【読書】小川洋子ほか『言葉の誕生を科学する』河出文庫

小川洋子ほか『言葉の誕生を科学する』河出文庫 お-27-2 2013.11.20
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309412559/

 作家・小川洋子さんと、言語学者・岡ノ谷一夫さんとの対談。
 岡ノ谷さんは、言語の起源について、研究しているひと。「さえずり言語起源論」。「言葉は、さえずりから、つまり、歌から生まれた」。

1 異性への求愛

 鳥の歌声。鳥は、なぜ、鳴くのか。異性への求愛のため。
「歌を上手に歌っているオスが、かっこいい」
 歌うことは、本来、鳥が生きていくためには、無駄なこと。その歌が上手であるということは、十分な「体力」そして「食糧獲得能力」があることを、意味している。
 そうしたことから、オスは、一所懸命に歌う。歌っているうちに、歌うこと自体が目的になり、生涯独身のまま、素晴らしく洗練した歌を、歌い続ける個体もいる。

 なお、オスが求愛行動するか、メスが求愛行動するかは、動物によって、異なる。おおむね、オス、メス、どちらか、「全体的にみて繁殖可能な個体が余る方の性」が、求愛行動する。
 オス、メスが、ほぼ同数である場合、メスが妊娠中は繁殖に参加できないので、その分、相手にできるメスが少なくなるため、相対的にオスが余るようになり、オスが求愛行動することになる。

〔中島コメント〕

「無駄なことのできるオスが、かっこいい」
 文化人類学は、「人間は、破滅的な贈与をすることがある」ということを、指摘しています。その贈与をすると、自分の生活が立ち行かなくなる、贈与。
 そこまでの贈与をすることについても、「求愛行動」の観点から、理解することができるかもしれません。
 「破滅的な贈与」とは、具体的には、どのような贈与なのでしょう。個人的に、興味が深まりました。そうした贈与文化のある社会において、破滅的な贈与をした後、果たして、贈与したひとの人生は、どのようになってゆくのでしょう。

 「歌うこと自体が目的になったオス」。人間世界にも、いそうです。個人的に、親近感…

 「全体的にみて繁殖可能な個体が余る方の性」が、求愛行動する。この指摘について、現代日本社会のことを、連想しました。
 いま、子育てが経済面で可能な男性が、以前よりも、少なくなっています。その分、自主的に求愛行動する人数について、男性から女性へ、その多寡の重心が、移ってきているかもしれません。
 いまの50代くらい、まだ「若年男性の貧困化」の生じていなかった時代に、青春時代を過ごした男性たちが、20代・30代の男性たちを、「女性は、見たら、口説け」という趣旨の言葉で、けしかけている場面に遭遇したことが、何度かあります。
 50代の男性陣の時代は、経済面において子育てが可能な男性が、いまよりも多く、その分、競争が激しく、女性とパートナーシップを結ぶために、求愛行動する必要性が、高かったのでしょう。
 いまの20代・30代の男性については、全体的に人数が少なくなっている上、貧困化によって、下記の二つのグループに、分かれている印象が、個人的に、あります。
A 女性が見向きしない男性(多数)
B 女性が求愛行動する男性(少数)
 こうしたグループ分けから見えてくる構図は、次の通りです。女性たちから求愛行動を受ける、少数の男性たち。そうした男性たちに、数の面から、あぶれて、相手にされなかった女性たち。そして、そうした女性たちが、見向きしない、多数の男性たち。不毛です。
 それに、女性たちが求愛行動するくらい、自分の生計を確立した男性たちにとっては、そこへ至るまでに、Aグループに属するものとして、コツコツ、働いてきた経緯があるでしょうから、手のひらをかえして、女性たちが求愛行動してくることについて、素直には喜ぶことができないのではないでしょうか。
 そうした女性たちからの好意に、愛情に、「あなたは、私にとって、都合のいい相手です」以上の意味があるのでしょうか。無いとしたら、そうした好意、愛情は、裏返せば、「あなたが逆境に陥ったら、私は、見捨てます」という意味になるのではないでしょうか。そうした疑念を、男性たちは、抱くことになるのではないでしょうか。
 未婚化・非婚化の原因は、経済面にだけではなく、精神面にもある気が、個人的に、しています。
 とはいえ、「女性たちが、子育てしながら、自分自身で生計を確立してゆくための基盤」が、現代日本社会においては、若年男性たちに比べても、更に脆弱であって、そのために、女性たちが男性たちに、経済面での生計確立を求めがちになっていることも、十分勘案するべきでしょう。

 また別な連想。産業革命を経た、資本主義社会においては、経済面で豊かになる(異性の気を惹く)ためには、「資本家になって、労働者を安い賃金で働かせて、利益を大きくする」ことが、必要になります。資本主義社会が、利幅を増やして、発展してゆく、その原動力のひとつとして、「異性への求愛行動」という欲望が、あったのかもしれません。

2 序列・秩序

 ハダカデバネズミは、その鳴き声によって、群れのなかでの序列を形成している。鳴き声については、「音の順番」が大事。その「音の順番」について、司る部位が、「群れでの序列」について、認識する機能も、担っている。

〔中島コメント〕

「鳴き声による、序列の形成」
 このことから、人間社会における「言葉による、法の形成」そして「法による、秩序の形成」を、個人的に、連想しました。ハダカデバネズミも、人間も、していることは、本質においては、同様なのかもしれません。
 なお、岡ノ谷さんによると、「言葉は情動を乗せない道具」であるそうです。「情動を乗せないことで、他人を操作する」。情動を乗せると、相手の情動と衝突して、心理上の葛藤が生じやすくなり、相手を操作しにくくなるといいます。個人的に、興味深い指摘です。かつて読みました『家事事件手続法』(有斐閣)においては、「心理上の葛藤を、調停で解決すべきなのか」という指摘が、学者さんから出て来ていました。法の世界は、言葉でできた世界ですから、情動を乗せにくく、心理上の葛藤も、解決しにくいのかもしれません。
 また、岡ノ谷さんによると、音楽は、コミュニケーションのうち、感情的なもの、情動的なものを乗せる方法であるそうです。

3 言葉と滅亡

 「フェルミのパラドックス」。宇宙に存在する、星の数からすると、「人間の文明の水準を超える文明」が、たくさん存在していても、おかしくない。しかし、他の文明と、人間の文明とは、まだ、出会ったことがない。この謎についての解のひとつが、「言葉を持つと、滅亡する」。言葉は、原子力を生み出す。そして、原子力を使いこなすことができず、その文明は、滅びてゆく。

〔中島コメント〕

「言葉を持つと、滅亡する」
 作家・堀田善衛さんは、その持論として、「文明が滅びるときには、極美なものが現れる」ということを、書いていました。その典型例が、小説『定家明月記私抄』の主人公である、藤原定家による『新古今和歌集』でした。和歌。言葉による芸術。その和歌のなかでも、極美なものが、平安文化の終焉を、飾ることになりました。
 いつの時代にも、言葉による秩序があり、その秩序が精緻になってゆき、限界に達した時点において、精緻になった言葉による、極美な芸術が現れる。つじつまが合うように、個人的には、感じます。
 現代日本社会においても、法の世界が、精緻になってきていること、そのこととは裏腹に、現実の世界が、退廃してきていること、個人的に感じています。
 言葉の世界が、その精緻さを増すと、その世界に参加できる人間が、少なくなり、かえって、社会の連帯が、弛むことになるのかもしれません。

4 つながること

 現代社会における、ソーシャルネットワークサービス。
 そのサービスにおいて、ひとびとは、「つながること」自体を、目的としている。つながったら、そのあと、やりとりする内容については、どうでもよくなる。
 このことに近似した現象として、白鳥のつがいの「鳴き交わし」がある。彼ら彼女らは、用もないのに鳴き交わすことによって、「お互いにコミュニケーションする意図がある」ことを、確認しあっている。
 人間が、SNS上において、つながり続けてゆく結果、自己と他者との区別が、どんどん、無くなってゆくのではないか。そうしたことを、岡ノ谷さんの学者仲間である、藤井直敬さんの『つながる脳』は、指摘している。
 小川さんの言葉。本文にて、「他者とのつながりを強化する方向に注がれるエネルギーと、自己を探索するエネルギー、このバランスが崩れているのかもしれません。たぶん、本が読まれなくなったというのもそこにつながっていくんでしょうね。自己について深く思索する必要を感じないなら、本を読まなくてもいっこうに構わない。自己と対話する機会がなくても、いくらでも他人と対話することで紛らわすことができる」。あとがきにて、「やはり人間、考えなければ駄目だと痛感した。結論が出ないとはっきりしている問題についてこそ、考え抜くべきだ」。

〔中島コメント〕

 白鳥のつがいの「鳴き交わし」。交際相手同士が、お互いに、毎日、電話・メッセージによって、言葉を交わすことにも、似ています。「お互いにコミュニケーションする意図があることを、毎日、確認しあう」。そうした意図が、基本的に「ある」ということについて、お互いに信頼関係を築くことができたら、こうした毎日のやりとりは、無くても差し支えなくなるのでしょう。

「人間が、SNS上において、つながり続けてゆく結果、自己と他者との区別が、どんどん、無くなってゆく」
 自己と他者との区別がつかなくなる。この症状は、統合失調症の急性症状でもあります。精神科医・中井久夫さんによる指摘、「統合失調症は、社会の生み出した病である」。現代社会は、ますます統合失調症に親和的な社会に、なってゆくのでしょうか。

 また、統合失調症の事例について、このような紹介がありました。
 「死にたい」。そう言っていた患者さんが、症状が良くなったのち、こう振り返ったそうです。「話し相手に対して、受け取ることができない、魔球のような言葉を投げていた」。話し相手である精神科医は、その言葉を、「より具体的に言ってみてください」と解きほぐして、治療にあたっていたそうです。そのように、解きほぐして、語彙を増やしてゆくうちに、患者さん自身が、死ぬような問題ではないことに、気付いてゆくとのこと。
 「相手の言葉を、解きほぐしてゆく」。よき態度です。

「結論が出ないとはっきりしている問題についてこそ、考え抜くべきだ」
 この言葉、私の持論である、「『まっとうな考え方』とは、『まっとうなこととは、どのようなことであるのか、考え続けること』である」にも、似ています。小川さんに、親近感。
 この持論は、開高健さんの一連の著作、特に『ベトナム戦記』(朝日文庫)『輝ける闇』(新潮文庫)『開高健の文学論』(中公文庫)から、私が学び、得たものです。これらの著作群のなかで、開高さんは、結論が出ないとはっきりしている問題について、考え抜いていました。開高さんは、私にとって、内省の方法について、お手本を示してくれたひとでした。
 一方、小川さんは、こうも語っています。
「その世界の輪郭の外側にいて、こう、じっと見ているんですね」
「いちいちその物語の渦中に入っていたら、それは身が持ちませんよ」
 小川さんの小説の登場人物たちに、内省の描写がないことは、小川さん自身、意識してのことであるようです。
 内省を言葉にした、開高さん。言葉にしない、小川さん。お二人とも、「考え抜く」ひとではありつつも、「その内省を言葉にするか」ということについては、態度に違いがあるようです。

5 神の想像

 「はじめに言葉ありき」。なぜ、ひとは、神という存在を想像したか。
A説 社会の安定のため
B説 死の回避のため
 小川さん、岡ノ谷さんとしては、B説が、しっくりくる。自分の生命は、有限だけれども、無限な存在があり、その存在とのつながりによって、安心を得ることができる。

〔中島コメント〕

 B説については、心理学者・河合隼雄さんも、宗教の存在意義として、指摘していました。
 「はじめに言葉ありき」。そのように考えた場合、世界が終わったとき、最後に残っているもの。それも言葉である、ということに、なるのかもしれません。「言葉のみ残りぬ」。

 それにしても、「はじめに言葉ありき」とは、個人的に興味深い考え方です。言葉の世界である、法の世界からすると、この考え方では、「人間よりも前に、法が存在していた」ということになります。人間よりも前に、社会秩序がある。そう考えることは、社会秩序を維持するためには、有用でしょう。
 宗教は、社会秩序を維持する機能も、担ってきました。そうした機能からすると、宗教が「はじめに言葉ありき」とすることも、自然なことでしょう。

6 意識の形成

 人間の意識は、他者があって、はじめて形成される。
 まず、人間には、他者の行動を予測するために、他者の内的過程を想像する機能が、発達した。「心の理論」。その機能を、今度は自分に使うことによって、意識というものが、形成されるようになった。「ミラーニューロン」。
 人間が、社会性のある動物であることが、人間の意識を生み出すきっかけとなった。
 そして、形成された意識は、言葉によって、定着されるようになった。
 さらに、意識が言葉によって定着された結果、「時間」という概念が生まれた。そのことによって、人間は「自分は、いずれ、死ぬ」ということを、認識するようになった。時間の発見が、死の発見に、つながった。

〔中島コメント〕

 作曲家・武満徹さんは、エッセイ「暗い河の流れに」において、次のような、評論家・石川淳さんの言葉を、紹介しています。
「世界はさまざまの異った考え方によって成立ち、そして、思想は他者を自覚することなしには生れようもない」
 そして、自身の言葉で、こう続けています。
「異なった声が限りなく谺しあう世界に、ひとは、それぞれに唯一の声を聞こうとつとめる。その声とは、たぶん、私たちの自己の内側でかすかに振動し続けている、あるなにかを呼びさまそうとするシグナル(信号)であろう。いまだ形を成さない内心の声は、他の声(信号)にたすけられることで、まぎれもない自己の声となるのである」
 他者があってはじめて、自己が形成される。
 この本での岡ノ谷さんの上記見解と、ぴったり同じ観察です。

 また、哲学者・鷲田清一さんは、「自分」という言葉について、次のように定義しています。
「自分にとっての自分」
「他者にとっての他者」
 「自分」という存在のなかに、「他者」をも含む定義。
 上記してきましたように、人間の意識の形成にあたって、他者の存在が不可欠であるのであれば、この定義は、妥当なものでしょう。

 いままで、私が、武満さん、石川さん、鷲田さんから教えを受けてきた「自分」というものの定義について、生物学者の岡ノ谷さんによって、更なる根拠づけがありました。

 連想。作家・中島敦さんの小説「山月記」には、人との交わりを絶った結果、虎と化した人物が登場しました。他者のいない人間は、その意識を形成できず、獣と化すのでしょう。

 私もまた、他者との関わりによって、自分の存在を、確かめ続けてゆきたいものです。あらためて、個人的に、そう考えました。

7 AならばB BならばA

 「AならばB」であっても、「BならばA」とは、限らない。
 たとえば、「テロリストは、イスラム教徒だった」。しかし、「イスラム教徒は、テロリストである」とは、もちろん言えない。
 推論としては、誤り。しかし、人間は、こう考えがち。そして、このように考える能力は、人間にとって、「シンボル」を操る能力へと、つながっていった。
 このように「間違えて、考える」能力を持った生物は、人間しかいない。

〔中島コメント〕

 同様のことを、解剖学者・養老孟司さんも、指摘していました。
「計算の結果、A=Bになったとして、このことを受け入れることができない子どもがいる。『そうなら、最初からAだけ、またはBだけで数式を作ればいい。AまたはB、どちらかは、最初から存在しなくていい』。そう考えるのである」
 「AならばB」ならば「BならばA」である。このことを受け入れることができる子どもを、入学試験においては、選別している。そういうことになります。
 私たちの生活している社会は、やはり、不自然な社会、フィクションの社会なのかもしれません。

 示唆に富んだ一冊でした。

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