【読書】小川洋子『最果てアーケード』講談社文庫 ~「さようなら、お父さん」~
小川洋子『最果てアーケード』講談社文庫 お-80-3 2015.5.15
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作家・小川洋子さんの連作集。
短編が、ひとつひとつ、連なりながら、ひとつの物語になってゆきます。
私は、先日の『シュガータイム』についてのテキスト批評以来、小川洋子さんの半生を、たどるように、そのエッセイを、あれこれと、読んできました。
読むときの、個人的な視点は、「この現代日本社会で、『女性が大人になること』とは、どういうことなのだろう」。
男性が大人になることについては、大江健三郎さんをはじめ、河合隼雄さんなど、様々な男性たちが、自分なりの考えを、書き残してくれています。それらの著作から、私は、「男性が大人になること」について、複数の見方を、学んできました。
そのように、学んでゆく中で、個人的に、浮かんできた問い。
「『男性が大人になること』と、『女性が大人になること』とについては、同じ部分もあり、違う部分もある様子。『女性が大人になること』とは、どのようなことなのだろう」
そのことに、個人的に興味を持って、小川さんのエッセイを読んでゆくうちに、この『最果てアーケード』という作品のことが、ひときわ気になるようになり、あらためて、読んでみることにしました。
読んでみますと、当初の問いへの答え以上に、個人的に、得るものがありました。
第1 あらすじ
そこは、世界で一番、小さなアーケード。
アーケードを形作る、住居であり店舗である、2階建ての建物たち。
その中庭には、偽ステンドグラスからの、色とりどりの光が、降り注いでいる。
主人公は、女の子。彼女のお父さんが、アーケードの、家主だった。
彼女は、16歳の冬休みに、アーケードの配達係の、アルバイトを始めた。
彼女の配達には、いつも、飼い犬のベベが、付き添っていた。
配達先で出会うひとびと、彼ら彼女らをめぐる、出来事。
そして、主人公の、幼い頃の思い出。
それらの出来事や思い出が、縫い重なるようにして、ひとつの物語が、できあがってゆく。
「衣装係さん」。
アーケードのお店、「レース屋」。そのお店に、おばあさんが、レースを買いに、やってくる。彼女は、アーケードのある街に、かつてあった劇場の、衣装係だった。
衣装係さんの家に、レースを届けに行く、主人公。
「私の作る衣装を着るひとは、この世のひとでは、ないのさ。俳優たち、女優たちの姿を借りた、別の世界のひとたちなんだ」
その衣装係さんが、語ってくれた、思い出。
衣装係さんの若かりし頃、劇場の窓口で、女優へ花を渡そうと、ずっと立って待っている男性が、いた。彼は、奥手で、その女優に、花を渡すことが、できなかった。その花を、男性は、いつも、劇場から最後に出てくる衣装係さんに、渡していた。
「あの女優の、衣装の、切れはしを、持ってきてほしい」
男性からの、願い。その願いに対し、衣装係さんは、密かに、自分の私服から、レースの部分をちぎって、男性に、渡すことで、応じた。
それから、男性は、劇場に、現れなくなった。
次に、衣装係さんが、男性の消息を知ったのは、新聞記事からだった。「男性が、女優を、ナイフで切りつけた」。新聞記事には、そのように、書いてあった。
ある日、主人公が衣装係さんを訪ねると、彼女は、ミシンにもたれかかりながら、息絶えていた。
彼女は、あのときの私服を、マネキンに着せて、ずっとそのままにしていた。その私服を、主人公は、レース屋さんに、届けた。
レース屋さんは、その私服から、レースを切り取って、店頭に、飾った。そのレースを、必要とするひとが、またいつか、現れるまで…
「百科事典少女」。
幼い頃、主人公は、アーケードの読書休憩室で、よく本を読んでいた。
その読書休憩室に、主人公と同じくらいの年格好の女の子、「Rちゃん」が、やってくる。
Rちゃんは、お転婆な女の子だった。アーケードで、何の買い物もしないで、読書休憩室に、上がり込んでくる。
主人公は、『あしながおじさん』等の、夢見るようなお話が、好きだった。彼女に比して、Rちゃんは、現実的な話を、好んだ。「どうぜ、ハッピーエンドなんでしょう?」。なぜか、Rちゃんは、主人公がこれから読むお話の結末を、すべて、知っていた。
Rちゃんが、とりわけ好んだ本が、百科事典だった。百科事典を、「あ」から、読み始める、Rちゃん。彼女が「アッピア街道」について読み上げると、主人公は、Rちゃんと、ベベと、アッピア街道を歩いている気分になった。
「百科事典で、いちばん多い項目は、『し』について、なのよ」
「『ん』まで、読み終わるのが、楽しみだなあ」
そのように、楽しみにしていた、Rちゃん。しかし、彼女は、厄介な内蔵の病気に罹り、あっけなく死んでしまった。
彼女が死んでから、アーケードに、『あしながおじさん』のイメージにぴったりの、初老の男性が、現れる。「紳士おじさん」。彼は、Rちゃんの、お父さんだった。
Rちゃんが、好んで読んでいた、百科事典。その百科事典を、紳士おじさんが、「あ」から、大学ノートに、書き写し始める。
何年も何年も、その作業は、続いた。紳士おじさんは、毎回、読書休憩室へ入るために、律儀に、アーケードのお店の品物を、買い求めた。その品物を、紳士おじさんは、Rちゃんがいつも持っていた手提げ袋に、収めていった。
書き写しが進むにつれて、Rちゃんの手提げ袋も、膨らんでいった。その様子は、まるで、アーケードのお店の品物でできた世界が、手提げ袋のなかで、広がっていくかのようだった。
そして、ついに、紳士おじさんは、百科事典の「ん」の項目まで、その全てを、大学ノートに、書き写し終えた。彼は、静かに、百科事典を閉じ、両手に抱えて、本棚へ戻し、アーケードを、後にしていった。
それから二度と、紳士おじさんは、アーケードに、現れなかった。
「兎夫人」。
アーケードのお店、「義眼屋」。その義眼屋に、裕福そうな夫人が、訪ねてくる。
「ラビトの眼を、作って欲しいの」
ラビトとは? どうやら、兎らしい。
それから、毎日のように、兎夫人は、義眼屋に、訪れるようになった。
ラビトの眼について、褒めたたえる、彼女。
「ラビトの眼は、もはや、何色なのかさえ、言葉では表現できない、結晶になっているのよ」
彼女を迎える、義眼屋の店主もまた、切れ込みの深い、綺麗な眼をしていた。
義眼屋さんには、婚約者さんがいた。主人公は、「婚約者」という言葉が、「恋人」でも「妻」でもない、特別な響きがこもっているようで、好きだった。
ある日、主人公は、兎夫人を、公園で、見かけた。兎夫人は、乳母車を、押していた。
――ラビトが、見たい。
主人公は、こっそり、乳母車を、覗き込む。その乳母車の、おくるみのなかには、何も、いなかった。
――このことは、お父さんにも、内緒にしておこう。
そのように、決意する、主人公。そして、彼女は、その決意を、守り通した。
それから…
「ラビトを、抱っこして欲しいの」
そのように、兎夫人が、義眼屋さんに、求める。求めに応じる、義眼屋さん。
兎夫人の、何もない両腕から、義眼屋さんが、「ラビト」を、抱き受ける。
「あなたほど上手に、ラビトを抱っこできるひとは、他にいなかった」
その後、義眼屋さんの、結婚式の日が、やってくる。兎夫人は、その日も、義眼屋の、お店の前に、やってきた。がらんどうの、店内。その店内を、兎夫人が、ドアのガラスを通して、祈るような面持ちで、見つめる。
それ以来、兎夫人は、アーケードに、現れなくなった。
歳月が過ぎてから、主人公は、紳士おじさんから、あることを、聞いた。Rちゃんと、同じ病院で、同じ頃、「ラビト」というあだ名の、男の子が、死んだことを…
「輪っか屋さん」。
アーケードの入口付近にある、「輪っか屋」。ドーナツ屋。彼のお得意さんは、近くの総合スポーツセンターへ行き来する、少年少女たち。
彼ら彼女らのなかで、ひときわ、輪っか屋さんは、体操少女たちに、憧れていた。彼女らは、体重を制限しているため、ドーナツ屋には、なかなか、やってこない。
――自分にも、ああいう娘がいたら…
そんな彼の前に、「元・体操少女」が、現れる。彼女は、体操少女たちの、コーチ。「元・オリンピック選手」。ポニーテールが、よく似合う女性だった。
「私、ドーナツの格好も、できるのよ」
輪っか屋さんは、50歳・目前。いままで、ドーナツ、一筋だった。
元・オリンピック選手は、30代・後半。
二人は、アーケードの中庭で、一緒に、時間を過ごすようになる。
ドーナツの「真ん中」。その「真ん中」を、輪っか屋さんは、特別に揚げて、元・オリンピック選手に、ふるまう。
その後、明らかになる、彼女の正体。「結婚詐欺」。
――没落した名家の娘。家の再興のために、資金が必要。
その決まり文句で、彼女は、複数の男性から、財産を貢がせてきていた。
彼女は、刑務所へ。彼女と輪っか屋さんとは、破談になった。
ただ、彼女は、輪っか屋さんに対してだけは、「没落した名家の娘」ではなく、「元・オリンピック選手」という、嘘を、ついていた。
10年後。輪っか屋さんは、いまも、ひとりで、ドーナツを、揚げ続けている。
再び、女性が、アーケードのある街に、現れる。女性と、主人公とが、公園で、再び、出会う。女性の、ポニーテールは、そのままだった。
「お元気かしら。あの、わっ…」
「ドーナツの格好を、して下さい」
女性の言葉を、主人公の言葉が、遮る。
女性は、静かに深く息を吸い込み、片足を前へ伸ばして、集中を高め、そして逆立ちをし、つま先がポニーテールに届かんばかりの、輪を描いた。
――彼女は、嘘を、ついていなかった。
「紙店シスター」。
紙店の店主は、レース屋さんの、お姉さん。彼女は、弟に対して、何かと世話を焼いている。
紙店の片隅には、誰かが誰かに対して書いた、古い絵葉書たちが、丁寧に重ねて、置いてある。それらの絵葉書から、主人公の、幼い頃の思い出が、蘇る――
主人公の幼い頃、主人公の母親が、病を得て、療養所で、療養していた。
療養所では、大きな蘇鉄が、その葉を、おどろおどろしく、茂らせていた。
主人公が、お父さんと、お母さんを、見舞う。その度に、お母さんは、主人公の髪を梳いて、三つ編みにしてくれた。
母のいる部屋の、消毒液のにおい。そのにおいに耐えかねて、主人公は、療養所のなかを、探検することに。
探検しているうちに、彼女は、用務員のおじいさんと、出会う。
おじいさんに、ちょこまかとついてまわる、主人公。彼女からの、あれやこれやの質問に、おじいさんは、ときには、仕事の手を休めて、答えてくれた。
主人公は、おじいさんと一緒に、療養所に届いた郵便物を、取りに行くことに。そのためには、蘇鉄のそばを、通らなければならない。おじいさんと手をつなぎ、目をぎゅっと閉じながら、歩いてゆく、主人公。
「さあ、目を開けて。何も怖くないよ」
おじいさんは、その居室で、主人公に、郵便物の仕分けを、見せてくれた。
机の上に、郵便物が、宛先別に、整然と、積み上がってゆく。
その中に、一枚だけ、おじいさん宛ての、郵便物が、あった。おじいさんの、お姉さんからの、絵葉書。
「あなたの好きな、チョコレートを、送ります」
その絵葉書は、天涯孤独の、おじいさんが、自分に宛てて、出した絵葉書だった。
「こういうお姉さんがいたらいいなあ。そう思ってね」
そのおじいさんに、帰ったら、絵葉書を出す。そう約束する、主人公。
しかし、その約束を、主人公は、守ることが、できなかった。その後、まもなく、主人公の母親が、亡くなったのだった。主人公は、療養所に、行くことが、なくなった。
そして何より、その頃の主人公は、まだ、字を書くことが、できなかった。
その頃の主人公には、母親の死を悲しむための言葉も、なかった。その言葉を得たとき、主人公の胸の中に、一気に、悲しみが、こみ上げてきた――
紙店シスターのお店に、颯爽とした青年が、やってくる。彼は、彼のために待っていたかのような絵葉書を手にして、買い求めて、去ってゆく。
「さあ、目を開けて。何も怖くないよ」
そのように、その絵葉書には、書いてあった。
「ノブさん」。
アーケードの最長老、「ノブさん」。彼女は、ドアノブ屋を、営んでいた。
主人公が幼い頃、お父さんが、生涯に一度の、外国旅行に行ったことがあった。
「お利口にしていたら、お土産を買って帰るよ」
その言葉の通り、お父さんは、薄紫色に透き通る、石鹸を、主人公のために、持ち帰ってきた。
喜び、アーケードの中庭を、はしゃいでまわる、主人公。
偽ステンドグラスからの、色とりどりの光に、石鹸をかざすと、石鹸は、この世のものとは思えないような、光彩を放った。
喜び過ぎた主人公が、転んでしまう。その拍子に、主人公があんなに大切にしていた石鹸もが、ポケットから飛び出して、割れてしまった。
気が付くと、主人公は、ノブさんのお店の、雄ライオンをあしらったドアノブの奥の、暗がりに、身を沈めていた。
――そうやって沈んでゆけば、いつか向こう側にたどり着いて、自分の仕出かした誤りが許されるかもしれない。
次に気が付いたときには、主人公は、ベッドの上にいた。
お父さんが、あたたかくて大きな手で、主人公の手を、にぎってくれる。
「何も心配は、いらない」
「石鹸は、台無しになんか、なってないよ。こうして、いい匂いに、変身しただけさ」
お父さんの言葉とは裏腹に、主人公は、このことがきっかけで、自分のせいで、お父さんに、何か良くないことが起こるのではないかと、心配になった。
その心配を、主人公は、お父さんに、言葉で伝えることが、できなかった。お父さんが、優しい表情を、していたからだった。
――ごめんなさい。許してね。
そう、主人公は、心の中で、お父さんに、語りかけた。
「勲章店の未亡人」。
アーケードのお店、「勲章店」。
今は亡き店主は、表彰式が大好きだった。そのなかでも彼は、オリンピックの表彰式を、とりわけ楽しみにしていた。
その店主が亡くなった後も、未亡人は、お店を続けていた。彼女は、お店を閉じる機会を、逃し続けている様子だった。
そのお店に、無口な初老の男性が、やってくる。その手の、勲章は、錆び付き、汚れていた。
「親父の形見でね」
「売れない詩人で、長生きだけはしたから、こんなものが一個だけ残った」
「知ってる人なんかいやしない。とうに忘れ去られてる。誰一人、詩の一行、タイトル一つ、覚えてもいないさ」
未亡人に、押し付けるようにして、男性は、父親の形見である勲章を、売りつけ、去っていった。
後日、主人公は、その詩人の詩集を、街の図書館へ、借りにゆく。
「カードが古いですね。更新して下さい」
更新手続をとり、古いカードを、返却せずに、持ち帰る、主人公。
カードの更新ができたこと、そして、詩人の詩集が届いたことを、知らせる電話。そのコール音が、誰もいない、アーケードに、響き渡る――
詩集を手に、主人公は、アーケードの中庭で、あの男性の、お父さんの言葉を、ゆっくりと、味わう。
「あなたの父親の残した詩は、こうしていまも、誰かの胸に響いているのですよ」
彼女の傍らでは、勲章店の未亡人が、ラジオを聴いている。
「さあ、次は表彰式よ」
詩集と、未亡人の横顔とが、偽ステンドグラスを透かした、陽の光に、輝いていた。
「遺髪レース」。
レース屋さんは、かつて、資産家の旅行鞄のなかから、遺髪でできたレースを、救い出した。彼は、そのレースを、お店の片隅に、飾っていた。
そのレースを目に留めた、まだ若い男性が、店主に、頼み事をしに、やって来る。
「私の妻の遺髪で、レースを、作って下さい」
その遺髪を、主人公が、遺髪でレースを編むことのできる、編み師のもとへ、運ぶことになった。
運びながら、彼女は、遺髪に、語りかける。
「心配ないのだよ」
その編み師は、思いのほか、若い女性だった。
彼女が、窓から差し込む陽の光の中で、遺髪を編み、レースを形作ってゆく。
「仕事をしてる最中は、その人のことをあれこれ考えないようにしてる。編むことだけに集中しないと、いいレースにはならないのよ。そこに気持ちを込められるのは、依頼主だけでしょ? 私はただ編むだけ」
「でも、赤ちゃんの遺髪だけは別」
「その髪が、おくるみに包まれた赤ちゃん自身みたいな気がして、もしかして、自分が産むはずだった子供じゃないかなんていう気がして、つい手が震えちゃう」
主人公は、編み師が、遺髪を編みながら、涙ぐんでいる姿を、目にする。
その編み師のもとへ、主人公は、自分の髪を、運んでいった。傷んだ人形箱のなかに入った、一対の、三つ編みを。
「遺髪しか編まないのよ、私は」
「はい、分かっています」
主人公は、病室で、母に、三つ編みを結ってもらったことを、思い出す。
彼女の様子を、見て取った、編み師が、うなずく。
「よろしいでしょう。編みましょう、遺髪レースを」
その遺髪レースは、偽ステンドグラスの模様と、同じ模様になった。
そのレースは、レース屋のショーウインドーに、飾ってある。
それは、いつまでも、ずっと、そこにある。
「人さらいの時計」。
アーケードを出て、真正面。通りの反対側の、大きなビルに、大きな時計が、かかっている。
その時計が動くところを、誰も、見たことがない。「人さらいの時計」。
――この時計が動くところを見た子どもは、人さらいに、さらわれる。
このような噂が、この時計について、立っていた。
その時計が動くところを、主人公は、目にすることになった。それは、アーケードのある街の、半分が焼けた、大火事があった、その直後だった。この火事で、主人公のお父さんも、亡くなった。
人さらいの時計が動いたとき、小さな空気の揺れが、さざ波を起こした――
火事の後、主人公は、アーケードに来た、男性のお客さんに、そっと、ついてゆくようになった。
――このひとが、お父さんかもしれない。
――このひとが、お父さんの生きるはずだった人生を、生きているのかもしれない。
大学の、社会学部の、助手。彼と、レース屋さんとの、立ち話。彼は、コウモリのコミュニケーションについて、研究しているらしい。
彼が手から提げている、バイオリンが、主人公の興味を惹く。彼女は、その日、彼の後に、ついていくことにする。
彼が向かった先は、「コミュニケーション講座」。急きょ、登壇できなくなった講師の、代役。彼は、その講座で、主に、コウモリのコミュニケーションについて、話をした。題名と、内容とが、ちぐはぐ。聴衆は、とまどい、退屈し、ざわめく。そんな中で、助手は、マイペースに、バイオリンを用いて、コウモリの鳴き声を、再現する。
何もかもがちぐはぐなまま、講座が終わる。
「何か、ご質問があれば…」
主人公が、手を上げる。
「先生、最後に一曲、バイオリンを弾いて下さい。エルガーの『愛のあいさつ』を」
助手がバイオリンを奏で始めると、穏やかな、優しい響きが、さざ波のように、会場に、行き渡り始めた。人さらいの時計が起こす、さざ波と、同じさざ波だった。
助手の演奏が終わると、会場を、拍手が包んだ――
野菜を売る、おじいさん。彼は、いつも、自転車の荷台に、野菜をのせて、アーケードに、売りに来ていた。
そのおじいさんが、自転車ごと、転んでしまう。その日の売り物は、トマトだった。ひび割れ、潰れる、トマトたち。しょんぼりする、おじいさん。
アーケードのお店、軟膏屋の店主である女性が、おじいさんを、手当てする。
その軟膏屋さんは、火事の後、アーケードから引っ越していった、ドールハウス専門店の代わりに、お店を開いたのだった。そのお店に、主人公は、足を、踏み入れなかった。
帰り道、自転車を押して歩く、おじいさん。そのおじいさんについてゆく、主人公。途中、噴水の縁に腰かけて、おじいさんは、トマトを頬張る。トマトに詰まった日向のにおいが、弾ける。日向のにおいで、元気が出てきた、おじいさん。彼は、自転車にまたがり、夕陽のなかへと、去ってゆく。
「さようなら」。主人公が、彼の背中へ、語りかける。「さようなら、お父さん」。
「フォークダンス発表会」。
主人公は、16歳の冬休みに、アーケードで、配達係のアルバイトを、始めた。
生まれて初めての、アルバイト。生まれて初めての、お給料。
そのお給料で、主人公は、お父さんに、映画のチケットを、プレゼントした。そのチケットは、紙店シスターに、包んでもらった。
「こんな大事なお金、お父さんのためになんか使って、もったいないじゃないか」
はにかみ、喜ぶ、お父さん。彼の様子に、娘である主人公も、照れてくる。
「誰か好きな人と一緒に、行ってきてよ」
「じゃあ、お前と行こう」
主人公と、お父さんとは、日曜日に、映画館の喫茶室で、待ち合わせすることに――
当日。お父さんは、先の予定へ、出かけていった。
よそゆきの格好をして、約束の時刻を待つ、主人公。
その彼女に、勲章店さんから、急な依頼が、舞い込んでくる。
――老人会の集まりのために、18個のメダルを、公民館へ配達してほしい。
主人公が、公民館にメダルを届けると、そこでは、おじいさんおばあさんたちが、時折たどたどしくなりながらも、一所懸命に、フォークダンスを踊っていた。
彼ら彼女らの様子を眺めているうちに、主人公が、気づく。
メダルが足りない。
「今朝になって急に参加したおじいちゃんがいるの。腎臓が悪くて入院中なんだけど、先生に無理を言って外出許可をもらったみたい。ほら、あの小柄で猫背で、髪のない人。それで人数を偶数にするために世話係が一人加わったのよ」
主人公が見ると、そのおじいさんは、病気のせいか、一段と足元がおぼつかなく、顔色も悪かった。それでも彼は、立派に、輪のなかの一部になっていた。
――あのおじいさんにこそ、メダルを届けなきゃ。
主人公は、勲章店へ、電話する。店主が、不在らしく、電話に、誰も出ない。
「閉会式に間に合うよう、大急ぎで戻ってきます。ですから待っていて下さいね。あのおじいさんをメダルなしで帰すようなことは、決してしないで下さいね」
アーケードへ、駆け戻る、主人公。暗い、がらんどうの勲章店のなかで、最初に届けたメダルと、よく似たメダルを、見つける。リボンが少し小さいのが、気になるが、仕方がない。
アーケードを出て、走る、主人公。走りながら、彼女は、気づく。街の様子が、おかしい。
「火事だ」
「火元は、映画館らしいよ」
映画館の入ったビルが、炎に包まれていた。
恐ろしい出来事のはずなのに、火事の炎が、群青色の夜空に、美しく燃え広がる。
主人公は、両ポケットに忍ばせた、映画のチケットと、メダルとを、握りしめる。
彼女は、ビルの中へと、駆けこんでゆく。人々からの制止も、聞かずに。
「待っている人が、いるんです」
火事の後、主人公は、焼け跡の上に、佇んでいた。
彼女の姿を目に留めるひとは、なぜか、いなかった。
焼け落ちた「人さらいの時計」が、彼女の前で、初めて、時を刻む。
三つ編みが焼けたらしく、いやなにおいがする。
主人公は、アーケードへ戻り、その三つ編みを、根元から、ハサミで切った。
その三つ編みを、主人公は、もともとは着せ替え人形の入っていた箱に、しまった――
ノブさんに声をかけて、主人公は、あの雄ライオンのドアノブに、手をかける。
「配達係としてもう十分やったと思うから、そろそろお父さんのところへ行かなくちゃね」
「あんまり待たせると可哀そうだもの。せっかくのデートなのに」
主人公は、ドアノブの向こうの暗がりに、その身を沈めてゆく――
そして、「人さらいの時計」は、もう、二度と、時を刻まなくなった。
時計が、時を刻まないのに、アーケードでは、「いらっしゃいませ」という声が、どこからか、響いてくる…
第2 中島コメント
1 作品背景――『とにかく散歩いたしましょう』
(1)父を喪う
この作品と、同じ時期の、小川洋子さんのエッセイ集、『とにかく散歩いたしましょう』文春文庫。そのエッセイのなかに、次のような記述があります。
――小川洋子さんのお父さんは、晩年、痴呆が進んで「いた」。
――高木敏子さんの『ガラスのうさぎ』に、お父さんを、火葬した話が、出てくる。
小川洋子さんのお父さんは、晩年、痴呆が進んで「いた」。このように、この文章は、過去形になっています。
そして、その文章と、同じ時期の文章において、小川さんは、「高木敏子さんが、お父さんを火葬した話」を、書き留めています。
これらのことを、考え合わせますと、小川さんは、この『最果てアーケード』及び『とにかく散歩いたしましょう』を、執筆する前に、お父さんを、亡くされたのかもしれません。
そして、そのような考えから、この作品・この物語を読み直しますと、この物語の最後に、映画館を焼く、火事の炎は、「小川さんが、お父さんを、火葬する、その炎」であるのかもしれません。そのように、私には、思えてきます。
(2)お父さんの母になり姉になる
――小川洋子さんのお父さんは、晩年、痴呆が進んで「いた」。
この小川さんの文章には、次のような文章が、続いています。
――お父さんは、看護婦さんに対して、私のことを、「妹です」と言った。お父さんは、弟ばかりだったから、妹が欲しかったのかもしれない。それなら、私は、お父さんの「妹」になろう。お安い御用だ。
現実の体験として、小川さんが、お父さんの、「妹」になったこと。そのことは、この『最果てアーケード』にも、影響しているように、私には、思えます。
小川さんは、この物語のなかで、更に、お父さんの「母」(兎夫人)になり、「姉」(紙店シスター)になり、その死を、幾重にも、悲しんだのでしょう。
そして、小川さんが、「お父さんの死を、幾重にも、悲しむこと」は、「お父さんに対する愛情を、幾重にも、確かめ直すこと」にも、つながるでしょう。
(3)小括
小川さんが、亡くされたお父さんを、悼む、物語。それが、この『最果てアーケード』なのかもしれません。
そのような観点から、これから、私なりに、この物語を、読んでゆくことにします。
2 物語の形作る円環
(1)お父さんとの絆の切り離し――衣装係さん
「衣装係さん」。この短編における、衣装係さんの思い出話のなかには、「衣装係さん」「女優」「男性」という、三人の人物が、登場します。
「衣装係さん」は、「女優」の衣装を、作っていました。
このことに関連して、「小川さんのお母さん」は、実際、「子どもの頃の小川さん」の着る服を、縫っていたそうです(『洋子さんの本棚』集英社文庫)。
「衣装係さん」は、「小川さんのお母さん」。「女優」は、「小川さん自身」。そのように考えますと、残る人物である「男性」は、自ずから、「小川さんのお父さん」ということに、なるでしょう。
お母さんである「衣装係さん」の作った衣装を、娘である小川さんが「女優」として身に着けて、その舞台を、お父さんである「男性」が、観客として、観る。
このように想像しますと、小川さんは、子どもの頃、お父さん・お母さんが用意してくれた「家庭」という舞台の上で、自分が、この世界の主役であるかのように、思うことができていたのかもしれません。
小川さんの育った家庭は、幸せな家庭だったようです。
そのお父さんである「男性」が、娘である小川さんという「女優」に、ナイフで、「切りつけた」(動詞)。
このことは、おそらく、次のようなことを、意味しているでしょう。
「お父さんが『死ぬ』(動詞)ことによって、娘である小川さんとの絆を、『切り離した』(動詞)こと」
このことは、小川さんにとっては、まるで「身を切られた」かのように、悲しく、辛いことだったのでしょう。
(2)お父さんとの絆の結び直し
ア 百科事典少女
お父さんとの、絆の、切り離し。その辛さを痛感した後、小川さんが紡いだ短編物語は、「百科事典少女」でした。
この物語には、「娘を亡くした、お父さん」である、「紳士おじさん」が、登場します。「紳士おじさん」が、百科事典を筆写してゆく作業からは、「娘を亡くした、お父さん」の、静かな悲しみが、伝わってきます。
「娘にとって、お父さんがいなくなること」
それは…
「お父さんにとって、娘がいなくなること」
でもあるでしょう。
――娘である私が悲しいだけじゃなくて、お父さんもまた、同じように悲しかったはず。
そのように、小川さんは、「衣装係さん」の執筆を経てから、思い返したのでしょう。
このように、お父さんの悲しみを、娘として、共感しようとする、小川さん。この小川さんの執筆態度から、私は、「娘からの、お父さんへの、優しさ」を、感じます。
そして、「お父さんが、娘を亡くした悲しみを、共に感じること」は、また、「お父さんの、娘への愛情を、共に感じること」でも、あったでしょう。
このようにして、小川さんは、いったんは切れたかのように感じた、お父さんとの絆を、再び、確かめ始めます。
イ 輪っか屋さん
「輪っか屋」には、「輪っか屋さん」と、「元・オリンピック選手」(自称)とが、登場します。
これまで私が書いてきた、私なりの想像からしますと、この二人もまた、父娘であるように、私には、思えてきます。
たとえば、「元・オリンピック選手」(自称)のポニーテールを、ほどいて、編み直すと、この物語の主人公の、三つ編みに、なるのかもしれません。
実際、小川さんの、子どもの頃の夢は、「オリンピック選手になること」だったそうです(『妖精が舞い下りる夜』角川文庫)。
このことから、個人的に、更に、想像を、膨らませてみます。
「元・オリンピック選手」(自称)が、「輪っか屋さん」に対して働いた、結婚詐欺。その結婚詐欺は、次のような意味での「結婚詐欺」だったのかもしれません。
――幼い女の子が、お父さんに対してする、「私、大きくなったら、お父さんと結婚する」という、約束。その約束を、破ったこと。
そのように、小川さんも、お父さんに対して、約束したことが、あったのかもしれません。
そして、小川さんは、実際には…
――お父さんと結婚することは、ありませんでした。
――オリンピック選手には、なることが、できませんでした。
それでも、お父さんである「輪っか屋さん」は、娘である「元・オリンピック選手」(自称)のことを、離別から10年が経っても、思い続けています。そのことは、「彼が、その後、10年間、『ひとりで』ドーナツを揚げ続けていること」が、示しているでしょう。
――たとえ、お父さんと、本当には結婚しなくても。
――たとえ、自分がなりたい自分に、なることができなくても。
――たとえ、自分が、悪事を働いても。
それでも、自分のことを、お父さんは、思い続けてくれる。
そのような、お父さんの態度は、娘にとって、自分という存在の、全的な承認となるでしょう。
お父さんである「輪っか屋さん」からの、「全的な承認」――つまりは「愛情」に、娘である「元・オリンピック選手」(自称)は、ドーナツの格好を、してみせることによって、応えます。
――彼女は、嘘を、ついていなかった。
このことは、娘からお父さんへの、次のような思いについての、証明でしょう。
「私が、幼心に、お父さんと結婚したかったこと(お父さんを愛していたこと)は、本当のことでした」
このような思いをもって、娘が、ドーナツの格好をすること。輪っかを描くこと。そのことは、娘にとって・小川さんにとって、いったんは切れたように思えた、お父さんとの絆を、円環の形に、結び直すことを、意味しているでしょう。
(3)生命の円環
娘の形作る、「絆」の円環の、イメージ。そのイメージは、そのまま、この『最果てアーケード』のなかで、「生命」(いのち)が形作る、円環のイメージにも、重なってゆきます。
ア 兎夫人
「兎夫人」では、幼くして亡くなった「ラビト」を、兎夫人から義眼屋さんが、抱き受けます。
兎夫人は、「ラビト」の生命を、義眼屋さんの生命に重ねて、その結婚を見届けて、去っていったのでしょう。
亡くなった生命を、いまある生命が、抱き受けて、生きてゆく。そのような「生命のつながり」のイメージを、この「兎夫人」の物語から、私は、個人的に、感じ取ります。
なお、実際に、日本には、次のような風習が、あるそうです。
――親が、幼くして亡くなった子どもについて、儀式のなかで、架空の結婚をするまで、見届ける。
そして、その風習について、小川さんは、取材に行ったことがあるそうです(『洋子さんの本棚』集英社文庫)。
イ 遺髪レース
「遺髪レース」では、編み師が、赤ちゃんの遺髪に触れるときの気持について、次のように、語っています。
「その紙が、おくるみに包まれた赤ちゃん自身みたいな気がして、もしかして、自分が産むはずだった子供じゃないかなんていう気がして、つい手が震えちゃう」
生まれてこなかった生命への、言及。この言及は、「生と死」に加えて、「生以前」という概念が、小川さんの内面にあることを、示唆しています。
「生と死」とは、この二つの概念についてのみ、考えるときには、一直線に見えます。
生 → 死
しかし、ここに、「生以前」という概念を加えてみると、また、見え方が、違ってきます。
生以前 → 生 → 死
「生」を、中間点として、対極に、「生以前」と、「死」とが、ある。そのように、私には、見えてきます。
そして更に、「生以前」と「死」とは、『最果てアーケード』に出てくる、次のような考え方からしますと、つながっているように、私には、見えてきます。
――このひとが、お父さんの生きるはずだった人生を、生きているのかもしれない。
この考え方は、「生まれ変わり」という考え方、ひいては「生命は、円環の中を、巡っている」という考え方を、示しているでしょう。
つまりは、この考え方は、次のようなイメージを、示しているのでしょう。
→→→→→→→→→→
↑ ↓
生以前 → 生 → 死
↑ ↓
←←←←←←←←←←
このように、「生命」は、「生」を真ん中として、「生以前」と「死」とによって、円環を形作っていることになります。
「いったんは死んだ生命も、『生以前』を通じて、また、『生』と、つながる」
このように、イメージすることで、小川さんは、その胸の内での、亡くされたお父さんとのつながりを、永遠のものとすることが、できたのかもしれません。
ウ 小括――お父さんがくれた「生命」
そして、このような「生命の円環」のイメージは、「ドーナツの輪っか」のイメージにも、重なります。
「生命の円環」の真ん中には、「生」があります。
ということは、「ドーナツの輪っか」の「真ん中」は、「生」を意味していることになります。
その真ん中を、お父さんである「輪っか屋さん」は、娘である「元・オリンピック選手」(自称)に、振る舞いました。
このことは、次のことを、意味しているのかもしれません。
――お父さんは、娘である私に対して、「生命」を、くれた。
思えば、親が子どもに対してする、最大の愛情の表現は、そもそもの「生命を与える」ことであるのかもしれません。
「『輪っか屋さん』が『元・オリンピック選手』(自称)に、『ドーナツの真ん中』を与える姿」を描くこと。そのことは、「お父さんが、娘に、生命を与える姿」を、描くことでも、ありました。そのことによって、小川さんは、「お父さんからの、娘である自分に対しての、最大の愛情」を、あらためて、実感することが、できたのかもしれません。
(4)言葉の円環
お父さんと娘との、絆の円環。
お父さんと娘とを包含する、生命の円環。
それらの円環のイメージは、この最果てアーケードにおいて、更に、「言葉の円環」のイメージにも、重なってゆきます。
ア 紙店シスター・勲章店の未亡人
「紙店シスター」では、療養所の用務員の、おじいさんの言葉を、颯爽とした青年が、受け取ってゆきます。
「勲章店の未亡人」では、「無口な初老の男性」の、お父さんである詩人の言葉を、主人公が、受け取りました。
血のつながりとは、関係なく、誰かの言葉を、誰かが、受け継いでゆく。
そのような、「言葉の円環」のイメージを、これら二つの短編から、私は、思い浮かべます。
なお、娘である小川さんは、「遺髪レース」において、お父さんの言葉である「何も心配は、いらない」を、「心配ないのだよ」という言葉にして、受け継いでもいます。
イ 人さらいの時計
「人さらいの時計」では、「コミュニケーション講座」において、「大学の社会学部の助手」が、彼の話す「言葉」に加えて、「コウモリの鳴き声」から、「バイオリンの音色」までもを含めた、「音」を奏でていました。
「鳴き声」「言葉」「音色」。これらの、三つの概念から、私は、次のような円環を、想像しました。
→→→→→→→→→→
↑ ↓
声 → 言葉 → 音(楽)
↑ ↓
←←←←←←←←←←
このように、「言葉の円環」は、言葉になる「前」の「動物の鳴き声」から、言葉を超えた「音楽」までを、包含しているようです。
そして、この「言葉の円環」は、「生命の円環」とも等しいくらい広大な、円環であるでしょう。
こうして、「お父さんと娘とを包含する、言葉の円環」が、「絆の円環」そして「生命の円環」に、重なることになります。
このようにして、小川さんは、『最果てアーケード』という物語について、執筆することを通して、お父さんとのつながりを、丹念に、確かめ直したのでしょう。
(5)お父さんの役割――-子どもの居場所を確保すること
これまで、上記の(2)(3)(4)において述べてきましたとおり、この『最果てアーケード』は、小川さんが、亡くされたお父さんとのつながりを、丹念に確かめ直してゆく、物語でした。
そして、その「お父さんとのつながり」を、この『最果てアーケード』において、最も象徴する場所が、「ノブさん」に出てくる、「雄ライオンのドアノブの奥の、暗がり」なのでしょう。
この暗がりは、おそらく、次の世界に、通じているのでしょう。
・ 「死」そして「生以前」の世界
・ 声・言葉・音楽が生まれてきては還ってゆく「沈黙」の世界
その暗がりの中で、主人公は、一人の時間を、思う存分に、過ごしました。
この主人公の様子から、私は、いままで、先人である男性たちから学んできた「お父さんの役割」のことを、思い起こしました。
――お父さんの役割とは、「子どもの居場所を確保すること」である(考えの足あと/詩人・吉野弘さん~ひとつの理想的な父親像~)。
小川さんは、この『最果てアーケード』において、お父さんとのつながりを、確かめ直すことによって、その胸の内に、お父さんのいる、「ひとりきりになることのできる場所」をも、あらためて、確保することが、できたのでしょう。
「ひとりきりになることのできる場所」は、「自分の内面について、じっくりと、見つめることのできる場所」でもあるはずです。
そうした場所は、小川さんが、お父さんの死を経て、あらためて、自分の人生を歩んでゆくにあたって、必要となる場所であるでしょう。
(6)娘からお父さんへのメダル
この『最果てアーケード』を、執筆することを、通じて…
お父さんとのつながりを、絆において、生命において、言葉において、確かめ直すこと。
そのことによって、「ひとりきりになることのできる場所」を、確保し直すこと。
これらのことを、成し遂げた、小川さん。
その小川さんは、最後に、お父さんの人生を、娘として、称えることに、取り組みます。
「さあ、次は表彰式よ」(勲章店の未亡人)
「フォークダンス発表会」。
この、最後の短編において、主人公が、メダルを届けようとする、おじいさん。
腎臓の病気を抱える、おじいさん。
一段と足元がおぼつかなく、顔色も悪い、おじいさん。
それでも、立派に、輪(円環)のなかの一部になっている、おじいさん。
このおじいさんは、きっと、小川さんが目にした、お父さんの、最後の日々の、姿だったのでしょう。
そのおじいさん――お父さんを称えるために、主人公は、メダルを、届けようとします。そのメダルもまた、「円環」の形を、しています。
このメダル(円環)は、短編「輪っか屋」において、「元・オリンピック選手」(自称)が、その身体で描いた「輪っか」(円環)が、その姿を変えたものでしょう。
「元・オリンピック選手」(自称)が、その身体で描いた「輪っか」(円環)は、既に述べましたように、娘からお父さんへの、次のような思いを、表すものでした。
――お父さんから娘への愛情に対する、感謝。
――娘からお父さんに対する、あらためての愛情。
これらの、感謝と愛情とが、このメダル(円環)には、こもっているのでしょう。
そのメダルを、おじいさんに届けようと、走る、主人公。その姿からは…
――お父さん、頑張って生きてきたね。
そのような、娘からお父さんへ送る、真心をこめての、最後のメッセージが、伝わってきます。
(7)まとめ――お父さんがいなくなること
主人公は、火事によって、お父さんを亡くした後、自分の三つ編みを、根元から、ハサミで切り離します。
この三つ編みは、主人公のお母さんが、よく梳いて結ってくれた、三つ編みでした。
そのような、三つ編みのイメージは、「主人公と、お母さんとの、へその緒」のイメージにも、重なります。特に、短編「遺髪レース」において、この三つ編みは、「木箱」のなかに入って、登場しました。「木箱」に入った「三つ編み」。その様子は、まるで「木箱」に入った「へその緒」です。
その三つ編み(へその緒)を、主人公は、お父さんの死に伴って、切り離しました。
このことは、次のことを、意味しているでしょう。
――お父さんが、いなくなること。
そのことは…
――娘が、娘では、なくなること。※お母さんとのへその緒が切れること※
つまりは…
――娘が、またひとつ、大人になること。
そして、「娘が、またひとつ、大人になること」は、この『最果てアーケード』においては…
――お父さんとのつながりを、切り離すこと。
ではなく、かえって…
――お父さんとのつながりを、結び直すこと。
を、意味していました。
このことから、私は、臨床心理学者・河合隼雄さんの、次の言葉を、思い起こしました(『こころの処方箋』新潮文庫)。
――自立は依存によって裏づけられている。
――どっぷりつかったものがほんとうに離れられる。
これらの言葉は、この『最果てアーケード』において、小川さんが私に示してくれた、上に述べたイメージ(「娘が、またひとつ、大人になること」=「お父さんとのつながりを、結び直すこと」)に、よく当てはまります。
以上、述べてきましたとおり、この『最果てアーケード』は、「女性が大人になること」について、ひとつの好例を示してくれる、物語でした。
そして何より、この『最果てアーケード』は、小川さんが、お父さんを亡くされた悲しみを、見事に昇華した、素敵な作品でした。
3 男性として読む『最果てアーケード』
上記の2において、私は、この『最果てアーケード』を、なるべく、著者である小川さんの立場から、読むように、努めてきました。
この3においては、私の、この『最果てアーケード』についての、読者としての立場からの感想を、述べてみます。
(1)娘からお父さんへのメダル――受け取る側として
先に、私の『芥川龍之介の世界』についてのテキスト批評において、触れましたように、男性は、一定の年齢を超えると、「中年危機」とも呼ぶべき状況に、陥ることが、あるようです。
※ ちなみに、「中年危機」は、河合隼雄さんの著書の題名でもあります(朝日文庫)。
いままで、自分が、達成してきたこと。そのことについての達成感は、一応は、ある。
その一方で、その達成感に比例して、次の感覚も、大きくなる。
――その達成のために、喪失してきた物事についての、喪失感。
――その達成のあとに、更に達成するべきことを、模索しなければならない、空白感。
この喪失感・空白感に、きっと、芥川も、苦しんだのでしょう。
そのような、中年危機にある男性が、この『最果てアーケード』を読むと、思いがけず、「愛らしい娘が、自分に、メダルを届けてくれた」ような気持ちに、なることができるかもしれません。
――お父さんから娘への愛情に対する、感謝。
――娘からお父さんに対する、あらためての愛情。
――「お父さん、頑張って生きてきたね」
そのような、娘からお父さんへ送る、真心をこめての、メッセージ。
このような、メッセージが、届くとなれば、その嬉しさは、中年危機にある男性の、喪失感・空白感を埋めて、余りあるでしょう。
このことに関連して、先に触れた、河合隼雄さんの『こころの処方箋』から、もう一文を、引用しておきます。
――生まれ変わるためには死なねばならない。
男性の、中年危機にあって、いったんの「死」と、あらためての「生」が必要になるときに、この『最果てアーケード』は、その「死」への慰めと、「生」への励ましを、もたらしてくれる。そのような物語であるのかもしれません。
そして、この『最果てアーケード』は、男性にとって、「中年危機」のみならず、「本当の死を迎えるとき」にあたっても、その「死」への慰めと、その後の新たな「生」への励ましを、もたらしてくれるでしょう。
その意味では、この物語は、逆説にはなりますけれども、小川さんのお父さんに、ぜひとも読んでもらいたかったです。そのように、私は、個人的に、思います。
娘が、自分自身への、慰めと励ましのために紡いだ、物語。その物語が、かえって、お父さんへの、慰めと励ましのための物語にも、なってゆく。この関係、素敵です。
(2)吉野弘さん「奈々子に」――「私はお前に多くを期待しないだろう」
上記(1)において、私は、男性としての、「愛らしい娘が、自分に、メダルを届けてくれること」についての、喜びについて、述べました。
しかし、実際に、男性が、娘に、そのような「メダル」を、期待することは、難しいですし、期待するべきでも、ないでしょう。
それはなぜかといえば、娘は、自分の人生を生きることで、精一杯であるはずだからです。そのことは、男性が、自分自身の若かりし日を顧みることからも、感得できるはずです。
吉野弘さんの詩、「奈々子に」には、「私はお前に多くを期待しないだろう」という一節が、あります。この一節について、私なりに、敷衍してみますと、次のような言葉が、浮かんできます。
――娘よ。君は、私自身の若かりし日と同じように、君自身の人生を生きることで、精一杯だろう。君は、お父さんの気持ちは、そんなに気にしなくていいから、君自身の人生を、精一杯に、生きなさい。
このような、敷衍からしますと、私には、次のことが、あらためて、分かってくるような気が、してきます。
――この『最果てアーケード』が、執筆当時の小川さんという、「大人の女性」の書いた物語であること。
この『最果てアーケード』は、小川さんが29歳の頃の作品、『シュガータイム』から、おおよそ21年後の作品です。ということは、この『最果てアーケード』の執筆当時、小川さんは、50歳を迎えようとする、年齢であったはずです。
そして、同じ頃の、小川さんの、また別なエッセイには、小川さんの息子さんが自立していった話が、出てきます(『カラーひよことコーヒー豆』小学館文庫)。ということは、この『最果てアーケード』を執筆した当時の、小川さん自身が、子どもを、自立するまで育ててきた、「大人の女性」であったことになります。
自分自身が、子どもを、自立するまで育ててきた、母親――「大人の女性」だった。だからこそ、小川さんは、小川さんという娘を育ててきた、小川さんのお父さんの立場を、思いやることができたのでしょう。そして、お父さんが自分を育ててきたことについて、称える気持ちに、なることができたのでしょう。
男性が、実際には、娘から、期待するべきではない、「メダル」。その「メダル」を、男性に、届けてくれる、物語。そのような物語であることが、この『最果てアーケード』の、もうひとつの、一面なのでしょう。
(3)勝手な想像――開高健さんの『珠玉』の「先生」へ
ここからは、私の勝手な想像です。
――この『最果てアーケード』の主人公から、開高健さんの『珠玉』文春文庫に登場する「先生」へ、「アクアマリン」を、届けてあげてほしい。
そのように、私は、思いました。
「先生」は、妻子を喪い、その悲しみの旅路、その途上にあります。
その「先生」は、行く先々の港で・街で、アクアマリンを、集めています。
妻子を喪い、その悲しみのなかで、アクアマリンを集めている、「先生」、つまりは、「お父さん」。
その彼に、アクアマリンを渡す役目は、この『最果てアーケード』の主人公に、相応しい役目であるでしょう。
船で世界を旅している「先生」ですから、彼が『最果てアーケード』のある街へ、辿り着くことがあっても、不思議ではありません。
さて、この私からの配達依頼は、『最果てアーケード』の主人公である、お嬢さんに、伝わるでしょうか…?
またいつか来るかもしれない「中年危機」のために。
そして、いつか来る「最後の日々」のために。
私にとって、この『最果てアーケード』は、開高健さんの『珠玉』とともに、手元に置いておきたい、素敵な物語、素敵な一冊になりました。
4 紫を照らす光 2021.06.09追記
個人的に、気が付いたことがあるので、ここに書き留めておきます。
この『最果てアーケード』において、お父さんが、娘である主人公に、紫色の石鹸を、プレゼントしていました。主人公は、その石鹸を、偽ステンドグラスからの、色とりどりの光に照らして、楽しんでいました。美しく、印象に残る場面でした。
この石鹸は、なぜ、紫色だったのでしょう。このことが、ずっと、気になっていました。そして、ふと、気が付きました。「紫」を照らす「光」。「紫の上」を照らす「光源氏」。『源氏物語』。
思えば、『源氏物語』は、光源氏が、幼い紫の上を「育てる」物語でもありました。
小川洋子さんは、『最果てアーケード』のなかで、お父さんと、主人公――少女時代の小川さんとの関係を、「光源氏」と「紫の上」との関係に、なぞらえたのでしょう。
『源氏物語』から、『最果てアーケード』へ。王朝文学の継承、同時に、現代文学の創造。見事です。
更に、連想。この『最果てアーケード』にて言及のある『あしながおじさん』も、「年上の男性が、主人公である娘を、育てる物語」でした。
「年上の男性が、娘のような少女を、育てる」。表現を変えれば、「男性が、女性を、輝かせる」。
このような男性と女性との関係は、『源氏物語』しかり、『あしながおじさん』しかり、古今東西、女性の憧れる、関係なのかもしれません。
『源氏物語』はもちろん、『あしながおじさん』の作者も、女性でした。