【法学】山下純司ほか『法解釈入門』補訂版 有斐閣 ~法学方法入門3部作①~

山下純司ほか『法解釈入門』補訂版 有斐閣 2018.3
http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641126015

 執筆者は、民法、刑法、憲法、それぞれの分野において、第一線で活躍している教授さんたち。

1 法解釈についての基礎知識。
2 各法分野における解釈についての実例。
3 同一の判例について、各法分野から評釈、その照らし合わせ。

 法システムにおける、基幹システムである、民法・刑法。そして、それらを統御する、最高法規である、憲法。これら、法学の基本となる3法に関して、それぞれの解釈方法について、学んでゆくなかで、各法分野における、重要な基礎概念をも学ぶことができる、好著でした。

1 法解釈についての基礎知識

 法とは、ひとびとが形成してきたルールを、一般化した上で、明文化したものである。

(1)総則と各則

 複数の個別的なルール(各則)に関して、共通して、適用のあるルール。そうした共通のルールは、法律において、各則の前に、総則として、配置することになっている。
 従って、法解釈においては、各則のみならず、総則をも参照する必要がある。
 こうした必要があるので、条文をひく際には、その条文が、その法律のなかで、どのような位置にあるかも、合わせて確認しておくとよい。

(2)「立法者意思」と「目的論的解釈」

 法の解釈にあたって、まず、立法者の意思を参照することがある。
 しかし、実際には、立法の趣旨について、解説を執筆している人物は、行政機関のなかにいる「立案担当者」。だが、「立案担当者」は、「立法者」(国会議員)ではない。

 また、法は、立法者の意思を離れて、独自に目的を有して、動いていくものである。「その法が、どのような目的を有しているか」。その観点から解釈を展開する方法を「目的論的解釈」という。

〔中島コメント〕(法もまた集団意識である)

 「法とは、ひとびとが形成してきたルールを、一般化した上で、明文化したものである」。
 ひとびとが、暗黙のうちに形成してきたルールを、明文化したものが、法である。ということは、法もまた、「集団意識」の一種である、ということができるでしょう。ですので、法は、「立法者」(個人)の意思を超えて、独自に動く、という理解も、成り立ち得るのでしょう。
 思えば、中山竜一さんの『法学』においても、ローマ法の出発点である「十二表法」は、「古の昔から受け継がれてきた慣習法を規則集として明文化し」たものであるとの記載がありました。
 「慣習」が法源となりうる根拠も、「法は、ひとびとの集団意識を明文化したものである」ということから、説明することができます。「慣習」も、「ひとびとの集団意識」の表れであるからです。
 それでは、法という集団意識は、動物であるヒトの群れが形成している「集団意識」とは、どのような点において、異なるのでしょう。おそらく、その相違点は、「言葉」にあるのでしょう。ひとびとが、自分たちの無言でしてきた行いを、言葉によって、捉え直したもの。それが法なのでしょう。
 法というものを扱うにあたっては、やはり、言葉の扱いに熟達していることが、根本において、大事になってくるようです。
 そして、言葉の扱いに関しても、特に「書き言葉」の扱いに熟達することが、法学においては、大事になってくるでしょう。話し言葉は、残らないので、ひとびとにとって、共通の基準には、なりえません。書き言葉は、残るので、ひとびとにとって、共通の基準に、なりえます。
 たとえば、旧約聖書、モーセの「十戒」。この規範は、文字になったからこそ、現代に至るまで、規範の一種として、残っているのでしょう。話し言葉であったなら、長い歴史のなかで、風に消えたはずです。

 また、「法が、創造したひとびとの意思から離れて、独自に動いていく」ということは、「神が、想像したひとびとの意思から離れて、独自に動いていく」ということにも、似通っています。
 法の歴史において、現代法が主流になる前には、教会法が主流であった時代が、ありました。法学と神学との、類似性、共通性。「法の目的を解釈する」営みと、「神の意思を解釈する」営み。これらの関係性、個人的に、興味があります。
 そして、政教分離によって、現代法は、教会法から、何を分離したのでしょう。
  神-法=X(政教分離したもの)
 Xは、何なのでしょう。権威でしょうか。神の権威は、法の改正にあたって、「神による秩序を、変更するべきではない」との、障害と化すでしょう。神から法を分離することによって、ひとびとは、権威から免れ、そして「法を改正する可能性」を、獲得したのかもしれません。仮説です。

(3)利益衡量論

「利益衡量という手法は、法解釈の場面において、どのルールを選択するべきなのかについての説得力のある理由づけを提供するための手法である」

 なお、利益衡量論についての、提唱者のひとりである星野英一教授は、「正しい法解釈が存在する」という立場を、とっていた。だが、その法解釈が「正しい」ということと、「説得力がある」ということとは、別の問題。法解釈においては、「正しい」必要はなく、「説得力」があればよい。

〔中島コメント〕

 中山竜一さんの『法学』においては、利益衡量論を、「適切な結論を発見するための方法論」として、捉えていました。「結論の発見」。
 一方、この本においては、執筆者である山下さんは、利益衡量論を、「理由の提供」のための方法論として、捉えていました。
 この相違、個人的に、興味深いです。
 どちらの見方が実体に合っているのか、判断するためには、私自身で、利益衡量論に関する、オリジナルの文献に、あたってみる必要があるでしょう。

 星野さんの見解。「正しい法解釈が存在する」。
 星野さんは、クリスチャンでもありました。
 現代日本における、民法学の礎を築いた、民法学者さんが、こうした見解を有していた。こうした見解には、クリスチャンとしての信仰も、影響しているのでしょうか。このことも、個人的に、興味深いです。

(4)判例と学説 条文から出発して条文へ帰着する

 判例が、条文から、規範を抽出する。学説は、その規範を整序する。
 また、一連の判例が構築してゆく理論体系に対して、学説が、それとは異なる理論体系を、構築して、提示することもある。
 なお、判例や学説の構築した理論体系、たとえば、権利外観法理を、そのままのかたちで、個別の案件に適用しようとする、学生がいる。しかし、あくまでも、それらの理論体系は、条文を通して、個別の案件に適用してゆくべきである。

〔中島コメント〕(条文が決定的に重要である根拠)

 条文から出発して、条文へ帰着する。どうしてなのでしょう。このことについて、個人的に考えてみた結果、「それは、条文が書き言葉であるから」という結論に、達しました。
 条文という書き言葉があってはじめて、ひとびとは、共通の基盤に立って、自分たちの規範について、議論することができるようになります。共通の基盤に立って、議論する。そうでないと、そもそも議論が成立しません。
 かつて、私は、「法解釈において、どうして条文が、その出発点そして帰着点となるのか」という問題について、「国民の代表である議員たちが、国会において、立法したものだから」という回答を、用意していました。
 しかし、歴史のなかでは、「国会による立法」がなくても、法が法であった時代が、長くありました。
  神の法 ⇒ 王の法 ⇒ 人の法
 法の成立する根拠が変わっても、法は、法であり続けてきました。ということは、「法が成立した経緯」は、二次的な根拠であって、一次的な根拠は、「法が書き言葉であること」にあるのではないでしょうか。

2 各法分野における解釈についての実例

(1)民法

 物権的請求権。
 一見、直接の根拠となる条文がないなかから、規範を創造する。
 間接の根拠となる条文は、「占有の訴え」(197条~200条)そして「所有権の内容」(206条)。

 権利外観法理。
 94条2項から、規範を抽出して、理論化。そしてまた条文に戻り、個別の案件に適用していく。どこまで、適用の範囲を拡張できるかが、問題になってくる。

 瑕疵担保責任。
 学説の対立。対立の軸は、「売買において、売主が瑕疵のあるものを引き渡したとき、その売主は、どのような責任を負うか」ということについての理論構成にある。その理論構成の違いについて、理解することが、大切。
 そして、判例は、両説のどちらとも違う立場をとっている。こうした判例について、どのように理解して、評価するかも、大切。

(2)刑法

 財産犯と民事法。
 刑法解釈においては、民法との連関も、十分に意識する必要がある。ただし、それぞれの法の目的が異なるので、そのことに応じて、同じ言葉でも、その有する概念が異なることがある。

  民法の目的 私人間の財産関係において衡平を実現すること
  刑法の目的 違法行為を処罰することで犯罪の予防を図ること

(3)憲法

 衆議院の解散。制度説、7条説。
 学説の違いは、「議院内閣制、象徴天皇制を、どのように理解するか」にある。

 違憲審査。
 日本国憲法によってはじめて、裁判所が、法令について、違憲かどうか、判断することができるようになった。

 人権の限界。人権の制約の根拠となる「公共の福祉」の意味。
 一元的内在制約説。人権は、他の人権と衝突するときのみ、制約を受ける。
 しかし、具体的には、人権と人権とが衝突したとき、どのような考え方によって、その調整をすればよいのか。そのことが問題となる。
 その調整にあたり、判例は、単純な比較衡量から出発して、「類型的比較衡量」そして「目的・手段図式」「比例原則」といった手法を編み出してきた。
 判例に対して、学説は、「二重の基準論」を定立、提唱。その理論の目的は、「公益と人権とを比較したときに、人権にとって有利な判断が出やすいように、裁判官の思考方法に、枠を嵌めること」である。

〔中島コメント〕

 民法。一見すると、直接の根拠となる条文がないなかから、規範を創造する方法。登記実務においても、参考になります。
 権利外観法理は、様々な文献が、頻繁に取り上げている理論であり、司法書士が登記業務にて関わる「不動産の取引」においても、重要な理論です。権利外観法理に、重点を置いて、学習してみても、面白いかもしれません。

 刑法。民法との連関を意識すること。
 法システムのなかの基幹システムとして、民法と刑法とは、表裏一体。個人的に、そう予め理解していたので、「我が意を得たり」な視点の提供でした。刑法の学習が、より面白くできそうです。
 この本において紹介のあった、島田さんの書いた論文である、「刑法上の所有権」、面白そうです。なお、私個人にとっては、島田さんは、立教大学の学生時代、大きな教室にて、刑法を教えて頂いた、先生です。つくづく、不慮の事故による急逝が、惜しいです…

 憲法。
 違憲審査。いままで、個人的には、山之内靖さんの『総力戦体制』から影響を受けて、戦前と戦後との、断絶よりも連続を、強く意識してきました。でも、たしかに、「違憲審査」の有無は、裁判制度において、戦前と戦後とで、根本から違う点です。
 最近、憲法学者さんたちが、憲法訴訟について、その実務に資するために、精緻な議論を重ねている動きも、個人的には、目立って見えていました。違憲審査は、ポピュリズム(衆愚政治)がはびこる現代日本社会において、なし崩しになってゆく社会規範が、一定の限度において、踏みとどまるために、重要な役割を果たしうる(果たすべき)かもしれません。
 人権の限界。一元的内在制約説。夏目漱石が「私の個人主義」において述べた、「他人本位でなくていい。自分本位で生きてゆけ。ただし、他人が自分本位で生きてゆくことも、妨げるな」。この命題についての、判例そして学説による、具体的な判断の積み重ね。理論の構築。個人的に、大変興味があります。

 また、「裁判所が違憲審査できること」について、個人的に考えたことを、書き留めておきます。
 なぜ、裁判所は、そして、その構成員である裁判官は、国民による選挙によって就任したわけでもないのに、国民の代表である議員たちが、国会において立法した法律について、それが違憲かどうか、判断できるのでしょうか。
 その根拠は、先に触れた、法の一次的な存立根拠である「書き言葉であるから」に、求めることができるかもしれません。言葉を扱うためには、それなりの訓練が必要です。言葉は、扱いによっては、「意味のある言葉」ではなく「単なる鳴き声」になります。本来の意味からは、全く離れる、いわば「強談」も、ひとによっては、押し通そうとすることが、ありえます。特に、ポピュリズムがはびこっているときには、言葉が、本来の意味を失う危険が、高まります。そのようなときのために、言葉を扱う訓練を受けた人間が、裁判にあたる。違憲審査をする。言葉が言葉であることを、守る。法が法であることを、守る。それが、裁判官の存在意義、裁判所の存在意義なのかもしれません。

3 同一の判例について、各法分野から評釈、その照らし合わせ

(1)刑法×憲法

 広島市暴走族追放条例事件。立川テント村事件。ともに、「表現の自由」が問題になった判例。
 刑法学者の島田さんは、憲法学者の解釈態度に関して、「表現の自由」について、特にこだわることを、疑問視。これらの判例は、問題はあるけれども、個別事案を解決するための解釈としては、肯定できるとする。
 憲法学者の宍戸さんは、特に「表現の自由」が重要であることについて、あらためて強調。「表現の自由とは、個人が『自分はこう思う』という意見を表明する自由である」。これらの判例には、次の観点から、問題があるとする。「過度の広汎性」「表現の場の減少」「表現方法の規制を名目として、実質では表現内容を規制することがありうること」。

(2)民法×憲法

 利息制限法。判例による、消費者にとって不利な条文の空文化。反制定法的解釈。
 民法学者の山下さんが、この経緯について、説明。一度、判例が空文化した法律を、国会が、議員立法によって、再度、条文の要件を見直した上で、制定し直した。その法律を、またしても、判例が、空文化した。
 憲法学者の宍戸さんは、権力分立の観点から、この判例を、肯定。
「権力分立も法の支配に奉仕し、その法とは『正しい』法でなければならない。『正しい』法を実現するには、通常、法の定立と法の解釈・適用を分離することが適切だが、必ずしもそうではない場合もある。特に立法過程が特定の圧力団体や利益の『とりこ』になっていて、公共の利益を明らかに実現できない場合、あるいは社会の変化に明らかに対応できない場合、裁判所が個別具体の事案に即して実質的な『正しさ』を一定の範囲で追求することは、むしろ裁判所にふさわしい任務だと考えられる」

〔中島コメント〕

 刑法×憲法。
 判例について、島田さんによる肯定視、宍戸さんによる疑問視、個人的に、興味深いです。
 お二人の見方の違いは、判例の役割が「紛争解決」そして「規範創造」であるところ、前者を重く見るか、後者を重く見るか、という、重点の置き方からくる違いなのでしょう。

 民法×憲法。
 法解釈による、消費者にとって不利な条文の空文化。個人的には、言葉の意味として、可能である限りは、こうした解釈は、とってよいものと考えます。
 宍戸さんも書いているとおり、「立法過程が特定の圧力団体や利益の『とりこ』になっている場合」には、集合意識の明文化であるはずの「法」が、集合意識を十全に表現できていないことになります。こうした場合には、本来あるべき集合意識に引き寄せて、その「法」を解釈する、ということが、あってよいでしょう。
 ただ、このように考えるとき、そうした「本来あるべき集合意識」を、裁判官が、正確に捉えることが、果たしてできるのかが、問題になってくるでしょう。
 また、反制定法的解釈という解釈方法には、その判決理由において、条文の解釈に関する、技術の駆使が、前面に出て来て、本来あるべき価値判断が、出て来にくい、という問題も、あるでしょう。たとえば、本件判例は、貸金業者と、消費者との利害が対立する事案でした。こうした対立の図式がある場合、貸金業者(法人)の「営業の自由」と、消費者(個人)の「財産の保障」という憲法価値が、対立していることになります。これらの価値のバランスを、どのようにとるか。そうしたことは、判例の示した判決理由のなかには、出てきていませんでした。なお、私、過払い金の返還請求訴訟に携わっていた時期があり、この判例は、熟読したことがあります。
 さらに、一時期、貸金業者がはびこった背景としては、消費者の一時的な資金需要に応えることのできる、社会保障制度がなかったからである、という指摘も、あります。そうした社会保障制度の裏付けがないなかで、利息制限法について、貸金業規制法について、反制定法的解釈を、とってよかったのでしょうか。反制定法的解釈を、とるにあたって、最高裁は、どの程度、「そうした解釈をとった場合の、消費者の生活に対する影響」を、予め勘案したのでしょうか。この勘案のことを、経済学における用語でいえば、「需要と供給の分析」ということになります。どこまで勘案しているのか、判例の形成、その内部の実情について、個人的に、興味があります。
 なお、判例による、貸金業規制法についての反制定法的解釈(みなし弁済規定の空文化)があった時期は、平成18年です。この時期は、社会において、経済において、新自由主義に基づいた政策の隆盛が、そして、その結果が、問題になっていた時期です。金融ビックバン。信用の過剰な膨張。貸金業者から消費者への貸し付けの隆盛も、この「信用の過剰な膨張」の一環といえるでしょう。そうであれば、判例は、貸金業規制法についての反制定法的解釈によって、貸金業界における「金融の引き締め」を、行ったことになります。ということは、裁判所は、財務省、金融庁、日本銀行とも類似する役割を、社会において、果たしたことになります。
 宍戸さんが、この項目において、こう書いています。「『社会問題』に対して、裁判所が先導的な役割を果たした例は少なくない」。裁判所の果たす、政策的機能。この機能も、個人的に、興味深いです。

 考えるヒントがたくさん詰まった、いい一冊でした。

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