【考えの足あと】子どもを何度でも信頼する――法政ゲートウェイ講義
今年も、立教大学の法学部で、司法書士の仕事について、話をさせて頂きました。貴重な機会を頂き、感謝します。
自分の話したことについて、思うところがありましたので、ここに書き留めておきます。
1 未成年後見制度――社会からの排除
私は、例年、「成年後見制度」とともに、その制度に類似している制度である「未成年後見制度」を取り上げて、次のように指摘してきました。
――民法において、「成年者」は、「合理的経済人」であることになっている。「合理的そして経済的に、契約の締結ができるひと」。
――「未成年者」は、一律に、「そのような人間(合理的経済人)ではない」ことになっている。
――「そのような人間ではない」との観点から、未成年者が相手と契約するにあたっては、親権者の同意が必要であることになっている。親権者の同意がない、未成年者による契約は、取り消すことができるようになっている。また、同意を省略し、親権者が未成年者を代理できることにもなっている。
――このようなルールが設定してある場合、相手も合理的経済人であるとすれば、契約にあたり、手続の簡便のため、最初から親権者と取引することになるはずである。
――未成年者について、親権者に同意権・取消権・代理権の各権限を付与することは、未成年者を、幾多の取引が形成している「社会」から、排除することに、つながっているのでは。
2 また別の対応――子どもを何度でも信頼する
しかし、最近、私は、上記のルールがある状況においても、成年者として、未成年者に対して、また別の対応がありうるのではと、考えるようになりました。
――未成年者を、あえて、契約の相手とする。
――その契約が取り消しになる等して、損失が発生しても、その未成年者を、また、契約の相手とし続ける。
――つまりは、「子どもを何度でも信頼する」。
――そのことによって、未成年者(子ども)は、失敗のなかから学び、成長してゆくことができるようになる。
このような、私の考えは、前回の投稿である、批評『劇場版 SPY×FAMILY』において、次のように書いたことから、派生してきました。
――子育ては、「立てていた計画が崩れること」の、繰り返しである。
そうであっても、何度でも、計画を立て直してゆく。その考えが、「子どもを何度でも信頼する」という考えに、つながってゆくことになりました。
このことに関連して、法理学者・田中成明さんは、次の趣旨のことを、述べています(『法学入門』〔第3版〕有斐閣)。
――子どもは、失敗を繰り返しながら、そのことに学んで、成長してゆく。
子どもを、信頼しないで、「取引の社会」から、排除するのか(A)。それとも、何度でも信頼して、「取引の社会」に、包接するのか(B)。A・B、どちらの対応を、上に述べたルールについて、最初に設定したひとたち(フランスの民法典の起草者たち?)は、想定していたのでしょう? そのことが、このところ、私には、気になっています。
3 「構築」と「浮遊」――社会の類型
上に述べた、A・Bの対応は、めぐりめぐって、社会の類型にも、影響してゆきそうです。
(1)対応A――「構築」の社会
対応Aについて、選んだ場合には、子どもの失敗による、損失の発生が、社会において小さくなるので、その分、社会が富を貯えることになりそうです。ただ、その蓄えは、一時的なもので、このような社会においては、子どもが育たなくなるので、そもそもの、社会の持続が、難しくなります。
現代日本社会は、類型として、このような社会に近いのかもしれません。
このような社会について、私は、イメージとして、「超高層タワーマンション」(超高層建築物)を、よく似たものとして、思い描きます。「超高層タワーマンション」は、立派な建築物である一方、大規模修繕等、その建築物としての存続が問題になります。
(2)対応B――「浮遊」の社会
対応Bについて、選んだ場合には、子どもの失敗による、損失の発生が、社会において、繰り返し起こるので、その分、社会における富の貯えが、小さくなります。その代わりに、子どもたちが育つので、社会が持続できるようになります。
このような社会について、私は、作家・開高健さんの紹介していた、パリの標語である、「たゆたえど沈まず」という言葉を、連想します。「波の上の木の葉」のように、ぷかぷかと、何とか浮かび続けているイメージです。
後者の、「浮遊」の社会のほうが、「富の貯え」ひいては「知識や技術の、高度な発達」は望むことができませんけれども、持続はしやすくなるかもしれません。
4 返報性――「やられたら、やりかえしたくなる」
ただ、「子どもを何度でも信頼する」として、その取引の相手(つまりは「成年者」)が、損失を何度も引き受ける状況が続くのみでは、その相手が参ってしまうこともあるでしょう。
このことに関連して、精神科医・岡野憲一郎さんが、人間の習性として、「返報性」というものがあると、述べています(『忘れる技術』創元社)。「返報性」について、ひとくちにいえば、「人間は、やられたら、やりかえしたくなる」のだそうです。
ですので、ルールの運営上、「子どもを何度でも信頼する」とした場合、そのままでは「返報性」という観点から、「だからこそ、成年者は、未成年者に対して、懲戒権があることにするべきだ」との意見が出てくる可能性も生じます。
しかし、そもそも、成年者としては、「子どもの成長」という観点からすれば、未成年者に報いを求めるべきではないでしょう。だからといって、第三者に報いを求めるべきでも、もちろんないでしょう。それでは、どうするべきなのでしょう。ひとつの答えとして、成年者は、未成年者から離れたところで、「自分で自分を労わること」が、大事になってくるのかもしれません。たとえば、私の知り合いに、定期的に、「ママさんバレー」を、楽しんでいるひとがいます。ちなみに、このような、「返報の昇華」ともいうべき、対応の方法については、岡野さんの『忘れる技術』に、複数の紹介があります。
付記。親と子のような関係にあっては、いちいち「返報」について意識しなくても、「親が、子どもから、もらっているもの」が、あるのかもしれません。そのような思いが、本稿について書いているうちに、私のなかに、浮かんできました。問いとして、立てておきます、
余談。
「返報性」の観点からすれば、「無償の関係」は、「身分の関係」を、形成することにも、つながりそうです。「目上の人間からの、無償の厚遇」に対する、「目下の人間からの、無償の服従」。
一方、「有償の関係」は、「平等な関係」を、形成することに、つながるでしょう。「売買」や「雇用」等、「対価が伴う契約」によって、相互に貸し借りがないように、取引が終了するならば、両者においては、相互に平等な関係が、続くことになります。
社会において、「売買」や「雇用」等、「有償の契約」が、主流であることは、その社会において、「個人が平等であること」を、支えているのかもしれません。
5 まとめ
以上、私の思うところでした。
最近、多忙でしたため、自分の考えたことについて、書き留めておくことが、おろそかになっていました。
ただ、その状況について、そのままにしておくと、「自分が多忙な状況から脱却するために、次にどうするか」ということについて、構想することもが、おろそかになるようです。
あらためて、自分の考えたことについて、コツコツと、書き留めてゆくことにします。