【見聞】豊島大博覧会 ~いま私が立っている場所と時代~

豊島区立郷土資料館 豊島大博覧会
https://www.city.toshima.lg.jp/toshimanow/new/2212071019.html

 豊島区制90週年を記念しての、展覧会。
 私が暮らし、働いている、豊島区には、どのような歴史があるのでしょう。そのことに、個人的に興味があって、行ってみました。

第1 内容要約

1 原風景――郊外の農村

 もともと、豊島は、「郊外の農村」だった。
 明治時代、都心から、鉄道が延伸してきて、目白駅ができた。
 その目白駅を中心として、農村や、牧場が、広がっていった。
 目白駅から、都心への距離は、程よかった。野菜や牛乳を、傷まずに・腐らずに、運ぶことができた。
 なお、当時のひとびとは、牛乳を、貴重な、滋養のある、「薬」として、飲んでいた。

2 文教の地――学習院・立教

 緑ゆたかな農村。その頃の、池袋の様子について、歌人・若山牧水が、歌にしている。

  麦ばたの垂り穂のうへにかげ見えて電車過ぎゆく池袋村

 そのような、豊島の土地柄を好んで、学校が移転してくるようになった。
 まず、学習院が移転してきた。その後に、立教も、移転してきた。
 こうして、豊島は、だんだん、「文教の地」となっていった。

 児童文学作家・鈴木三重吉は、目白に住んで、雑誌『赤い鳥』を、創刊した。
 女性評論家・平塚らいてうたちも、雑誌『青鞜』を発行するための事務所を、巣鴨に構えた。
 プロレタリア文学作家・佐多稲子も、巣鴨で暮らした。その頃のことが、『私の東京地図』(講談社文芸文庫)に、書いてある。

 「アトリエ村」も、形成。画家たちが、緑のなかの、一軒家で、静かに、創作に、耽った。

3 住宅地の形成のきっかけ――関東大震災

 「文教の地」から、「住宅地」へ。
 そのように、豊島が変わるきっかけになった出来事が、「関東大震災」だった。
 震災によって、都心の住宅が、壊滅。住み家を失ったひとびとが、都心から、円を広げるように、近郊へと、移住していった。その移住先のひとつが、豊島だった。
 このようにして、豊島は、「緑ゆたかな農村」から「文教の地」へ、そして「文教の地」から「住宅地」へと、移り変わっていった。

4 城北大空襲――「ヤミ市」から「百貨店」へ

 その「住宅地」も、城北大空襲によって、焼け野原になった。
 広がった、焼け野原。そのなかに、ぽつりと佇んでいた、池袋駅。その池袋駅を中心として、周辺の住民たちが有する購買力を目当てに、「ヤミ市」が立っていった。
 「ヤミ市」の盛況は、戦後、数年間、続いた。
 そのうち、日本の経済が、徐々に回復してきた。経済の回復に伴い、政府による統制も、あらためて、及んでくるようになった。政府からの統制が及ぶようになると、「ヤミ市」は、衰退してゆくことになった。
 「ヤミ市」は衰退しても、その「ヤミ市」の基盤となっていた、周辺の住民たちの購買力は、大きいままだった。
 その購買力を目当てに、池袋駅の周辺へ、「百貨店」が、進出することになった。
 「ヤミ市」を形成していた、雑多に密集する、プレハブやら、平屋やら。それらを見下ろすように、鉄筋コンクリートでできた、百貨店のビルが、建っていった。
 西武、東武。当初は、東横もあった。東横のビルを、東武が買収して、いまの東武百貨店が完成した。

 このようにして、豊島は、戦争を境にして、「住宅地」から、都内でも有数の「消費地」へと、変貌していったのだった。

5 「消費地」「娯楽地」「交通の要衝」――繁栄の象徴としての「サンシャイン60」

 豊島が、都内でも有数の「消費地」へ、変貌していったこと。
 そのことに伴って、「消費地」の前段階である「住宅地」の、住民たちの生活を支えていた、「銭湯」が、消えていった。

 「消費地」は、「娯楽地」でもあった。
 池袋には、名画座である「人世座」や「文芸座」が、開館した。

 また、豊島は、特に池袋は、国鉄、西武鉄道、東武鉄道が、集中して乗り入れる、「交通の要衝」にも、なっていった。
 鉄道のみならず、自動車の交通量も増えて、路面電車は、いったん登場したあと、消えていった。

 「消費地」「娯楽地」「交通の要衝」。
 これらの特徴のあった豊島は、戦後日本の高度成長とともに、繁栄してきた。
 その繁栄の象徴が、高層ビル「サンシャイン60」だった。
 「サンシャイン60」は、竣工時には、日本一の高さを誇っていた。

6 これからの豊島――豊島区による青写真

 豊島区においては、いまも、再開発が、進んでいる。

 まずは、豊島区役所の庁舎が、新しくなった。
 次に、Hareza池袋が、完成した。劇場や映画館等の入っている、複合施設。
 区内の、東西南北、4か所にある公園も、あらためて整備した。それらの公園を、バスが循環するようにした。

 これからは、池袋駅、その周辺の再開発を、進めてゆく。
 池袋駅の東西を、デッキでつなぐ。
 東西の駅前も、再開発する。東口の周辺は、車道を無くして、歩くことのできる空間を、広げる。西口には、高層ビルを建てる。

 再開発にあたっての、基本となるモデルは、豊島区役所。
 豊島区役所の、新庁舎への建て替えにあたっては、下層を庁舎、上層をタワーマンションとした。そのタワーマンションを分譲することによって、建て替え費用について、採算が合うようになった。
 なお、建て替えにあたり、そのデザインには、建築家・隈研吾氏が、あたった。

第2 中島コメント

1 流通の今昔――燃料の大量消費

 豊島が、もとは、農村だったこと。そのことを、私は、はじめて、知りました。
 かつては、野菜や牛乳について、鉄道で輸送するにあたって、豊島が、適切な距離にあったのですね。
 いまでは、東京都内にあるスーパーには、北海道産の牛乳はもちろん、オーストラリア産の牛肉までもが、並んでいたりします。
 これらの現象には、次の要因が、あるのでしょう。

――鮮度について維持しながら輸送する技術の向上。
――輸送手段の充実。

 特に、後者に関して、日本において、戦前から戦後にかけて起こってきた変化に、「自動車の普及」ということが、あるでしょう。そのことを、経営者・小倉昌男さんが、指摘していました(『経営学』日経BP社)。
 鉄道では立ち入ることができない、まちの隅々へまで、自動車が、物資を届ける。そのような状況が成立していることが、豊島ひいては東京という、大量消費都市が成立する、基盤となっているのでしょう。
 そして、「自動車が普及している」という状況は、「自動車が燃料を大量に消費している」という状況でもあります。
 このことに関連して、先の投稿において、私は、現代の都市が、電力を大量に消費していることに、触れました(【見聞】「サンシャイン60展望台 てんぼうパーク」)。現代の都市は、燃料をも、大量に消費することによって、はじめて、成立しているようです。

2 乏しい平等の時代――その具体的な諸段階

 日本における、現代の都市が、電力や燃料を、大量に消費していること。そのことによって、遠隔地から、場合によっては外国から、食料の輸送を受けていること。それらのことから、私にとっては、これも先の投稿(同前)において触れた「乏しい平等の時代」が、どのようなかたちでやってくるのか、その想像が、もう少し具体的になってくる気がします。

(1)インフレの昂進
(2)外国から食料・燃料その他の物資が購入しにくくなる
(3)国内において食料・燃料その他の物資の欠乏が起こる
(4)国内において物資の生産があらためて始まる
(5)国内における物資の生産と需要とが均衡したときにいったん経済が安定する

 たとえば、次のような現象は、日本において、既に起こってきています。
「建築のための資材が欠乏して、家を建てようにも、そのための資材がなく、施工が遅れる」
 このような現象からすれば、建築のための資材を、国内で生産しようとする動きが、自ずから、起こってくるかもしれません。

 建築のための資材の、欠乏と、その国内での生産。そのような例を、典型例として、日本は、上記の具体的な諸段階を、ある程度、長い年月のなかで、歩んでゆくことになるでしょう。
 そして、問題は、これらの諸段階のうち、「物資の欠乏」(3)が、どのくらいの強弱・緩急において起こるか、ということにあるでしょう。
 その強さと急さとは、「インフレの昂進」(1)が、どのような強さで・急さで進むかということからも、影響を受けます。その「インフレの昂進」について、「異次元の金融緩和」には、その強さと急さとを、増加する効果があったでしょう。

 付記。今年のはじめに、私は、「この時代について、見定める」ことを、目標に立てました(【考えの足あと】「2023年・展望」)。その見定めが、少しずつ、自分なりにできてきた気がします。「乏しい平等の時代」。「その具体的な諸段階」。そして、そのような見定めができてくるにつれて、自分の腰もが据わってくるような気も、してきています。

3 文化が生まれるところ

 戦前の、緑ゆたかな農村であった豊島。その土地柄が、文化が生まれる、土壌となっていたようです。

 思えば、次のことが、なぜなのか、私には、気になっていました。

――漫画家・松本零士さんが、北九州の小倉から上京してきた先で、豊島にあった「トキワ荘」で、暮らすことになったこと。

 「トキワ荘」は、戦前の豊島にあった「アトリエ村」の、その流れを汲む、芸術家のための住まいであったのかもしれません。

 ひとが、何かしらの表現をするためには、つまりは、文化を生むためには、緑のゆたかな、しずかな環境が、必要になるようです。
 いまとなっては、その環境は、豊島からは更に遠く、たとえば、宮崎駿さんがアトリエを置いている、小金井にあるようです。
 そういえば、アニメーターとして、宮崎駿さんの流れを汲む、庵野秀明さんも、鎌倉に住んでいるそうです(安野モヨコ『監督不行届』祥伝社)。鎌倉も、緑の豊かな土地です。

4 文化の定義

 ここで、庵野秀明さんが、このところ制作してきている『シン・ゴジラ』等の映画について、私なりに気付いた点を、書き留めておきます。
 各作品の題名にある『シン』には、次のような含意があるのでしょう。

  古今和歌集
   ⇒ 新古今和歌集
  ゴジラ
   ⇒ シン・ゴジラ
  ウルトラマン
   ⇒ シン・ウルトラマン
  仮面ライダー
   ⇒ シン・仮面ライダー

 このように、庵野さんは、藤原定家が『古今和歌集』をもとにして『新古今和歌集』を編んだことになぞらえて、『シン・ゴジラ』等の作品を、制作してきているのでしょう。これもまたひとつの、文化についての、継承のかたちなのでしょう。
 そして、個人的には、より好もしい「継承のかたち」が、また別にあるような気がします。
 たとえば、作家・小川洋子さんの小説である『最果てアーケード』(講談社文庫)においては、それとは気付かないようなかたちで、『源氏物語』を、取り込んでありました。
 また、映画監督・新海誠さんの作品である『すずめの戸締まり』について、私は、最近になってはじめて、次のことに、気が付きました。

――ヒロインである鈴芽が閉じてゆく、「戸」。
――その「戸」のイメージは、『ドラえもん』の「どこでもドア」のイメージに、重なる。
――『すずめの戸締まり』の「戸」も、『ドラえもん』の「どこでもドア」も、ともに、「異界」に、つながっている。

 ここまで考えてくると、「文化」という曖昧な言葉について、私なりの定義ができるような気がします。

――年長の世代が、「後世へ伝えたい」と思う、表現。
――年少の世代も、「継承したい」と思う、表現。
――継承したはずのなのに、独自のものになっている、表現。

5 災害がもたらすこと

(1)人口の分布の変動

 関東大震災。城北大空襲。これらの災害によって、豊島においては、人口の変動が、起こりました。その人口の変動によって、新たな市場が生まれました。
 災害は、被災者ひとりひとりの人生に、取り返しのつかない影響をもたらすことはもちろん、人口の分布に変動を起こすことによって、市場にも変動をもたらすようです。

(2)住宅地の名残り――豊島と後見

 私が、後見人に就任している、豊島のおじいさん・おばあさんたちは、おそらく、「豊島がまだ住宅地だった頃に住みついた方々」(またはそのお子さん方)なのでしょう。
 そうした方々が、長い歳月をかけて、高齢になり、そのうち一部の方が、「成年後見人が必要である方」に、なってきているのでしょう。つまりは、後見についての需要が生まれて、その市場もが、生まれてきているのでしょう。
 市場は、一時の流行で、急速にできあがることもあれば、長い歳月をかけて、できあがることも、またあるのでしょう。後者について、私は、「化石が燃料になってゆく」というイメージを、重ねて、思い浮かべます。

(3)後見人と再開発

 また、再開発が次々と進む、豊島においては、後見人が、再開発の対象となっている土地の、その所有者について、就任することも、ままあります。
 というのは、こういうことです。
 豊島において、再開発の対象となっている土地には、「豊島がまだ住宅地だった頃に建った建物」(またはその次の世代の建てた建物)が、そのまま残っていることが、ままあります。そのような建物が密集して、「木造住宅密集地域」を形成していることがあります。その地域の、路地は、消防車が入ってゆくことができないくらい狭く、火災が発生したときには、その火が、大きく燃え広がる可能性があるのです。ですので、そのような地域は、自治体による、再開発の対象と、なりやすいのです。
 このような状況において、後見人が、土地の所有者について、後見人に就任した場合。その場合には、後見人は、所有者の代理人として、たとえば、介護施設への入居費用を捻出するために、土地を、売り渡したり・償金に変換したりする、その手続に、対応してゆくことになります。なお、土地は、「償金」ではなく、新しく建つ、「分譲タワーマンションの部屋」に、変換できることもあります。しかし、そのような部屋は、高齢の方々が暮らすには、広すぎるようです。
 このように、後見人は、高齢である方々の、個人的な生活に、寄り添うことはもちろん、「再開発」ひいては「まちづくり」にも、関わることがあるのです。

 なお、再開発は、所有者にとっては生活資金が手に入り、自治体にとっては「まちづくり」が進み、双方にとって良いことである印象も、一見、あります。
 ただ、再開発は、所有者である高齢者にとっては、「住み慣れた環境が失われる」という、いわゆる「根こぎ」にあたるような出来事でもあります。よりいっそう、視点を引いて、「まち」という観点からすれば、「コミュニティの消失」ともいえます。
 このようなことからしますと、「採算が合うこと」と、「気持ちよく暮らすこと」は、やはり、別なことであるようです。

6 百貨店――戦後の消費の変遷

(1)堅固な建物に

 戦後、豊島に、「ヤミ市」ができたこと。そして、「百貨店」が、「ヤミ市」に、取って代わったこと。そのことが、私には、興味深いです。「ヤミ市」が、「商店街」に、変わってゆくことも、自然な流れであったはずです。しかし、そうは、なりませんでした。
 「百貨店」の建物は、「堅固な建物」です。「燃えにくい建物」です。もしかして、私が先の記事(【見聞】「サンシャイン60展望台 てんぼうパーク」)において紹介した、「燃えない街が作りたかった」という、先人たちの思いが、豊島に「百貨店」のための「堅固な建物」ができあがったことにも、現れているのかもしれません。

 ちなみに、私は、東武百貨店・池袋店のなかを歩いているときに、不思議な傾斜がときどきあることが、気になっていました。あの傾斜は、もともとの、東横の建物と、東武の建物とを、つなぎ合わせたときに、できたのかもしれません。
 蛇足。我ながら、『ブラタモリ』(NHK)のようなことを、しています。

(2)用が足りればよい・その1――「ブランド」から「ノーブランド」へ

 百貨店といえば、様々な「ブランド」の商品が勢揃いしている店舗である、イメージがあります。
 その「ブランド」への、ひとびとの志向は、戦後の日本において、いったんは過熱した後で、いまは、冷めてきているようです。「ブランド」よりも、「ノーブランド」へ。そのような、志向の変遷を、ひとびとのなかに、見て取ることができます。たとえば、「UNIQLO」の、登場そして流行。「無印良品」の、登場そして流行。
 このような現象について、ひとことで捉えるとすれば、「用が足りればよい」ということになるでしょう。

(3)用が足りればよい・その2――通信販売へ

 ひとびとの「用が足りればよい」という志向。
 その志向は、更に進んで、「用が足りれば、商品を手に取って、選ばなくてもよい」ということに、なってきているようです。つまりは、「通信販売でもよい」。

 このことに関連して、経済学者・諸富徹さんは、次のように述べています(『経済学』岩波書店)。

――経済には、「実物経済」と、「金融経済」がある。

 「金融経済」(実物を伴わない経済)の隆盛と、「通信販売」(実物を伴わない取引)の隆成とは、総じていえば、同じくひとつの現象でしょう。
 そして、そのような経済と取引とが隆盛する時代へと、振り子が振れてきたあとに、再び、「実物経済」と「店舗販売」が隆盛する時代が、やってくることになるのかもしれません。そのような見通しは、先に述べた「乏しい平等の時代」という見通しとも、重なります。

(4)余談・堤清二さん――西武百貨店の経営者

 いままで、私が本稿において述べてきた、戦後の日本の、文化や経済の、それらの変遷に関する、重要な人物として、西武百貨店の経営者であった、堤清二さんがいます。堤清二さんは、「辻井喬」というペンネームで、作家としても、活動していました。作家でもあり、経営者でもあったひと。文化にも、経済にも、通じていたひと。そのようなひととしての、辻井喬さん/堤清二さんに、私は、興味を持っています。
 私が上に述べたような、変遷に関して、辻井さん/堤さんは、どのような感想を、抱いていたのでしょう。辻井さん/堤さんのことを、かつて、経営者・小倉昌男さんについて調べたように、また個人的に調べてみたいです。

7 人口の飽和の象徴――高層ビル・サンシャイン60

 都市が発展した先に、サンシャイン60のような、高層ビルが建つ。
 このようなことは、なぜ、起こるのでしょう。
 仮説。「その都市において、人口が飽和したから」かもしれません。
 都市に人口が密集して、地表に、ひとびとが、暮らしきることが、できなくなってきたとき。それでも、ひとびとが、その都市で暮らしてゆきたいなら、高い建物を建てざるを得なくなります。
 人口の、飽和の、象徴。それが、高層ビルなのかもしれません。

8 まとめ

 豊島区の、再開発についての、計画。その計画は、これまでの「消費地」「娯楽地」「交通の要衝」としての特徴を、更に追求してゆくものであるようです。
 豊島が、かつてのような「住宅地」、更にその前の「文教の地」に、戻る見込みは、当面は、ないようです。

 そのような見通しのもとで、豊島に住んで働いている私は、どうするか。そのことについて、個人的に少し考えてみます。

 いま、私の生活と仕事は、豊島のなかで、小さく完成しています。自宅と事務所とが近く、更に、そばには、立教大学の図書館もがあって、住んで・働いて・学んでゆくためには、さしあたりは、とてもいい環境です。
 もし、私が、豊島から、他の地域へ、移住してゆく時機が来るとすれば、その時機は、「豊島における、後見の市場が、衰微したとき」(後見の需要が無くなってきたとき)であるでしょう。
 せっかく、私が少年のような年齢であった頃から志してきた、「司法書士×成年後見」という仕事に、豊島において就くことができたのですから、これも何かのご縁です。豊島のなかで、歳月とともに、人口が変動してゆき、後見の需要が無くなるまでは、私は、いまの仕事を続けてゆこうと、考えます。

 そして、私が、豊島から、他の地域へ、移住してゆくことになったときには、次の選択肢が、生まれるでしょう。

A 後見の需要がまだある土地へ移住する
B 次に社会的な意義の生じてきた仕事のある土地へ移住する

 私には、私の選んだ仕事について、どこかしら、「終身雇用」のような意識が、まだ残っていたようです。
 しかし、時代とともに、人口は移り変わり、市場も移り変わります。私が生きている間に、また新たに「社会的な意義のある仕事」が、生まれてくることも、ありうるでしょう。
 そして、そのことについて、考えるための手がかりにも、「私がいまの仕事から獲得する経験」は、なってゆくのでしょう。きっと。

 また、私としては、この展覧会が紹介していた「アトリエ村」のアトリエのような場所を、自分も、いずれは、作り上げたいです。画家にとってのアトリエ、作家にとっての書斎、学者にとっての研究室のような、表現のための場所を。

――私が、自分の仕事と人生を通して獲得してきた、「個人的な体験」は、とても面白かった。いまも面白い。
――その「個人的な体験」について、自分の人生の後半において、少しずつ、まとめた上で、表現してゆきたい。
――そのためにも、他者の作り上げた、まとまった表現にも、あらためて触れてゆきたい。

 それが、いまの私の、胸の内に、繰り返して浮かんできている、願望です。ここに書いているような願望について、私は、以前の記事にも、繰り返し書いてきた記憶があります。繰り返し、書きたくなる願望は、きっと、本当の願望なのでしょう。
 その願望のためには、場所のみならず、表現のための、まとまった時間もが、必要になります。
 せっかく、私は、自営業者であり、自分のための場所や時間について、自由に設定できる状況にあるのですから、ここに述べたようなことも、試みてゆきたいです。
 そして、そのような試みは、上に述べた、AまたはBのような、土地や仕事が、どこにあるのか、実際に滞在の上、調べることにも、つながってゆくはずです。実際に、滞在してみてはじめて、その土地や、その土地にまつわる、需要のある仕事が、どのようなものであるかが、分かってくることでしょう。

 だんだん、私がこれから40代を迎えるにあたっての、その10年間の過ごし方についてのイメージもが、膨らんできたような気がします。

 とりあえず、私としては、日々の仕事にコツコツと取り組みつつ、また、将来に新しい段階へ進むための貯蓄も積み立てつつ、まずは、自分のいまの自宅を、ゆっくりと休むことができ、じっくりと物事を考えることができる環境に、作り変えてゆくことにします。

 読者の方々に、同じようなことを、繰り返し書いていることについて、お詫びしつつ、いったん、ここで、筆を置くことにします。

Follow me!