【読書】開高健『珠玉』文春文庫 ~父親の最期~

開高健『珠玉』文春文庫 1993.1.9
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167127114

 作家・開高健さん、最後の作品。1930-1989。
 開高さんは、学生時代に、関係を持った女性との間に、子どもができて、そのまま結婚。サントリーに、コピーライターとして、就職。しかし、「壁の中にうずくまった虚弱児童が、独白しているような日常には、耐えることができない」。作家へ転身。新聞社・出版社の海外特派記者として、各地を取材。ベトナム戦争へは、従軍記者として赴き、ゲリラ戦に遭遇。開高さんのついていった部隊は、100人のうち、83人が死亡。九死に一生。
 ベトナム戦争についての現地ルポ、『ベトナム戦記』朝日文庫。その体験を発酵させ、経験とした『輝ける闇』新潮文庫。これらの作品が、私に示してくれた教訓は、次のようなものでした。
「まっとうな考えとは、『まっとうな考えとは何なのか、考え続けること』である」
 また、開高さんの『開高健の文学論』中公文庫は、私に、テキスト批評の仕方を、示してくれました。
 『輝ける闇』以降、開高さんは、政治や戦争とは、縁を切り、ナチュラリストとして、各地を歴訪。自然のなかで、風物のなかで、釣りを楽しんだり、食事を楽しんだり。
 その開高さんが、59歳で、永眠。食道腫瘍。最期の病床で、この『珠玉』を、執筆。
 開高さんが、その手をひらいてみると、開高さんのにぎっていた光は、宝石になっていました。

第1 あらすじ

 開高さんを擬した、主人公。妻子の家計に、責任。その収入を得るすべは、ペン一本。しかし、「何も、思い浮かばない…」。不安と焦燥。妻子には、「一言半句を得るため」と言い訳して、映画館を渡り歩き、バーに入り浸る、毎日。そうした毎日のなかで出会った、ある人物についての思い出から、短編3作が始まる。

 アクアマリン。高齢の医師、「先生」。先生の息子は、スキューバ・ダイビングで、海に潜ったきり、行方不明。妻は彼岸、息子は海中。もう、自分の身上、財産にこだわっていても、仕方がない。先生は、自分の診療所をたたみ、従業員たちと別れの酒を酌み交わし、新たに船医としての免許を取得して、海上のひとになった。息子の墓は、海。自分は、海上の墓守。行く先々の港で、町で、先生は、アクアマリンを集めるようになる。そんなある日、先生は、主人公を、その侘びしい住まいへ、連れてゆく。夜、両手いっぱいのアクアマリンが放つ、青く浄い光のなかで、先生の押し隠していた悲しみが、溢れ出す。

 次なる宝石が登場するまでの、幕間。行きつけの中華料理屋。初老の料理人が、うなだれて、入ってくる。20年、30年かけて、やっと手に入れた自分の店を、麻雀で賭けて、そして負けたのだという。自分の人生を、投げ捨てるような、その思い切りのよさを、主人公は、うらやましく思う。

 ガーネット。アラスカの大河。サケの大群が、河を遡ってゆく。赤く発色したサケの背で、赤く染まる河面。産卵と放精を終えたサケたちは、次々と息絶え、その河の、次の世代の、養分となってゆく。サケは、親を知らずに生まれ、子を見ずに、死んでゆく。「ここでは、輪廻が、目に見える」。
 アラスカの大河に、ベトナムの広場が、つづく。政府による、ベトコン青年の銃殺。地面に赤くこびりつく、鮮血。また別な場面、ゲリラが銃を乱射した店では、被害者たちの、どす黒い血の塊が、盛り上がっていて、何かの生き物のようだった。

 ムーン・ストーン。月日が流れ、主人公は、初老に。若い愛人との、逢瀬。愛人に対して、喉元まで、何らかの言葉が出かかるけれども、それは飲み込む。その言葉の代わりに、彼の胸に、浮かんでくる思い。「この娘は、若くて適切な相手が現れたら、私の元から、去ってゆくのだろう」。
 山麓の民宿。主人公と愛人は、湯の中で、お互いに、おしっこをかけあって、遊ぶ。あたたかい湯と尿のなかに、主人公の固かった肉と骨は、溶けてゆく。情事のあと、薄く明るい、朦朧とした意識のなかで、主人公の胸の内に、浮かんでくる思い。「女だった…」。

第2 中島コメント

1 悲哀の仕事

 開高さんは、13才のとき、父親を亡くしています。開高さんが最初ににぎった光は、「父親を亡くした悲しみ」だったのかもしれません。開高さんは、その人生の最後に、自身の父親を、アクアマリンの光に包んで、異界へ送り出したようです。
 心理学者・小此木啓吾さんが、こう語っています。「ひとは、その思慕の対象を喪ったとき、猛然と仕事に打ち込むことがある」。この「猛然と仕事に打ち込むこと」を、「悲哀の仕事」というそうです。『対象喪失』中公新書。
 開高さんの作家生活、その一面には、お父さんを失くしたことについての「悲哀の仕事」があったのかもしれません。

2 高齢の男性の淋しさ

 主人公、先生、料理人。この作品に登場する、高齢の男性たちに、通底しているもの。それは「淋しさ」です。自分の人生を生き切ったあと、男性は、無性に淋しくなるようです。
 そして、その淋しさから、先生、料理人は、自分の身上、財産を、擲ちます。この描写から、私は、個人的に、「破滅的な贈与」という言葉を、思い出しました。文化人類学によると、人間社会においては、ひとが、他者に対して、「破滅的な贈与」を行うことが、あるそうです。そうした「破滅的な贈与」は、もしかすると、「自分の人生を生き切った、淋しい高齢男性」が、行うのかもしれません。そして、そうした「破滅的な贈与」を行う、男性の姿は、アラスカの大河において、自分の身を擲って、次の世代の栄養となってゆく、サケの姿に、重なります。

 このように、個人的に考えてみると、「家産」のために「家長」がいるとする「家」制度は、女性を束縛する制度であったと同時に、男性をも束縛する制度であったのかもしれません。
 男性を、「家」に束縛しておかないと、その財産を擲って、どこへ行くか、分からない。そうした男性の習性からすると、社会その全体において、財産を蓄積していくためには、男性を「家長」として「家」に束縛して、「家産」を蓄積させる必要がある。
 そうした目的が、「家」制度にあったのだとすると、そもそも、「蓄積してゆくべき財産を、生産してゆくこと」について、限界の見えてきた、現代日本社会においては、「家」制度は反面教師にするとしても、その反面の方向に、どのような展望が、ありうるのでしょう。

3 人間も動物である

 開高さんは、ベトナムの広場において、政府がベトコン青年を銃殺する、その光景を目撃して、こう述べています。「人間は大脳を欠いた無脊椎動物なのだ」『輝ける闇』新潮文庫。「大脳を欠いた」とは、「理性がない」ということでしょう。『輝ける闇』を書いている、開高さんは、理性のない、人間のふるまいを、憎んでいました。
 しかし、この『珠玉』を書いている、最期の病床にある、開高さんは、自然のなか、アラスカの大河において、生命をつないでゆく、サケの大群に、「生命の輪廻」を見ています。
 「人間も動物である」ということは、「人間も自然の一部である」ということをも、意味します。そして、「人間(すなわち自分)も自然の一部である」ということは、「自分も生命の輪廻のなかにある」ということをも、意味します。このように、「自分も生命の輪廻のなかにある」ということを、認識することによって、ひとは、その最期を迎えるとき、穏やかな気持ちになることが、できるようです(神谷美恵子『生きがいについて』みすず書房)。自分の生命は、自分が息絶えたあとも、つづいてゆく。そうした認識が、ひとに、安心を与えるのでしょう。そうした認識を、開高さんも、ナチュラリストとしての活動を通して、得ていたのでしょう。
 「人間も動物である」。それは、「理性がない」ことを意味します。しかし、「自然の一部」であり、「輪廻の一部である」であることをも、意味します。「人間も動物である」ということは、必ずしも、悪いことばかり、意味しているわけでは、ないようです。

4 父が娘に母を求める

 ムーン・ストーン。その短編において、主人公が、若い愛人に、慰めを求めたように、高齢の男性は、娘に、または、娘と同じ世代の女性に、慰めを求めることが、あるようです。

 実際、開高さんは、成人した娘さんに、同居を求めたことがあったそうです。娘さんは、いったんは同居に応じるも、「気が狂いそうだから、もう、やめさせて」(『一言半句の戦場』集英社)。
 この、開高さんの、娘さんとの経験。その経験が、『珠玉』の主人公が、若い愛人に対して、「一緒に暮らそう」などと、持ちかけることを、自制したことに、影響しているのかもしれません。

 高齢の男性が、娘に、娘と同じ世代の女性に、慰めを求める。こうしたことについては、他にも、小倉昌男さんの例があります。小倉さんは、奥さんの死後、銀座の女性(娘と同じ世代)に、慰めを求めていました。銀座の女性は、小倉さんの自宅に通い、動きにくくなった、その足を、洗ってあげていたそうです。小倉さんから彼女への言葉、「好きです」「一緒に暮らそう」。しかし、彼女は、結局は、小倉さんとともに最後の日々を過ごすことを、断りました。「私が小倉さんに求めていたものは、『父』です」。

 高齢の男性が、娘に、娘と同じ世代の女性に、慰めを求める。こうした要求については、小倉さんの例からも、分かるとおり、やはり、無理があるでしょう。
 父世代と、娘世代とが、一緒に暮らすとして、そこには、次のような問題が生じます。
・ 父世代は、娘世代と、その年齢差から、いつまでも人生を共に歩むことはできない。
・ 娘世代こそ、依存する相手が欲しいのに、父世代が、娘世代に依存したがっている。
・ 娘世代は、自分の人生における問題に、取り組んでいる、真っ最中。それなのに、父世代が、娘世代に、慰めを求めると、娘世代の生きる力を、父世代が吸い上げることになる。

 また、小倉さんの足を、銀座の女性が洗っていたように、父世代と、娘世代との同居は、どうしても、「娘世代が父世代を介護する」という関係に、派生してゆくのではないでしょうか。
 このことから、『珠玉』における、主人公と愛人との、おしっこのかけあいを、個人的に、連想します。「おしっこ」は、子どもが使う言葉です。その「おしっこ」という言葉が、そのまま、この小説には、出てきます。まるで、主人公が、赤ん坊のような高齢者として、若い愛人に、母としての「排泄の世話」を、期待しているかのようです。
 こうした、父世代の抱く、「娘世代からの介護」という願望を、叶えていたしくみが、「息子の嫁による、義父の介護」でしょう。日本の家族における、女性の人生を、消費してゆくしくみ、その一例です。

 なお、小倉さんは、銀座の女性に、お金やマンションを、与えていたようです。この振る舞いからは、個人的に、『千と千尋の神隠し』に出てくるキャラクターである「カオナシ」を、思い出します。カオナシは、カネやモノで、相手の愛情を、買おうとします。カオナシに対する、千尋の言葉。「あなたには、私の欲しいものは、絶対に出せない」。
 カオナシは、若い女性に慰めを求める、自分の人生を生き切った、高齢の男性の、象徴なのかもしれません。そうであるとしますと、実際、カオナシは、たくさん、この社会に、存在していそうです。そして、実際の社会において、カオナシが、若い女性を取り込んだときには、「その後、どうするか」という、映画にはない、深刻な問題が、生じることになります。カオナシとしては、取り込んだ、若い女性に対して、次の行動をとることが、必要になるでしょう。①吐き出す。②「個人と個人」として、絆を結び直す。③送り出す。

 『千と千尋の神隠し』に関連して、『風立ちぬ』のことも、個人的に、思い出します。『風立ちぬ』の制作当時、監督である宮崎駿さんは、70歳に、さしかかっていました。そして、『風立ちぬ』には、主人公の世話をする、幼な妻が、登場します。このような幼な妻の姿を描くことによって、宮崎さんは、想像のなかで、「父世代を娘世代が慰める」という願望を、叶えたのかもしれません。

 この項目の最後に、もう一点、個人的に、指摘しておきます。父世代が、娘世代に、慰めを求める現象は、「ロリータ・コンプレックス」(少女願望)ともいいます。「ロリータ・コンプレックス」(少女願望)の奥底には、「自分の人生を、やり直したい」という、男性の願望が、潜んでいるそうです(千田有紀『女性学/男性学』岩波書店)。
 自分の人生を生き切った、高齢の男性が、若い女性に、慰めを求めるとき、そこには、「自分の人生を、やり直したい」という願望が、潜んでいるのかもしれません。ということは、自分の人生に満足するとき、男性は、若い女性に、慰めを求める心境を、免れることができるのかもしれません。

5 男の死に方

 父世代が、娘世代に、慰めを求めることは、自制するべき。自制するべきであるとして、それでは逆に、これから、「男は、どのように、死んでゆくべきか」が、問題になるでしょう。
 やることが、なくなる。身体は、衰える。それなのに、時間は、いっぱいある。
 これらの問題群を抱えた、現代日本社会における、男の死に方には、どのようなかたちが、ありうるのでしょう。この問題に、開高さんは、59歳で早世したことで、直面せずに、済みました。
 この問題に、どのように回答するか。この問題は、ひとごとではなく、35歳を過ぎた、私自身が、これから、長い時間をかけて、直面してゆく問題でも、あります。

 この問題について、考えるヒントとして、個人的に、憲法学者・樋口陽一さんの言葉を、思い出します。「自由とは、一人でいる淋しさに、耐えること」。それでは、逆に、淋しい境遇にある、高齢の男性には、どのような自由が、ありうるのでしょう。

 また、『珠玉』には、主人公と、その妻とのやりとりが、ほとんど出てこないことも、個人的に、気になりました。主人公と、その妻、つまり、開高さんと、奥さんとの夫婦関係は、没交渉にちかく、冷え切っていたのでしょうか。しかし、夫婦関係は、男性と女性とが、それぞれの最後の日々を過ごすにあたって、重要となる関係の、ひとつでしょう。

6 まとめ

 開高さんが、最期の病床で書き残した『珠玉』は、「男性の最期」についての、貴重な一例を示す作品でした。
 この作品は、描写も美しく、「こんなに素敵な宝石になるなら、光をにぎりつづけることも、悪くないかもしれない」と、個人的には感じます。
 光をにぎりつづけるか。手放すか。それもまた、ひとそれぞれの人生における、大事な選択のひとつなのでしょう。

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