【考えの足あと】個人主義・その先 ~大江健三郎さん追悼~

(大江健三郎 ことばが照らす先)日本と日本人という自分、思索と行動と 樋口陽一さん
https://www.asahi.com/articles/DA3S15593890.html

 今日の、朝日新聞・朝刊。
 憲法学者・樋口陽一さんが、作家・大江健三郎さんの逝去について、追悼文を、寄せていました。
 樋口さんと大江さんは、「戦後憲法」「戦後民主主義」のため、市民集会に、ともに参加してきた間柄でした。樋口さん・大江さんたちは、戦後日本において、市民運動を、いまに至るまで、根強く続けてきたひとたちでした。

――私なりの見方では、大江さんは、憲法13条が掲げる「個人の尊厳」を思想的基盤としていたように思います。「すべて国民は、個人として尊重される」。そうした個人主義はときに、集団の意思決定の仕組みである民主主義とぶつかることもあります。個人と民主主義の両方にこだわった、そのことに大江さんの活動の意義があります。

 「個人の尊厳」。その尊厳への、樋口さん・大江さんたちの世代による、尽力。その尽力によって、戦後日本社会にも、まだまだ課題はあるにせよ、個人主義が、少しずつ、根付いてきました。
 そのように、個人主義が根付いてきた、その先に、あらためて「依存」の問題が、立ち現れてきたように、私は見受けます。
 樋口さんは、「自立した個人」について、次のように述べています(『「日本国憲法」まっとうに議論するために』〔改訂新版〕みすず書房)。

――自由な個人として生きることは、自由からくる淋しさに耐えながら、生きることでもある。

 しかし、樋口さんのように、淋しさに耐えて生きてゆくことのできるひとは、そう多くはないのかもしれません。
 たとえば、アルコール依存は、現代社会において、いまも問題であり続けています。インターネット依存という問題も、新たに立ち現れてきています。
 これらの問題に関連して、精神科医・松本俊彦さんは、次のように述べています(『誰がために医師はいる』みすず書房)。

――アルコール依存等の、依存症。
――それらの依存症について、「アルコール等に依存すること」は、あくまで表面における問題。
――本当の問題は、「そのひとにとって、適切に依存できる対象が、ないこと」にある。

 戦後日本社会は、「個人主義社会」に、少しずつ、なってきたことと、並行して、「大量消費社会」にも、なってきました。その「大量消費」も、表面における問題であって、本当の問題は、「自立した個人」であるとの建前によって生きている、大衆にとっての、その「依存したい欲求」の、対象がないことに、あるのかもしれません。
 また、ソーシャル・ネットワーキング・サービスの流行も、「個人主義社会」に対しての、反動とも、見て取ることができるのかもしれません。それにしても、具体的に想像してみますと、ひとつの記事に、たとえば1万人分の「いいね!」が付くことは、投稿者の立場になってみると、恐ろしいことかもしれません。その投稿者は、その大衆の、ひとりひとりに向き合うように、対応できるでしょうか。

 「自立した個人」に、「適切に依存できる対象がない」との問題が、立ち現れてきたとき、その「自立した個人」は、どのように対応するべきでしょう。「自分自身に依存する」ということが、ひとつの回答かもしれません。ひとが、「自分自身に依存する」ためには、具体的には、自分の心身について、次のようなことをすることになるでしょう。

・ 自分の内心について、自分で探求してゆく。
・ 自分の、身体の回復のための、生活の習慣を、自分で形成してゆく。

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