【読書】糸井重里『すいません、ほぼ日の経営。』日経BP社

糸井重里『すいません、ほぼ日の経営。』日経BP社 2018.10.22
https://info.nikkeibp.co.jp/nb/sales/suimasen/

 株式会社ほぼ日の社長、糸井重里さん(コピーライター)のインタビュー。インタビュー当時、70歳・直前。話題は、50歳の転機、ほぼ日の仕事の仕方、上場の経緯。

〔中島コメント〕

 糸井さんは、スタジオジブリの映画のコピーも、書いてきました。スタジオジブリのプロデューサー、鈴木敏夫さんが語っていた、糸井さんのエピソード。新作映画の『紅の豚』というタイトルを見て、「タイトルが、もう、名コピーですね」。
 なお、糸井さんは、映画『となりのトトロ』での、サツキとメイのお父さん役でもありました。そうしたことから、私は、以前から、糸井さんに、個人的な親しみを感じていました。

 糸井さんは、宮崎駿さんと同じく、「経営者」というよりも「表現者」であるひとです。そうしたひとが、どのように、組織を立ち上げて、運営してきたのでしょう。そのことについて、個人的に興味があって、読んでみました。

1 50歳の転機

 糸井さんは、長年、コピーライターとして、個人で活動してきた。それが、50歳になったころ、個人で仕事をすることについて、限界を感じるようになった。そこで、組織の立ち上げに、挑戦。インターネットにおいて、「ほぼ日刊イトイ新聞」を創業。この創業が、後に、上場へ、つながった。

〔中島コメント〕

 個人で仕事をすることについての限界。糸井さんに比べると、ごくごく小さな規模ですけれども、私にも、同様の経験があります。
  司法書士になる
   ⇒ 独立開業する
    ⇒ 成年後見に取り組む
 これら、個人の目標を達成して、仕事を続けてゆくうちに、ありがたいことに、仕事が増えてきて、どうしても、個人の力だけでは、個々の仕事に、十分に取り組むことのできない状況に、なってきました。そして、何より、「次に、何を目指したものか」が、分からなくなりました。そこで、新しく自分の目標を立てるよりも、ひとの目標を応援しようと、ひとを雇い、自分の職場で働いて頂くことにしました。

 思えば、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』(上・下)岩波少年文庫においても、主人公であるバスチアンは、自分の願いを叶えきった後、「ひとを愛したい」という思いを、抱くようになっていました。
 ひとを愛することは、ひとを生かすことでもあります。人間は、自分の願いを叶えきったあと、「ひとを生かしたい」と、願うようになるのかもしれません。

2 仕事の仕方

(1)ひとのアイデアを生かす

 ほぼ日では、まず、社員が、隣のひとに、自分の抱いているアイデアについて、面白いかどうか、聞いてみることから、仕事が始まる。そのアイデアについて、社員たちが、面白がって、話しているうちに、チームができてくる。そのチームで、そのアイデアを、実行する。

 ほぼ日では、手続(企画書)や、理論(例:マーケディング)で、社員を縛ることは、しない。
 たとえば、糸井さんは、主力商品である「ほぼ日手帳」を作っていたとき、担当の社員が、市販の手帳を、たくさん並べて、見比べている姿を見て、「それより、僕と、手帳について、話そう」と、促した。「競争相手との差別化を、どのように図るか」よりも、「そのアイデア(商品)が、どのように面白いのか」について、考えたほうがよい。

〔中島コメント〕

 糸井さんの、社長としての仕事は、「ひとのアイデアを生かすこと」。この仕事は、上記しました「ひとを生かすこと」にも通じるものがあります。素敵な仕事です。
 個人的には、「ひとのアイデアを、どのように、生かしているのか」について、更に詳しく、糸井さんに聞いてみたいです。

 ほぼ日では、手続や理論で、社員を縛らない。このことも、個人的に、好感です。
 市場に出回っている手帳と、自分たちの作ろうとしている手帳とを、いちいち、全て、比べることは、しなくていい。このことについても、個人的に、同感です。ひとつひとつの手帳について、その背景には、努力して作っているひとが、もちろん、いるのでしょうけれども、それでも、競争相手とはなりえない、没個性的な手帳も、相当な数、あるでしょう。そうした手帳についてまで、比較の対象として、比較に時間を費やすよりも、「そもそも手帳とは」といったことや、「ひとは手帳をどのように使っているのか」といったこと、つまりは本質について、考えた方が、より実りあるアイデアが、生まれてくるでしょう。そして、そのアイデアから、競争相手として比較するべき手帳を選び出した方が、比較の対象を絞り込むことができ、よりじっくりとした比較ができるようになるでしょう。
 また、いまでも、私は、マーケティング理論について、いまいち、理解できていません。その理論において、「市場調査」という、その「市場」とは何なのかが、そもそも、分からないからです。自分でも分からない理論について、ひとに、使うよう、押し付けることは、避けるべきでしょう。そして、マーケティング理論について、「市場」について、理解しているひとは、この社会に、実際には、どれくらい、いるのでしょうか。
 ※ なお、「市場とは何か」については、個人的な仮説が、できてきています。「法」が「人間の集合意識」であるように、「市場」も、「人間の群れ」について、「取引」「需要」「供給」などの観点から、捉えたものなのかもしれません。

(2)組織=人体

 ほぼ日の組織は、人体に似ている。人体においては、それぞれの臓器が、お互いに信号を出し合い、信号を受け取り合うことで、全体が動くようになっている。ほぼ日の組織も、それぞれのチームが、それぞれ自律的に動いて、関係し合う仕組みになっている。

〔中島コメント〕

 組織=人体。個人的に、興味深い指摘です。この指摘から、『時代の風音』朝日文庫において、司馬遼太郎さんが語っていたことを、思い出しました。以下、引用します。

[引用開始]

 たまたまそのころ『中央公論』の巻頭に、原稿用紙2枚ほどの短い、いい文章を、この人たちと同時代の東洋学者・宮崎市定博士という人が書いてました。
 自分が若いころは左翼の時代で、ほとんどの人が左翼になった。良心的な人は左翼になった。ただ自分がならなかったのは、大脳が身体の生理を支配することができないのと同じことだと書かれてました。つまり、いま胃袋を動かせといったって、胃袋は勝手に動いてるし、大腸も、膵臓も勝手に動いている。それを全部命令でやろうとしたら内蔵は死んでしまう。細胞は勝手に新陳代謝してリフレッシュしているのに、いま新陳代謝せよとか、さあインシュリンを出せとか、そんなバカなことをしてるはずがない。だからあれは間違いに違いないと思ったから自分は免れた、とお書きになっていました。いまはもう90ぐらいのおとしだと思うんですけどね。

[引用終了]

 糸井さん、司馬さんが指摘しているように、組織も、上長の命令によって、部下が思うように動くものでは、ないのでしょう。むしろ、頭脳も内蔵の一種であることからしますと、上長も組織の一部であって、上長からの一方的な命令によって部下が動くのではなく、上長と部下とがお互いに意思を疎通し合ってこそ、組織が円滑に動くようになるのでしょう。そうなると、「上長」「部下」という、言葉のなかに上下関係を含んだ肩書きが適切かどうか、再考する余地がありそうです。

 そして、組織が人体と近似しているのであれば、ひととひととの間の「感情」の問題も、組織において、やはり慎重に丁重に扱うべきことになるでしょう。前回の記事においても紹介しました、三木成夫さんの『こころの波』平凡社に出てきた言葉。「感情は、内蔵の反応である」。内蔵の反応が感情であるなら、人体と近似している組織のなかの、ひととひととの相互反応にも、どうしても、感情が伴うことになります。感情について、仕事とは関係がないものとして、排斥するよりも、「ひととひととの感情のやりとりをも含み込んで、仕事は成り立っている」と考えた方が、組織が円滑に動くようになるのでしょう。
 ただ、文化人類学者の中根千枝さんは、『タテ社会の人間関係』講談社現代新書において、日本の社会に「論理よりも感情だ」との特質がある旨、問題として指摘しています。論理と感情とは、どちらかを優先するべきものではなく、どちらも同等に大事なものである。そのように考えるべきなのでしょう。

 なお、人体について考える「身体論」は、以前から、個人的に、興味のある分野でした。糸井さん、司馬さんの指摘によって、更に興味が深まりました。

(3)場づくり

 ほぼ日は「場」をつくる会社である。ほぼ日が、一貫して、やってきたこと。それは、「おもしろい場」をつくって、そのなかから「おもしろいアイデア」を生み出すことである。

 そのための工夫として、ほぼ日は、まず、勤務時間を、1日7時間にしている。しかも、映画を見に行く等、いいアイデアを生み出すためであれば、自由に行動してよい。
 更に、毎週金曜は、勤務時間だが、同時に、自由時間であるものとしている。毎週金曜は、好きなことに、時間を使っていい。人間には、集中する時間が大事。この「集中」の意味は、「一時的に集中力を高めること」ではない。「額に青筋を立てて、力んで考えること」ではない。
「好きなものについて考え続けたり、興味のあることを続けたりすることが、人の能力を伸ばしていきます。それを邪魔されないことが『集中』ということの本当の意味なのではないでしょうか」

 場づくりについて… たとえば、魚を飼っていて、水槽が汚れて、魚が弱ってきたとする。そのとき、魚にサプリメントを投与する方法は、とらない。魚にサプリメントを投与すると、投与を続けてゆく必要が生じる。まずは、そもそもの水質を改善して、魚が自然に治癒してゆくようにして、様子を見る。魚を飼うことは、極端に言えば、水を飼うことである。
 魚と同様に、組織にも、自然に治癒してゆくチカラがある。

〔中島コメント〕

 場づくり。この言葉から、個人的に、小説『ハッピーバースデー』や、映画『星めぐりの町』に登場した、おじいさんの役割のことを、思い出しました。彼らは、子どもに対して、「居場所を確保する」という役割を、担っていました。この本での、インタビュー当時の糸井さんも、70歳・直前。糸井さんも、おじいさんとして、若者たちに、「居場所を確保する」役割を、担っているのかもしれません。

 魚を飼うことは、水を飼うこと。この言葉からも、個人的に、思うことがありました。
 複数の魚がいる水槽のなかで、一匹の行動が病んでいて問題があり、水質の改善に努めても治らないときは、どうするべきでしょう。選択肢は、3つ、ありそうです。
① その魚に治療を施す
② その魚を隔離する
③ 他の魚を隔離する
 同じ組織の仲間としては、①が望ましいでしょう。しかし、「治らない病」があることも、ひとは、認識しておくべきでしょう。精神科医・なだいなださんが『こころ医者講座』ちくま文庫において、このように述べていました。「最後までダメだった患者もいました」。その魚の病が治らない場合、②または③の選択肢をとるべきことになるでしょう。

(4)おじさんの顔をしたお父さん

 おじさんは、「かっこいいし人気者だけれど責任のない立場」。
 お父さんは、「いやな役回りも含めて引き受けて、責任を持って進める立場」。
 糸井さんとしては、「おじさんの顔をしたお父さん」になりたい。

 ※ 糸井さんは、社長の「責任」について、次のように語っています。長いですが、いい文章ですので、引用します。

[引用開始]

 そのまま、「ほぼ日」は進んでいきました。「ルールは、できるだけ少ないほうがいい」であるとか、「人は、ほんとうにいやなことはしないものだ」とか、ぼくなりの哲学のようなものは変わらないままありますが、チームの仕事をやっていくということは、フリーであることと決定的な違いがあります。
 それは、とても簡単に言えることでもあります。「なにかあったとき、投げ出せない」ということです。いっしょに働いている仲間たち、お世話になっている人たち、そして、じぶんたちのやることをたのしみにしていてくれるお客さんたちがいて、ぼくらの仕事は成り立っています。「飽きたからやめます」だとか、「うまくいかないのでもういいや」だとかいうような子どもっぽい理由はもちろん、「資金が続かないので解散します」であるとか、「重大なまちがいがあったので、身を引きます」というような理由があったとしても、なんとか「どうしたら、いちばんいい道を行けるのか」というふうに考えなくてはいけないわけです。
 あきれられるかもしれませんが、最初からそういう覚悟があって「ほぼ日」をスタートさせたわけではありませんでした。無責任だと言われてもしょうがないと思います。若い人たちがバンドをやるのと同じような感覚だったかもしれません。
 だんだんと、やっていくにつれて、「俺が逃げちゃダメなんだよ」という当たり前のことがわかってきたのです。逃げちゃダメどころか、もっと「まし」にしていくことを考える。それを実行していくやり方を工夫する。そうでなかったら、乗組員の結婚が決まっただとか、子どもが生まれたというようなニュースに、責任がとれないですから。

[引用終了]

 社長の仕事は、社員が「メシを食える」ようにすることでもある。「メシを食える」という言葉は、その意味として、「食事すること」のみならず、「じぶんの幸せをそれぞれ追求できること」をも、含んでいる。「じぶんの幸せ」は、「誰かになにかをしてあげること」も、含んでいる。

〔中島コメント〕

 糸井さんの語る、社長の「責任」についての言葉、同じく人様に働いて頂いている人間として、個人的に、身に沁みました。「そうでなかったら、乗組員の結婚が決まっただとか、子どもが生まれたというようなニュースに、責任がとれないですから」。同感です。

 そして、糸井さんの語りにおいては、「社長」という言葉に、「お父さん」という言葉が、重なっています。このことも、個人的に、気になります。日本の社会における、男性の役割として、「社長」があり、「お父さん」がある。これらの役割分担は、男性について、生物的な観点からみて、どれくらい、自然なものなのでしょうか。これらの役割理解に、社会的な観点からの変形圧力が、どれくらい、加わっているのでしょうか。生物的な性差と、社会的な性差との、見極め。このことについても、個人的に、興味があります。

 また、糸井さんの目標は、「自分がひとを生かすこと」のみならず、「自分の生かしたひとが、さらに他のひとを生かしてゆくこと」でもあるようです。個人的に、素敵だと思います。

(5)人事

 ほぼ日の人事は、手仕事。平等な基準を立てようとすると、説明が難しくなる。「完全な平等を求めても無理」。ヤマト運輸株式会社の元会長である小倉昌男さんも、『「なんでだろう」から仕事は始まる!』〔新装版〕PHP研究所に、こう書いている。
「社長を辞めるまでに解決に至らなかった問題もある。もっとも心残りなのは、納得のいく人事評価制度を作れなかったことだ。こればかりは、いくら考えても『正解』がどこにあるのかわからなかった」

 ほぼ日の採用基準は、「いい人」かどうか。「いい人」とは、「この人だったらぼくらと一緒になにかを見つけてくれるんじゃないかというポテンシャルを持っている人」。採用当初から、力がある必要はない。逆に、「いい人ではないけれど力がある」人は、採用しないようにしている。

 ほぼ日の評価基準は、「リーダーシップを持っているかどうか」。リーダーシップとは、「ほかの人を引っ張って一緒に目標を達成するチカラ」。「ある場所に到達できるチカラ」。

 ほぼ日が、仕事において、大事にしていること。貢献・誠実・信頼。
 貢献は、よろこびである。貢献することで、人をよろこばせることができる。そして、じぶんがよろこぶことができる。貢献することにおいて、人は新しい機会を得る。
 誠実は、姿勢である。弱くても、貧しくても、不勉強でも、誠実であることはできる。
 誠実であれば、おのずと信頼が生まれる。なにかの仕事を頼んで、一緒に手をつないでいるときに、その人が手を離さないこと。逃げないと思える人とは仕事ができる。誠実と信頼とは、セットになっている。
 信頼を得るためには、農業のような地道な努力が必要である。手に入れるまでに、とても時間がかかる。日々の積み重ねなので、信頼を得ることが目的になってはいけない。

〔中島コメント〕

 小倉昌男さんのことは、私も、個人的に、気になっていました。小倉さんの経営していたヤマト運輸は、スタジオジブリの映画『魔女の宅急便』について、タイアップしていた企業でもありました。また、小倉さんの評伝である、森健『祈りと経営』小学館については、スタジオジブリの機関紙である『熱風』が、特集記事を組んでいました。スタジオジブリとタイアップしたことがあり、スタジオジブリがフォーカスしたこともある、小倉昌男さん。小倉さんについての書籍、私も、いずれ、数冊、読んでみたいです。

 人事評価制度の構築の難しさについても、個人的に、興味があります。いくら難しいからといって、人事評価について、考えることを、放棄するわけには、いかないでしょう。
 現時点において、人事評価制度に関して、個人的に最も興味を持っている論点は、「同一労働同一賃金」です。私のチームにおいても、正社員さんとパートさんとに、継続して並存して働いて頂くことになりました。そうしたことから、「同一労働同一賃金」について、個人的に、知っておきたいです。

 糸井さんの言う「リーダーシップ」は、「アイデアについて、実現するチカラ」ということでしょう。このチカラが大事であること、私も同感です。このチカラについては、工学者・畑村洋太郎さんが、『技術の創造と設計』岩波書店などの著書において、紹介している考え方が、いいヒントになります。

 貢献・誠実・信頼。すべて、大切な言葉です。
 糸井さんの言う「貢献」は、「ひとを生かすこと」にも、つながるでしょう。
 そして、「誠実」。「なにかの仕事を頼んで、一緒に手をつないでいるときに、その人が手を離さないこと」。この言葉については、サン=テグジュペリの『星の王子さま』新潮文庫にも、同様の言葉が出てきていました。「いったん絆を結んだら、その絆に対して、責任を持ちなさい」。そして、こうした言葉たちの意味することは、法の世界において、「信義誠実の原則」という、基本原則になっています。
 「信頼を得るためには、長い時間がかかる」。「信頼を得ることが目的になってはいけない」。こうした教訓については、高田朝子『人脈のできる人』慶應義塾大学出版会に、同様の記述がありました。「夢中になって仕事しているひとにこそ、人脈ができる」。

(6)生活のたのしみ展(お客さんとの「顔の見える」関係)

 ほぼ日の「場づくり」は、お客さんに対しても、及んでいる。
 「生活のたのしみ展」。もともとのアイデアは、「雑貨の見本市」。そのアイデアが、「生活を楽しむこと」につながる商品を、豊かに集めた見本市に、結実した。この「生活のたのしみ展」によって、ほぼ日は、それまで、インターネットを通じて、または、文房具屋(ほぼ日手帳の販売)を通じて、間接に接していた、お客さんたちと、直接に接することができるようになった。「この人たちが、ほぼ日を、応援してくれているのか」。応援してくれている、お客さんたちも含めて、「ほぼ日」である。そのように、糸井さんは、考えるようになった。
 なお、糸井さん自身、経済人としてではなく、生活人として、発言している。

〔中島コメント〕

 お客さんとの「顔の見える」関係、大事です。私も、顔の見える相手と、関係を結んでゆくことを、大事にしています。実際に、大事にできているかどうか、心許ないですけれども… 相手の顔が見えるからこそ、自分の仕事によって、相手の役に立った実感が湧き、その実感が、仕事のやりがいに、つながってゆくのではないでしょうか。

 応援してくれている、お客さんたちも含めて、自分の事務所である。この言葉も、自分の実感からも、確かにそうだと考えます。そして、だからこそ、「自分は、どのようなひとたちと、絆を結んでゆくのか」が、大事になるでしょう。なお、ひとと絆を結ぶにあたって、大切なことは、「お互いに、信頼関係を構築する努力、維持する努力を、続けることができるか」ということにあるのではないでしょうか。

 「経済人ではなく、生活人」。いい言葉です。現代日本社会においては、法の想定している人間像が、「経済人」であることが、問題になっています。「生活人」という言葉から、あるべき人間像について、考え直してみても、面白いかもしれません。

3 上場

 上場するまでは、ほぼ日は、自分の手の届く範囲で、小さくアイデアを実現することで、満足していた。この自由は、言わば、「子どもの自由」だった。

 上場は、幼稚園のお受験ビジネスに似ていた。「あの塾に行って、あの関係者と親しくして、あの写真館で撮影しないと受からない」。そういった手続きのノウハウを、大事な情報として語るひとが、たくさんいた。

 上場は、企業が強くなるためのエクササイズでもあった。筋力をつけたり、心肺機能を整えたりする感覚。

 上場すると、企業には、永続性や成長性が求められる。糸井さんは、上場以前は、「3年先のことは考えられない」と言ってきた。上場以後は、こう言うようになった。「こうなりますとは言えない。しかし、こうなりたいし、こうなるつもりで動いています」。

〔中島コメント〕

 まず、糸井さんにとっての上場が、起業の出口ではなかったことが、個人的に、好感です。上場しても、しなくても、糸井さんが、「ほぼ日」の仕事に取り組んでゆくことに、変わりはない。このことは、糸井さんが「信頼できるかどうか」について、判断するにあたっての、重要な要素になるでしょう。
 上場したときに、創業者が、その持ち株を売却して、利益を得て、その事業から、離れてゆく。その場合には、その創業者にとって、その事業とは、その仕事とは、何だったのかが、問題になります。そして、その創業者にとって、その事業において、その仕事において、相手にしてきたひとたちとの関係が、何だったのかも。「この事業で上場でき、利益を得ることができたら、私は、この事業から、離れてゆきます」。そう言う相手に対して、信頼して、取引することが、私たちには、果たして、できるでしょうか。

 上場の効能は、「大口の資金調達の手段が増えること」にあります。その新たに獲得した手段によって、ほぼ日は、どのような新しいアイデアを、実現してゆくのでしょう。個人的に、注目です。
 また、個人的には、糸井さんの言う「子どもの自由」は、「小さな自由」と、言い換えても、よかったかもしれないと考えます。上場することは「一定の手続を踏むこと」であり、大人になることは「自分なりの社会観を持つこと」(河合隼雄さん)です。上場することと、大人になることとは、イコールでは、ないでしょう。

 上場は、企業が強くなるためのエクササイズ。うまい、言い方です。ただ、上場にあたっての、諸々の規則について、ほぼ日が遵守してゆくことは、ほぼ日の社員さんたちが「集中する」ことに関して、負の影響を、及ぼしはしなかったのでしょうか。
 本書の前半において、社員さんたちの行動の自由について、力説していた糸井さんが、上場という、企業の活動について縛りのかかる「場」へ向かったことは、本書での糸井さんからの説明を読んでも、個人的には、なお、やはり不思議です。
 このことについて、考えるためには、私自身、「上場したら、企業の活動には、どのような制限がかかるのか」について、更に学習する必要があります。

 「3年先のことは考えられない」。「こうなりますとは言えない。しかし、こうなりたいし、こうなるつもりで動いています」。こうした発言から伝わってくるように、糸井さんが、根拠のない未来を描くことのないよう、慎重に考えていること、個人的に、好感です。

〔中島コメント・まとめ〕

 本書からは、ほぼ全章にわたって、糸井さんが「ひとを生かす」ことに心を傾けている姿勢が伝わってきました。この姿勢、私の事務所の経営にあたっても、大変参考になります。また一人、いいお手本ができました。
 なお、冒頭において、糸井さんと対比した、宮崎駿さんは、「ひとを引っ張る」タイプの経営者でした。糸井さんは、「ひとを伸ばす」タイプの経営者であるようです。宮崎さんの生き方も、個人的には、魅力的です。しかし、実際的には、糸井さんの生き方のほうが、ひとと一緒に仕事をしてゆくにあたっては、上手くゆく可能性が高まるでしょう。
 糸井さん、他にも、ほぼ日の経営についての本を、書いているようです。いずれ、読んでみます。

Follow me!