【見聞】森鴎外記念館 コレクション展「鴎外の東京の住まい」

森鴎外記念館 コレクション展「鴎外の東京の住まい」
https://moriogai-kinenkan.jp/

 今日が、最終日。行ってきました。

第1 展示内容

1 常設展

 森鴎外。1862-1922。津和野藩の、典医の家に、生まれる。
 藩校では、『論語』を学んだ。家庭では、オランダ医学を学んだ。
 維新後に、父とともに、上京。医学生になり、軍医になった。
 鴎外は、医学の成績では、外国へ留学することができなかった。彼は、外国の論文を翻訳して発表するなど、語学の成績によって、ドイツに留学することができた。
 鴎外は、軍医であると同時に、作家でもあった。昼は、仕事。夜は、執筆。たとえば、彼は、デンマークの童話作家・アンデルセンの自伝である『即興詩人』を、仕事のかたわら、9年半かけて、中断もはさみつつ、完訳した。

――ちょっと舞台から降りて、静かに自分というものを考えて見たい、背後の何物かの面目を覗いてみたい(中略)この役が即ち生だとは考えられない。背後にある或る物が真の生ではあるまいかと思われる。

――余は石見人・森林太郎として死せんと欲す。

2 コレクション展 鴎外の東京の住まい

 鴎外は、都内各地を転々とした。小倉に単身赴任したこともあった。
 最初の妻とは、すぐに離婚した。その後、息子・於菟とともに、小さな家で暮らした。その家は、線路が近く、汽車が通ると、ガタガタと揺れた。於菟が、当時を振り返り、「あの家は、交通の便が悪くて、父は通勤に、私は通学に、難渋していました」。
 鴎外の旧居に、夏目漱石が住んだこともあった。その家は、いま、愛知県の博物館である「明治村」が、展示している。
 その後、鴎外は、30歳で、家を持った。敷地は、およそ、1000㎡。部屋のたくさんある、日本家屋。その家で、鴎外は、妻子、父母、祖母とともに、暮らした。

第2 中島コメント

1 鴎外の志向

 鴎外が、軍医でもあり、作家でもあったこと。そのことに、私は、以前から、興味を持ってきました。

――自分の、軍医という役割は、自分の人生ではない。
――その奥に、自分の、本当の人生がある。
――自分は、森林太郎として、個人として、死んでゆきたい。

 このような趣旨の、鴎外の文章から、私には、次のような感想が、浮かんできます。

――鴎外は、家業のために、医学を修めはした。
――しかし、彼自身は、医者には、特段なりたくはなかった。

 鴎外の志向は、医学ではなく、文学の方に、あったのかもしれません。医学ではなく語学で留学した、彼の経歴も、そのことを暗示しているようです。

 鴎外は、昼は、家業である医業に囚われつつも、夜に、文学を通して、そこに自分の人生を見出そうとしていたのかもしれません。

 鴎外は、自分が文学を志したことについて、自伝のような小説である、『青年』という作品を、書き残しているそうです。『青年』という作品、私も、読んでみたくなりました。

2 文語による翻訳

 鴎外の、文語による翻訳には、定評があります。
 たとえば、画家・安野光雅さんは、鴎外が文語で訳した『即興詩人』を、「私の青春の書です」と、述べています(『新装版 繪本 即興詩人』講談社)。
 その鴎外の、流麗な文語には、藩校で習った、『論語』をはじめとする、漢学の素養が、基礎として、あったのかもしれません。

3 昼の仕事 夜の執筆

 鴎外が、夜に、執筆に励んでいたこと。そのことは、私の仕事にとっても、参考になります。
 夜、事務所にて、ひとりで仕事をしていると、どうしても、インターネット・サーフィンの誘惑が、ついてまわってきます。可愛いらしいハムスターの動画などを、観てしまったりします。インターネットにつながっているパソコンは、新井紀子さんのいう、「使用者の気が散るようにできている機器」なのです。
 一方、私は、自宅には、インターネット回線を引いておらず、インターネットを遮断しています。
 私も、鴎外を見習って、夜は、自宅で、時間のかかる仕事に、じっくりと取り組んでも、いいのかもしれません。
 このような考えから派生して、私は、頃合いを見て、いまのワンルームから、複数の部屋――書斎・寝室・ダイニングキッチンのある家に、引っ越したくなってきました。

4 日本家屋とアパート

 私は、鴎外の、小倉の旧居を、訪ねたことがあります。
 その家は、日本家屋。畳敷きで、縁側がありました。
 その家から、私は、父方の祖父の家を、思い出しました。祖父の家も、鴎外の小倉旧居と同様の、日本家屋でした。居間と客間とが、ありました。縁側も、ありました。
 それらの日本家屋と、私のいま住んでいるアパート(ワンルームマンション)とを比べると、それぞれ、「開通」と「遮断」という特徴があるようです。
 更に、アパートには、二重の意味での遮断があるようです。「外界との遮断」。そして、「内界での遮断」。
 「外界との遮断」。祖父の家は、縁側を通して、外界に開通していました。いつのまにか、客間に、野良猫が上がりこんで、くつろいだりしていました。
 同じような現象を、歌人・俵万智さんが、石垣島での暮らしのなかで、体験して、歌にしています(『オレがマリオ』文春文庫)。

子どもらはふいに現れくつろいで「おばちゃんカルピスちょうだい」と言う

 野良猫はともかく、子どもらが不意に現れて、くつろぐ暮らしは、いい暮らしでしょう。
 「内界での遮断」。日本家屋においては、部屋と部屋とが、複数の面において、それぞれ、ふすま1枚をもって、つながっていることがあります。行き来ができます。また、ふすまを外して、ひとつの部屋にすることができます。一方、アパートでは、なかなか、そのようには、ゆきません。アパートの部屋々々は、壁で遮断してあり、その壁には、ドアがはめ込んであります。ドアには、ふすまのような、全面の、取り外しの可能性は、ありません。
 アパートに住んでいる、私たちは、日本家屋に比べて、密閉性が高く、ストレスのかかりやすい環境で、暮らしているのかもしれません。

5 日本家屋からアパートへの移り変わり

 東京という都市において、日本家屋が、アパートやマンションに移り変わっていったのは、どのような経緯からだったのでしょう。
 人口増加はもちろん、関東大震災や東京大空襲も、関係していそうです。
 それらの、災害の歴史から、私は、東日本大震災による大津波のことも、連想します。
 映画監督・中川龍太郎さんによる映画である『やがて海へと届く』は、津波の後に、海岸線にできた、巨大な防潮堤を、画面いっぱいに、映し出していました。その大きさは、個人的に、眉をひそめるような、圧倒的な大きさでした。
 災害に備えるための、「強靭化」。
 そのような強靭化が、関東大震災や、東京大空襲を経て、東京という都市にも、起こってきたのかもしれません。そして、そのことに気が付かずに、私たちは、圧倒的に強靭なコンクリートの壁のなかで、暮らしているのかもしれません。

 余談。ここまで書いてきて、私は、作家・小川洋子さんの『密やかな結晶』(講談社文庫)のことを、思い起こしました。その作品は、「密閉」が、ひとつの大きなテーマでした。上に述べたような、空間としての、「密閉」。そして、核家族という、制度としての、「密閉」。それら、戦後の日本に起こってきた、複数の「密閉」が、小説作品として、結晶したもの。それが、『密やかな結晶』だったのかもしれません。

6 まとめ

 小さな記念館でした。それでも、得るもののある、素敵な展示でした。

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