【読書】上野千鶴子『女の子はどう生きるか』岩波ジュニア新書 ~女性の違和感から変化が生まれる~
上野千鶴子『女の子はどう生きるか』岩波ジュニア新書 929 2021.1.20
https://www.iwanami.co.jp/book/b553691.html
――吉野源三郎さんの名著、『君たちはどう生きるか』は、男の子に向けて書いてありました。女の子に向けての、『君たちはどう生きるか』も、必要です。
社会学者・上野千鶴子さんによる、ジェンダー入門、フェミニズム入門。
上野さんが、高校生の女の子たちからの質問に、回答してゆきます。
第1 内容要約
1 ルソーの教育論
歴史のなかの哲学者、ルソー。
彼が、教育について書いている、『エミール』には、次のような記述がある。
――子どもは自由に育てなさい。
――子どもの良さを伸ばしていきなさい。
――ただ、この話は、女の子には、当てはまらない。
――女の子は、将来の夫を支える妻となるように、育てなさい。
このように、男子・女子の、育て方についての差別は、いまに始まったことではない。
2 男らしく・女らしく
男の子は、男らしく。女の子は、女らしく。
ルソーの時代に限らず、こうした標準化(ステレオタイプ化)は、現代日本社会にも、存在している。
たとえば、「女子は、理系には、向かない」。
そんなことは、ない。
キュリー夫人は、二度も、ノーベル物理学賞を受賞した。
そして、理系に限らず、おおよそ学問において、女性の研究者が、男性の研究者とは、また違う視点で、研究を進め、その分野の多様さを高め、ひいては、その学問の世界を豊かにしてゆくことも、分かってきている。
3 意欲の冷却
「東大に行きたい? お嫁に行けなくなるよ?」
こうした言葉が、女子の意欲を、挫いてきた。
――男性は、自分よりも、劣位の女性と、結婚したがる。
そのような観点から、かつては、女子たちが、才能はあっても、あえて短大に進学していた時代もあった。
4 オレサマ男子・オッサン
いまも、東大の女子の人数は、総数の2割程度。
その東大には、東大女子は入ることができず、他大女子は入ることのできる、東大女子禁止サークルがある。
以前、東大の男子たちが、他大の女子を、集団で暴行した事件があった。そのときの、男子の一人が、供述した言葉、「彼女は頭が悪いから」。この言葉をもとに、作家・姫野カオルコさんが、同名の小説を書いている。
このように、女性よりも優位に立ちたがる男子・男性のことを、上野さんは「オレサマ男子」「オッサン」と呼んでいる。
5 男女の序列――変えていくことの楽しさ
上に述べたような男子・男性の習性を反映して、社会のしくみも、そのようになっている。
たとえば、学校の、生徒の、名簿。その名簿が、男子・女子に分かれ、男子から先に点呼をとるようになっていることがある。
――この名簿は、男女を差別し、序列をつけている。おかしい。
そのように声を上げて、男女混合名簿にするよう運動し、成功した、女性教師たちがいた。彼女らから、上野さんは、話を聞いたことがある。
「運動が結果になったことは、もちろん、よかった。そして、その運動のなかで、変化を起こしていくことが、何より楽しかった。その運動を通して、他のことについても、女性たちが、より発言するようになった」
6 恋愛 Q&A
(1)束縛する彼氏
高校生の女の子からの質問。
「彼氏が、会っていない間、私が何をしていたか、知りたがります。LINEで、すぐ返事をしないと、怒ります。他の男としゃべるな、とも、言ってきます。別れた方がいいでしょうか?」
上野さんからの回答。
「別れた方がいいでしょうか?」。あなたは、もう、自分で、答えを言っています。
愛されるということは、大事にされること。大事にされるということは、あなたの意思を尊重されることです。
大事にされているなら、キモチよいはず。
自分の心とカラダに聞いてみて、キモチよくなかったら、その関係は、一刻も早く、やめましょう。
(2)外面にこだわる彼氏
「彼氏が、デートのときに、『女子力の高い格好をしてこい』と、言ってきます」
その彼氏が、あなたと付き合っているのは、可愛い彼女がいることを、周りに見せびらかしたいから?
世間体のための彼氏、世間体のための恋愛、世間体のための結婚は、やめましょう。
恋愛も、結婚も、愛し合って、するもの。子どもも、愛し合って、授かるもの。
それに、恋愛以外にも、楽しいことは、たくさんあります。
あなたの内面が、何を求めているかが、大切です。
(3)強く迫ってくる彼氏
「彼氏が、嫌がっているのに、キスしてきます」
男性の使う、都合のいい言葉に、「イヤよイヤよも好きのうち」という言葉があります。
大きなお世話。イエスはイエス。ノーはノー。自分で決められる。
接近してくる他人、身体に侵入してくる他人は、リスク。リスクなのだから、いちいち、相手の同意が必要です。
7 結婚
(1)専業主婦から共働きへ
いまは、妻が専業主婦である夫婦よりも、共働きの夫婦の方が、多くなってきている。
心優しい女子のなかには、自分が共働きの道を選ぶと、「専業主婦だったお母さんの生き方を否定するようで、気が引ける」という子がいる。
しかし、妻が専業主婦でいることのできる、600万円以上の収入のある男性は、いま、20代で、3.3%。30代で、17%。もはや、少数派。
お母さんの時代とは、状況が、変わっている。
(2)シングルマザー
日本の社会において、専業主婦が、いくら夫の行いがひどくても、離婚に踏み切ることができない事情のひとつに、「シングルマザーに対する社会の厳しさ」がある。
日本では、シングルマザーには、子どもがいるという理由で、就職先が、たいへん見つかりにくい。
また、別れた夫からの、養育費も、滞る。養育費については、スウェーデンには、滞納があると、国家が立て替えて、その立て替え分を、夫の給料から天引きしてゆく制度がある。そのような制度は、日本には、まだない。
(3)稼得力――男性にとっての自己効力感の要因
ちなみに、男性にとっての、自己効力感についての研究によって、分かってきたことがある。
――自己効力感についての因子の、最大のものは、稼得力である。
この因子からくる、オッサンの決まり文句が、「誰の稼ぎで食わせてもらっているんだ」。
また、そのオッサンが、失業したり、会社が倒産したりして、稼得力による自己効力感が無くなると、暴力に走りやすくなることも、分かってきている。
8 仕事
(1)雇用制度
ア 総論
1985年、男女雇用機会均等法が、成立。女性にとっての、正規雇用の機会が、生まれた。
一方、同じ年に、労働者派遣法も、成立。
この年に、正規雇用と、非正規雇用の、二極化が、始まった。
国家は、女性が、その能力においても・稼得力においても、自立しにくくなるように、制度を設計している。
イ 総合職
総合職は、経験を積んでゆくことができる代わりに、無限定の職務、長時間の労働に、従事することになる。そのために、家族との時間が、少なくなる。
総合職に就いた先輩女性たちの生き方は、そこまで幸せそうでは、なかった。
そのことが分かってきているので、いまの女子たちは、総合職を選ぶことに、ためらいを感じている。
ウ 一般職
かといって、一般職では、ほどほどに働くことになり、経験を積むことが、できない。
エ 非正規雇用
一方、非正規雇用を選び、稼得力のある夫と結婚したとしても、それでは、経済的自立を失う。
非正規雇用の妻について、国家は、社会保険・税金を優遇して、その雇用状況から抜け出しにくくしている。
(2)「配慮」という「差別」
仕事において、「配慮」という名目で、「差別」が行われることがある。
たとえば、学校の先生の、進路指導の仕事。そのためには、遅くまで残る必要がある。そのことを理由として、「家族がいる女性の先生には、進路指導を、任せない」。「男性の先生に、進路指導を、任せるべき」。
この「配慮」は、「配慮」のようでいて、「差別」である。
その「男性の先生」も、妻が、家事をしているから、遅くまで残ることができるのである。
この「配慮」という「差別」は、女性から、仕事を奪い、性別役割分業を、固定することに、つながる。
(3)対処方法
女性差別が、根強い、日本企業。
その状況のなかでの、女性たちがとることのできる対処方法は、大きく分けて、三つある。
ア 女性差別の少ない企業を選ぶ
厚生労働省が、ネット上で「女性の活躍推進企業データベース」を提供している。
https://positive-ryouritsu.mhlw.go.jp/positivedb/
イ 就職した企業を変えてゆく
たとえば、以前、女性がすることになっていた「お茶くみ」も、女性が声を上げて、変化を求めることで、男性が自分でするようになっていった。
ウ 起業する・フリーランスになる
結局、「他人に使われる」ということは、「自分ではない誰かの言うことを聞く」ということ。
起業する・フリーランスになるためには、実力や技能が必要になる。そして、どのような実力や、どのような技能が必要なのか、自分で考えることも必要になる。
9 選挙権から被選挙権へ
戦後、初めての国会議員選挙において、39名の、女性議員が、誕生した。
この39名が、過去最大の人数であり続けている。
その後、日本社会のなかでの、男性の勢力が、盛り返してくるにつれて、女性の議員は、少なくなっていった。
このことについて、市川房枝さんというひとが、亡くなる前に、次の言葉を、残している。市川さんは、戦前から、女性の選挙権を獲得するために、運動してきたひと。
――権利の上に、眠るな。
戦後、女性は、選挙権を、獲得した。その選挙権を、行使してゆこう。
そして、更に、女性は、被選挙権も、行使してゆこう。被選挙権とは、「議員になる権利」。
女性が議員になりにくい原因は、「議員は、地元の名士がなるもの」というしくみが、できているから。議員になるためには、「ジバン・カンバン・カバン」が、必要だと、言われてきた。地盤、看板、鞄。つまり、「地元の名士であること」そして「お金があること」。
地元の名士でなくても、お金がなくても、議員になることができるよう、選挙のしくみを、変えてゆこう。
女性が、たくさん、議員になれば、その分、地方の、国の、政策も、変わってゆくだろう。
ひとくちに女性といっても、その意見は多様である。多様な意見を、政治に反映するためにも、たくさんの女性議員が誕生する必要がある。
10 差異から情報が生まれる
女性が、企業に、政治に、進出してゆくことが、大事な理由。
それは、「差異から情報が生まれるから」。
いまの社会は、情報化社会。情報に、価値がある。
情報は、差異のあるところに生まれる。言いかえると、異なるものどうしが、対話することによって、情報が生まれる。
男性が作っている社会に、女性が進出して、男性とは異なる観点からの意見を出し、変化を求めるとき、そこに、価値のある情報が生まれる。そして、その情報から、革新が、生まれる。
異なるものを受け入れない、一様な社会に、価値のある情報は、生まれない。そして、革新も、生まれない。
――たとえ女性が政治や経済に進出しても、「先生のよい子(teacher’s pet)」みたいな従順な女子や、男性の期待を忖度して先回りしてふるまう女性が増えるだけでは、システムは変わりません。「女ならだれでもいいのか?」と言ったのはそのためです。男性が支配してきたシステムの中へ、これまでのやり方を変えないまま女性が参入していくだけでは男性優位を強化するだけです。既存のシステムのなかへノイズを持ち込むのでなければ、女性が政治に参加する意味はありません。
以前の、ものづくり社会では、ものづくり生産性が、重要だった。
「ものづくり生産性」を追求してゆくこととは、5時間なら5時間、工場で労働して、その時間・その工場のなかでの、生産品質・生産量を、追求してゆくことだった。
情報化社会での、「情報生産性」の追求は、上に述べたように、「ものづくり生産性」とは、また違う。
なお、労働時間は、歴史のなかで、短くなってきた。
いまの、8時間の法定労働時間も、その途上にある。
11 フェミニズム――弱者が弱者のまま尊重されることを求める思想
フェミニズムの思想も、一様ではない。
多様なフェミニズムの思想のなかで、上野さんの思想は、次のような思想。
「弱者が弱者のまま尊重されることを求める思想」
フェミニズムの思想のなかには、「女性も男性と同じことがしたい」という思想もある。過労死するほど働きたい。戦争にも行きたい。そのような思想は、上野さんの思想では、ない。
12 弱者にとって必要な社会――安心・安全な社会
女性に、意思決定権があることは、とても大事。どうして大事なのかといえば、その意思決定権によって、女性の想いや経験を、社会に反映させて、社会を変えてゆくため。
女性は、長い間、社会のなかで、弱者だった。そして、子どもや年寄り、病気や障害のあるひとたちを、引き受けてきた。弱者たちを、世話してきた。
女性は、「男性のように」「強く」は、ならなくて、いい。支配者に、ならなくていい。権力者に、ならなくていい。暴力で、他人を、従わせなくていい。戦争は、起こさなくていい。
弱者たちにとって、必要な社会は、「安心で、安全な社会」。「弱者になっても、安心して生きることができる社会」。
私たち人間は、弱者として生まれ、弱者として死んでゆく。そういう大事なことを教える思想が、フェミニズム。そして、その思想を実現するために、男女平等という方法がある。
第2 中島コメント
1 資本主義社会・家父長制社会
――男性は、女性よりも、優位に立ちたがる。
――男性は、女性よりも、特に、稼得力において、優位に立ちたがる。
これらの、男性の習性のうち、前者は、家父長制社会の形成に、つながってゆくでしょう。後者は、資本主義社会の形成に、つながってゆくでしょう。
直観。資本主義社会・家父長制社会は、「男性(夫/父)が、富を蓄積して、その富によって、女性(妻/母)に、自分(夫/父)の子どもを、確実に育てさせるためにできた社会」なのかもしれません。
このことに関連して、上野さんには、次の著作があります。『家父長制と資本制』(岩波現代文庫)。この著作、いずれ、個人的に読んでみたいです。
今回の、中島コメントでは、主に、この「家父長制と資本制」について、注目して、私の感想・考えを、述べてゆきます。
2 社会契約論のなかの男性優位
ルソーは、『社会契約論』の著者です。その『社会契約論』は、近代から現代へと、今日に至るまで続いている、資本主義社会・家父長制社会の、基礎理論です。
その基礎理論について著した、ルソーが、男性優位思想を、有していた。そのことは、資本主義社会・家父長制社会の、その設計の根本に、男性優位思想が組み込んであることを、意味しているでしょう。
3 契約の原理・支配の原理
資本主義社会は、「契約の原理」で動く社会です。
家父長制社会は、「支配の原理」で動く社会です。
これらの原理の観点から、女性たちのうち一部が稀にとる行動について、ひとつ、私に見えてきた(ような気がする)ことがありますので、ここに書き留めておきます。
4 無為・取消
私が、いままで、出会ってきた女性たちのなかに、一部、稀に、次のような行動をとるひとたちがいました。
――自分からは決して何もしない。
――自分から一方的に関係を取消す。
私が、現代の、この社会に生きる女性について、関心を抱いて、これまで女性学について学んできた、そのきっかけのひとつは、「このような女性たちの行動は、どのような原理から、表れてきているのだろう」ということが、個人的に、気になったからでした。
5 契約の原理
(1)意思表示――「契約の原理」の基礎
まず、「契約の原理」の、その内容について、確認します。
「契約」は、ひととひととの、「意思の合致」によって、成立します。従って、「契約」は、その前提として、ひとが、ひとりひとり、「意思を表示」できることを、必要としています。
(2)意思表示――その3段階
その「意思表示」には、次の3段階があります(四宮和夫ほか『民法総則』〔第8版〕弘文堂)。
ア 効果意思(自分で「契約する」と決める)
イ 表示意思(自分から相手に実際に「契約する」と伝えようとする)
ウ 表示行為(自分から相手に「契約する」と明確に伝える)
(3)意思表示――その困難さ
意思表示、その3段階は、当たり前のようでいて、実は、困難です。
――ひとは、自分で「契約する」と決めることができるでしょうか?(ア・決定の問題)
――ひとは、自分から相手に「実際に」「契約する」と伝えることができるでしょうか?(イ・実行の問題)
――ひとは、自分から相手に「契約する」と「明確に」伝えることができるでしょうか?(ウ・明確の問題)
これらの3段階について、私自身、どのようなときでも、クリアできているかといえば、心許ないです。
これらの3段階について、クリアした上で、意思表示ができるひと。そのようなひとは、「強い個人」である。そのように、私は、いままでの人生経験から、考えています。
このことについて、本書において、著者である上野さんは、次のように述べています。
――イエスはイエス。ノーはノー。自分で決められる。
しかし、私の個人的な体験では、イエスともノーとも言わない、自分で自分の意思を決めることのできないひとが、いままで、何人も、いました。そのようなひとのことを、本稿においては、「強い個人」と対比して、「弱い人間」と表現することにします。
「自分で決められる」。この宣言は、上野さん自身、「強い個人」であるからこそ、できるのでしょう。
そして、私たちの社会においては、実際には、「強い個人」よりも「弱い人間」の方が多くて、その「弱い人間」の方が、人間の自然状態といえるのかもしれません。そのような印象を、私は、個人的に、抱いています。「強い個人」は「不自然」であり、「弱い人間」の方が「自然」であるのかもしれません。
「強い個人」とは、反対の性質を持つ、「弱い人間」。その「弱い人間」をも、包摂して、あらためて、社会を形成してゆくためには、どのようにすればよいか。そのことが、いま、問題になっているのでしょう。
自分では、意思表示が、うまくできないひとたち。そのようなひとたちに、寄り添って、彼ら彼女らについて、物語を紡いでいるひととして、たとえば、作家・小川洋子さんがいます。小川さんの小説である『ことり』は、まさに、そのようなひとたちが、主人公でした。『ことり』等の、小川さんの著作から、次の社会を形成してゆくための、考えるヒントを、得ることができるかもしれません。
(4)「自由な意思」の先にあること――「契約を守る」
そして、自由なひとと、同じく自由なひととの間において、意思が合致して、契約が成立した場合には、お互いが、お互いに、その契約について、守るべきこととなります。
「自由な意思」の先には、「契約を守る」という、ある意味での、「不自由」が、待っているのです。
先に述べた、ルソーのいう「社会契約」も、次のことを、その前提としています。
――ひとびとが、その「自由な意思」によって、社会を形成するために、「契約」をする。
――ひとびとが、その「契約」を、「守る」。
このように、資本主義社会は、ひととひととが、「自由な意思」で「契約」をして、その「契約」について「守ってゆく」ことによってはじめて、成り立ち、存続しているのです。
(5)必要な強さ――「意思を表示する強さ」「契約を守る強さ」
ここまで個人的に考えてきたことから、この資本主義社会において、生きてゆくにあたって、必要な強さの、その内容と程度が、分かってきます。
この資本主義社会において、生きてゆくにあたって、必要な強さは、「意思を表示する強さ」「契約を守る強さ」です。そして、「意思を表示する」「契約を守る」ために、必要な程度で、身体面での強さ、精神面での強さが、必要になるのでしょう。そのような意味での「強さ」について、身に備えているひとが、この社会を構成する、「強い個人」であることに、なるのでしょう。
余談。こうした「強さ」の観点からしますと、日本の社会が、日本の男性に求めてきた強さである、「過労死するほど働く強さ」は、上記の強さとは、異質な強さです。
その強さは、「身体の限界を超える強さ」や「精神の限界を超える強さ」というように、名付けることができるでしょう。
そのような強さについて、私は、太平洋戦争中の、日本軍が、日本兵に求めた、「日本軍人としての強さ」を、思い起こします。
――「強い個人」としての強さ(欧米)
――「日本軍人」としての強さ(日本)
これら、両方の「強さ」について、日本の社会が、日本の男性に、求めているのであれば、少なくとも、後者については、日本の男性は、もう、こだわらなくて、いいでしょう。その「強さ」について、求め過ぎたがための失敗が、歴史上、明らかであるからです。
(6)契約を守ること――その困難さ
上記(3)において、私は、「意思を表示すること」の困難さについて、述べました。
同じように、「契約を守ること」も、当たり前のようでいて、実は、困難です。
たとえば、作家・太宰治が、その小説である『走れメロス』において、その困難さについて、問題を、提起しています。『走れメロス』のなかで、メロスは、肉親への哀惜に苦しみ、また、山賊からの略奪を受けて、遅れ、ぼろぼろになりながら、それでも、自分が、友と王との間に交わした、その契約を、守ったのでした。
どのような「事情の変更」があっても、「契約を守る」。そのように、メロスがかろうじて発揮した強さは、果たして、誰もが発揮できる強さなのでしょうか。
(7)強迫による契約――取消しできる契約
以上、この資本主義社会では、その原理として、ひとが「自由な意思」によって契約をした場合には、その「契約を守る」ことが必要になる旨、述べてきました。
この原理が、この資本社会における「契約の原理」です。
「契約を守る」その前提として「自由な意思」がある。そういうことですので、逆に、契約にあたって、そのひとに「自由な意思」がなかった場合には、そのひとにとっては、「契約を守る」必要がないことになります。
そのような場合の代表例が、「強迫」によって、ひとが契約をした場合です。そのような場合について、民法・第96条は、次のように定めています。
――強迫による意思表示は、取り消すことができる。
ひとが、「強迫」によって、「意思の制限」を受けた状況で、意思表示によって、契約をした場合。その場合には、「自由な意思」がないので、そのひとは、その契約が成立するもととなった「意思表示を取り消す」ことができる。
このような定めが、民法のなかには、あります。なお、民法は、この資本主義社会について、形成してゆくための、その基本となる法律です。
この民法の、「強迫による意思表示は、取り消すことができる」という定め。この定めを、次なる考える手がかりとして、項を改めて、「支配の原理」について、個人的に考察を進めてゆきます。
6 支配の原理
(1)意思の制限・行為の取消・行為の代理
家父長制社会。家父長という支配者が、家族という被支配者を、支配する社会。そのような社会においては、被支配者には、次のような「意思の制限」が、かかります。
ア 支配者の同意がない限り、被支配者は、自由に意思を表示できない。
イ 支配者の同意がない、被支配者による意思の表示については、支配者も、被支配者も、取消しができる。
ウ 支配者は、被支配者の代わりに、その意思を決定できる。その行為を代理できる。
アにみるように、被支配者の「意思」には、常時、「制限」がかかっています。そのために、被支配者の表示した意思は、イにみるように、常時、「取消しできる」ことになっています。このしくみは、先に述べた「強迫」と、類似したしくみです。
更に、被支配者の意思は、ウにみるように、支配者が勝手に決定できることになっています。
(2)子ども・認知症高齢者・妻
このような、支配・被支配の構図は、現代日本においても、子どもについての親権制度、認知症高齢者等についての成年後見制度のなかに、存在しています。
そして、同様の構図が、大日本帝国憲法そして戦前民法のもとでの、夫と妻との関係にも、存在していました。
戦前、夫の同意がない限り、妻は、自由に意思を表示できませんでした。
戦前、夫の同意がない、妻による意思の表示については、夫も、妻も、取消しができました。
戦前、夫は、妻の代わりに、その意思を決定できました。その行為を代理できました。
これら、戦前の、妻についての「意思の制限」は、戦後憲法においては、なくなりました。ただ、同様の制限が、戦後民法において、「稼得力による家父長制」として、存続しているようです(考えの足あと/専業主婦の財産制度)。妻に、その「自由な意思」を保障する、そのための基盤となる、「稼得力」。その「稼得力」を、与えない。そのようなしくみを、戦後民法は、形成しているようです。
(3)被支配者の行動様式
そして、支配・被支配の構図から、被支配者は、次のような行動様式を、その身に備えることになるようです。
――自分からは決して何もしない。そして、支配者が、何かすることを、待つ。
――支配者が決めたことについて、自分が決めたことではないので、消極的に応じる。やる気を出さない。
――自分が表示した意思によって、成立した契約について、必ずは守らず、一方的に取消すことがある。
(4)女性たちのうち一部が稀にとる行動 無為・取消
このような、被支配者の行動様式は、先に4において私が触れた、女性の行動に、当てはまります。
――自分からは決して何もしない。
――自分から一方的に関係を取消す。
これらの行動については、日本社会という家父長制社会の、支配・被支配のしくみが、その原因となっているのかもしれません。
ここまで考えてみて、私は、上記のような女性たちの行動について、「一概に、そのひと個人の、人格の問題として、責めるべきことではない」との思いを、抱くようになりました。
(5)オレサマ男子たち・オッサンたちがとる行動 無為・取消
そして、個人的な体験からしますと、被支配者の行動様式は、「女性たちの一部が稀にとる行動」のみならず、「オレサマ男子たち・オッサンたちがとる行動」にも、同じように、当てはまります。
――俺は、もう、お前とは、関係を、解消する。
このように、オレサマ男子たち・オッサンたちが、相手に通告して、自分では何もしないでいて、相手が何かしてくることを、期待する。そのような構図について、私は、度々、目の当たりにしてきました。
彼らが、このような行動様式について、その身に備えることになった、その因果関係については、次のような経緯があるのかもしれません。
まず、夫/父が、妻/母の、その意思を、制限します。その制限によって、妻/母が、被支配者の行動様式を、その身に備えることになります。その妻/母に、夫/父は、子育てを、任せきりにします。その結果、妻/母から、子どもへ、被支配者の行動様式が、伝わることになります。
また、夫/父は、直接に、子どもの意思も、制限します。その結果、夫/父によっても、子どもが、被支配者の行動様式を、その身に備えることになります。
余談。私は、「押し付け憲法論」も、被支配者の行動様式からくる主張なのかもしれないと、考えています。
――支配者が決めたことについて、自分が決めたことではないので、消極的に応じる。やる気を出さない。
――自分が表示した意思によって、成立した契約について、必ずは守らず、一方的に取消すことがある。
このような行動様式は、日本国憲法の下での、為政者たちの行動にも、当てはまります。たとえば、集団的自衛権について、その行使を可能とする、解釈改憲。この解釈改憲は、憲法が定める平和主義について、積極的に守らず、一方的に取消す行動でしょう。
この場面でいう支配者は、「アメリカ」でしょう。「アメリカ」が、日本国憲法の草案を、起草したのでした。
これに対して、新しい憲法案では、「天皇」を、支配者とする内容になっています。
この新しい憲法案は、支配者について、「アメリカ」から「天皇」へ、変えるのみです。その意味では、日本の社会における、「支配の原理」の比重が、「契約の原理」に比べて重たい状況は、変わらないでしょう。
そのような状況が続くなかで、日本の為政者たちは、「被支配者の行動様式」から、脱却することが、できるでしょうか。
むしろ、憲法の改正にあたっては、単純な理想としては、「契約の原理」について、その比重を重たくしてゆく方向が、望ましいでしょう。そのような方向での改正は、「意思の自由」そしてそのための「個人の平等」を、更に推し進める内容の、改正であるはずです。
そのような方向での、憲法の改正にあたっては、フランスの憲法がとっている「共和政」(支配者のいない政治)が、参考になるかもしれません。
7 「契約の原理」からみた「被支配者の行動様式」
以上、「契約の原理」と、「支配の原理」とについて、それぞれ、個人的に、考えてきました。
これらの原理は、同じ社会のなかに、並存しています。従って、原理と原理との間に、行き違いが生じることが、あるでしょう。
具体的には、「被支配者の行動様式」を、「契約の原理」からみたとき、そこに、次のような行き違いが生じることが、あるでしょう。
――被支配者は、「何もしない」ことによって、または、「一方的に関係を取消す」ことによって、「支配者たりうる相手が何かしてくる」ことを、期待している。
――その被支配者の行動は、「契約の原理」によって行動しているひとからすると、「相手を信頼しないこと」つまりは「相手と契約しないこと」を示す行動であるので、その結果、お互いの関係を解消することになる。
このような行き違いが生じたあとに、「何もしなかったひと」「一方的に関係を取り消したひと」が、本来は関係の解消を望んでいなかったので、相手と再び関係を結ぼうとしてくることがあります。矛盾した行動。そのようなひとに対して、「契約の原理」から行動していたひとは、どのように関係を結んだらよいのか、分かりかねます。
こうした行き違いが生じないようにするためにも、なるべく、社会における、「支配の原理」については、その比重を軽くしていって、「契約の原理」についての、その比重を、重くしていった方が、いいでしょう。「意思の制限」よりも、「意思の自由」。そのように、個人的には、考えています。
8 男性が女性に対してするべきこと
「支配の原理」よりも、「契約の原理」。
この価値判断について、ふまえた上で、これからの時代において、男性が女性に対してするべきことを、私個人の考えとして、ここに挙げてみます。
――女性の「意思の自由」を保障すること。
――女性が「契約を守る」ことができるようにすること。具体的には、女性が「契約を守る」ための、その基盤となる、女性の稼得力を、支えること。
――女性を「信頼」すること。
このようにすることが、さしあたりは、いいのかもしれません。
9 弱さの探求
ただ、このようにすることは、男性が、女性を、「強い個人」の方へ、引っ張ってゆくことでもあります。「強い個人」は、現状、「強い男性」でもあります。我田引水。逆に、上野さんが本書において述べているように、女性が、男性を、「弱い人間」の方へ、引っ張ってゆく、動きがあって、もちろんいいでしょう。
「弱い人間」の探求。「弱さ」の探求。その探求は、「契約の原理」においては、どのような変革を、もたらしてゆくのでしょう。
そのことについての、個人的な直観について、ここに書き留めておきます。
「契約を守る」。そのような、契約の拘束の強さについて、欧米では、その強さを「貫徹」するよりも、「合意」によって、契約の内容について、柔軟に「変更」することで、実際の問題に対応しているのかもしれません。
合意による変更。合意による解除。それらによって、契約の拘束の強さについて、弱めること。そのことが、ひとつの方向性でしょう。とはいえ、この方法に関しては、ひとにとって、変更のための・解除のための「自分の意思が表示できる強さ」が、引き続き、必要になります。
もうひとつの方向性が、「契約について、一方的に解除できる事由を、増やすこと」。たとえば、結婚についてであれば、離婚事由を、より柔軟に、増やしていくこと。そのようなことが、もうひとつの方向性として、あっても、いいのかもしれません。
10 女性の世代
私は、先に、8において、「これからの時代において、男性が女性に対してするべきこと」を、個人的に挙げてみました。
「これからの時代」。そのような「時代」について、考えてみるとき、私には、女性たちが、大きく三つの世代に分かれているように、見えてきます。
第1世代 「意思の制限」を受け続けてきた女性たち
第2世代 「意思の制限」に反発して「意思の自由」を謳歌してきた女性たち
第3世代? 「自由な意思」による相手との「契約を守る」女性たち?
第1世代は、戦前憲法・戦前民法の影響が濃い状況のなかで、生まれ、育ってきた女性たちです。
第2世代は、第1世代の女性たちが、生んで、育ててきた女性たちです。たとえば、俵万智さんが、この世代でしょう。
「ハンバーガーショップの席を立ち上がるように男を捨ててしまおう」
この短歌は、まさに、「意思の自由」を、謳歌する内容です。
ただ、男性たちとしては、ハンバーガーショップの席を立ち上がるように捨てられては、やはり、困ります。そのように歌う俵さんは、シングルマザーになり、その後も、恋愛は重ねつつも、結婚には至っていませんようです。そのことは、もちろん、「自分自身で選んだこと」でもあるでしょう。そして、「相手から選ばれていないこと」でも、あるでしょう。
俵さんのような、第2世代の女性たちの、生き様について、参考にして、第3世代の女性たちは、「夫に服従する妻」(支配・被支配)ではなく、「夫との契約を守る妻」(平等)となってゆく。そうした流れが、ありうるかもしれません。
まあしかし、ここまで書いてきて、自分で読み返してみて、「第3世代?」に関する記述について、「私は、女性たちに、随分と勝手に期待しているなあ」との感想が、湧いてきました。
ひょっとすると、第2世代が、ずっと、続くのかもしれません。
第2世代である、俵さんの短歌からは、結婚していなくても、その人生についての、とっても素敵な充実を、個人的には感じます。
11 男の子はどう生きるか
ただ、そうは言っても、これからの時代を生きる、若い男性たちとしては、女性たちに対して、「夫に服従する妻」(支配・被支配)ではなく、「夫との契約を守る妻」(平等)として、接してゆくべきでしょう。
そのために、私が先に8において述べました「男性が女性に対してするべきこと」が、大事になってくるかもしれません。
ただ、そのようにするためには、若い男性にも、稼得力が必要になります。その「若い男性」の稼得力について、上野さんは、本書において、次のように述べています。
――妻が専業主婦でいることのできる、600万円以上の収入のある男性は、いま20代で、3.3%。30代で、17%。もはや、少数派。
いまの時代を生きる、若い男性には、自分にも、社会が稼得力を分け与えてこないなかで、その自分の「若い男性」としての逆境と、妻の「女性」としての逆境とを、両方とも挽回する努力が、必要になるようです。
そして、若い男性が、更なる稼得力(もっと広くいって生活力)を求めて、転職するとき、起業するときには、いったん、稼得力の低下が、生じます。そして、稼得力の低下が生じたときには、妻子の心が、離れてゆくのが、ひとの性(さが)というものです。そのようなときにも、決して暴力は振るわずに、自分たちの生活について、再建してゆく。そうした、日々の、地道な努力が、若い男性には、必要になるでしょう。
ここまで書いてきて、私は、作家・大江健三郎さんの小説である『個人的な体験』において、主人公である「鳥」に、母親役である「火見子」が、最後にかけた言葉を、思い出します。
「鳥、あなたはいろんなことを忍耐しなければならなくなるわ」
「さようなら、鳥!」
そのような、忍耐の日々、孤独な努力の日々の果てに、生活の再建ができたとき、若い男性は、もう、妻である女性との「人格が結合するような愛情」を、必要としなくなっているでしょう。つまりは、「個人として生きてゆくことのできる人間」になっているでしょう。そのことが、かえって、若い男性が、妻である女性との間に、あらためて、「お互いに自由な関係」を、つくってゆくために、役に立つでしょう。きっと。
以上が、私の、「家父長制と資本制」についての、現時点での、感想・考えです。
12 その他
以下、「家父長制と資本制」以外に関する、本書の記述について、個人的に関心を抱いたことを、拾い上げ、コメントしてゆきます。
(1)意欲の冷却
本書にも記述があるように、せっかく挑戦しようとしているひとに対して、最初から、その意欲を冷却することは、よくないことでしょう。
「意欲の冷却」。この問題に関して、私が、個人的に、判断に迷う場面は、次のような場面です。
「若者が、心身にこたえるような、非常な努力をしている場面」
若者は、過労死するような努力を、あえてすることがあります。その若者の努力を止めようとすることは、彼の・彼女の心身を慮ってのことではありますけれども、逆に、その制動には、「意欲の冷却」も、伴うことになります。
過労死するような努力を、そのまま、見守るか。それとも、「意欲の冷却」も、伴いつつも、制動するか。ここに葛藤が生じます。
このような葛藤についての、判断にあたっては、たとえば、次のような基準を、ひとつ、立てることができるでしょう。
――その企業が、その若者に求めている強さが、「強い個人」としての強さ(欧米)なのか。それとも、「日本軍人」としての強さ(日本)なのか。
後者であれば、その企業が、その若者に強いている努力は、「特攻」と同様の努力であるといえるでしょう。そのような場合には、その若者に対して、周囲の人間から、制動をかけることが、あっていいでしょう。その企業のために、その若者が、死ぬ必要は、ありません。
前者であれば、悩ましい葛藤が、存在し続けることになります。
この葛藤について、考えるとき、私は、心理学者・河合隼雄さんの、次の趣旨の言葉を、思い出します(『大人になることのむずかしさ』岩波現代文庫)。
――ひとが、成人するにあたっては、死を賭すような儀式が、必要になる。
前者の意味での、若者の、非常な努力は、その若者にとっての、「成人するための儀式」であるかもしれません。その成人儀式を、周囲の人々は、邪魔するべきでは、ないでしょう。
そして、その「非常な努力」という「成人儀式」の果てに、その若者が、次のことについて、得心できれば、もう、彼は・彼女は、それ以上に、非常な努力をする必要は、ないでしょう。
――自分は、働き過ぎ等、何らかの事件・事故によって、死ぬことがあるかもしれない。
――そのような、生きてゆくにあたっての「死の危険」を、自ら引き受ける。
――そして、自分が、どこまで努力すると、死にそうになるのか、その限界について、見極める。
この項目の最後に、「非常な努力をしている若者」へ、私からのメッセージを、書き留めておきます。
スタジオジブリ・宮崎駿さんの映画である『風立ちぬ』に、主人公・堀越二郎の先人として、カプローニさんという人物が、登場します。カプローニさんは、劇中で、次のように語っています。
――力を尽くして生きなさい。
このように、カプローニさんは、「生きなさい」と、語っています。
――力尽きて死になさい。
とは、カプローニさんは、語っていません。
「力を尽くして生きなさい」、「力尽きて死になさい」。この違いは、表現の上では、少しの違いですけれども、意味の上では、大きな違いです。
力を尽くして、「生きて」下さい。
(2)働き方の手作り
総合職、一般職、非正規雇用。それぞれの、働き方が、一長一短であること。そのことが、本書の記述から、あらためて、分かりました。
これらの働き方は、大企業が形成してきた、雇用慣行から、くるものです。
これに対して、私の事務所は、創業してから8年目の、ベンチャー企業のような、小さな事務所です。
そのような、私の事務所の状況からしますと、大企業が設計してきた、上記の「働き方の3類型」には、こだわらずに、また違う働き方を、手作りしてゆくことが、できるはずです。
働き方の、手作り。そのためには、次の作業が、必要になるでしょう。
ア 実際に働いて頂いている方々のニーズについて汲み上げること
イ ニーズのある働き方に類似した事例について学ぶこと
ウ 労働法の基本的なルールについて把握しておくこと
(3)市民政治
――地元の名士でなくても、お金がなくても、議員になることができるよう、選挙のしくみを、変えてゆこう。
――女性が、たくさん、議員になれば、その分、地方の、国の、政策も、変わってゆくだろう。
このような、女性も含めての「市民による政治」は、戦後の市民運動のなかで、ずっと、市民たちが目指してきたものでした。
その運動の歴史、成果、失敗について、個人的に、大変興味があります。
この興味について、私は、「考えの足あと/堀田善衛さんの足あと」においても、触れていました。しかし、その後、なかなか学習が進んでいません。
(4)情報社会
――いまの社会は、情報化社会。情報に、価値がある。
いまの社会が情報社会であることについては、ほぼ日刊イトイ新聞の創業者・経営者である、糸井重里さんも、指摘しています。
その糸井さんが、情報社会論として、主に参照している著作が、文化人類学者・梅棹忠夫さんの『情報の文明学』(中公文庫)であるそうです。「『情報の文明学』は、ほぼ日の母」。
情報社会とは? そもそも、情報とは? そのことについて、上野さん、糸井さん、梅棹さんの著作から、個人的に、学びたいです。
以上、この『女の子はどう生きるか』についてのテキスト批評は、私にとっての、長年の疑問について、整理するきっかけとなりました。また、この著作によって、私は、私の問題意識を、更新することもできました。好著でした。