【考えの足あと】コロナ下でできること

 ここ数ヶ月、個人的に考えていて、まとまってきましたので、ここに書き留めておきます。

 ありがたいことに、中島の事務所の、経営へのダメージは、大きくはありませんでした。まだ、持続化給付金も、受給せずに済んでいます。
 ダメージが大きくなかった要因は、おそらく、「相続」や「成年後見」など、経済の盛衰からの影響が、あまりない業務を、私の事務所で、主に取り扱っていたからでしょう。その意味では、私の事務所の、経営の進む方向が、時代の進む方向に、偶然、合っていたのかもしれません。
 その、私の事務所の、経営の進む方向は、次のように、表現することができそうです。「情報社会が置いてけぼりにしてきた、『ヒトの身体、生命』、『モノ』について、世話すること」。いわば、「最先端の後始末」。

 でも、ダメージが大きくなかったからといって、油断することは、できません。
 いまは、ありがたいことに、もとからの、お知り合いの方々とのご縁によって、仕事を受注することが、できています。しかし、いまは、ビジネスクラブでの会合など、「ご縁を、続けてゆくこと」「ご縁を、つなげてゆくこと」についての活動(いわゆる営業活動)が、ほとんど停止してもいます。
 このままですと、もしかしたら、仕事の受注が、だんだん細くなってゆくかもしれません。

 営業活動が、ほとんど停止している。
 そのことについての対策としては、下記の二つが、ありうるでしょう。
  ① いままでのつながりについて、より大切にする。
  ② 新しいつながり方について、模索する。
 さしあたり、できることは、①です。
 具体的には、Facebookでの、友達の方々を、主な想定読者として、私の仕事についての紹介記事を、書いてゆきます。
 それらの記事は、具体的な案件において、依頼者の方々への手続案内にも、転用できるようにします。
 転用できるようにすることで、私の事務所の、スタッフの方々にとっても、依頼者の方々への、手続案内が、しやすくなるはずです。
 この作業は、私の事務所における、「ひとのはたらき」(小倉昌男さんの言う「ヒューマンウェア」)を、更に整備することにも、つながってゆくでしょう。

 私の仕事についての紹介記事を、書いてゆく。
 私のしてきた仕事を、あらためて、見つめ直してみる。
 そのなかから、②の、「新しいつながり方」についてのアイデアも、出てくるかもしれません。
 作家、開高健さんの言葉、「右足で一歩一歩歩きつつ、左足で跳べ」(『風に訊け ザ・ラスト』集英社文庫)。

 私の仕事についての紹介記事、その試作が、先日の「覚え書き 豊島区民社会福祉協議会 成年後見等開始審判申立費用助成事業」でした。
 試作してみて、いろいろ、個人的に分かったことがあります。
 その1。「書いていることが、事実に徹していて、面白くない!笑」。仕事文だからといって、事実に徹することなく、いつもの、私の読書についての感想文のように、個人的な意見も、のせていった方が、書いていても・読んでいても、面白いようです。
 その2。「いままで、私の書いてきた、読書についての感想文。あの感想文の、文章の型式は、『判例評釈』の型式だった」。「判例評釈」の型式は、「判例紹介」と、「コメント」との、二部構成。自分が法学において慣れ親しんできた型式を、私は、いつの間にか、読書についての感想文にも、転用していたようです。法学は、仕事のみならず、人生を楽しむためにも、役に立つようです(^^)
 その3。「『判例評釈』の型式が、私にとって、書きやすいなら、『判例評釈』と同様の、『ケーススタディ』の型式で、私の仕事についての紹介記事を、書いてみても、いいかもしれない」。ただ、記事としては、複数の「ケーススタディ」で参照する、「制度概説」も、必要になりそうです。「制度概説」の型式は、模索する必要があるでしょう。
 その4。「記事の作成については、糸井重里さんの運営する、『ほぼ日刊イトイ新聞』が、参考になりそう」。「ほぼ日」の記事は、読んでいて、面白い上、その記事に出てくるひとの書いた本を、買いたくなります。なお、「ほぼ日」の、目を惹く、面白い記事は、型式が「対談」であるものが、多いようです。

 上記の文章について、推敲していくなかで、個人的に気になったこと。
「経営の方向が、『情報社会が置いてけぼりにしてきた…』だったのに、情報社会の象徴である、インターネットへ、記事を載せていくことに、活路を見い出すの?」
 このことは、自分のことながら、正直なところ、疑問です。
 いったんは、インターネットに、活路を見い出すにしても、②新しいつながり方は、ひとびとの、実際の生活のなかに、見い出すべきなのでしょう。
 そして、インターネットについて、より深く知ることによって、インターネットと、実際の生活との違いが、より鮮明に、分かってくるのかもしれません。漠然とした、予感です。

 最後に、コロナ下の人間関係について、個人的に気になっていることを、書き留めておきます。
 コロナ下での、活動自粛。その表面的な理由は、「感染拡大防止」です。しかし、その裏には、「人間嫌悪」が、潜んでいるのかもしれません。
「外に出たくない。ひとに会いたくない。何もしたくない」
 このような、藤田省三さんの言う「安楽への全体主義」を志向する心性が、活動自粛のなかに潜んでいるのならば、その心性に引っぱられないように、新しいつながり方を、模索してゆきたいものです。
 このことに関連して、映画監督・宮崎駿さんの、映画『もののけ姫』についての、次の言葉を、引用しておきます。
「『もののけ姫』であるサンという女の子の、人間に対する憎悪とか不信を、はたして解放することができるかどうかというのが課題だったんですが、作っていくうちに、どうにも解放できない、解放なんかさせたらウソになる、そういうところに行かざるをえなかった。自分の中で全然払拭できないんです。そう思って周りの人間たちを見ると、決してそう意識してるわけではないけれど、やっぱりみんな『人間嫌い』になっているんですね。正しくは『人類嫌い』と言ったほうがいいかもしれませんが。顔見知りの人間は好きなんです。けれど、人類とか外国人と言ったとたんに、『いなきゃいいのに』という感じになる。こんなにみんなが人間嫌いになってる時代はないんじゃないか。一方では、人間の命はとても尊いなんて言ってる時代で、建前と本音というのはヘンな言い方ですが、もっと底のほうに、いわゆる『うざったい気持ち』が、通奏低音のように流れている。子どもたちからして、そうじゃないかと思ったもんですから。で、そこを扱わずしてどうするか。悪い人間や殺しても惜しくないような輩をいっぱい出して、そいつらをやっつけてせいせいするような映画だけは、絶対に作っちゃいけないと思ったわけです」(『虫眼とアニ眼』新潮文庫)

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