【映画】ジェームズ・キャメロン『ターミネーター2』 ~機械になった父親~

ジェームズ・キャメロン『ターミネーター2』
http://t2-3d.jp/

 公開は、1991年。
 私は、高校生の頃、この映画を気に入っていて、何度も観ていました。
 このところ、個人的に、「父親」に関する読書を、重ねているうちに、この映画のことを思い出して、あらためて、観てみました。

第1 あらすじ

 やがて起こる、核戦争。核戦争を起こすのは、人工知能。機械が、人類を滅ぼすための戦争を、起こす。長い戦いの末に、人類が勝利する。敗北が決定的になったとき、人工知能は、人型殺人兵器である「ターミネーター」の、その新型(T-1000)を、過去へと送り込んだ。人類側の指導者である、ジョン・コナーを、10歳の、子どもであるうちに、殺すために。対する人類側も、旧型(T-800)のターミネーターを、過去へと派遣。T-800は、少年時代のジョン・コナー、そして、ジョンの母親であるサラ・コナーの助けを借りて、T-1000を、撃ち破る。
 ジョンを守るために、満身創痍になる、T-800。T-1000との最初の対決では、身体を振り回され、ショッピング・モールのショウ・ウインドウを破って、外へと放り出される。警官隊からは、その全身に銃撃を受ける。T-1000との最後の対決では、片腕を失い、鉄棒で何度も殴られ、巨大なハンマーで幾度も打ち据えられ、心臓にあたる動力炉を、貫かれる。
 それでも、ジョンを守り切った、T-800。彼は、未来のために、自ら望んで、ジョンとサラの見送るなか、溶鉱炉へ、その身を沈めていった。

第2 劇中のサラの独白

 ジョンと遊ぶサイボーグ…
 私は突然 理解した
 ターミネーターは
 片時もジョンから目を離さず
 彼を守る
 どなったり 酔うこともなく
 ジョンを見守ってくれる
 そして いざとなれば
 命を捨てて ジョンを守る
 父親代わりの男は
 大勢いたが――
 本当に その役を果たせるのは
 このマシーンなのだ
 この正気でない世の中で
 唯一 確かな事だ

第3 中島コメント

1 自由な父親

 ジョンの父親に代わって、彼を守るために、未来からやってきた、T-800。
 その行動は、自由そのものでした。バイクにまたがり、交通についての規範は、無視する。ひとは、殺そうとする。憲法学者・樋口陽一さんのいう、「拘束の欠如」。
 ひとを殺そうとするT-800に対して、規範を示した人物は、子どもであるはずの、ジョンでした。「ひとを殺すのは、よせ」「なぜだ」「いいから僕を信じて」。父子の関係の逆転。
 この映画の制作当時は、社会主義体制が、崩壊したばかりの時期でした。自由主義体制が、勝利した状況のなかで、大人たちは、逆に、その自由を、どのように行使したらよいのか、分からない状況だったのでしょう。その状況が、T-800の行動に、反映しているのかもしれません。

2 機械になった父親

(1)常時の覚醒

 ジョンの眠っている間、T-800は、夜を徹して、外を見張ります。
 この場面から、立川昭二さんの『病気の社会史』岩波現代文庫にあった指摘を、個人的に、思い出しました。「産業革命により、工場労働が普及して、人間は、工場機械に付き合い、長時間にわたる労働に、従事することになった」。そして、近代化、都市化が進んでゆく過程で、精神病も、増大してゆくことになります。
 そうした社会の生み出す、精神病の一種である、「統合失調症」。その急性症状のひとつは、「睡眠の排除」。急性症状に陥った患者は、常時、覚醒して、眠ることができなくなるそうです(中井久夫『最終講義 分裂病私見』みすず書房)。
 常時、覚醒しているT-800の姿は、現代社会に適応した父親の、暗喩なのかもしれません。

 また、サラの独白が指摘しているように、現代社会において、社会が父親に求める役割を、果たすことができるのが、生身の人間ではなくて、機械なのだとすると、かえって、そのことから、現代社会が男性に求める役割、その負担の大きさ・重さを、個人的に、感じます。

(2)統合失調症

 なお、統合失調症は、劇中において、医師がサラに下した診断でもあります。
 統合失調症の症状のひとつに、「妄想」があります。サラは、「将来、核戦争が起こる」との、想像を抱いていました。この想像を、医師は、「妄想」とみて、彼女が統合失調症であるとの診断を、下しました。
 この診断に関して、ジョンは、「いままでのことが、全部、嘘に思えて、ママを憎んだ」と、語っています。しかし、彼は、T-800が、実際に目の前にやってきたことから、母親のことを、信じ直します。
 こうした人間関係の構図は、まるで、異界に、その身を置いている、母親と子どもとが、思い描く世界に、父親が寄り添っているかのようです。

(3)居場所のない父親

 この構図から、更に、鴨長明『方丈記』に出てくる言葉を、個人的に、思い出しました。
「世にしたがへば、身くるし。したがはねば、狂せるに似たり」
 この言葉は、自分の世界を有している人間が、現実の世界において、社会に適応してゆく、その苦労について、述べたものでしょう。自分にとっては、真実なのに、社会にとっては、そうではない。その真偽についての、擦り合わせ。そうした擦り合わせをしないと、ひとは、社会における居場所を、確保できないようです。
 そして、T-800は、いったんの危機から、ジョンを守ることはできても、彼の居場所を確保することまでは、できませんでした。父親による、子どもの居場所の確保の、難しさ。その難しさは、現代社会における、父親自身の居場所を確保することについての難しさにも、通じているでしょう。

3 未来が現在を蝕む

 未来の機械が、現在の人間を、殺しにやってくる。未来が、現在を、蝕む。
 この映画の、この構図から、私は、哲学者・鷲田清一さんによる、次の言葉を、思い出しました(『だれのための仕事』講談社学術文庫)。

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神。禁欲主義のもと、勤勉に働いて、富を天に積む。この働き方を美徳として、資本主義社会は形成発展してきた。
 A:富を天に積むこと。すなわち現在よりも未来に価値を置くこと。B:そして仕事を『誰のため』ではなくて『生産のため』のものとすること。この二つの価値観が結びついて一つの道徳(勤勉道徳)となると、その先、どうなるか。未来へ富を積めば積むほど、そのことが『よいこと』になるのだから、生産効率の果てしない追求が始まることになる。
 より勤勉に!(長時間労働) より早く・よりたくさん!(生産性向上) 未来へ富を積むために現在の仕事が際限なく加速してゆく。そして仕事は人間にとっての苦役になる」

 このように、現代社会は、未来に価値を置いて、現在をおろそかにする、社会です。こうした「未来が現在を蝕む」社会の有様を、この映画は、描き出しているのかもしれません。

4 プロテスタンティズム

 鷲田清一さんの指摘、「プロテスタンティズムが、現代社会へ、影響を及ぼしている」。
 現代社会を描いている、この映画にも、プロテスタンティズムからの影響を、個人的に、感じます。

(1)精神なき専門人

 プロテスタンティズムが起源となっている、長時間労働、生産性向上。それらの象徴である「機械」が、人型になった、ターミネーター。
 そのターミネーターである、T-800が、T-1000によって、いったん動力炉を刺し貫かれ、その機能を、停止します。そして、彼が内蔵していた、別な動力炉からのエネルギーによって、彼は、再び動き始めます。
 このT-800の有様は、まるで、イエス・キリストが、いったん死んで、そして、復活した有様を、なぞっているようです。
 宗教とは、無縁であるはずのターミネーターが、その宗教の思想を、体現している。ターミネーターは、不思議なキャラクターです。こうしたキャラクターについての設定から、私は、マックス・ウェーバーが、「プロテスタンティズムを奉じる人間の末路」について語った言葉を、連想します。「精神なき専門人」。

(2)葬送

 ターミネーターは、その最後に、溶鉱炉へと溶け込み、その姿かたちが、無くなります。まるで、火葬です。
 その一方、キリスト教においては、審判の日を迎えるために、遺体は、通常、土葬します。
 「ターミネーター」の「火葬」は、「現代に生きる人間には、その死について、宗教による救済が、無くなった」ということを、意味しているのかもしれません。

(3)「ジャッジメント・デイ」(審判の日)

 思えば、この映画のサブタイトルは、「ジャッジメント・デイ」(審判の日)でした。「ジャッジメント・デイ」(審判の日)は、プロテスタンティズムを含む、キリスト教による、終末についての概念です。
 そして、この映画においては、「ジャッジメント・デイ」(審判の日)が来たあとも、人類の歴史は続き、しかもなお、「機械との戦争」という苦難が続くことに、なっています。
 現世においても、来世においても、宗教が、人間を救済する役割を、果たすことができなくなった。そうした意味を、この映画は、有しているのかもしれません。

 こうした死生観に関して、私が考えることを、ここに書き留めておきます。
 ターミネーターが溶鉱炉に溶けていったことは、人間が、その死にあたって、自然のなかへと溶けてゆくことと、類似しています。
 現代社会において、「ジャッジメント・デイ」(審判の日)という死生観が、想定できなくなっても、「人間は、自然をめぐる生命である」という死生観は、まだ、想定できるのではないでしょうか。
 神谷美恵子さんの訳した、ハリール・ジブラーンの詩のなかに、こういう言葉があります。
「ひとが死ぬということは、陽のなかに、溶けてゆくことではないか」
 この映画の監督である、ジェームズ・キャメロン氏の、その後の作品である『アバター』において、自然のなかに生きる主人公が登場したことは、ひょっとすると、同氏が、「人間は、自然をめぐる生命である」という死生観を、取り入れたことを、意味しているのかもしれません。

5 老いの空白

 現代社会は、死後の世界についての問題の他に、長い老後についての問題も、抱えています。
 T-800は、最後の戦いで、片腕を失い、動力炉が一旦停止します。この有様は、まるで、年老いた人間が、腕に障害を負い、心筋梗塞になる有様を、暗喩しているかのようです。
 そして、T-800は、自分の意思で、溶鉱炉へと、その身を、投げ出してゆきます。まるで、自分の意思で、介護施設へ、入居してゆくかのように。
 これら、一連の出来事は、劇中では、一晩で、済みました。しかし、実際、現代社会においては、人間は、長寿化により、自分の身体が自分の意のままにならなくなる「虚弱期・終末期」を、10年間から20年間にわたって、過ごすことになります。この10年間から20年間にわたる、「虚弱期・終末期」を、いかに過ごすか。それが、現代社会の抱える、大きな問題のうち、ひとつでしょう。
 この問題については、先日投稿した、開高健さんの『珠玉』文春文庫についての感想記事においても、個人的に指摘しました。「父親」に関する読書を重ね、その感想を書き留めているうちに、自分の問題意識が、より鮮明になってきた印象があります。
 そして、この問題について、鷲田清一さんは、「老いの空白」という名前を付けて、その考察の対象としています(『老いの空白』岩波現代文庫)。鷲田さんによる同書、個人的に興味があります。

 以上、この映画について、「機械になった父親」という視点から、個人的に考えたことを、書き留めてきました。
 以下、上記の視点から離れて、その他にも、個人的に気になったことについて、書き留めてゆきます。

6 教育に熱心な母親

 ジョンの母親、サラ。
 彼女は、「この子を、次世代の、指導者に」という思いから、ジョンを、熱心に、教育します。
 その一方で、彼女は、ジョンが自分を助けにきたとき、彼が抱擁を求めてくる、その気持ちに気付かずに、「私のことは心配しないで」と、言い放ちます。
 子どもの教育に熱心である一方で、子どもの気持ちには、気が付かない、母親。そうした母親の姿を、この映画は、描いています。

 また、サラは、映画『ターミネーター』、その1作目での「無力な学生」という姿から、「力強い戦士」へ、この2作目において、変貌を遂げます。
 父親が機械になる社会。その社会に、自らも適応した母親。そうした印象を、サラの変貌について、個人的に、受けました。
――「女性の社会進出」は進んでも、「男性の家庭進出」は、進んでいない。
 このことについて、サラの変貌は、象徴しているかのようです。

7 子どもにのしかかる期待

 この映画を、35歳になった視点から、観直したときに、個人的に印象に残ったこと。それは、「少年である、ジョンの頼もしさ」でした。
 ターミネーターには、規範を示す。弾丸は、装填する。母親は、病院から救い出す。その母親が、ひとを殺そうとしたときには、止める。その母親が、悲しみを示したときには、抱き受ける。大人の言い争いは、仲裁して、よりよい方向を、見い出す。
 まさに、「次世代の指導者」にふさわしい、振る舞いです。
「次世代の指導者になれ」
「新しい時代の、新しい規範を、考えろ」
「母親からの思慕の対象になれ」
 これらの期待が、劇中では、10歳のジョンに対して、かかっていました。ずいぶん重い期待です。このような重い期待を背負いながら、現代社会において、子どもは、育つことになっているのでしょうか。もし、そうであるとすると、子どもに、そのような重たい期待をかけてゆくことは、子育てにおいて、自然なことなのでしょうか。

8 ヒューマニズム

 最後に、この映画に通底していた、ヒューマニズムについて、個人的に、触れておきます。
 ジョンが、T-800に、示す規範。「ひとを殺すのは、よせ」「なぜだ」「いいから僕を信じて」。「ひとを殺すな。たとえダイソン(人工知能の開発主任)でもね」。
 そして、サラも、ダイソンを殺そうとして、良心の呵責から、それができませんでした。
 「ひとを殺してはいけない」。この、ヒューマニズム。根拠のない、それでも信じるべき、人間の存在の根源からくる、規範。そうした規範の提示が、この映画には、ありました。
 こうした規範について、その根源が、より具体的には、どこにあるのか。その根源について、不問としないで、探究してゆくこと。そのことに、個人的に、興味があります。

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