先日の記事【考えの足あと】「『アバター』という言葉から」にて、こういうことを書きました。
「成年後見人も、一種のアバターです。ただ、本人も後見人も、生身の人間ですので、どちらがどちらに乗り移っているのか、判別できません」
その後、こういうふうに考えてみると、整理がつきました。
私たちは、社会システムに、フィクションとしての「人格」というかたちで、アカウントを持っていて、そのアカウントで、社会システムへログインしているのです。
ですので、生身の人間のうち、子どもだったり、認知症だったりして、「言葉を操り、社会システムへ上手くログインする」ことができない場合、親権者・後見人が付いて、代わりにログインする、ということになるのです。
社会システムにおける、フィクションとしての「人格」こそが、生身の人間である私たちにとっての、アバターだったのです。
具体的に説明してみますと、私は、社会的存在としての「中島正敬」である前に、生物的存在としての「私」です。生物的存在としての「私」が、社会的存在としての「中島正敬」として、社会システムにログインして、活動しているのです。この感覚、伝わるでしょうか…(^_^;)
このように整理すると、成年後見人に、本人の身体についての決定権限がないことも、説明がつきます。
社会システムが成年後見人に決定権限を付与できる範囲は、「社会システム内部での決定事項に関して」に、とどまります。社会システムは、その外部の存在である、生身の人間、その身体についての決定権限を、成年後見人に付与できないのです。
こうした整理からしますと、本人の身体に関する「代行意思決定か・意思決定支援か」という問題についても、自ずと、方向が定まってきそうです。
本人の身体についての問題が、社会システム内部(理性世界)における問題ではなく、その外部にある、自然世界における問題であるならば、「自然に任せる」という方向にしたほうがよい、ということになるのではないでしょうか。「選択しない」という選択。Let it be…
ただ、「本人が死を迎えるにあたって、周囲の人々は、どのように対応するべきか」という、社会システム内部での問題は、残ります。本人をめぐる、周囲の人々、その人間関係の問題です。具体的には「本人死後の、医師に対する、遺族からの損害賠償請求を、未然に防ぐには、医師は、どのように本人の身体に、対応すればよいか」という問題などが、ありえます。
「代行意思決定か・意思決定支援か」。その問題の論点は、「本人の意思がどこにあるのか」よりも、むしろ、「周囲の人々が、本人に対して、どのように対応するべきか」。そう考えたほうが、いいのかもしれません。
【追記】
この社会システムのなかで生きていくためには、「フィクションを理解する能力」が必要になります。
この能力は、まずは単純に生き物として生まれてくる子どもたちにとっては、「手で触れることも、目で見ることもできないものを、認識する」という、異様な能力です。
たとえば、不登校の子どもたちが感じている、生きにくさの一因は、こうした能力を培うよう、社会システムが子どもたちへ要求していることに、あるのかもしれません。
また、こう考えてみると、子どもたちやお年寄りこそが「現実」に生きていて、大人たちこそが「異界」に生きている、と言えるのかもしれません。
【追記2】
フランスの家族制度が、法律婚主義から、事実婚容認へと、舵を切ったことは、社会システムにとっては、「いったんシステム内部に取り込んだ『家族』を、外部に手放した」ということだったのかもしれません。
システム内部の規範である、「信義誠実の原則」や「契約による拘束」などで、家族を管理することは、自然世界の出来事である、人間の家族形成には、適さなかったのでしょう。
社会システムのなかに、人間の行いを、どこまで取り込んで、管理するか。そうしたことも、社会システムの運営においては、問題になるようです。