【読書】宮地尚子『ははがうまれる』福音館書店 ~母と子の目から見た世界~

宮地尚子『ははがうまれる』福音館書店 2016.2.15
https://www.fukuinkan.co.jp/book/?id=1765

――子どもが生まれるだけではない。
――そのとき、母もまた、生まれるのである。

 素敵な言葉です。

 詩人・吉野弘さんの詩。「早春のバスの中で」。この詩のなかで、吉野さんは、「まもなく母になる女性が、娘としての自分を、『繭』のなかに封じ込めている」様子を、表現していました。
 このことに関連して、作家・小川洋子さんの小説『シュガータイム』は、お子さんを生んで間もない小川さんが、まさに「娘としての自分を、『繭』のなかに封じ込める」ような、作品でした(『妖精が舞い下りる夜』角川文庫)。
 そして、この『ははがうまれる』。女性が、自ら作った繭のなかから、母として、生まれてくる、イメージ。
 そのようなイメージから、このエッセイ集に、個人的に、興味が湧き、読んでみました。

 著者・宮地尚子さんは、精神科医。
 その宮地さんが、月刊誌『母の友』に掲載したエッセイを、まとめたもの。
 エッセイ1本あたりのページ数は、この小さな本で、3ページ。少しずつ読むことができ、1本1本が味わい深い、素敵な一冊でした。

第1 内容抜粋

 子どもを育てる、大人もまた、完全な人間ではない。
 母になった瞬間から、「完璧な母親」になることのできる女性は、いない。
 子どもを育ててゆくに従って、母もまた、母親として、育ってゆく。
 そして、母の周りの人間も、母とともに、子どもを育ててゆくうちに、自らも育ってゆく。彼ら彼女らの「子どもを育てる力」「次の世代を育てる力」が、育ってゆく。

 子どもにとっては、大人に対する基本的な信頼が、大事である。
 だが、「母」をするということは、おびえたり、かたまったり、意地悪くなったり、冷たくしたり、腹を立てたり、どなったり、受け入れられずに拒否したり、傷ついたり、傷つけたり、そんなことの連続でもある。
 失敗もする。
 子どもとの約束を、守ることができないこともある。
 母を含む大人が、失敗したとき、子どもが、かえって、大人を支えることもある。
 子どもにとっても、「自分が、何らかの役割を担っている」という実感は、大事である。

 失敗したとき。トラブルにあったとき。たとえば、子どもが泣いているとき。
 子どもはもちろん、母も、困っている。
 そんなときに、「お母さんがしっかりしなさい」と、母を責めるべきではない。それは、母を追い詰めることになる。そんなときに、必要なことは、「母への援助」である。
 飛行機をトラブルが見舞ったときに、こういう機内放送が、流れる。「まず、保護者が、酸素マスクを装着して下さい」。この順番の大切さは、普段の生活においても、同様である。

 身ごもった女性のお腹を、断りなしに、触るひとがいる。
 その女性は、「子どもの入っている、容器」ではない。一個の人格なのである。
 女性が出産した後も、その人格について、「母親だから」といって、自己犠牲を強いるべきではない。母親の自己犠牲により、子どもが抱くことになる、母子一体の感覚。その母子一体の感覚は、「母親もまた他者であること」ひいては「この世界には他者という存在があること」を、子どもに、見失わせる。
 この世界には、他者という存在が、あること。そのことに、気が付くことによって、子どもは、社会的存在になる。そして、子どもにとっての、その気付きは、「父による母子一体感覚の切断」ではなく、「母が自分自身であること」によって、もたらすべきである。

 畳と椅子。
 宮地さんが、子どもとともに生活しているうちに、気が付いたこと。
 「畳と座布団」の部屋の方が、親が子どもを連れていったときに、それぞれの座る場所の確保が、そして調整が、しやすい。
 「椅子とテーブル」の部屋は、子どもの居場所が、確保しづらい。「椅子とテーブル」の部屋は、子どもを排除するように、できている様子である。

 言葉の意味。
 子どもを育てているうちに、あらためて気が付く、言葉の意味がある。
「哺乳類」
「脊椎動物」
 宮地さんは、赤ちゃんに、母乳をあげていて、自分が「哺乳類」であることを、あらためて実感した。また、赤ちゃんを抱っこするときに、その背骨のくりくりとした感覚から、人間が「脊椎動物」であることをも、あらためて実感した。

 子どもは、初め、感情が分化していない。大人のようには、喜怒哀楽の区別が、はっきりしていない。
 子どもは、小さくて暗い空間に、閉じこもることがある。そのようなとき、宮地さんは、子どもが宮地さんを拒否しているようで、哀しかった。しかし、宮地さんが、振り返って思うに、あのような空間が、子どもが自分の感情を調整するためには、必要だったのだろう。
 そして、子どもが、大人に対して、秘密を持つことで、自分を守ったり、抵抗したりすることも、また大事である。
 そういう子どもに対する、大人の態度には、「見守る」と、「見張る」とがある。これらの違いは、次の違いから、生じる。大人が「子どもを信頼しているか」そして「社会を信頼しているか」。
 また、大人は、子どもを「見守る」ことはできても、「代わりになる」ことは、できない。

 そのように、閉じこもる子どもたちへ、宮地さんが、伝えたいこと。
「SOSは、出し続けること」
「どうしても辛いなら、逃げていいこと」
 「しかし、逃げることは、『生産的なこと』ではないのでは?」。そのように考える、子どもも、いるかもしれない。しかし、「生産すること」と同じくらい、「解体すること」も、大事である。「解体すること」は、ひらたく言えば、「ほどくこと」。

 大人から、子どもへ、「伝える」ということ。
 大人の人生。子どもの人生。その期間は、長く、重なり合う。その期間のなかで、大人は、子どもへ、「生命」はもちろん、「文明」をも、伝えてゆく。大人から子どもへ、リレーで、バトンを、渡してゆく、イメージ。その「バトンを渡すための時間」は、長い。
 ただ、伝えても、伝わらないことも、ままある。たとえば、大人が子どもを名所旧跡へ連れて行ったとして、子どもに残る記憶は、「現地で会った、よその子どもと、遊んだこと」だったりする。むしろ、そのような記憶の方が、家族の記憶としては、大事でもある。
 伝わる記憶。家族の記憶。宮地さんは、お父さんが亡くなった後、彼の手入れしていた庭を、見よう見まねで手入れしたとき、はじめて、本当にお父さんを弔った気持ちになった。
 また、伝えるときには、大人(分かっているひと)のペースで伝えるのではなく、子ども(これから分かるひと)のペースに合わせて伝えてゆくことが、大事である。
 そして、大人は、答えを与えるのではなく、また、答えの決まった問いを速く解ける受験戦争の勝者を作り続けるのでもなく、答えの決まっていない問いを、子どもたちに示し、解き方を一緒に考えていくべきである。

 子どもから、大人への、基本的な信頼。
 その信頼を、維持するために、大人から子どもへは、伝えない方がいいことも、ある。「大人の秘密」。
 たとえば、スペイン映画『エル・スール』。思春期の女の子が、「お父さんが、かつて、お母さんとは別の女性を、愛していたこと」を、知る。彼女にとって、万能だったはずの父親のイメージが、揺らぎ始める。彼女は、父親の秘密について、知ることを通して、次のことを、学んでゆく。
「大人になることが、決して幸せいっぱいになることではないこと」
「成長することが、『一人になること』でもあること」
 優しくあろうとする大人は、「子どもから大人への基本的な信頼」を維持するために、自らの不完全さや弱さを、隠しがち。
 そうして、大人が隠していても、その不完全さや弱さを、子どもが大人に見出すときが、いつかは、やってくる。
 英語には、「Grow out」という、言葉がある。「子どもが大きくなって、着ていた服が、着るには小さくなること」。大人も、子どもが自分を「Grow out」してゆくことを、喜ぶべきである。

 東日本大震災。たくさんの人々が、行方不明になった。
 親しいひとが、行方不明になること。思慕の対象を、喪失すること。そのような経験について、英語には、複数の表現がある。「lose」「miss」「loss」。「lose」の後に「miss」がずっと続くのが「loss」である。
 親しいひとの、行方が知れない、安否が知れない、宙づりになっているような時間が、待っているひとには、最も辛い。

 ははがうまれた。
 ほんがうまれた。
 次は何がうまれるのだろう。
 楽しみである。

第2 中島コメント

1 子どもを育てることは自分を育てること

――子どもを育ててゆくに従って、母もまた、母親として、育ってゆく。
――そして、母の周りの人間も、母とともに、子どもを育ててゆくうちに、自らも育ってゆく。
 このことと、同じことを、家族心理学者・柏木惠子さんも、指摘していました。「育児は育自」(『大人が育つ条件』岩波新書)。
 同じ本で、柏木さんは、次のことも、指摘しています。
――子どもに対して、予期せぬ行動に付き合うことで、自己抑制力が強まってゆく。
 このことは、私の仕事についても、同じように当てはまる気が、します。
 私の仕事においては、事業者の方々よりも、一般市民の方々が、依頼者になることが、多いです。
 そして、その仕事は、私にとっては毎度の仕事でも、依頼者にとっては、初めて経験することであることが、多いです。
 そのため…
――そもそも、どのような目標を設定するべきか、分からない。
――いったん、目標を設定しても、それが変更になる。
――設定した目標を達成するために、必要な資料が、なかなか集まらない。
 これらをはじめとする、トラブルが、様々、度々、発生します。そして、その都度、依頼者をフォローすることになります。そうこうしながら、徐々に、目標の達成へ、近づいてゆく。それが、私の仕事の仕方です。
 このような仕事を通じて、私も、依頼者の「予期せぬ行動に付き合うことで、自己抑制力が強まってゆく」ことを、実感してきました。
 「子どもを育てること」及び「自分も育ってゆくこと」は、案外、仕事とも、通じ合うようです。この通じ合いについての、その原因は、社会における分業が進展した結果、消費者と事業者との情報量に、差が生じたことに、あるでしょう。
 思えば、私の、このような仕事の仕方は、主な業務が「債務整理」である事務所に勤務していたときに、その基礎ができたようです。「債務整理」は、依頼者の方々において、上に述べたようなトラブルが、度々、発生する仕事でした。
 「債務整理」は「債務整理」で、従事してきて、よかったです。あらためて、いま、個人的に、そう考えます。

2 素朴な信頼 不信 あらためての信頼

――子どもにとっては、大人に対する基本的な信頼が、大事である。

 子どもが大人に対して抱く、素朴な、基本的な信頼は、確かに大事でしょう。
 そして、私の個人的な経験を振り返ると、この素朴な信頼は、大人になりたての頃に、いったん崩れるようです。そして、また、あらためての信頼が、必要になるようです。
 私が、20代、大人になりたての頃、社会において働き始めて、感じたこと。それは、次のようなことでした。
――大人は、こんなにも、適当に生きているのか。
――大人は、こんなにも、お金・価値・生命を、互いに貪り合っているものなのか。
――大人を、素直に、基本的に信頼していると、自分のお金・価値・生命を、食われることになる。
 このように、いったん、私の中では、大人への――他者への信頼が、崩れた時期がありました。
 そのとき、偶然、映画監督の宮崎駿さんが、同じような経験を、してきたことを、個人的に、知りました(『風の帰る場所』文春ジブリ文庫)。宮崎さんの映画『もののけ姫』では、サンが、次のように語っています。「人間なんか大嫌いだ」。彼女に対して、アシタカが、語りかけます。「それでもいい。共に生きよう」。
 この『もののけ姫』よりも、少し前の時期に、宮崎さんは、表現者としての先人たちである、司馬遼太郎さん、堀田善衛さんとの鼎談において、次の学びを得ています(『時代の風音』朝日文庫)。
「人間は、度し難い」
 それでも、人間を、肯定して、生きてゆく。司馬さん、堀田さんの、そのような生き方について、宮崎さんは、「突き抜けたニヒリズム」と、表現しています。この「突き抜けたニヒリズム」が、『もののけ姫』の、サンとアシタカの台詞の、基盤となっているのでしょう。
 このような、宮崎さんの、ひいては、司馬さん・堀田さんの生き方は、私にとって、重要な指針となりました。そして、この指針から、私は、「人間は、度し難い」けれども、そのことをふまえた上で、あらためて「人間を基本的に信頼してゆく」方向へ、自分の人生を歩んでゆくことにしました。
 そして、その後の、私の人生について、振り返ってみますと… まずは自分が相手を信頼することで、相手からの信頼も得ることができ、その「相互に信頼する、ひととの関係の積み重ね」が、いまの自分を形成しています。「人間を、あらためて、信頼して、よかった」。そのように、いまの私は、考えています。

 上に述べたような、私の個人的な経験については、歴史のなかの哲学者・ホッブズも、社会に関する思想についての古典である『リヴァイアサン』において、同様のことを述べているそうです。このことは、最近、商法学者・倉沢康一郎さんの『プレップ法と法学』(弘文堂)から、個人的に知りました。
――人は人に対して狼である。
――しかし、人には、未来を想像する力がある。
――未来のために、人は、人を信頼して、社会を構築するようになる。
 このように、ボッブズは、書いているそうです。このホッブズの記述は、子どもが大人になってゆくときの、ひとに対する「基本的な信頼」についての、崩壊と再築の動きに、よく似ています。
 ひとは、その歴史のなかで、個人においても、社会においても、ひとに対する素朴な信頼と、その崩壊と、その再築とを、ずっと、繰り返してきているのかもしれません。

――人間に対する、素朴な、基本的な信頼。
――人間に対する、根本的な不信。
――人間に対する、根本的な不信をふまえた上での、あらためての、基本的な信頼。
 これらの三つの、不信をも含みこんだ信頼が、人間の人生においては、大事なのでしょう。

3 子どもが何らかの役割を担うこと

――母を含む大人が、失敗したとき、子どもが、かえって、大人を支えることもある。
――子どもにとっても、「自分が、何らかの役割を担っている」という実感は、大事である。

 子どもが育ってゆくなかでは、「保護を受ける存在」から、「何らかの役割を担う存在」へ、移り変わってゆくことが、大事なのでしょう。

 思えば、小川洋子さんの『最果てアーケード』(講談社文庫)においては、主人公の女の子が、16歳になって、配達係のアルバイトを、始めていました。その『最果てアーケード』は、主人公が、父と別れ、大人になってゆく物語でもありました。

 余談。小川洋子さんが、その文学の原点としている、『アンネの日記』の著者であるアンネ・フランクは、15歳で、亡くなっています。このことに対し、『最果てアーケード』の、主人公の女の子が、16歳になったことは、「少女が少女ではなくなったこと――大人になりはじめたこと」を、象徴しているのかもしれません。

 また、宮崎駿さんの映画においても、まだ幼い子どもたちが、何らかの役割を、担っていました。『となりのトトロ』のサツキは、炊事をしていました。『魔女の宅急便』のキキは、宅急便業を開業していました。『千と千尋の神隠し』の千尋は、油屋で、湯女として、働き始めていました。

 ここで、「子どもが何らかの役割を担うこと」に関する、私の、個人的な経験も、書き留めておきます。
 私は、炊事・掃除などの家事は、母に任せきりでした。そして、ひたすら、読書に、学習に、耽っていました。いま思うと、私も、家族のなかでの「共同して生活する一員」として、炊事・掃除などの家事について、その役割のうちの一部を、担っていた方が、よかったです。その方が、私がひとり暮らしを始めたときに、炊事・掃除などの家事に、より円滑に取り組むことができたでしょう。

4 母が自分自身であること

――女性が出産した後も、その人格について、「母親だから」といって、自己犠牲を強いるべきではない。母親の自己犠牲により、子どもが抱くことになる、母子一体の感覚。その母子一体の感覚は、「母親もまた他者であること」ひいては「この世界には他者という存在があること」を、子どもに、見失わせる。

 この宮地さんの指摘については、同様のことを、吉野弘さんが、その詩である「奈々子に」において、うたっています。

  ひとが
  ひとでなくなるのは
  自分を愛することをやめるときだ。

  自分を愛することをやめるとき
  ひとは
  他人を愛することをやめ
  世界を見失ってしまう。

  自分があるとき
  他人があり
  世界がある。

 吉野さんの「奈々子に」は、父が娘にうたう詩でした。そして、この詩には、娘が父から離れ、娘が自分の子どもを生んだときにも、伝えていい思いが、こもっているようです。
 あらためて、素敵な詩です。個人的に、そう思います。

5 父による母子一体感覚の切断

――この世界には、他者という存在が、あること。そのことに、気が付くことによって、子どもは、社会的存在になる。そして、子どもにとっての、その気付きは、「父による母子一体感覚の切断」ではなく、「母が自分自身であること」によって、もたらすべきである。

 宮地さんの、この記述に対し、河合隼雄さんは、「父による母子一体感覚の切断」が重要であることを、強調しています。
 宮地さんの意見と、河合さんの意見とは、どのように、整合するべきなのでしょう。
 私が考えるに、「父による母子一体感覚の切断」は、子どもが、身体面においても・社会面においても、生殖が可能な年齢に達したときに、問題にするべきことでしょう。「母の配偶者は、父である」。そのことを、父が子どもに示し、子どもは子どもで、自らの配偶者を探すよう、促す。そのようにすることが、重要なのでしょう。
 翻って、子どもが、そのような年齢に達しないうちには、父は、「母が自分自身であること」を援けるためにも、「親として、母とともに、子どもに向き合う」ことが、重要でしょう。
 このことに関連して、私の、個人的な感想を、ここに、書き留めておきます。
――若いカップルの、特に、男性が、女性に対し、濃密な愛着を示している。
 そのような様子を、目にすることが、私には、度々、ありました。
 そのとき、私には、「この二人の間に、子どもが生まれたときに、この男性は、その子どもに対して、『父』として向き合うのか、『恋敵』として向き合うのか」が、余計な心配ですけれども、気になることが、ありました。

6 「哺乳類」「脊椎動物」――人間が動物であること

 宮地さんは、子どもを育てているうちに、人間が「哺乳類」「脊椎動物」であることに、あらためて、気が付いたといいます。
 この「哺乳類」「脊椎動物」は、ともに、「動物」を、表す言葉です。
 宮地さんが、子どもを育てているうちに、「人間も動物であること」に、あらためて、気が付いたこと。そして、そのことについて、肯定的に、評価していること。これらのことが、個人的に、興味深いです。

 このことに関連して、私は、私の敬愛する作家さんたち――堀田善衛さん、開高健さんたちが、「人間も動物であること」について、書き残している考えを、思い出します。
 堀田さんや、開高さんは、最初、「人間も動物であること」について、否定的に、評価していました。
 堀田さんが執筆した『ゴヤ』(集英社文庫)には、画家であるゴヤが、人間を狼として描き、風刺するデッサンが、出てきていました。「人は人に対して狼なり」。
 また、開高さんが執筆した『輝ける闇』(新潮文庫)には、ベトナム政府がベトコンを銃殺する光景が、出てきていました。その光景を、目の当たりにし、開高さんは、次のように、書きつけています。「人間は、大脳を全く欠いた、無脊椎動物なのだ」。
 その後、二人は、「人間も動物であること」について、肯定的な評価をも、見出してゆきます。
 堀田さんは、『ミシェル 城館の人』(集英社文庫)において、ミシェル・ド・モンテーニュの、次の言葉を、引用しています。
「一つの生命が崩壊するのは、他の多くの生へ推移して行くことである」
 人間の、動物としての生命が、崩壊する。その生命は、他の動物の生命へ、推移していく。このように考えることによって、ミシェルも、堀田さんも、やがてくる、自身の死について、安心を得たようです。
 また、開高さんは、『戦場の博物誌』(講談社文芸文庫)において、次の趣旨のことを、書き著しています。「『政治』という観点からは、どんなに悲惨に見える状況であっても、動物たちの生、ひいては、動物としての人間たちの生は、続いていく」
 そして、開高さんは、その最後の作品である『珠玉』(文春文庫)において、アラスカの大河にて、サケの大群が、子を生み、自らは死んでいく様子を、書き留めています。「ここでは、輪廻が、目に見える」。開高さんもまた、堀田さんと同じく、「人間が動物であること」から、「動物としての人間の生命が、他の多くの生へ推移して行くこと」を、見出したようです。そして、そのことを、肯定的に、評価したようです。

――人間には、理性があること。
――しかし、人間もまた、動物であること。
――動物であるからこそ、人間は、政治という観点からは、どんなに悲惨に見える状況のなかでも、生き延びてゆくことができること。
――また、動物であるからこそ、人間は、安心して死んでゆくことができること。
 これらの、肯定的な評価に至るまでに、堀田さん・開高さんにおいては、彼らの人生のなかで、「戦争」という悲惨な状況を経て、そして、加齢によって、自らの「死」が近づくことが、必要でした。

 一方、宮地さんは、子どもが「生まれる」ことを、きっかけとして、彼らと同様に、「人間も動物であること」に、気が付いています。そして、そのことについて、初めから、肯定的に、評価しています。

 子どもが生まれること。そのことに、向き合うこと。向き合うことによって、ひとは、「社会」と向き合うことや、「政治」と向き合うこととは、別な切り口からの、この世界についての考えるヒントを、得ることができるようです。

 ただ、このような、考えるヒントを、母が、子育てのなかから、得ることができるようになるためには、そもそもの「考えるための時間」が確保できるような、周囲からの援助が、必要となるでしょう。
――母を、沈黙の世界に置くのか。
――母を、新鮮な言葉の世界に置くのか。
 この違いは、周囲からの援助の有無によって、生じるのでしょう。

 余談。小川洋子さんは、子育てを通じて、「沈黙の世界」を、見出していました。たとえば、『密やかな結晶』(講談社文庫)。その小川さんの子育ては、周囲からの援助が乏しい、「母を、沈黙の世界に置く」ような、状況にあったのかもしれません。

7 感情の分化

――子どもは、初め、感情が分化していない。

 この指摘、個人的には、新鮮でした。

 もともと、私は、これまでの読書のなかで、「人間の意識は、他者があって、はじめて形成される」ということを、学んできました。
 小川洋子さんと、言語学者・岡ノ谷一夫さんとの対談である『言葉の誕生を科学する』(河出文庫)には、次のような記述があります。
――人間には、他者の行動を予測するために、他者の内的過程を想像する機能が、発達した。「心の理論」。その機能を、今度は自分に使うことによって、意識というものが、形成されるようになった。「ミラーニューロン」。
 人間の意識の形成。そして、感情の分化。これらは、どのような順序で、進んでゆくのでしょう。そのことに、個人的に、興味津々です。

8 閉じこもる子ども

――子どもは、小さくて暗い空間に、閉じこもることがある。
――あのような空間が、子どもが自分の感情を調整するためには、必要だったのだろう。

 この記述から、私は、『最果てアーケード』において、主人公の女の子が、まさに、小さくて暗い空間に、閉じこもっていたことを、思い出しました。

――小さくて暗い空間は、子どもが自分の感情を調整するために、必要である。
 このことは、ひょっとすると、子どものみならず、大人にも、言えるのかもしれません。
 このことに関連して、イギリスのフェミニズム作家である、ヴァージニア・ウルフが、次のように述べています。「女性が自立するためには、『自分ひとりの部屋』が、必要である」(『自分ひとりの部屋』平凡社ライブラリー)。

 そして、ひとが、小さくて暗い空間において、自分の感情を調整して、出てきた後に…
――感情の調整が必要になった出来事について、忘れ去るか。
――それとも、記銘するか。
 どちらの態度をとるかが、そのひとが内面を形成していくのか・いかないのかについての、分かれ目となるでしょう。
 そして、記銘するためには、その出来事について、「書く」ことが、有効な方法となるでしょう。

9 子どもの秘密

――子どもが、大人に対して、秘密を持つことで、自分を守ったり、抵抗したりすることも、また大事である。

 子どもが、秘密を持つことの、重要さ。その重要さについては、河合隼雄さんも、『子どもの宇宙』(岩波新書)において、指摘しています。
 子どもが、親に対して、秘密を持つことによって、子どもは、自分と親とが、別の人格を有していることに、気が付くようになる。そのように、河合さんは、述べています。

 思えば、アンネ・フランクが、日記を書いていたのも、日記という秘密を持つことによって、一個の、人格のある人間として、彼女の両親から、自立しようとしていたのかもしれません。

10 見守る 見張る

――閉じこもる子どもに対する、大人の態度には、「見守る」と、「見張る」とがある。これらの違いは、次の違いから、生じる。大人が「子どもを信頼しているか」そして「社会を信頼しているか」。

 ここでもまた、「信頼」という言葉が、出てきました。
 そして、上記の2において、個人的に述べました通り、「信頼」にも、三つの、不信をも含みこんだ「信頼」が、ありえます。
 そのような意味での「信頼」からしますと、閉じこもる子どもに対する「信頼」にも、もう一段、深い意味を、与えることが、できるでしょう。「もう一段、深い意味」とは、具体的には、次のようなことです。
――子どもは、閉じこもったまま、消えていくかもしれない。
――社会は、子どもを、受け入れないかもしれない。
 これらの不信をも、ふまえた上で、大人は、閉じこもる子どもを、あえて「信頼」するべきでしょう。

 ここまで書いてきて、私は、宮崎駿さんの引用していた、イギリスの児童文学作家である、ロバート・ウェストールの言葉を、思い出しました。
 宮崎さんによると、ウェストールの作品のなかで、大人が、子どもに対して、次のように、語りかけているそうです(『折り返し点』岩波書店)。
「君は、この世界で生きてゆくには、気立てが良すぎる」
 この言葉は、逆に言えば、次のような意味になるでしょう。
「この世界は、誰もが生きてゆくには、厳しすぎる」
 このような、子どもに対する、まなざし。そして、社会に対する、まなざし。これらのまなざしは、不信のまなざしであることをこえて、人間の弱さや、社会の厳しさを見すえた上での、優しさをも含んだ、まなざしです。そのように、個人的には、感じます。

 以上の記述から、更に、私は、映画『星巡りの町』における、次の場面をも、思い出します。「おじいさんが、行方不明になった子どもを、探すことはせず、その家で、待っている場面」。
 このおじいさんの「待つ」という態度は、「子どもは、行方不明になったまま、消えていくかもしれない」ということをも、ふまえた上での、態度だったのでしょう。
 そして、このおじいさんの「待つ」という態度のなかには、おそらく、次のような思いも、あったでしょう。
「子どもは、自ら、生きようとして、この家に、戻ってくるべきである。そうでない限り、その子どもには、この厳しい社会で、生きてゆく力がない、ということになる」
 このような思いで、子どもを待つ、おじいさん。このおじいさんがしていたことは、「消極的な切断」ともいうべきことでした。この「消極的な切断」という態度は、「その子どもが、積極的に、生きようとするのであれば、そのための居場所は、確保する」という態度と、表裏一体になっているようです。

11 経験の喪失

――大人は、子どもを「見守る」ことはできても、「代わりになる」ことは、できない。

 この言葉に関連する、河合隼雄さんの言葉(『働きざかりの心理学』新潮文庫)。
――「できることをしない愛」という愛情も、大事である。
 大人が、子どもの代わりに「してあげること」によって、子どもが、そのことを「する」という経験を、奪うことが、やはり、あるのでしょう。
 それでは、子どもが「しなくていい経験」と、「新たにするべき経験」とは、どのように、選別するべきなのでしょう。
 その選別にあたっては、親の・大人の、社会観・世界観・人生観が、問われることになるでしょう。そして、何より、そのような経験に関する、子どもの選好について、親が・大人が、読み取るべく、努めることが、必要になるでしょう。

12 SOS

――SOSは、出し続けること。

 この宮地さんのメッセージ、大事だと、私も考えます。
 ただ、人間は、「依存」と「自立」との、均衡のなかで生きている存在ですので、単純な「助けて」という意味での「SOS」は、出しにくいかもしれません。
 たとえば、「転職したい」「起業したい」という、それ自体は、自立を目指すようなメッセージが、あります。このメッセージが、実は「退職したい」という、依存を目指すようなメッセージ、すなわち「SOS」を含んでいることが、あります。そして、そのひとにとっては、「退職したい」という、隠れたメッセージの、その動機こそ、じっくりと考えてみるべき場合が、あったりします。「なぜ退職したいのか」について、考えた先に、「次にどうするのか」についての見通しが、立ってくるはずだからです。

 そして、そのひとにとって、「退職したい」と考えている、その状況に、その身を置いたままでは、「なぜ退職したいのか」について、考えることが、難しい場合もあります。いったん、退職して、その状況から抜け出てみて、はじめて、その状況を、主観的にではなく、客観的に、捉えることができるようになることも、あるからです。
 そのような意味で、宮地さんの「どうしても辛いなら、逃げていい」というメッセージについても、同じように、大事だと、私も考えます。

 ただ、「退職すること」は、いったん、収入が途絶えることでも、あります。仕事という経験が、途絶えることでも、あります。そして、再び、就職ができるかどうかは、分かりません。それらの可能性もふまえた上で、退職する必要が、あるでしょう。
 これらの可能性をふまえたときに、「生活をともにするパートナーがいること」は、「どちらかが、いったん退職した後に、しばらく、互いの生活を支えることのできる、パートナーがいるということ」にも、つながります。そのような意味においても、「生活をともにするパートナーがいること」は、大切なことでしょう。

13 生産力から解体力へ

――「生産すること」と同じくらい、「解体すること」も、大事である。「解体すること」は、ひらたく言えば、「ほどくこと」。

 解体すること。ほどくこと。これらのことは、私の仕事において、大事なことでもあります。このことについては、「考えの足あと/司法書士のアタマのなか」において、詳しく書いておきました。

 思えば、「生産すること」は、テレビ、冷蔵庫、洗濯機、自動車、建物などの「耐久消費財」が、社会に普及してゆく時代には、大事な仕事であったのでしょう。
 いまは、逆に、「解体すること」「ほどくこと」が、大事な仕事となる、そういう時代なのかもしれません。
 といいますのは、高度成長以降、「耐久消費財」の「大量生産」が進んでゆき、社会が豊かになってきた裏で、対応がおろそかになっていた問題が、いま、社会問題として、表面化してきていて、その問題を解決することが、大事になってきているからです。
 たとえば、空き家の問題。空き家の問題の裏には、権利に関する問題や、家族に関する問題が、潜んでいます。そういう権利についての・家族についての、こんがらがったまま、ひとびとが放置してきた問題を、解決して(つまりは「ほどいて」)はじめて、その空き家を「解体」することが、できるようになります。
 「生産力」よりも、「解体力」。「ほどく力」。それが、これからの時代に、必要となる、力なのかもしれません。

 余談。「生産性の向上」という言葉が、このところ、個人的に、気になっています。
 この「生産性の向上」は、戦中から、戦後、現在に至るまで、一貫して、政府・企業の、目標となってきた言葉であるようです。
 そして、この「生産性の向上」という言葉は、「モノ」の「生産性の向上」という意味であって、「人口」の「生産性の向上」という意味では、なかったようです。
 人口経済学では、「子どもが生まれること」を、「人口の再生産」というそうです。その意味では、日本における、「人口」の「生産性」は、1974年(オイルショック/第2次ベビーブーム終焉)以降、ほぼ一貫して、低下してきました。
 「モノ」の「生産性の向上」が、追求するべき目標ではなくなってからも、政府・企業が、それを、引き続き追求してきたことが、「人口」の「生産性の低下」に、つながっているのかもしれません。
 そして、いま、政府・企業は、従業員にとっての子育てのための時間を捻出する目的で、あらためて「モノ」の「生産性の向上」を、強調しています。ただ、その「モノ」の「生産性の向上」が、「人口」の「生産性の低下」についての、原因となってきたのであれば、更に「モノ」の「生産性の向上」を追求してゆくことは、その目的にとって、逆効果になることが、あるかもしれません。

 生産時間 × 生産性 = 生産量

 このような方程式において、「生産時間の減少」を、「生産性の向上」で補い、「生産量」を、維持しようとしている。それが現状であるならば、そもそもの「生産量」を減らすことについて、検討しても、いいでしょう。その際には、「何を」「どれくらい」生産するかが、検討の対象になるでしょう。

14 時代の移り変わり

――大人の人生。子どもの人生。その期間は、長く、重なり合う。その期間のなかで、大人は、子どもへ、「生命」はもちろん、「文明」をも、伝えてゆく。大人から子どもへ、リレーで、バトンを、渡してゆく、イメージ。その「バトンを渡すための時間」は、長い。

 大人から、子どもへ、意義のあることを、どれほど、伝えてゆくことが、できるでしょう。そのことが、個人的に、気になります。

 たとえば、私たちよりも、ひと世代、年上のひとたちは、上に述べたような「大量生産」の時代を、生きてきたひとたちです。
「型式の決まった仕事を、より早く、より正確に、よりたくさん」
 そのような、そのひとたちの生き方について、私たちが伝達を受けても、私たちは「解体」の時代に生きているのですから、そのひとたちの生き方が、私たちの生き方に、そのまま適合することは、ないでしょう。
 もっといえば、私たちの生き方は、その次の世代、「解体が終わった」時代に生きる人たちの生き方にも、そのまま適合することは、ないでしょう。
 むしろ、伝える方向性を、逆にして、「次の世代から、今の世代が、時代の動きについて、教えを受ける」ということがあっても、いいでしょう。
 このことに関しては、私自身、仕事の管理について、ソフトやシステムを利用することを、私よりも若い世代のひとたちから、教えて頂きました。
 このように、新しい時代の流れについては、若い世代の方が、キャッチ・アップが、早いでしょう。
 そうしたことからしますと、年長世代が、若い世代に伝えるべきことは、たとえば、「時代が流れてゆくなかでも、変化することが少ない、この社会の基礎となっている、しくみ」なのかもしれません。

 とはいえ、年長世代が、新しい時代の流れも含めて、大学を卒業した後も、学び続け、経験し続けることもまた、大事でしょう。
 年長世代が、社会人になった後、漫然と、日々を過ごしていると、若い世代が、ある程度簡単に、年長世代を「Grow out」してゆきます。
 このことについては、私自身、若い世代としても、年長世代としても、両方の立場から、経験してきました。

 また、「コロナウイルスの感染の拡大」による、時代の移り変わりについて、個人的に考えていることを、ここに書き留めておきます。
 コロナウイルス感染拡大は、主に、都市において、問題になりました。
 都市には、人口が密集しています。そのため、ひととのご縁も、たくさん結びやすく、そのことが、司法書士という法律職にとっては、仕事の獲得のしやすさに、つながっていました(メリットA)。また、人口が密集しているために、ひととひととの間に生じる葛藤も多く、そのことが、司法書士という法律職にとっては、「解体する」仕事の多さにも、つながっていました(メリットB)。
 コロナウイルス感染拡大によって、上記のうち、メリットAが、小さくなりました。都市において、ひととひととが交流する機会が、減ったからです。メリットBについては、これまで都市のなかに蓄積してきた、ひとびとの葛藤は、まだまだたくさん存在していそうでもあり、小さくなったかどうか、私自身、まだ見極めが、できていません。
 上に述べたように、メリットAが小さくなったことは、新規開業する司法書士にとっては、逆風でしょう。メリットAが小さくなった分、新規開業する司法書士が、仕事を獲得する機会も、減ったことになるからです。
 ただ、だからといって、都市から地方へ移動して、そこで開業すれば、問題を回避できるかというと、そうでもないでしょう。まず、地方には、そもそも、人口が密集していないからです。また、都市から地方への、人口の移動は、コロナウイルス感染拡大のもと、若い世代を中心に、起こってゆく可能性があります。実際に、その移動が起こった場合、その移動に伴って、都市から地方へ、コロナウイルスが蔓延してゆくことになるでしょう。過去、明治時代に、コレラについて、同様のことが起こった旨、医療文化史学者・立川昭二さんの『病気の社会史』(岩波現代文庫)に、記載があります。都市から地方へ、コロナウイルスが蔓延していった場合、都市における感染のリスクと、地方における感染のリスクには、大差がなくなるでしょう。
 コロナウイルスの感染が拡大してゆく状況のもと、司法書士が地方において新規開業することについて、活路を見出すとすれば、「法律職の絶対数が少ない地方における、財産管理業務の獲得」が、方向性のひとつとして、ありうるかもしれません。
 たとえば、熊本では、法律職の絶対数が少ないため、不在者財産管理人・相続財産管理人に、司法書士が就任することが、あるそうです。通常、東京では、そのような管理人には、弁護士が就任します。そのような、仕事の獲得の仕方がありうる地方が、熊本以外にも、存在しているかもしれません。
 ただ、財産管理業務は、なすべき作業が膨大ですので、司法書士一人で、何件まで受任できるかが、問題になるでしょう。

15 わすれられないおくりもの

――伝わる記憶。家族の記憶。宮地さんは、お父さんが亡くなった後、彼の手入れしていた庭を、見よう見まねで手入れしたとき、はじめて、本当にお父さんを弔った気持ちになった。

 この宮地さんのエピソードから、私は、イギリスの絵本作家である、スーザン・バーレイの『わすれられないおくりもの』(評論社)を、思い出しました。
 大人から子どもへ伝えるものとして、「身に付ける知恵」も、「頭で覚える知識」と、同じ以上に、大事なのでしょう。

16 伝えるべき知恵

――大人は、答えを与えるのではなく、また、答えの決まった問いを速く解ける受験戦争の勝者を作り続けるのでもなく、答えの決まっていない問いを、子どもたちに示し、解き方を一緒に考えていくべきである。

 「答えの決まった問いを速く解ける受験戦争」。このような「受験戦争」という教育方法は、「型式の決まった仕事を、より早く、より正確に、よりたくさん」行うための、「大量生産」の時代に適合した、教育方法だったのでしょう。
 そして、「解体」の時代に必要な教育は、宮地さんの書いている通り、「答えの決まっていない問いを発見して、解き方を考えていく」教育でしょう。そして、それは、知識のみならず、「解法」という知恵をも、身に付ける、教育であるでしょう。
 「問いを発見すること」つまりは「問いを立てること」の重要さは、哲学者・河野哲也さんも、『レポート・論文の書き方入門』(慶應義塾大学出版会)において、指摘しています。

17 父からの愛情への疑念――2回目以降の「愛している」

 宮地さんの紹介している、スペイン映画『エル・スール』。この映画の物語、個人的に、興味深いです。

――父に、かつて、母よりも前に、愛した女性がいた。
 このことは、娘にとっては、「父から母への愛情が、2回目以降のものだった」ということを、意味しているでしょう。
 父は、かつての女性のことも、「愛していた」。そして、いまの母のことも、「愛している」。ここには、二つの「愛している」が、存在しています。その関係は? 父からの、2回目以降の「愛している」は、「父が二枚舌であること」、すなわち、「父の『愛している』が、信頼できないこと」を、示しているのでは?
 このような疑念を、娘は、父の過去を知ったことによって、父に対して、抱くことになるのでしょう。そして、このような疑念からしますと…
「大人になることが、決して幸せいっぱいになることではないこと」
 この言葉は、次のことを、意味しているでしょう。「ひとが、本当に愛した相手と、結婚するとは、限らないこと」。
「成長することが、『一人になること』でもあること」
 この言葉は、次のことを、意味しているでしょう。「ひととひととの関係において、『終生の愛情』というものは、おおよそ期待するべきではないこと」。
 以上、述べてきましたように、この映画『エル・スール』は、娘が、父からの愛情に関して、「素朴な信頼」の段階から、「不信」の段階へと、成長してゆく、物語であったようです。そして、この後、彼女は、どのようにして、「あらためての信頼」の段階に、到達していくのでしょう。そのことが、個人的に、気になります。

 この映画『エル・スール』と比較して、小川洋子さんの『最果てアーケード』が、父からの愛情を「素朴に信頼する」娘の物語であったことが、私には、あらためて、興味深いです。
 また、小川さんの『シュガータイム』は、男性からの愛情を「素朴に信頼する」大学生の女の子の物語でもありました。
 小川さんは、『シュガータイム』といい、『最果てアーケード』といい、「素朴な信頼」つまりは「子どものような純情」を、大切にしている作家さんなのかもしれません。
 そして、小川さんの作品に登場する人物たちに、この社会において、上手く生きてゆくことができないひとたちが多いのは、「子どものような純情を抱いたままでは」「この社会において生きてゆくことは難しい」ということを、表現しているのかもしれません。

 ここまで書いてきて、あらためて、私は、宮崎駿さんの引用した、ロバート・ウェストールの言葉を、思い出します。
「君は、この世界で生きてゆくには、気立てが良すぎる」
 これから生まれてくる子どもたち、つまりは「気立ての良いひとたち」「純情なひとたち」が、そのまま生きてゆくことのできる、世界になるように、私も、微力ながら、コツコツと、毎日の仕事や生活を、積み重ねてゆけたらと、思います。

18 宙づり――火見子のその後

――親しいひとの、行方が知れない、安否が知れない、宙づりになっているような時間が、待っているひとには、最も辛い。

 この宮地さんの言葉から、私は、若干飛躍がありますけれども、作家・大江健三郎さんの『個人的な体験』(新潮文庫)の登場人物である、火見子のことを、思い起こしました。
 火見子は、若くして、その夫を、自殺により、亡くしていました。
 ひとの自殺は、そのひとと親しいひとに、永遠に「なぜ」が分からない問いを、突きつけることになります。つまり、その親しいひとは、永遠に宙づりとなります。
 そのような宙づりの状況にある火見子について、『個人的な体験』には、救いがありませんでした。むしろ、火見子は、「欺瞞から欺瞞へカエル跳びしてゆく人物である」という扱いを、受けていました。
 しかし、火見子は、その後、どのように生きてゆけばよいのでしょう。そのことが、いまも、私には、気になっています。その問題について、大江さんは、『人生の親戚』という小説において、取り組んだようです。この小説、いずれ、個人的に読んでみたいです。

19 そして父になる

――ははがうまれた。
――ほんがうまれた。
――次は何がうまれるのだろう。
――楽しみである。

 次にうまれるもの。それは「父」かもしれません。
 「父」について考えるためには、是枝裕和さんの映画『そして父になる』が、おすすめです。

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