ、他人事のように書いてきましたけれども、個人的に、私の事務所という小さな企業内においても、「ひとを育てること」の難しさは、感じています。すくすくと伸びてくるスタッフさんたちに対して、私自身も、学習したり・経験したり、継続して成長してゆかないと、すぐに、スタッフさんたちからの問いかけに対して、十分に向き合うことができなくなるのです。
 「子どもを育てることは、自分を育てること」。家族心理学者、柏木惠子さんの言葉です。
 私には、私の事務所内でのスタッフさんの育成の経験しかありませんけれども、「養育上の父親」であることの大変さ、私にも、少し分かるような気がします。でも、その大変さが、面白さでもありますね。

2 家族進化論

 人間は、「他人に食物を持ち運ぶ」という行動を通して、二足歩行する能力を、獲得してきた。
 二足歩行の他に、「舌の発達」も、人類の進化において、重要な役割を果たした。
 他人に食物を持ち運ぶ、「与える分配」においては、「相手は、この食物を口にしたいだろうか」という、相手と味覚を共有する能力が、必要になる。相手と味覚を共有する能力は、相手の心情を察する能力へと、つながっていった。
 また、「舌の発達」が、人間にとって、「言葉を発する能力の発達」につながっていったことも、重要である。

〔中島コメント〕

 このあたり、人類の進化と、家族の形成との関係については、別著『家族進化論』に、詳細な取りまとめがあるようです。個人的に、ぜひ読んでみたいです。

 また、「与える分配」とは、「贈与」のことです。人類史における「贈与」の歴史も、個人的に気になるところです。

 「言葉を発する能力の発達」に「舌の発達」が関係していたという指摘も、個人的に、興味深いです。どうやって、ひとは、言葉を獲得してきたのか。そのことを探ることは、子どもたち、若いひとたち(ひょっとしたら相当な年齢のひとたちまで)が、どうしたら言葉を獲得することができるのか、その方法を探ることについても、参考になるのではないでしょうか。

3 ボスという存在

 若いオスのゴリラは、自分の育った群れから離れて、ひとりオスになり、だんだんと自分の群れを形成してゆく。
 自分の群れを形成してゆく、その苦闘。若いオスのなかには、精神的に不安定になり、結局、群れの形成が上手くできない個体もいる。
 なお、ボスが老いた場合、その群れを承継するオスが、現れることがある。ただ、そのオスが、その群れを、無事に承継できるかどうかは、そのオスの努力次第である。

〔中島コメント〕

 若いオスのゴリラが、自分の群れを形成しようと苦闘する、エピソードは、独立開業して、自分の事務所を形成しようとする、若い司法書士のエピソードに、よく重なるような気が、個人的にしました。ゴリラに親近感…笑
 ゴリラの群れのなかでの、ボスという役割の形成、そして、その交代。まるで、人間社会における、家族や企業のなかでの、「リーダー」という存在の形成、そして、その交代のようです。
 ゴリラの群れと、人間の家族、企業とは、本質においては、重なり合う部分が、相当あるのかもしれません。

4 パートナーシップ

 ゴリラに関しては、オスが、群れから出て、自分の群れを形成しようとしたり、メスが、オスの群れを渡り歩いたり、パートナーシップが流動的な時期もあるけれども、おおむね、子どもができると、メスが、そのオスの群れに、定着する。

 チンパンジーに関しては、オスとメスとが複数ずつで群れを形成して、その群れのなかで、乱婚する。オスにとっては、どの子どもが自分の子どもなのか、分からない。「この群れのメスと、この群れの子ども」を、「この群れのオス」が、囲い込むかたち。

〔中島コメント〕

 現代社会において、離婚の件数が、一定の数、あることから考えますと、人間は、本来は、チンパンジーに近い性行動をとる動物であるのかもしれません。

 末永く添い遂げる、一夫一妻主義をとる、法律婚という制度は、果たして、人間の本性に適した制度なのでしょうか。

 フランスにおいて、事実婚が普及した、その背景には、「法律婚における、離婚のしにくさ」(原則として裁判による離婚が必要となる)が、あったといいます。

 また、フランスにおいて、出生率が改善した理由のひとつに、「法律婚と子どもとの分離」も、あるようです。

「たとえ、結婚したとしても、パートナーシップは、解消することができる」
「たとえ、法律婚による夫婦ではなくても、パートナーとの子どもは生むことができる」
「たとえ、子どもが生まれても、パートナーシップは、解消することができる」
 これらの自由の保障があってはじめて、ひとびとはパートナーシップを形成するようになり、また、子どもを生むようになるのかもしれません。

 だとすると、そもそも、なぜ、法律婚という制度が、できあがったのでしょうか。このことについて、個人的に、興味があります。
 仮説1。オスにとって、自分の子どもを、確実に育てる制度が、必要だった。
  ⇒ 離婚の禁止 そのための「末永く添い遂げる道徳」
 仮説2。社会にとって、人間を管理するために、法律婚という制度が必要だった。
  ⇒ 一夫一妻(結婚する機会の平等) そのための「末永く添い遂げる道徳」
 いま、個人的に思い付く仮説は、このようなものです。より具体的に、法律婚という制度が、歴史のなかで、どのような経緯で生まれてきたのかは、これから調べてゆきます。

 また、法律婚という制度についての検証を通じて、「人間の本来の性向に、適したパートナーシップは何か?」ということを考えることと同時に、「人間にとって、愛情とは何か?」ということを考えることも、重要でしょう。
 パートナーシップの基礎となるはずの「愛情」とは、具体的には、何なのでしょうか?
 個人的な印象としては、たとえば、「自分にとって、さらに都合のいい相手が見つかったから」という理由によって、そのとき既に形成していたパートナーシップを解消することは、そもそもの人間としての「愛情」に欠ける行為です。
 単純な「パートナーシップは、解消できるようにしておいたほうがいい」という意見のみでは、結局、機会主義によるパートナーシップが、はびこることになるのではないでしょうか。「それでもいい」という価値判断も、ありうるでしょう。しかし、その価値判断が、まっとうな価値判断なのかは、個人的には、十分検証しておきたいです。

 フランス映画『アマンダと僕』では、主人公が、自分を捨てて、他に家族を形成した、母親について、「もう、会いたくない」との言葉を、発していました。
 「愛情」について、考えるとき、この映画のことを、個人的に思い出します。
 フランスにおいても、パートナーシップの解消が自由になった分、そのことに対応した葛藤が、発生するようになっているのでしょう。

 ただ、「愛情」という概念も、「法」と同じく、フィクションなのかもしれません。
 しかし、「法」がないと、この社会が成り立たないように、「愛情」もないと、この社会は成り立たないのではないでしょうか。
 人間が社会を形成するにあたって、個々人がフィクションを理解することができること、そして、そのフィクションに参加することができることは、必要条件であるはずです。
 そのフィクションのひとつであるはずの「愛情」の意味内容が、このように不明瞭になっていることは、問題なのではないでしょうか。

 なお、このことに関連して、旧約聖書神話における、アダムとイヴのことを、個人的に思い出しました。
 アダムとイヴが「禁断の実」を食べ、「智恵」を身に付けたことが、「人間の原罪」である。旧約聖書には、そのようなことが書いてあります。
 「智恵」(理性)があってこそ、ひとは、フィクションを理解して、フィクションに参加して、社会を形成することができます。
 しかし、旧約聖書は、そうした「智恵」(理性)を身に付けて、チンパンジーのような動物の世界から、一歩を踏み出したことが、人間の原罪であるとしています。
――人間は、自然的存在でもあり、理性的存在でもある。そして、特に、理性的存在であることが、原罪であるということになっている。
 重要な指摘であると、個人的に考えますので、書き留めておきます。

 開高健さんは、『輝ける闇』のなかで、「人間は大脳を欠いた無脊椎動物である」と、人間の自然的存在である側面を、憎んでいました。開高さんの人間観は、旧約聖書の人間観とは、正反対です。
 宮崎駿さんは、『もののけ姫』においては、自然的存在である人間の立場から、理性的存在である人間を憎む、サンというヒロインを描いていました。この人間観は、旧約聖書の人間観と、同様です。
 また、宮崎さんは、『千と千尋の神隠し』においては、子どもである千尋が、はじめて参加する社会を、自然的存在であるカエル男やナメクジ女の社会として、描いていました。宮崎さんが、社会における人間の厚顔無恥さを、自然的存在であるカエル男やナメクジ女になぞらえて描いたのだとしたら、宮崎さんは、自然的存在である人間も、憎んでいることになります。
 となると、宮崎さんは、理性的存在である人間(もののけ姫)も、自然的存在である人間(千と千尋の神隠し)も、どちらも憎んでいるということになります。旧約聖書よりも強い、人間に対する否定です。
 ただ、宮崎さんは、『風立ちぬ』においては、名前もない、画面の片隅の登場人物について、その表情を、きちんと描くようになっていました。人間に対する憎しみが、自然的にも、理性的にも、和らいだのでしょう。この心境に、宮崎さんが至った経緯、個人的に探りたいです。

 そういえば、「アダムとイヴは、伝説上は、世界で最初の、一夫一妻によるパートナーシップである」とも言うことができるかもしれません。ひょっとすると、一夫一妻によるパートナーシップの起源は、この神話にあるのかもしれません。アダムとイヴの物語について、個人的に、興味が湧いてきました。

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