【読書】小泉今日子×糸井重里「小泉今日子さんが、そうしていたから。」ほぼ日刊イトイ新聞

小泉今日子×糸井重里「小泉今日子さんが、そうしていたから。」ほぼ日刊イトイ新聞
https://www.1101.com/n/s/nakanohito_koizumikyoko

 小泉今日子さんと、糸井重里さんとの、対談。2020.6.6~2020.6.16。
 小泉さんが、あまりに素敵なので、毎日、更新のたびに、個人的に読んでいました。

 「進学から、就職へ」。そういう「標準」から外れた生き方について、小泉さんの生き方は、ひとつの、よきお手本となりそうです。

第1 内容要約

1 父親の破産

 小泉さんが、15歳、中学生のころ、お父さんが破産した。それが、小泉さんの人生の、転機になった。
 当時、3姉妹のうち、小泉さんだけが、保護者の必要な年齢だった。
「親の決断や生活に、わたしだけは影響を与えちゃうなぁって思った」
 小泉さんは、15歳にして、自立して、自分で生計を立ててゆくことを、考えるようになった。

2 自立・生計

(1)芸能事務所へ

 小泉さんは、自分で生計を立てるために、芸能事務所へ。

 就職にあたっての、地元の友達からの言葉。
「わたし、ホントは受かってほしくなかった」
「だって、遠くに行っちゃうじゃん。
 もう、こんなふうに遊べないでしょう?」
 この言葉を受けて、小泉さんは、「そうか、絶対にそう思われないように生きなきゃ、なんて思った」。

 そして、お父さんからの言葉。お父さんは、テレビ局の社員として、働いていたことがあった。
「もうこんなふうに進んじゃったから、
 やるしかないと思うけど、自分の人生だからね。
 自分がすり減るような生き方は
 しないほうがいいよ」
「浮き沈みも激しいから、
 お給料もらったら、大事に貯金してね。
 やめたくなったときにやめられなかったら
 バカみたいだよ」
 小泉さん、「わたしはその言葉を聞いて『そうか、これは就職なんだな』と思いました。夢の世界に行くというよりは、ここから自分で生活をみていく、自立がはじまるんだ、という感覚になりました」。

(2)ショートカットに

 それでも、15歳で就職してから、1年間は、起こっていることに、小泉さんの心が、追いついていなかった。

 しかし、その1年間の後に、小泉さんは、「あ、もう逃げられない」と、感じた。もともとは、学校を休むのと同じ感覚で、仕事も休むことができると思っていた。
「学校、小っちゃいときから
 あんまり好きじゃなかったから、
 よくサボってました」

 もう、逃げることができない。そのことに気が付いてから、小泉さんは、自分で自分をプロデュースしはじめた。
「どうせもう逃げられないんだったら、
 見たことない女の子像を
 つくり出してやろうじゃねえか」
「自分がスカッとする女の子をつくろう」
 そのとき、まず、小泉さんが気になったのは、自分のロングヘアー。
「みんなおんなじ髪型してる!」
「わたし、なんでこんな髪型してるんだっけ?!」
「誰かに操られた?」
 ロングヘアーを、バッチーン✂
 次の曲も、次の衣装も、ロングヘアーを前提に、すでに出来上がっていた。
 ショートカットの小泉さんが、所属していた芸能事務所の社長さんの目の前に立ったとき、「人って、驚いたときは本当に腰を抜かすんだ、と知りました」。

「ちょうどそのとき、
 レコード会社のディレクターさんが
 変わったタイミングだったんです。
 そのわたしの行動を見て、
 『合った曲を作ってあげよう』
 と思ってくれて、
 『真っ赤な女の子』という曲ができました」
「子どもがやったことの後始末を
 みなさん一生懸命してくれた」

 糸井さん、「それは後始末というより、『先に本人がリードしちゃった』ということだよね。小泉さんは、まわりよりも先に走っていったんです」。

(3)自分が決める

 小泉さんが、芸能の仕事を始めてから、街を歩いていて、周りのひとに騒がれることが、増えた。
「これはどう考えるべきかなぁって、
 ひと晩ぐらい考えました」
「ホントにそれがイヤだというんだったら、
 わたしはこの仕事をやめればいいだけだ。
 やめるという解決法しかなくて、
 やめないんだったら、
 受け入れるしかないんだな」
「そのかわり、ちゃんと人間同士として対応しよう。
 『いまね、急いでるんです』
 『ごめんなさい。いまここで騒ぎが起こると
  わたしは困っちゃうんです。
  あなたも助けられないでしょう。ひとりじゃ』
 ということをお話しします」
 糸井さん、(小泉さんには)「おおげさにルールを決めるんじゃなくて、『自分が決めることだ』という感覚がいつもある気がする。街を歩くって決めてることもそうだし」。

(4)仕事術1:駆け引き

「歌や芝居の仕事をはじめると、
 自分の中にいろんな興味が生まれちゃいます。
 けれども『この仕事やりたいな』とか
 『この人と何かやりたいな』と、
 会社に提案してもきっとダメって言われる。
 だからそれは言わないで持っといて、
 やりたくない仕事を振られたときに
 『分かった。それやるから、こっちもやるね』
 みたいな駆け引きをしてました(笑)」

(5)仕事術2:どうせやるなら

「わたしは基本的に
 『わたし、これやりたい』が薄いタイプです」
「どうせつくるんだったらここまで関わりたい」
「どうせならカッコよくしたいな」

3 家族

(1)居場所

 お父さんが破産した後、小泉さんの一家には、「お父さんの家」「お母さんの家」「小泉さんの家」ができた。それぞれに、小泉さんの居場所があった。
 お父さんの借金の整理が済んだ後も、小泉さんのお母さんやお姉さんたちは、「お父さんの家」には、戻らなかった。小泉さんだけが、「お父さんの家」に、戻った。しばらく、小泉さんは、お父さんと、二人で暮らした。お父さんとの生活は、楽しかった。
 お父さんは、小泉さんが学校をサボって帰ってきても、何も言わずに受け入れて、いっしょに食事をしたり、テレビを観たりしていた。
 お母さんの家にも、小泉さんは、原宿などへ遊びに行った帰り、時間が遅くなったときに、駅から近かったので、泊まっていた。

(2)自分で自分を好きになる

 小泉さんが、両親から、学んだこと。「自分で自分を好きになることができるよう、行動すること」。「世間の目」ではなく、「自分の目」が、大事。
 ものは、座って食べる。歩きながら食べない。
 近所の子がケガしたら、その子のカバンを持って、登校する。
 転校生が引っ越ししてきたら、いっしょに登校して、道を案内する。

4 インプット

(1)高校からの退学

 小泉さんは、いつのまにか、高校を退学していた。
 その経緯。所属していた芸能事務所の社長さんが、「この人には学校の教育はもう必要ないだろう」。社長さんから、お父さんへ、連絡。お父さんが、高校へ、小泉さんの退学を届け出た。小泉さん、「あぁー・・・・、ひと言いってくれてもね」。

(2)自ら学ぶ

「学校に行かなかったことが、いつかこの先、
 コンプレックスになっちゃいけねえな」
 それから、小泉さんは、勉強が好きになった。
 仕事が終わってから、青山ブックセンターや、WAVEへ。本、音楽、映像。
 学びの例①。向田邦子さんという作家さんが、テレビドラマの脚本も、書いていること。そもそも、脚本という仕事があること。
 学びの例②。幼い頃に、たまたま観ていた映画に再度遭遇して、「トリュフォーっていう人が撮ったんだ。この役の人はジャンヌ・モローだったんだ」。
 こういう学びが、仕事に生きてくる。たとえば、映画監督・黒沢清さんと話していて、「この役は、〇〇、××…」「それって、ジャンヌ・モロー?」「そういうことです」。
「そんなふうに、幼い頃の出来事を
 本やビデオが過去からいまにつないでくれて、
 グッと飛んできたりする」

(3)人から学ぶ

 糸井さん、「黒沢清さんはいろんな歴史のある監督ですし、小泉さんにとっては先輩ですよね。そういう、前を歩く人のお尻につかまりながら歩くのも小泉さんはずいぶん上手だなぁと思っています。たとえば小暮徹さんもそうだよね」。

(4)出ない日

「動物って具合悪いと一切出てこなくて、ずっと寝てるでしょう」
「3日間ずっと、本読んだりビデオ観てたりするってこと」

5 結婚・離婚

「『結婚して何がよかったことか?』と問われたら、
 わたしは『離婚したことです』と答えると思います」
 いままで、家族ではなかったひとと、家族になる。
 もともとの家族なら、「ここまでなら、やっても大丈夫」という加減が、何となく、お互いに分かっている。
 しかし、夫婦は、そうはいかない。お互い、思いもよらないとき、思いもよらないことに、バットを振ることになる。
「痛い思いさせちゃっただろうし、
 自分にも『そこないよ』というようなバットが
 当たったりしているわけで(笑)」
「離婚という経験が、
 自分をもうちょっとだけ、地面に着けてくれました。
 足が浮いてたところを、ピッと
 『あなたも人間です』みたいな感じでね。
 経験でいえば、それは
 『失敗』という言葉になるわけです。
 でもその失敗が、
 人間としての自分が未熟なところを考える
 きっかけにもなりました。
 人の見方もちょっと変わった。
 あと『愛だ恋だ』ということを、ちゃんと一回、
 終わりにできたっていうか(笑)」

 小泉さんは、元ご夫君と、いっしょに仕事を立ち上げたりもした。その経験は、小泉さんが、のちのち、自分の会社を立ち上げるための、勉強にもなっていた。

「結婚して離婚するまでは、
 わたしはたぶんそうとうな面倒くさがり屋で、
 もっともっとダラダラしていたかったんです。
 テレビ局でトイレに入ったときに、
 ちょうどトイレットペーパーが終わってて
 芯だけのとき、あるでしょ(笑)。
 『なんで前の人がやってくんないのかな?!』
 そんなことすら、すごく面倒くさいと感じてました。
 でもいま、そういう状況だったら、
 『ハイッ、わたしがやっときます、次の方のために』
 みたいな気分になれます」

6 会社の設立

(1)街灯

「プロデューサーとしてというよりも
 『大人』として、
 後ろから歩いてくる人たちの道が
 少しでも明るいほうがいいな、という思いを、
 何をやってても持ってしまうから」

「あそこに街灯つけとこう」

「いまは、好きで役者さんやってても
 アルバイトしなきゃ食べていけないとか、
 劇場の運営も厳しくて、
 いろんな困難があります」
「だって、役者さんがいま家を買おうと思ったら、
 テレビドラマに主演したり、
 コマーシャルに出ないといけないですよね」

 糸井さん、「どちらかといえばいまは、勤め人以外の選択肢がなくなってきた時代です。こんな時代に希望を持って、勤め人じゃない自分の生き方をどんどんやっていこうと思ったら、アンドの『何か』が必要になりますよね」。

「つくる人たちと使われる人たちの間でできたルールが
 いつのまにか大きくなっちゃったのかもしれない」
「それが芸能という社会になっちゃった。
 それに対して我々が、
 どうにか動かないと変わらないんだろうな、
 という気がします。
 社会にあるどんな構造も、一回、ね、
 どっかまでいったら壊すしかないから。
 いまちょっとずつみんなで壊してて、
 またたのしくなるのかな、
 というふうにわたしには見えます」

(2)芸能という仕事

「わたしたちのやってることを通じて、
 そうやってドアを開けてくれる人がいるの。
 自分の人生のドアを。
 こういうことが実感として
 いちばんうれしいのかもしれない」
「わたしたちができることって、
 それだけなんだと思います。
 きっかけをつくったり、ドアを開けたりすることが、
 芸能の仕事だと思うんですよ」

 糸井さん、「いいねぇ。それってさ、若いときの自分がそうしていたからだよね。小暮さんのご夫妻もそうだし、親もお姉ちゃんも、厚木の友達も、本も、映画も、テレビも。小泉さんがそうしてきたから」。

第2 中島コメント

1 「選ぶ」より先に「働く」

 小泉さんは、自分で生計を立てるために、15歳から、働き始めました。
――自分の進路を選ぶよりも先に、自分の生計のために、働く必要があった。
 この小泉さんの経験は、後進の人々にとって、示唆があるでしょう。「自分の進路を選ぶ」以前に、「自分の生計を立てる」ことが、まず、人間にとって、必要なこと。「自分の進路を選ぶ」ために、「自分の生計を立てる」ことを、先延ばしして、いいのでしょうか。

2 仕事の受け容れ

 小泉さんは、自分の意に沿わない仕事でも、駆け引きしながら、引き受けていたといいます。
 たとえば、他のインタビューで、小泉さんは、代表曲『なんてったってアイドル』を歌っていたときの心境を、「またオトナが悪ふざけしてるよ」と、語っています。
 この教訓は、「ひとは、自分の意に沿わない仕事でも、我慢してするべきである」という意味ではなく、「ひとは、自分の意に沿わない仕事でも、受け容れる、器量の大きさを、持つべきである」という意味で、捉えるべきでしょう。
 「他人のやりたい仕事が、自分のやりたい仕事ではないことがある」。そのことは、逆に、「自分のやりたい仕事が、他人のやりたい仕事ではないことがある」ということをも、意味するでしょう。そのような関係のなかで、お互いがお互いに、やりたい仕事をしてゆくためには、双方に、「相手のやりたい仕事を、受け容れることのできる、器量の大きさ」が、必要になるでしょう。
 そして、このように、「ひとを生かして、自分も生かしてゆく関係」のことを、「互酬」と呼ぶのでしょう。

3 絆を結んでゆく

 小泉さんの発言から、私が感じたこと。
・ ひとと絆を結んでゆくこと(小暮さん夫妻)
・ ひととひととの絆を結んでゆくこと(父、母、姉)
・ いったん結んだ絆を大切にすること(地元友達)
 これらのことを、小泉さんは、15歳のときから、大事にしていたようです。これらの絆を、織り上げた先に、小泉さんの、プロデューサーとしての、いまの仕事があるのでしょう。

 「プロデューサー」という呼称の他に、小泉さんについては、私は、「フィクサー」という呼称も似合うように、個人的に、感じています。
 「フィクサー」とは、「事件などの調停役、まとめ役、始末屋。黒幕。修理屋」(現代用語の基礎知識)。
 たとえば、小泉さんは、上記2において触れた、『なんてったってアイドル』を歌う仕事のときには、「オトナの悪ふざけ」について、その始末をつけてあげていたのでしょう。

4 若い人が状況を引っぱっていく

 突如、小泉さんが、ショートヘアーになった。その小泉さんに対して、「子どもがやったことの後始末を、みなさん一生懸命してくれた」。
 この小泉さんの発言についての、糸井さんのコメント。
「それは後始末というより、『先に本人がリードしちゃった』ということだよね。小泉さんは、まわりよりも先に走っていったんです」
 この糸井さんのコメントから、私は、個人的に、映画『アマンダと僕』の、主人公のセリフを、思い出しました。この映画の主人公は、20代そこそこで、7才の姪である、アマンダの、未成年後見人になることになった、青年でした。「アマンダが、状況を引っぱっていく」。
 子ども、ひいては、若い人が持っている、状況を引っぱっていく、チカラ。このチカラについては、自分よりも若い人と一緒に働いている、私自身も、実感しています。

5 父娘関係

 小泉さんのお父さんが、その自宅で、独居になりかけたとき、小泉さんは、お父さんといっしょに暮らすことを、選びました。お父さんにとっては、さぞ、救いになったことでしょう。その一方で、離れてゆく家族を、つなぎとめるために、小泉さんの心には、どれほどの負荷が、かかっていたことでしょう。そのことが、私には、個人的に、気になります。

6 大学教育

 小泉さんは、自分でも知らないうちに、高校を中退。その後、小泉さんは、自分にとって必要なことを、自分で学びました。
 このことから、私は、自分の受けた大学教育のことを、思い起こしました。
 私の受けた大学教育は、振り返ってみると、「情報の洪水」でした。ひとりひとりの教授が、善意で、丁寧に、授業に知識を詰め込みます。その結果、学生たちにとっては、学期ごとに学ぶべき知識が、多すぎることになります。そして、学生たちは、期末試験に合格するための、短期記憶に、必死になります。しかし、短期記憶ですので、期末の試験が過ぎたあと、学生たちは、すっかり、授業で得た知識を、忘れてゆきます…
 私にとって、大学教育で得て、いまに残っているものは、「文献の調べ方」、そして「レポートの組み立て方」です。つまりは、「自ら学ぶ方法」です。自ら学んではじめて、ひとのアタマには、知識が残るものなのでしょう。
 なお、「自ら学ぶ方法」を得ただけでも、私は、大学に行った甲斐があったと、個人的には考えています。

 私が司法書士実務で使っている知識は、受験指導学校での学習から、得ました。
 ただ、受験指導学校が提供する知識は、「試験に合格するためのもの」であって、「ひとと共有するためのもの」では、ありません。このことが、いまの私にとって、ひとといっしょに仕事をしてゆくための、支障になっています。ひとと共有できるかたちでの、法の学び直しが、いま、私にとって、必要になってきています。そして、「ひとと共有できるかたちでの、学び」というものが、まさに「大学における学び」なのでしょう。

 また、私の社会観・世界観については、私が自ら探して巡り会った、次の書籍たちが、基礎になりました。
  宮崎駿『風の帰る場所』文春ジブリ文庫
  司馬遼太郎・堀田善衛・宮崎駿『時代の風音』朝日文庫
  堀田善衛『時代と人間』徳間書店

 自ら学ぶことが、大事。とはいえ、私は、大学教育が、不要であるとまでは、考えていません。大学教育の改善のためには、たとえば、下記の施策が、あってもいいのではないでしょうか。
・ 就職活動の選考対象から、大学での学業成績を、切り離す。
 ⇒ やたらに「A」や「S」をたくさん取らなくてもいいようにする。
・ ひとりひとりの学生に、メンター(聞き役)を付ける。
 ⇒ 自分が何を学びたいのか、自分の問題意識を、掘り下げることができるようにする。

7 「言葉の響き」から「内面の形成」へ

「そんなふうに、幼い頃の出来事を
 本やビデオが過去からいまにつないでくれて、
 グッと飛んできたりする」

 小泉さんの、この言葉から、私は、個人的に、作曲家・武満徹さんの言葉を、連想しました。この言葉、素敵ですので、私は、何度も引用しています。何卒お付き合い下さい。
「異なった声が限りなく谺しあう世界に、ひとは、それぞれに唯一の声を聞こうとつとめる。その声とは、たぶん、私たちの自己の内側でかすかに振動し続けている、あるなにかを呼びさまそうとするシグナル(信号)であろう。いまだ形を成さない内心の声は、他の声(信号)にたすけられることで、まぎれもない自己の声となるのである」
 小泉さんは、ひとの言葉・作品に触れることで、自分の内心の声を、自己の声としてきたのでしょう。小泉さんがしていたことは、学校でするような、単純な勉強ではなく、他者の声によって、自分の声を獲得すること、つまりは「内面の形成」だったのでしょう。

8 経営者として考える時間

「動物って具合悪いと一切出てこなくて、ずっと寝てるでしょう」
「3日間ずっと、本読んだりビデオ観てたりするってこと」

 この小泉さんの暮らし方は、私にとって、随分参考になりました。
 人様に、自分の職場で働いて頂くようになって、私が、感じるようになったこと。
「『労働者』として、1日7時間、職場にはりついて、目先の仕事にかかりきりでいると、『経営者』として、大局観をもって考えるべきことを、考える時間が、確保しにくくなる」
 この「考える時間」は、土曜日・日曜日では、足りません。
 せっかく、私は、経営者として、「労働時間」という規制から、自由な立場にあるのですから、職場と自宅とで、それぞれ過ごす時間について、もっと、融通をきかせても、いいのかもしれません。
 そして、その方が、スタッフさんたちも、私と顔を突き合わせる時間が、少なく済んで、もっと、のびのびと働くことが、できるようになるかもしれません。

9 結婚・離婚

 結婚・離婚とまではいきませんでしたけれども、私にも、小泉さんと似たような経験があります。その経験から、私が学んだことを、小泉さんの発言から、響き返すかたちで、個人的に、まとめることができましたので、ここに、書き留めておきます。
 私が学んだことは、「ひとは、何もしないまま、消えてゆくことがある」ということでした。
A 自分からは葛藤を解消しようとしない
B 自分が「自分からは葛藤を解消しようとしない人間であること」は認めたくない
C 自分の自尊感情は傷つけないまま誰かに助けてもらいたい
D 誰かの気を引いて助けてもらうために言いがかりをつける
E それでも誰かが何もしないなら自分も本当に何もしない
 このような心理が、人間にはあるようです。
 そして、このような心理は、「子ども」「高齢者」「障害者」など、「自分から何かする」には、つらい立場にあるひとたちに、宿りやすいようです。たとえば、佐野眞一ほか『老いのこころ』有斐閣アルマが、このような心理のことを、紹介しています。
 そのひとは、本当に何もしないまま、最後には、自分の名前も、自分の顔も無くして、消えていきました。
 この経験から、私が得たものは…
「ひとが、何もしないで、その生命が痩せ細っていって、ときには、その生命が消えることもありうることに、付き合うことができるようになった」
 このことを言い換えると、「セルフ・ネグレクトの状況にあるひとたちと、その自尊感情を尊重しながら、付き合っていくことができるようになった」。
 この経験は、私の、いまの仕事に、生きています。

10 自分から何かする

 小泉さんは、結婚と離婚を経て、自分に生じた変化について、例として、こう語っています。
「テレビ局で、トイレットペーパーが切れていたら、自分から進んで替えるようになった」
 この変化は、「自分から何かするようになった」ということでしょう。

 ひょっとしたら、結婚・離婚は、ひとを、「自分から何かする」ように、成長させるのかもしれません。

11 アンドの『何か』

 糸井さんの、次の言葉が、私には、気になりました。
「どちらかといえばいまは、勤め人以外の選択肢がなくなってきた時代です。こんな時代に希望を持って、勤め人じゃない自分の生き方をどんどんやっていこうと思ったら、アンドの『何か』が必要になりますよね」。
 この「アンドの『何か』」とは、何でしょう。
 仮説。この「アンドの『何か』」のうち、ひとつに、「自分なりの希少な技能」というものが、ありうるでしょう。「この仕事は、自分しか、できない」。ただ、そう仮定したとき、問題になることは、「20代の若い人たちが、一朝一夕に、『自分なりの希少な技能』を、身に付けることができるか」ということです。
 この問題を解決する、ひとつの方法として、「業務独占資格」(せめて『業務必置資格』)を取得することが、ありえます。たとえば、私は、「司法書士」という、「業務独占資格」を取得することによって、いままでの「勤め人じゃない自分の生き方」を、実現してきました。
 ただ、35歳になって、最近、個人的に感じることは、こういうことです。
「『業務独占資格』による、法令上の『希少さ』は、自分の生計を立てることについて、人生における、一定の時間を稼ぐことにしかならない」
 人生において、一定の時間が過ぎると、ひとは、年齢相応に、自分の生活のみならず、人様の生活にまで、責任を持つようになります。また、交際が広がって・深まってきます。
 そうなると、売上げのためにはもちろん、自分・仲間・相手の生きがいのためにも、「『業務独占資格』としてではなく、よりピンポイントな『個人』として、希少な技能を、自分なりに編み出すことができるか」が、問題になってきます。
 そして、「『業務独占資格』としてではなく『経営者』として、ひとを生かして、自分も生かす知恵を、編み出すことができるか」も、問題になってきます。
 どちらの問題も、「業務独占資格」による仕事、という方法では、克服できません。これらの問題を、最近、個人的に、感じています。

12 社会を変えるには

「社会にあるどんな構造も、一回、ね、
 どっかまでいったら壊すしかないから。
 いまちょっとずつみんなで壊してて、
 またたのしくなるのかな、
 というふうにわたしには見えます」

 社会にある構造の、破壊と、再建。そのためには、いままでの社会運動の、失敗と成功の歴史を、ふまえておく必要があるでしょう。
 このことについて、個人的に感じること。SNSにおいて、社会運動が、拡大していくように見えることがあります。しかし、SNSにおいて、起こっていることは、実際には、「ひとが指先を動かしているだけ」なのではないでしょうか。このことは、スタジオジブリのプロデューサーである、鈴木敏夫さんも、指摘していました(座談会/鈴木敏夫ほか「映画館で見るという行為がいつも中心にあって、そここそが映画の魅力なんだと思います」スタジオジブリ『熱風』2020年6月号)。
 実際に、アタマとカラダを使った、社会運動。その実績について、私たちは、学んでゆく必要が、あるでしょう。個人的には、下記の運動に、興味があります。

  フランス革命(1789年)
  フランス二月革命(1848年)
  パリ五月革命(1968年)

  ベトナム反戦運動

12 持家

 この対談においては、「いまはもう、役者や作家という仕事では、家が買えない」という問題について、指摘がありました。

 しかし、そもそも、ひとは、家を買うべきなのでしょうか。ひとつところに、定住するべきなのでしょうか。
 「ひとは、家を持つべきである」。「定住するべきである」。この観念は、戦前戦後の持家政策が、もたらしたものなのではないでしょうか。
 ひとが、家を持つこと。定住すること。そのことには、持主にとって、「企業へ、職場へ、定期に、通いやすい」以上の意味が、あるのでしょうか。
 持家制度もまた、変革するべき社会システムの、その一部なのかもしれません。

13 人生の扉

「わたしたちのやってることを通じて、
 そうやってドアを開けてくれる人がいるの。
 自分の人生のドアを。
 こういうことが実感として
 いちばんうれしいのかもしれない」

 小泉さんの、この言葉から、個人的に、竹内まりやさんの楽曲である「人生の扉」を、思い出しました。

  満開の桜や 色づく山の紅葉を
  この先いったい何度 見ることになるだろう
  ひとつひとつ 人生の扉を開けては 感じるその重さ
  ひとりひとり 愛する人たちのために 生きてゆきたいよ

 いい曲です。
 この「人生の扉」は、竹内まりやさんが、52歳のころに、発表した楽曲です。
 一方、小泉さんは、この対談の、いま、54歳。
――こんなに素敵な50代のひとたちが、いらっしゃるんだなぁ。
 そのように、個人的に、素直に憧れます。
 自分が50代になるとき、お手本にしたいひとたちのなかに、小泉さんが(竹内さんも)加わりました。
 得るところの多々ある、素敵な対談でした。

Follow me!