【読書】井伏鱒二「山椒魚」『夜ふけと梅の花 山椒魚』講談社文芸文庫 ~内心の葛藤~

井伏鱒二「山椒魚」『夜ふけと梅の花 山椒魚』講談社文芸文庫 い-C-13 1997.11.10
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 作家・井伏鱒二さん。1898-1993。
 『山椒魚』は、その初期の作品。初出、1929年。原型である「幽閉」は、1919年に、試作。

――山椒魚は悲しんだ。
――彼は彼の棲家である岩屋から外へ出てみようとしたのであるが、頭が出口につかえて外に出ることができなかったのである。

 さて、コロナ下の2年間、外出を控えていた、私たちは?

第1 あらすじ

 山椒魚は、岩屋のなかで過ごした2年間に、その身体が大きくなり、外へ出ることができなくなっていた。
 それならばと、彼は岩屋のなかを、できるかぎり広く、泳ぎ回ろうとした。しかし、岩屋には、彼が前後左右に身じろぎできるくらいの広さしか、なかった。
「いよいよ出られないというならば、俺にも相当な考えがあるんだ」
 しかし、彼に何ひとつとしてうまい考えがある道理はなかったのである。

 岩屋のなかには、苔が群生していた。山椒魚は、自分の身体にも、苔が生えたような気がしていた。苔は、小さな、可憐な花を、咲かせていた。
 また、岩屋のなかには、カビも生えていた。カビは、小さな面積のなかにとどまり、浮かんだり、消えたりを、繰り返していた。
 山椒魚は、岩屋の出入口から、外を眺める。大きな谷川が、見える。谷川の水底からは、藻が、朗らかに発育して、水面に、花を開いていた。
 その藻の間に、メダカたちが、泳いでいた。メダカたちは、先頭の一匹が左によろめくと、皆が左によろめく。今度は、右に。一匹として、群れのなかからは、抜け出してゆかない。メダカたちは、群れていることしか、できないようだった。
「なんという不自由な奴らだろう!」
 山椒魚は、嘲笑した。

 ある夜、一匹の小さなエビが、岩屋のなかに、まぎれこんできた。エビは、その腹に、卵を抱いていた。そのエビが、ぴんぴんと飛び跳ねて、山椒魚の横腹に、すがりつく。彼女は、山椒魚のことを、岩石だと思って、卵を産み付けているらしい。彼は、いったんは、彼女を驚かさないように、身動きせずに、じっとしていた。彼女は、驚けば、逃げ出してゆくだろう。しかし、そのうちに、彼は、自分の鬱屈した状況に、やるせなくなってきた。
「くったくしたり、物思いにふけったりする奴は、莫迦だよ」
 彼は、今度こそは岩屋から脱出しようと、猛然と、出入口へ、突進する。彼の頭が、出入口に、めりこむ。彼は、やはり、出ることができなかった。そして、自分の頭を引き抜くために、再び、渾身の力を用いねばならなかった。
 一連の騒ぎに、岩屋の水面が、大きく波打つ。波が、エビを、翻弄する。エビの狼狽は、並大抵ではなかった。騒ぎが鎮まった後、エビは、失笑した。自分が、岩石だと思っていた相手が、思わぬ動揺を見せたことに…

 どうしても、岩屋から出ることができない、山椒魚。
「ああ神様! 私は今にも気が狂いそうです」
 岩屋の外の、谷川では、水すましたちが遊んでいた。大きな水すましが、小さな水すましをのせて、水面を、滑ってゆく。その下から、突然に、カエルが鼻を突きだしてくる。びっくりして逃げてゆく、水すましたち。カエルは、何食わぬ顔で、また水中へと潜ってゆく。
 小さな生き物たちが見せる、自由。うらやましい。もう、見ていたくない。山椒魚は、目を閉じる。すると、彼を、際限のない暗闇が、包み込んだ。
「ああ、寒いほど独りぼっちだ!」
 悲嘆にくれる、山椒魚。しかし、彼のことを助ける者は、なかった。

 そのうち、彼は、よくない性質を、帯びてきた。
 ある日、カエルが、岩屋のなかに、まぎれこんでくる。そのカエルを、山椒魚は、その頭でもって、岩屋の出入口をふさぐことで、閉じ込めた。そのカエルは、先に、谷川で遊んでいて、その自由を、山椒魚がうらやましがっていた、カエルだった。
「一生涯ここに閉じこめてやる!」
 カエルは、岩屋の出入口に近づこうにも、そうすると、山椒魚の餌食になる。
 山椒魚とカエルとの間に、激しい口論が、はじまった。
「俺は平気だ」
「出てこい!」
 口論は、いつ果てるともなく、続いた。
「お前は莫迦だ」
「お前は莫迦だ」

 それから、冬が過ぎ、初夏になった。
 冬眠から覚めた、山椒魚と、カエルとは、同じ口論を、繰り返した。
「お前は、ここから、出てゆくことが出来ないのだろう。出て行ってみろ」
「まずは、お前が、隠れていないで、出てこい」

 また、1年。
 今度の夏には、岩屋のなかに、沈黙が、訪れていた。山椒魚も、カエルも、黙り込んでいる。彼らは、お互いのため息が、相手に聞こえないように、息をひそめていた。

第2 作品背景

 作家・開高健さんは、『山椒魚』を発表した時期の井伏さんについて、次のように紹介しています(『人とこの世界』ちくま文庫)。

――初期から中期にかけて、不相応に永い不遇時代が、氏にあった。

 また、『夜ふけと梅の花 山椒魚』(講談社文芸文庫)に収録の年譜によると、井伏さんは、『山椒魚』の発表に至るまでに、次のような少年時代・青年時代を、送っています。
 14歳。中学校の校庭で、池に棲んでいた山椒魚に、カエルを与えていた。この頃、「漠然と、画家を志す」。
 19歳。画家としての先人へ、入門を申し込み、断られる。兄の勧めで、早稲田大学・高等予科へ、入学。
 20歳。旅先で出会った、美術学校の女学生に、初恋。失恋。
 21歳。早稲田大学・フランス文学科へ、入学。『幽閉』を、試作。作中で、山椒魚が、自分の横腹にすがりついてきたエビに、語りかける。「明日の朝まで、そこに、じっとしていてくれ。何だか寒いほど淋しいじゃないか」。
 23歳。日本美術学校へも、入学。早稲田大学の教授と、軋轢が生じて、休学。
 24歳。早稲田大学へ復学しようとするも、教授の反対にあい、退学。日本美術学校も、退学。
 25歳から、28歳。同人雑誌に、小説や評論を、寄稿。同一の出版社への、入社と退社を、3度まで、繰り返す。
 29歳。小説で、初めて、原稿料を得る。結婚。新居が建つ。
 31歳。『山椒魚』を、発表。

第3 中島コメント

1 内心の葛藤

(1)孤独こそ自由

 山椒魚は、孤独と不自由とを、同時に感じていました。このことに、私は、違和感を、持ちました。
 人間は、本来、孤独であればこそ、自由でもあるはずです。
 たとえば、詩人・茨木のり子さんは、夫を亡くしたことについて、次のように述べています(「はたちが敗戦」『茨木のり子集 言の葉1』ちくま文庫)。

――25年間を共にして、彼が癌で先年逝ったとき、戦後を共有した一番親しい同志を失った感が痛切にきて虎のように泣いた。
――そして皮肉にも、戦後あれほど論議されながら一向に腑に落ちなかった<自由>の意味が、やっと今、からだで解るようになった。なんということはない「寂寥だけが道づれ」の日々が自由ということだった。
――この自由をなんとか使いこなしてゆきたいと思っている。

 同様の趣旨のことを、憲法学者・樋口陽一さんも、述べています(『「日本国憲法」まっとうに議論するために』改訂新版 みすず書房)。

――自由な個人として生きることは、自由からくる淋しさに耐えながら、生きることでもある。

 それなのに、山椒魚は、孤独と同時に、不自由を、感じています。

(2)内心の葛藤

 孤独な山椒魚が、不自由を感じている。その不自由の、正体は、何なのでしょう。
 他者がいない状況において、ひとが、不自由を感じるとすれば、その原因は、自分自身に、あることになります。山椒魚の感じている、不自由の原因は、「内心の葛藤」にあるのかもしれません。
 このことに関連して、精神科医・大平健さんは、次の趣旨のことを、述べています(『やさしさの精神病理』岩波新書)。

――ひとが、何事かについて、思い悩んでいるときに、その悩みが何なのか、自分で、はっきりと、分かるとは、限らない。
――ひとには、「自分が、いま、何に悩んでいるのか」が、分からないことがある。
――そして、そのようなときに、ひとは、心の病になる。

 山椒魚は、次のように語っています。

「ああ神様! 私は今にも気が狂いそうです」

 「気が狂いそう」ということは、「心の病になりそう」ということです。
 劇中の山椒魚、ひいては、著者の井伏さんには、何らかの「内心の葛藤」が、あったのでしょう。

(3)初志――画家になりたかった

 山椒魚の、井伏さんの、「内心の葛藤」。その葛藤について、私は、上記・第2の「作品背景」から、次のように想像します。

――画家になりたい。
――しかし、自分の力量では、なることができない。
――強いて、なったとしても、生計を立てることが、できない。

 このような、思い屈した、井伏さんの「内心の葛藤」が、山椒魚の行き詰まりとなって、この作品に、表れているのかもしれません。
 そのように、この作品について、個人的に読んでみると、私には、岩屋の出入口が、絵を描くためのキャンバスにも、見えてきます。
――そのキャンバスの先には、のびのびとした自然が、広がっている。
――しかし、山椒魚の、井伏さんの絵筆では、それらを、描き取ることができない。
――まるで、キャンバスに、穴が開いているようだ。
 そのような、井伏さんの屈託を、私は、『山椒魚』の記述から、読み取ります。

(4)画家としての断念/作家としての出発

 山椒魚は、作中において、その不自由さと、孤独さから、出入口に頭を突っ込むなどして、「自暴自棄」になりました。また、カエルを、自分と同じように、岩屋に閉じ込めるなどして、「八つ当たり」もするようになりました。
 その果てに、山椒魚は、岩屋のなかで、ただ、じっと、うずくまるようになりました。この山椒魚の姿は、一見、座して死を待っているかのようにも、見えます。しかし、実は、この姿は、山椒魚が、「自暴自棄」も「八つ当たり」も止めて、自分の「内心の葛藤」を、見つめはじめたことの、表れなのかもしれません。
 そして、そのように至るまでの、山椒魚の煩悶について、書き上げることによって、井伏さんは、その「内心の葛藤」を『山椒魚』に封じ込めることができ、画家になることを断念して、作家として出発することができるようになったのかもしれません。

(5)子持ちのエビ――身重の妻

 なお、『山椒魚』に登場する、子持ちのエビは、きっと、井伏さんにとっての「身重の妻」の、イメージだったでしょう。
 その「身重の妻」について、井伏さんは、当初、「家父長としての自分が動揺すると、彼女は、逃げるだろう」と、思っていたようです。
「彼は、いったんは、彼女を驚かさないように、身動きせずに、じっとしていた」
 しかし、井伏さんの妻は、井伏さんが、定職に就かず、画家としても・作家としても、生計を立てることができないでいるうちにも、そのことを、失笑しつつも、受容していたようです。「身重の妻」を表す、「エビ」に関して、『山椒魚』のなかには、彼女が山椒魚の動揺に「失笑」したとの記述はありますけれども、「逃げ出した」との記述までは、ありません。
 生計を立てようと、苦労する、井伏さん。彼のことを、逃げ出さずに、「不器用な夫だなあ」と、失笑しつつ、受容する、妻。そのような妻がいたからこそ、井伏さんは、画家という初志を断念して、作家になることを、決意できたのかもしれません。

「ああ、寒いほど独りぼっちだ!」

 そのように嘆く、山椒魚に対して、私は、次のように、声をかけてみたくなります。

「山椒魚くん、君のそばを、よく見てごらん。そこには、エビがいるのでは?」

 付記。家父長制でした、当時の風潮からしますと、井伏さんの妻は、「受容するしかなかった」のかもしれません。

(6)鋭敏の短命/遅鈍の長命

 上記・第2の「作品背景」によりますと、井伏さんは、初恋が失恋に終わった、その翌年に、『山椒魚』の試作である『幽閉』を、著しています。『幽閉』ひいては『山椒魚』は、井伏さんにとっては、失恋の痛手を受け容れるために、書き始めた作品でもあったのかもしれません。
 失恋の痛手。そのことから、私は、芥川龍之介のことをも、思い出します。芥川にとっても、「本来、結婚したかった相手と、結婚できなかったこと」が、その後の人生に、ずっとついてまわるような、痛手になっていたようです(中村真一郎『芥川龍之介の世界』岩波現代文庫)。
 同じような「失恋の痛手」を抱えていた、芥川と、井伏さん。その芥川は、35歳で、自死しました。一方、井伏さんは、95歳まで、生き長らえました。この二人の結末の、対極さに、個人的に、興味が湧いてきます。
 芥川は、文壇への登場も早く、小さく完成した短編を、次々に発表する、「鋭敏」なひとでした。一方、井伏さんは、開高さんによる紹介のように、文壇への登場が遅く、その出世作である『山椒魚』においても、結論めいたことは何も書かないような、「遅鈍」なひとでした。
 これら、二人の、生き様について、眺めていますと、私には、ひとつの感想が、浮かんできます。
――鋭敏なひとよりも、遅鈍なひとの方が、「内心の葛藤」に、長く耐えることができるのかもしれない。
 そして、井伏さんは、その作家生活のなかで、後年、『黒い雨』を、著します。この『黒い雨』は、広島への原爆投下によって、被爆したひとびとの、その苦しみを、分かち合おうとする、作品でした。
 遅鈍なひとは、その分、他者の苦しみをも、分かち合うことが、できるのかもしれません。
 そのようなことからしますと、「遅鈍さ」は、必ずしも、「愚かさ」を、意味するとは、限らないようです。

 余談。
 芥川の自死に対して、生き長らえたひととしては、井伏さんの他に、堀辰雄がいます。井伏さんの『山椒魚』。堀辰雄の『風立ちぬ』。これらは、短編です。短編に、まずは、自分の「内心の葛藤」を、書き留めること。いきなり、長編には、しないこと。このようなことが、ひとにとって、自分の「内心の葛藤」に向き合うときに、大事なのかもしれません。

 また余談。
 山椒魚は、長生きで有名な生き物でもあります。井伏さんの、その出世作において、山椒魚が、登場したこと。そのことは、後の、井伏さんの長命を、暗示していたかのようです。

(7)文業における達成

 井伏さんが、作家になったこと。そのことは、井伏さん本人にとっては、不本意なことだったかもしれません。ただ、井伏さんの著した作品からは、多くの作家さんたちが、影響を受けてきたようです(下記2)。
 そして、そのような、井伏さんの、文業における達成の大きさからしますと、そもそも、井伏さんが画業で達成しようとしていたことは、どれほど、大きなことだったのでしょう。

2 結節点――日本文学のひとつの結び目

(1)方丈記

ア 川の流れ

 山椒魚は、岩屋の出入口から、谷川の流れを、眺めていました。この記述から、私は、『方丈記』を、思い出しました。

――ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
――よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつむすびて、久しくとどまりたるためしなし。
――世の中にある人と栖と、またかくのごとし。

イ メダカの群れ

 また、『山椒魚』において、メダカの群れが、先頭の一匹に従って、右往左往する様子は、『方丈記』において、平家による遷都に、付き従ってゆく貴族たちの様子と、相似しています。

――世に従へば、身、苦し。
――従はねば、狂せるに似たり。

 井伏さんは、大学を中退し、企業も退職した、「世にしたがはなかった」ひとでした。
 井伏さんにとって、メダカの群れは、「教授の、意のままに従う、学生たち」だったかもしれません。そして、「企業の、意のままに従う、勤め人たち」だったかもしれません。

 このようなことからしますと、井伏さんが、『山椒魚』を執筆するとき、そのイメージの原点の、ひとつとして、『方丈記』が、あったのかもしれません。

ウ 思考と行動――考えて動くリズム

 山麓の方丈から、ひとびとの暮らしを見つめる、鴨長明。その鴨長明のように、山椒魚は、谷川の流れを、見つめていました。そして、そのような自分に、山椒魚は、我慢がならなくなりました。
「くったくしたり、物思いにふけったりする奴は、莫迦だよ」
 そして、山椒魚は、無謀な突進を、試みました。
 このような、山椒魚の、ひいては、31歳の井伏さんの行動から、私は、「若い元気からくる行動主義」を、見て取ります。
 ひとは、行動しているのみでは、自分にとって、何が問題なのかが、分かりません。何が問題なのかが、分からないのですから、そのひとは、自分の目の前に、解決のための機会がめぐってきたとしても、その機会に、気が付くことができないかもしれません。
 一方で、ひとは、思考しているのみでは、自分にとって何が問題なのかは分かっても、その解決のための機会に、遭遇することが、できません。
――考えて、動く。そしてまた、考えて、動く。
 このようなリズムが、ひとの仕事と人生においては、大事なのでしょう。
 そして、鴨長明は、『方丈記』を書いた頃には、おおよそ、60歳になっていました。彼は、その頃には、物思いにふけるために、ふさわしいほどに、自分の人生を、生き切ってきていたのでしょう。このことについては、作家・堀田善衛さんの『方丈記私記』(ちくま文庫)に、詳細な記述があります。

(2)石井桃子さん・小川洋子さん――『ドリトル先生』シリーズ(岩波少年文庫)

「ああ、寒いほど独りぼっちだ!」

 このように、山椒魚が、言葉を話している、イメージ。
 このイメージは、後年、井伏さんが『ドリトル先生』のシリーズを、翻訳することに、つながっていったようです。ドリトル先生は、動物の言葉が分かる、お医者さんです。

 井伏さんに、『ドリトル先生』シリーズを、訳すように、依頼したひとは、児童文学作家・石井桃子さんでした(『ドリトル先生 アフリカゆき』岩波少年文庫・解説)。石井さんは、戦後日本における、児童文学の、第一人者でした。たとえば、石井さんは、岩波少年文庫で、『クマのプーさん』を、訳しています。

 そして、その『ドリトル先生』シリーズについては、作家・小川洋子さんが、次のように、語っています。
「私が小学生の時、学校の図書室で、一番の人気でした」(『みんなの図書室2』PHP文芸文庫)
 その小川さんも、動物たちが主人公である作品を、執筆しています。たとえば、『いつも彼らはどこかに』(新潮文庫)。その執筆にあたっての、原点の、ひとつとして、井伏さんの『ドリトル先生』シリーズが、あったのかもしれません。

(3)開高健さん――まなざし・戦争体験・釣り・船医

 作家・開高健さん。1930-1989。開高さんには、井伏さんからの影響が、顕著です。

ア まなざし

 開高さんは、井伏さんの作品について、次のように述べています(「歌を忘れた作家」『開高健の文学論』中公文庫)。

――たとえば井伏鱒二の『黒い雨』である。これを読むと、原爆の閃光直後、数知れぬ人がボロ布と化したが、ミノムシは平気で首をだして霧島ツツジの新芽を食べるのにふけっていたという一行がある。
――血と号泣の地獄変のありさまが淡々と、まためんめんとつづられるなかにさりげなくそういうことが書いてある。私は感嘆して、しばらく本をおいた。〝見る〟とはこのようなことをいうのではあるまいか。

 このことに関連して、開高さんは、『戦場の博物誌』(講談社文芸文庫)において、次の趣旨のことを、書き著しています。
――「政治」という観点からは、どんなに悲惨に見える状況であっても、動物たちの生、ひいては、動物としての人間たちの生は、続いていく。
 この開高さんのまなざしは、井伏さんのまなざしを、受け継いだものであったでしょう。

 自然の風物を、見つめる、まなざし。
 この井伏さんのまなざしは、きっと、井伏さんが画家を目指していた頃に、その身に備えたものであったでしょう。
 井伏さんの、画家になるための、修業。その修業の成果は、作家としての著作のなかにも、表れているようです。

イ 戦争体験

 井伏さんと、開高さんとの、年の差は、34歳。開高さんは、井伏さんのことを、父親のように、慕っていたようです。
 NHKの保存している、映像のなかで、開高さんは、井伏さんに、次のように、教えを乞うています。
「私は52歳ですが、井伏さんが52歳のときというと、戦後すぐですね。人生はどういうふうに見えたですか」
「そのころは楽しかった。戦争が終わって、コロッと変わっちゃったから。何もかもがひっくり返って」
「私には、それがない。初めから、どんでん返しから、始まった。52歳で、どうしたらいいんでしょうか。しばしば夜ふけに迷うんです」
「書けばいいんじゃないですか、枚数を」

 開高さんは、井伏さんたち、父親世代の体験した戦争について、自分も追体験しようとしたかのように、ベトナム戦争の、従軍記者として、その戦地へ、赴きました。

ウ 釣り

 そして、開高さんは、ベトナム戦争を体験した後、井伏さんと同じように、釣りをはじめました。
 戦争体験といい、釣りといい、開高さんは、自分の人生で、井伏さんの人生を、なぞろうとしたのかもしれません。

 なお、コピーライター・糸井重里さんも、ほぼ日刊イトイ新聞を創業する前に、釣りをはじめていました。

 思えば、釣りは、自然を相手にする、遊びです。
 狭い個人の問題についても、広い社会の問題についても、存分に味わった後で、ひとは、今度は、自然を相手にしたくなるのかもしれません。

エ 船医

 開高さんの、最後の作品である、『珠玉』。この作品には、高齢の医師、「先生」が、登場します。作中で、「先生」は、船医になり、船旅へ出ます。
 この「先生」の姿は、『ドリトル先生』シリーズの、『ドリトル先生航海記』における、ドリトル先生の姿にも、重なります。
 この「先生」の姿は、開高さんにとっての、「父親」の姿でも、ありました。その「父親」の姿に、井伏さんの訳した「ドリトル先生」の姿が、重なること。そのことから、私は、あらためて、開高さんにとって、井伏さんが、父親のような存在であったことを、感じます。

(4)大江健三郎さん・小川洋子さん――とじこもり

 作家・大江健三郎さんも、その講演において、開高さんと同じように、井伏さんのまなざしについて、敬意を表しています(「井伏さんの祈りとリアリズム」『あいまいな日本の私』岩波新書)。
 大江さんによりますと、井伏さんは、『黒い雨』において、原爆投下まもなく、川の中を、ウナギの稚魚たちが遡上してきている様子をも、書き留めているそうです。

 また、大江さんは、同じ講演において、高校生の頃から、井伏さんの作品に出てくる表現を用いて、ひとと話していた旨も、語っています。

 その大江さんは、『鳥』という、「とじこもる少年」の物語を、書いています。この「とじこもり」のイメージは、『山椒魚』のイメージにも、重なります。
 更に、その『鳥』について、小川洋子さんは、高校生だった頃に、教科書で読んで、強烈に印象に残った旨、ラジオで語っています。
 そして、小川さんの作品である『密やかな結晶』には、「鳥」という言葉が無くなるイメージや、主人公が、自分自身もがとじこめられている状況のなかで、「とじこもる」ひとを匿うイメージが、出てきます。
 「鳥」が、作中において、重要な役割を担う、設定。この設定は、大江さんの『鳥』からの影響を受けての、設定でしょう。
 そして、「とじこめられているひとが、とじこもるひとを、匿う」イメージ。このイメージは、山椒魚が、カエルをとじこめるイメージに、構図として、似通っています。

 井伏さんの『山椒魚』から、大江さんの『鳥』へ。大江さんの『鳥』から、小川さんの『密やかな結晶』へ。このような、イメージの継承を、私は、見て取ります。

 余談。大江さんの作品に出てくる、「鳥の声を聞き分けることができる少年」のイメージは、『ドリトル先生』シリーズではなく、スウェーデンの児童文学である『ニルスのふしぎな旅』に、その原点があるようです(同前)。

(5)太宰治――走れメロス

 太宰治は、井伏さんのことを、慕っていました。
 太宰治の『走れメロス』の書き出しが、『山椒魚』の書き出しに、似ていること。そのことを、小川洋子さんが、指摘しています(『みんなの図書室2』PHP文芸文庫)。

――山椒魚は悲しんだ。
――メロスは激怒した。

 ちなみに、井伏さんは、太宰に、石井桃子さんのことを、紹介したそうです(石井桃子『みがけば光る』河出文庫)。
――石井さんならば、太宰の、支えになってくれるかもしれない。
 そのように、井伏さんは、考えていたそうです。
 しかし、太宰と、石井さんとの縁は、深まりませんでした。
 石井さんが、太宰の自死に、巻き込まれずに済んだこと。そのことについて、私は、「よかった」と、思います。

(6)小括――日本文学のひとつの結び目

 いままで述べてきましたように、井伏さんの作品群は、『方丈記』などの古典を受け継いでいて、また、後進の作家さんたちにも「先行する作品」として受け継がれていっている、「日本文学のひとつの結び目」といっていい作品群であるようです。

 今も昔も、日本の作家さんたちは、日本語と、日本語で表したイメージとを、連綿と、お互いの紡ぐ「作品」という糸で、結び合わせ続けてきているのでしょう。

3 個人的な葛藤

 今回、『山椒魚』を読むことを通して、私自身の個人的な葛藤についても、ある程度、まとまりがついてきました。その葛藤について、いくつか、ここに、書き留めておきます。
 私の個人的な葛藤には、社会の観点から生じるもの、個人の観点から生じるもの、これらの2種類がありました。

(1)社会の観点1――地方への進出

 先に、私は、テキスト批評『人事管理入門』(日経文庫)において、社会的な意義のある仕事として、成年後見を挙げました。そして、実際に、豊島を中心に、成年後見業務を受任して来ました。その結果、都市が、子どもや高齢者を排除するような動きを示していることが、分かってきました。
――子育てのために、介護のために、地方へ進出する。
 そのことが、私にとっての、次なる方向性の、ひとつになりました。
 ただ、その結果、次の葛藤が生じることになりました。
――いま、都市において、受任している、または、これから受任する、おじいさんおばあさんたちのことは、どうする?
 単純な対応として、私には、「2拠点生活」が、すぐに思い浮かんできます。ただ、それは、「労力と時間の分散」を、意味します。労力と時間を、単純に分散すると、仕事の成果が、都市でも中途半端、地方でも中途半端、ということに、なりかねないでしょう。
 それならば、豊島から通うことができる距離に、別な拠点を設けては? たとえば、横浜。そのような考えも、私には、浮かんできます。しかし、それでは、「地方の都市」または「都市の周縁」に住むことになり、都市の問題から完全に免れることは、できないでしょう。

 また、そもそものところから、個人的に、考え直してみますと、私にとって、「地方」という言葉は、「都市化が、東京ほどには、進んでいない地域」というくらいの意味しか、いまのところ、含んでいません。消極的な定義。積極的な定義のためには、私にとって、「その地域で、どのような暮らしを、営んでゆきたいのか」が、問題になるでしょう。そして、それぞれの地域には、それまで、その地域の住民の方々が積み重ねてきた、毎日の暮らしがあるでしょう。自分の理想の暮らしと、他者の現実の暮らしとを、確かめて、すり合わせてゆく試み。その試みが、本当に地方へ進出したいのであれば、私にとって、必要になるでしょう。

(2)社会の観点2――「である」ことから「する」ことへ

 地方進出に関連する、もうひとつの葛藤も、ここに個人的に書き留めておきます。
 私は、いままで、「立教の校友であること」そして「豊島の住民であること」から、たくさんの仕事の依頼を頂いてきました。立教は豊島にありますので、これらの属性には、相乗効果もありました。
 ただ、「である」という属性による人間関係は、身分による人間関係にも、通じるものがあります。身分による人間関係は、言い換えれば、タテ社会の人間関係です。山椒魚とカエルのような、支配・被支配の、関係。ヨコ社会の人間関係を、目指している、私にとっては、そのタテ社会と同じ原理で動くわけにはいかない局面が、めぐってくることが、これまでの人間関係のなかで、度々、ありました。それが、私が、以前、抱えていた、葛藤のひとつでした。
 そして、コロナ下で、交流の機会も減少した、その結果。私にとって、いまも続く人間関係は、「立教」「豊島」という属性が、決定的な意味を持たない、「ヨコ社会」の人間関係であることが、明らかになってきました。「ヨコ社会」は、「する」社会でもあります。
 私は、いま、人間関係の原理について、「である」関係から「する」関係へと、比重をより重くしてゆくべき局面に、立っているようです。
 そして、「する」関係について、まず大事になる行為は、「自己紹介」です。「自分は立教の校友です」「自分は豊島の住民です」。これらのような一言で、自己紹介が済んでいるうちは、簡単でした。今度は、「自分は、こういう仕事をして、こういう人生を歩んでいる人間です」ということを、より明確に、相手に伝える必要が出てきました。それはそれで、面白い作業です。
 その作業は、将来、「立教」「豊島」が通用しにくい地方へ進出してゆくためにも、大事になってくるでしょう。

(3)個人の観点1――将来のための仲間づくり

 私が、成年後見業務を通して、おじいさんおばあさんたちの暮らしを拝見して、実感したこと。それは、「誰しも、人生において、年齢を重ねてゆくなかで、ひとの助けが必要な時期が、やってくる」ということでした。
 ひとの高齢期には、より詳しく観察すると、「健常期」「虚弱期」「終末期」があることが、分かってきています。虚弱期には、在宅介護が必要になったり、施設入居が必要になったりします。
 そして、高齢期に限らず、ひとは、中高年になると、体調を崩したり、病気を抱えたりすることが、ままあるようです。そのことも、私には、自分の具体的な将来像に結びついて、思い浮かぶようになってきました。
――いつまでも、自分は元気で、一人で仕事ができる。生活ができる。
 そういうわけでは、必ずしも、ないようです。むしろ、一人で頑張ってきたひとほど、体調を崩したり、病気を抱えたりする可能性が、高まるようです。
 そして、たとえ、そのひと自身は健康であり続けても、たとえば「両親の介護」によって、そのひとが十分には働くことができなくなることも、ありえます。
 そのような問題意識と、実際に仕事の依頼が増えてきたことから、私は、それまでの「一人で仕事をしてゆく」方向を修正して、「仲間と仕事をしてゆく」ことを、試みました。
 仲間として、私は、司法書士志望の若者を、選びました。その動機に関しては、上記の問題意識に加えて、次の問題意識もありました。
「子育てのための環境と同じように、若者が育つための環境もが、この社会においては、十分には整っていない」
 この問題意識は、私の、過去、司法書士事務所に勤務してきた、その実感から、くるものでもありました。
 その結果、私に、分かってきたこと。それは、「若者は、育つと、自立してゆく」ということでした。そして、それ自体は、喜ばしいことです。
 「将来のための仲間づくり」として、ひとを雇ったはずが、「若者は、育つと、自立してゆく」。これもまた、見方によっては、ひとつの葛藤です。しかし、個人的に、よくよく考えてみれば、私の内面においても、どこか、「終身雇用」の発想がこびりついていて、それが葛藤を生み出していたようです。

――ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
――よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつむすびて、久しくとどまりたるためしなし。
――世の中にある人と栖と、またかくのごとし。

 この『方丈記』の言葉は、「ひとを雇うこと」にも、当てはまるのでしょう。
――若者の自立を支援しながら。
――自分の将来のための仲間づくりもしてゆく。
 これらの、両立が、私にとって、これから目指すべき目標の、ひとつとなるようです。

 余談。上に述べた、私の心の動きから、類推しますと、「終身雇用制度」は、戦後日本の、大企業の経営者の「淋しさ」から、生まれた制度であったのかもしれません。
 そのような見方からしますと、「孤独でいる力」は、ひとにとって、やはり、大事な力となるでしょう。「孤独でいる力」は、「他者の人格に・人生に、必要以上には、干渉しないでいる力」でもあるでしょう。

(4)個人の観点2――大量生産/個別対応

 先に紹介した、テキスト批評『人事管理入門』において、私は、「自分が自分に求める人物像」の定立にあたって、司馬遼太郎さんの著作からの影響が大きかったことを、述べました。
 その司馬さんは、バブル期の、不動産業者の行状、金融機関の行状を、批判していました。「土地ころがし」。
 その司馬さんの批判を、参考にして、私は、独立開業以降、大手の不動産業者、大手の金融機関ではなく、たとえば、弁護士の先生方、税理士の先生方と、仕事を紹介し合う関係を、築いてきました。
 その結果、私の司法書士業務の業態は、傾向として、「基本案件の大量生産」ではなく「応用案件の個別対応」になりました。
 そして、「若者雇用」と「個別対応」との間に、葛藤が生じるようになりました。若者にとっての、基礎訓練の機会としては、「基本案件の大量生産」は、それはそれで意義があるのです。若者に対して、いきなり「応用案件の個別対応」を任せても、過度な負担を課すことになります。
――業態が、傾向として、「応用案件の個別対応」であるなかで、どのようにして、「若者の育ちを支えるか」。
 この葛藤も、これから私が取り組んでゆくべき葛藤の、ひとつです。

(5)小括――自分で自分をカウンセリングする

 以上、述べてきました葛藤の、いずれについても、私には、相当な考えがあります。

 ※ しかし、彼に何ひとつとしてうまい考えがある道理はなかったのである。

 このことに関連して、精神科医・大平健さんは、次の趣旨のことを、述べています(同前)。

――心の病を抱えているひとも、自分の抱えている葛藤を、捉えることができさえすれば、あとは、自分で、立ち直ってゆくことができるようになる。

 私も、この『山椒魚』についての、テキスト批評を通して、自分の抱えている葛藤を、相当な程度、明らかに捉えることができました。
 そして、葛藤が、複数、明らかになると、その優先順位をも、つけることができるようになってきます。上に述べた話でいえば、「社会の観点からの葛藤」よりも、「個人の観点からの葛藤」の方が、私にとっては、目前にある葛藤です。それら、目前にある葛藤から、取り組んでゆくべきでしょう。
 あとは、井伏さんの作家としての歩みを見習って、ゆっくりと、いままで述べてきました葛藤に、行動しながら、取り組んでゆきます。

 このように、『山椒魚』は、読んでいて、自分で自分をカウンセリングすることになるような、不思議な力のある、作品でした。
 思えば、悩めるひとにとって、必要な相手は、「答えを出してくれる相手」ではなく、「同じように悩んでくれる相手」なのかもしれません。

4 まとめ

 『山椒魚』をはじめとする、井伏鱒二さんの作品は、日本文学のなかの、他の様々な作品へとつながってゆく、イメージの原点の、そのひとつであるような、作品でした。

 また、『山椒魚』は、「自分が、いま、何に悩んでいるのか、まとまりがつかなくて困っている」ようなひとと、一緒に悩んでくれる、カウンセラーとしての役割をも担ってくれるような、作品でもありました。

 そして、ひとにとって、「自分の原点から、自分がどのように歩んできたか、振り返ること」は、「自分が次にどのように歩むべきか、見極めること」についての、きっかけになるようです。

 日本文学を楽しみたいひとに。また、悩めるひとに。
 『山椒魚』を、おすすめします。

5 追記 強い絆/深い絆

 臨床心理学者・河合隼雄さんの言葉。『Q&Aこころの子育て』(朝日文庫)から。

――絆には、「強い絆」と「深い絆」がある。
――「強い絆」は、相手を近くに縛り付けておく、絆。
――「深い絆」は、相手を自由にして、遠くへ行っても、つながっている、絆。

 「自由と孤独はふたつでセット」とは、また違う、考え方。自由であって、しかも、つながっている。示唆があります。

 思えば、井伏さんと開高さんの関係も、「深い絆」だったでしょう。二人は、お互いに、自由に作品を執筆しつつ、その文学の世界は、つながっていました。

 企業において、ひとを雇うことについても、「強い絆」(終身雇用)ではなく、何かしらの形で「深い絆」を結ぶことを、模索していってもいいのかもしれません。
 その方向性は、より具体的に書くと、こういうことになるかもしれません。「困ったときに、お互いに助け合うことができる仲間」を、「企業の内部に抱え込み続ける」のではなく、「企業の外部で自由に活動してもらい」、「その人数を、だんだんに増やしていく」。このようにする方が、ひとりひとりにかかる期待や負担も、だんだんに小さくなってゆくはずです。

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