【考えの足あと】「マッチ売りの少女」 ~言葉と感情の関係~

 寒波が来た日に。

 デンマークの童話作家・アンデルセン。
 彼の自伝である『即興詩人』を、森鴎外が、訳していました。
 そのことについて、知ったことを、きっかけとして、私は、彼の書いた童話を、いくつか、読みなおしてみました。

 岩波少年文庫版の解説において、訳者である大畑末吉さんが、「マッチ売りの少女」について、次のように書いています。
 「マッチ売りの少女」は、凍えるような冬の日に、マッチが売れなくて、寒さに震える、貧しい少女の物語です。

――自伝の中でアンデルセンは母からきいた話をこう伝えています。
――「母は小さい時、両親から物もらいに家を出された。母はそれがどうしてもできないで、一日じゅうオーデンセ川の橋の下にすわって泣いていたという。子ども心にその時のありさまを思いうかべて私は涙を流した。」
――「マッチ売りの少女」の話が、すぐ思い合わせられるではありませんか。

 私は、本来は幸福な物語であるはずの童話のなかで、マッチ売りの少女が、暖かい幻を見た後に、死んでしまうことを、不思議に思っていました。
 「マッチ売りの少女」は、アンデルセンが、亡くなった母のことを、悼むための物語だったのですね。
 アンデルセンが、この物語に込めた思い。その思いに触れてみると、この物語が、いまも語り継がれている、そのわけが、私にも分かるような気がしてきました。

 思いのこもった物語。思いのこもった言葉。それらのことについて、このところ、私が考えてきたことも、合わせて、ここに書き留めておきます。

 言語学者・岡ノ谷一夫さんが、『言葉の誕生を科学する』(河出文庫)において、次の趣旨のことを述べています。

――言葉は、感情をのせない道具である。

 本当に、そうなのでしょうか。そのことが、私には、ずっと気になっていました。
 たとえば、本を読んで、涙を流すひとがいます。そのことからしますと、言葉にも、感情がのることが、やはり、あるのでしょう。

 考えるヒントとして、解剖学者・養老孟司さんが、次のように書いています(『かけがえのないもの』新潮文庫)。

――ひとは、文字から、意味を読み取るのみならず、音声をも、再生できる。

 そういえば、「表意文字」・「表音文字」という、単語もあります。文字には、意味のみならず、音声もが、こもっているのでしょう。

 更に、発生学者・三木成夫さんが、次のことを、指摘しています(『いのちの波』平凡社)。

――感情は、内臓の、反応である。

 著者の肉声が、文字を通して、読者の肉体で、再生する。
 そして、著者の感情が、文字を通して、読者の感情になる。
 そのようなことが、きっと、あるのでしょう。
 また、そのような文章のことを、ひとは、「胸に響く文章」と、呼ぶのでしょう。

 このことに関連して、作家・開高健さんは、そのテキスト批評において、次のように述べています(「加藤周一と堀田善衛の紀行文」『開高健の文学論』中公文庫)。

――加藤周一さんの文章には、肉体がない。図鑑の解説のようだ。
――堀田善衛さんの文章には、肉体がある。堀田さんの思いが、あまりに伝わってくるので、受け止めかねることがある。

 加藤さんの文章に、本当に肉体がないのかは、さておき。
 開高さんの書いている「文章に肉体がある」ということの意味が、私には、いままで、よく分かっていませんでした。
 上に書いたように、理解することで、私にも、開高さんの書いていることの意味が、ようやく分かってきました。いや、分かったような気がしてきました。

 さて、そのように理解した上で、言葉には、どこまで、感情をこめるべきなのでしょう。

――感情を、理性によって、昇華して、言葉で、表現すること。

 そのようにすることが、望ましいのかもしれません。
 アンデルセンは、母を喪った悲しみについて、あけすけに語って訴えるのではなく、「マッチ売りの少女」という物語にまで、昇華していました。このアンデルセンの行動は、「感情を、理性によって、昇華して、言葉で、表現すること」の、好例でしょう。

 アンデルセンが、「マッチ売りの少女」にこめた、思い。
 その思いに触れたことから、個人的に、考えを起こして、「言葉と感情の関係」について、考えをまとめることができました。
 不意に、考えがまとまったままに、ここに個人的に書き留めておきます。

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