J-1【経営】開業11年 ~事業・組織・時間・理念~
第1 はじめに
今年の10月4日に、開業して11年が過ぎました。
これまで、皆様より頂戴しました、たくさんのご厚意に、心より御礼を申し上げます。
精神科医・神谷美恵子さんによれば、作家・サン=テグジュペリが、次の趣旨のことを、語っているそうです(『神谷美恵子 島の診療記録から』平凡社 STANDARD BOOKS)。孫引き御免。
「ひとは、仕事に打ち込んで、自分の人生の時間を捧げることと引き換えに、星空から、星の贈り物を受け取る」
私も、星空より、両手からこぼれるほどに、「かけがえのない体験」という、贈り物を、受け取った思いでいます。ただ、いま、私の両手にあふれているものは、まだまだ「原石」の状態にあります。これから、私の体験してきたことを、宝石のように磨き上げてゆきたいです。作家・開高健さんが、その遺作である『珠玉』(文春文庫)において、自分の体験を、宝石のように磨き上げて、書き残したようにです。
その一環として、この11年間についての振り返りと、これからについての展望とを、ここに書き留めておくことにします。
以前、私は、「私が仕事で見ている世界」において、法人が「事業・組織・時間」でできあがっている旨、説明をしました。その説明を応用し、本稿においても、まずは、「事業・組織・時間」という観点から、それぞれの書き留めをしてゆくことにします。
第2 事業
1 司法書士という仕事
――司法書士になって成年後見。
それが、私が19歳だった頃に立てた目標でした。
実際に、司法書士になって、成年後見も含めて、その主要業務に取り組んでみると、私の目には、より広く、次のような社会が・世界が、見えてきました。
――「不動産登記・法人登記・戸籍」という諸制度が、連携して、ひとつの社会システムを形成している。
――「成年後見」もまた、その諸制度について補完する制度である。
――司法書士は、その主要業務を通して、そのような社会システムの運用に、関わっている。
このことについての詳細は、「私が仕事で見ている世界」に、書いています。
総じて言えば、司法書士という仕事は、私なりに表現すれば、「複数の制度を組み合わせて、依頼者の方々が抱えている問題を、解決する」という仕事でした。
この仕事は、その内容が、いったんの完成をみていて、しかも面白くて、私としては、選んでよかったと思うことのできる、仕事でした。
2 業界の現状――総量規制(トータル・コントロール)の必要性
そのような司法書士業界もまた、少子高齢化社会のなかで、現在、人手不足の状況にあります。
私の事務所においても、相続に関連した業務が、特に増え続けるなか、納期が遅れて、品質も落ちているのに、それでも、取引先が増えて、仕事量が増え続けています。
そのことに関連して、東京司法書士会内においては、次のような注意喚起のための通知が、出回るようになってきています。
――「依頼した司法書士と連絡をとることができない」旨の、依頼者からの苦情が増えてきている。
――働き過ぎの司法書士のための、メンタルヘルスについての相談窓口を開設した。
後に述べるように、私の事務所という「組織」の形成についても、それ相応の試行錯誤が、今後も必要である現状からすれば、私としては、仕事についての総量規制(トータル・コントロール)も、考える必要があるかもしれません。
このことに関連して、私が興味を持っている出来事は、「ヤマト運輸が、Amazonに関する個人宅配業務から、撤退したこと」です。自社の組織で、対応し切ることができないほどの、仕事の量に直面したとき、ヤマト運輸は、具体的には、どのように対応したのでしょう。その対応に関して、学ぶことによって、私の事務所における仕事の総量に関する調整についても、そのヒントを、得ることができるかもしれません。
3 成年後見制度改革
少子高齢化社会の進展に応じて、私が取り組む目標としてきた「成年後見制度」についても、改革のための議論が始まっています。
(1)改革の方向――ピンポイントでの利用
いまの成年後見制度は、基本として、後見人がいったん就任したら、ご本人が亡くなるまで、後見が続くことになっています。
その制度について、次のように、ピンポイントでの利用に限る方向で、改革のための議論が進んできているようです(山野目章夫ほか「〔座談会〕成年後見制度改革の動向」ジュリスト2024年5月号(1596号)有斐閣)。
――後見人は、必要になった法律事務のためにのみ、選任する。
――その法律事務が処理できた後は、その後見人は、退任する。
いまの制度のように、「後見がずっと続く」ままであれば、後見人から家庭裁判所への年1回の定期報告(財産目録と収支状況報告書の提出)について、その総案件数が増え続けることになります。その状況が続けば、後見人としても、裁判所としても、人員の観点から、対応に限界がやってくることでしょう。
この方向での改革は、やむを得ないものと、私としても、考えます。
そして、私としては、成年後見制度が、いまの制度であるうちに、取り組むことができてよかったと、考えています。私が、たとえば「責任の重大な仕事だから」と、成年後見業務に取り組むことについて、様子見しているままでいたら、制度が先に変わり、私は十分な体験ができないまま、その機会を逸していたかもしれません。
(2)葛藤の解消――ご本人たちとスタッフさんたちの遭遇
そして、成年後見制度について、いまの議論の方向で、改革が進むとなれば、私が事業において抱えていた葛藤も、自ずから、一部解消することになります。
私が後見人に就任したご本人たちと、私の事務所のスタッフさんたちが、遭遇することになることが、私にとっての、葛藤のひとつでした。
たとえば、認知症の症状のある方は、「私は、しっかりしている。後見人なんか、いらない。中島さんは、辞任しなさい」等、おっしゃりながら、突然に、私の事務所に来ることがあるのです。また、統合失調症の症状のある方は、「中島さん、さっき、私に電話しましたか?」等、妄想の気配のある電話を、私の事務所にかけて来ることが、度々あるのです。
それぞれの症状について、ある程度、理解はあるとしても、このような方々への対応は、スタッフさんたちにとっては、ストレスがかかる対応です。後見制度が、いまのような「ずっと続く」制度である限りは、スタッフさんたちに、このような対応をしてもらうことになるかもしれない状況が、続いてゆくことになります。一方、制度が、「ピンポイントでの利用」に変われば、先のような状況は、一時のことで済みます。
私の葛藤していた「ご本人たちとスタッフさんたちの遭遇」について、一部解消する方向で、制度の改革が進む見込みであること。そのことについて、私は「助かる」思いがしています。
おそらく、同様の状況が、私の事務所に限らず、他の後見人の方々においても、そして裁判所においても、生じていたのでしょう。そして、そのことが、今回の、改革についての議論がはじまる、そのきっかけのひとつとなったのでしょう。
(3)懸念――身寄りのないひとの葬送
ただ、成年後見制度が、ピンポイントで利用する制度になってゆくことについては、懸念もあります。
まず、一般論として、「ひとの老後に寄り添う役割の人間」が、ひとり、減ることになります。
そして、私が特に懸念するのは、「身寄りのないひとの葬送」です。そのようなひとに、後見人が就任した場合は、いままでは、看取りの後に、葬送も行い、納骨できる墓地まで、見つけていました。それが、後見制度が、ピンポイントでの利用になり、「後見人が看取って葬送する」ということが無くなれば、その作業を、おそらくは自治体が担うことになります。そうなれば、今度は、自治体における、そのような作業に関する、人手不足が、問題になってくるでしょう。
(4)目的の喪失
ここまで、自分の考えについて、書き出してみて、あらためて、私にとって、分かってきたこと。それは、私が次のような問題に直面していたということでした。
――私が、仕事と人生において、目的としてきた「成年後見業務」が、簡略なものに、変わってゆこうとしている。
――それでも、私は、この仕事を、続けるのか?
その問題について、考えるとき、私の支えになったのは、もはや観念論でなく、「具体的に自分がしてきた仕事」でした。いくつか、列挙してみると…
――空き家に、再び、灯がともった。
――空き家の建っていた土地が、更地になった。その土地が、駐車場になった。または、新しく建物が建った。
――問題が解決し、喜んだ依頼者の方が、胸に抱えるような大きさの、ブランデーの瓶を、持ってきて下さった。
――地方の、ローカル線の、最果ての駅に、遺品を届けに行った。「こうして、遺品が届いてみると、あのひとの、私を呼ぶ声が、よみがえってくる気がします」。
「成年後見業務」が、簡略なものとなるにしても、やはり、この司法書士という仕事は、先にも述べたように、やりがいがあるし、面白いです。それに、「成年後見業務」も、無くなるわけでは、ありません。私としては、この仕事を、これからも、続けてゆく考えでいます。
ちなみに、私の脳裏には、上に述べたような、良き思い出のみならず、「自分のしでかしてきたこと」も、同時に去来しています。先に述べた、納期の遅延、品質の劣化も、そうですし、宅地建物取引士試験も、まだ合格できていません。今年も、受験はしましたけれども、結果は、昨年と同様でした。立教司法書士会も、まだ、立ち上げができていません。私は、私なりに、いっしょうけんめいに働いたり、学んだり、考えたりしているつもりではいますけれども、結局のところ、「たくさんのことを、抱え込みすぎて破綻する、お調子者のバカ」であるようです。このような、自分の性格についても、注意しながら、これからの仕事と人生を、歩んでゆきます。
4 遺産承継業務
成年後見業務の代わりに、主要な業務として、数の増えてゆく見込みである業務が、「遺産承継業務」です。この業務は、不動産のみならず、預貯金や株式に関する、相続手続についても、代理人として、携わる業務です。
ただ、この業務も、きちんとした利益の上がる業務として、取り組むことのできる期間は、長くて、これから10年間ほどであるものと、私としては、見込んでいます。その「10年間」は、団塊の世代の方々が、75歳以上の後期高齢者になった後、天寿を全うするまでの期間に、ほぼ重なります。
その10年間が過ぎた後は、高齢化が、ますます進むごとに、「高齢者の貧困化」も、ますます進んでゆくことになるでしょう。これまで、現役世代の、所得が低下してきた傾向が、そのまま、高齢者の、貧困化する傾向に、つながってゆくのです。そうなれば、遺産承継業務においても、その仕事の規模が、だんだんと小さくなってゆくことでしょう。
このような見通しから、私は、これから40代を迎え、働きざかりになった10年間に、しっかりと働いて、しっかりと蓄えをしなければなりません。このことについては、後の「時間」の項において、あらためて、詳しく述べます。
第3 組織
1 生産工程――いったんの「ほどき」
今年の3月から、半年ほど、私は、私の事務所における「生産」の工程について、それまでの組織を、いったん「ほどいて」、ひとりで携わることになりました。
その結果、いままで、仲間たちとともに生産していた時期と、同じくらいの売上げを、上げることはできました。しかし、くりかえし述べているように、納期に遅れが生じ、品質も落ちました。そして、私の心身もズタボロになりました。
そのような結果から、私に分かってきたことは、次のようなことでした。
――私は、人様に働いて頂くことによって、納期・品質はもちろん、自分の労力や時間についても、助けて頂いていた。
――そして、その対価として、人様に賃金を支払っていた。
ひとりで生産に携わってみて、納期や品質の改善のためにも、自分の心身のためにも、「ひとにたすけてもらうこと」は、やはり必要であると、私は、あらためて認識することになりました。
そして、「ひとにたすけてもらうこと」は、私にとっても、スタッフさんにとっても、長い目で見ての、仲間づくりにもなってゆくことでしょう。たとえ、そのひとが、いつか、離職することになったとしてもです。
なお、上に述べたような「生産にひとりで携わっていた期間」においても、スタッフさんたちには、総務・経理等の「バックオフィス」に関して、大いに手伝って頂いていました。そのことについて、ここに記して、感謝します。
2 はたらくしくみづくり
(1)自宅の環境の改善
私が「私の方丈記」に書いた、私の生活する環境の改善は、上に述べたような「ひとりで生産に携わる」可能性が生じたことから、その準備のために、行ったものでした。自分がきちんと休むことのできる環境。振り返ってみると、そのような環境を、あらかじめ、整えておいて、よかったです。
(2)事務所の「働き方」の改善
今度は、私の事務所における、「はたらくしくみづくり」に、取り組むべき段階になりました。
いま思えば、私がスタッフさんたちと締結していた雇用契約は、いわゆる、「無限定正社員」または「メンバーシップ型」というべきタイプの、雇用契約でした。職務の内容について、限定のない、「何でもやる」代わりに、生活保障賃金を支払うという、そのような雇用契約でした。
ただ、私が先の記事である「『法』という字から見えてくるもの」「カピトリーノの牝狼」にも書いたように、ひとは、すべてのことに向き合いきることができるものでは、ありませんでした。
そこで、私としては、次のような「はたらくしくみ」をつくりたいと、考えるようになりました。
――雇用契約書に、より具体的に、職務の内容を列挙する。
――その職務のなかから、スタッフさんに、自分の携わりたい職務を選んでもらう。
――選んでもらった職務の、その数と質によって、そのひとの待遇が決まってくる。
――そして、その職務の数と質は、働いてみた後で、または、状況が変わった際に、合意によって変更できるようにしておく。
――このように、「はたらくしくみ」をつくることで、「バリバリに働きたいひと」(統合タイプ)にとっても、「ホドホドに働きたいひと」(解離タイプ)にとっても、そのひとに適した働き方を、提供することができるようにしたい。
――ひらたくいえば、「手伝いたい範囲で、手伝ってもらうことが、できるようになりたい」。
このような「働き方」は、いわゆる「ジョブ型」の雇用にも通じるところのある、働き方です。ですので、私としては、「ジョブ型」の雇用についても、学んで、私の事務所という「組織」を作るにあたっての、参考とするつもりでいます。
ただ、あくまでも大事なのは、「私と仲間にとって必要な組織をつくること」であって、「ジョブ型の雇用制度を導入すること」ではありません。
私が、以前、勤務していた職場において、所長が、経営について悩んだ挙句に、コンサルタントに判断を依存し、聞いたこともないヨコ文字の経営用語を、しゃべりたてるようになったことがありました。そのようなことには、私としては、ならないようにしたいです。
(3)問題――賃金の設定
ここまで述べてきたように、職務に応じた待遇ができるよう、雇用制度を組み立ててゆくにあたって、問題になるのは、「賃金の設定」でしょう。
単純に考えれば、「職務について限定のある雇用契約」の賃金は、「職務について限定のない雇用契約」の賃金よりも、小さく設定することになるはずです。そのような設定で、スタッフさんたちの生活を、支えることができるのでしょうか。そのことが、私には、気になっています。
親と子のあいだに、「資源の奪い合い」という関係がある(根ヶ山光一『抱え込まない子育て』岩波新書)ように、経営者と労働者のあいだにも、同じような関係が、もちろんあります。私は、かつて、経理財務マン・金児昭さんの著書である『その仕事、利益に結びついてますか?』から、「ひとはコストではない」という言葉を、共感とともに、引用しました。私は、スタッフさんたちのことを、コストでもなく、資産でもなく、仲間だと考えています。その考えを、賃金の設定について、数字の上で、つじつまを合わせようとするがために、忘れないように、ここに、注記しておきます。
3 管理職・経営者の仕事――仕事そのものを作ること・その仕事をひとに提供すること
ここまで書いてきて、私が、あらためて、考えること。それは、「管理職や経営者の仕事は、『仕事そのものを作って、その仕事を、ひとに提供すること』なのだ」ということです。
このことについては、社会学者・小熊英二さんが、指摘していました。その指摘について、私は、以前、「働き方の3類型」という記事に、引用したことがあります。私のような、地域密着型の自営業者にとっては、雇用を創出し、ひとびとの生活を支えることが、その役割の、ひとつであるそうです。同様のことを、労働経済学者・玄田有史さんも、指摘しています(『ジョブ・クリエイション』日本経済新聞出版社)。
私のような、小さな事務所の経営者は、いわゆる「プレイング・マネジャー」として、日々の業務にあたることになります。そうなると、どうしても、いままでの慣性から、「プレイ」(実務)に、注意が向きがちになります。しかし、経営学者・中原淳さんによれば、その慣性から脱却して、「ひとに仕事を任せる」ということができてはじめて、その職場において、ひとがのびのびと働くことができるようになるといいます(『駆け出しマネジャーの成長論』〔増補版〕中公新書ラクレ)。
「司法書士としての中島」から、「経営者としての中島」へ。このように変わってゆく必要があることは、前々から、アタマでは分かっていたつもりなのですけれども、実際には、私は、この変化に、いったん失敗しました。この失敗に学びつつ、私としては、あらためて、「ひとに仕事を任せること」に、挑んでゆくことにします。
ちなみに、このような「プレイヤーからマネジャーへ」という変化は、私のみならず、ひとびとの人生において、往々にして問題になる変化であるようです。この問題については、作家・司馬遼太郎さんも指摘しています(「四十の関所」『風塵抄』中公文庫)。また、臨床心理学者・河合隼雄さんも指摘しています(『働きざかりの心理学』新潮文庫)。
第4 時間
1 50代に備える
私が、事務所において、人様に働いて頂くことにした、その動機のひとつに、「自分の50代に備える」ということがありました。というのも、私が、次のような記述に触れることがあったからです(藤森克彦ほか「単身者のこれから」季刊家計経済研究 2012.4)。
――50代の単身者が、ピンチに陥る危険がいちばん高い。
――その原因が「失職」・「老親介護」。
老親の介護のために、失職する。介護しながら、親の年金で、生活する。親を見送った後に、自分もまた高齢になった子どもには、就職先が少ない。このような問題は、「5080問題」「6090問題」として、社会における問題になっています。
私個人の問題として考えてみても、私が50代になる頃に、私の両親は、後期高齢者になります。まさに、「老親の介護」のために、私が仕事に注ぐことのできる労力と時間とが、減少することが、起こりうるでしょう。
このことについて、私は、本の上で知識を得るのみならず、実際に、同様の問題で苦労している、同業の先輩を、目の当たりにもしてきました。
――いまのうちに、自分が50代になって、老親の介護が必要になったときにも、事務所の事業が続けることのできる、そのようなしくみを、作っておこう。
そのように、私としては、考えました。そして、その目的の観点からは、いったん、失敗しました。しかし、「自分が人生の先輩たちから、してもらってきたように、今度は、自分が、若いひとの仕事と人生を、支援したい」という目的については、「若いひとの巣立ち」を、目の当たりにすることができました。そして、「生き物としての、人間の動き」について、身に沁みるかたちで、学ぶこともできました。このような成功も含む、失敗が、30代のうちに、いったんできて、よかったです。
2 組織の形成・資産の形成
あらためて、私が「組織の形成」に挑もうとしていることについては、上記の第3に述べました。
また別に、私があらためて試みようとしていることのひとつに、「資産の形成」ということもあります。このことに関連して、私は、上記の第2-4において、次のように述べました。
――私は、これから40代を迎え、働きざかりになった10年間に、しっかりと働いて、しっかりと蓄えをしなければなりません。
この記述に関して、「そんなに自分の利益を追求するべきなのか」と、批判したくなるひとも、いるかもしれません。しかし、私は、この現代日本社会は、「毎日を、つつましく、生きていく」のみでは、老後の生活が行き詰まることになる社会であると、認識しています。このことについて、私は、次の記事に、その根拠となる計算を、書いておきました。「考えの足あと/必要金額計算 資料:金融審議会 市場ワーキング・グループ報告書」。
また、実際、私は、老後の資金が不足して、生活保護が必要になったひとの苦境も、目の当たりにしてきています。
――高齢になり、身体の免疫が衰えた結果、はじめて聞くような疾患にかかる。
――その疾患によって、特別に必要になる医療備品が、生活保護の対象になっていない。
――それでも、あまりにも苦しそうなので、介護施設や病院が、立て替え払いで、その医療備品を、提供してくれる。
――その立替金について、介護施設や病院から、相続人たちに請求しようにも、次のような問題が発生する。
――そもそも、生活保護のもとでは、介護費用も医療費用も、自己負担割合が10割になる。その自己負担金額を、国が、生活保護によって、いったんは支給する。しかし、その支給金額は、いずれは、返還しなければならない。国に対して返還するべき、その費用の総額は、相当な高額になる。その請求は、最終的には、相続人たちへゆく。なので、相続人たちは、通常、みな、相続放棄することになる。その結果、介護施設や病院の立替金について、支払うべきひとが、いなくなる。
――このような結果となる見通しがあるので、そのような疾患のあるひとを、受け入れてくれる介護施設も・病院も、見つけにくくなる。
自分が適切な介護・医療を受けることはもちろん、介護サービス・医療サービスを提供してくれる事業者の方々に、適切な金額の費用を、きちんと支払うためにも、自分の資産を形成しておくことは、大事なのです。
なお、私としては、自分の老後に、家賃の支出が発生し続けることがないように、住宅も取得しておきたいと、考えています。できれば、住まい・兼・事務所にできる、住宅をです。
3 50代という思秋期
50代の過ごし方については、私にとって、お手本にしたいと考えているひとたちが、複数、います。
40代いっぱいまで、いっしょうけんめいに働いて、その上で、50代になってから、それまでの生き方から脱却して、自由に生きはじめているひとたちが、現れはじめているのです。
――旅するジャーナリストになる。
――〇〇会の〇〇長になる。
――自分で会社を設立し、事業をはじめる。
皆さん、それまで自分が手にしたくても手にできていなかったものについて、渇きをいやすように、手にして、のびのびと楽しそうに活動しています。
ふたたびの、自分の人生についての、模索。まるで、青少年の思春期が、あらためて、50代に、表れたかのようです。このような、人生の時期のことを、「思秋期」というそうです(宮本みち子ほか『人口減少社会のライフスタイル』放送大学教育振興会)。このような「思秋期」は、長寿化によって、新しく表れてきた、人生の季節でしょう。
上記1及び2において述べたような、切実な「50代への備え」が必要である一方で、このようにのびのびとした、人生の新しい季節を過ごすための、「50代への備え」も、私としては、しておきたいです。
4 増してゆく孤独――依存という問題
(1)何に依存するか
お手本にしたい50代の方々がいる一方、人生の教訓としたい50代の方々も、私には、います。
私が、事務所において、大まかにいえば、「メンバーシップ型」の雇用制度から、「ジョブ型」の雇用制度への転換をはかるということは、「スタッフさんたちについての、束縛をゆるめること」であると同時に、「スタッフさんたちとの関係が、その分、希薄になる」ということでもあります。
ひとは、管理職・経営者になってゆくにつれて、そして、年齢が高じてゆくにつれて、ますます孤独になってゆくものであるようです。
これから、ますます、孤独が増してゆくことになったとき、何に依存するか。そのことが、私にとって、問題になってくるでしょう。
(2)「酒と女」
ひと昔前は、孤独な男性にとって、依存の対象となったのは、卑俗な言い方をすれば、「酒と女」であったようです。いわゆる「キャバクラ」に入り浸って、酒に溺れて、店員の女性に熱を上げる、50代以上の男性たちを、私は、複数、見てきました。
ただ、私には、この11年のあいだに、アルコール依存の果てに、亡くなっていった友人がいます。その友人が亡くなってから、私は、アルコールを、常飲する気分には、どうしても、ならなくなりました。一方で、私は、いっしょうけんめいにお酒を造っているひとのことも、具体的な顔と名前で、知っています。
――友人たち・仲間たちと、食事を共にするときに、一緒に、お酒も、楽しむ。
――旅先で、地酒を、味わう。
――嬉しいことがあったときに、依頼者の方から頂いたブランデーを、口にする。
私としては、いまや、お酒の楽しみ方は、このくらいでいいと、考えるようになっています。
女性についても、歌人・俵万智さんの歌である「ハンバーガーショップの席を立ち上がるように男を捨ててしまおう」や、漫画家・安野モヨコさんの作品群をはじめ、その生々しい実態に触れることがあり、私としては、「女性も男性と同じ人間なんだ」と、男性として、女性に過剰な期待を抱くことは、なくなりました。
余談。私は、新社会人になりたての頃、先輩にキャバクラへ連れてゆかれたことがあります。私は、その頃、キャバクラは、単身者がゆくものだと、なぜか思い込んでいました。そして、既婚者である先輩が、私の目の前で、キャバクラの店員である女性を口説きはじめたのを見て、「えっ、先輩、奥さんがいるのに、そんなことして、いいんですか?」と、思わず、聞きました。その先輩は、硬直した後、私を二度とキャバクラへ連れてゆかなくなりました。
(3)インターネット
私にとって、危険な依存の対象になるものは、「酒と女」ではなく、「インターネット」になるでしょう。
私が、今年の3月からの半年間、ひとりで生産の工程に携わり、疲労困憊した体験から、感じたこと。それは、「インターネットは、不眠・うつを、増幅しやすい」ということでした。
精神科医・清水徹男さんによると、「ひとは、不眠が続くと、自分にとって不愉快なものに、目が留まりやすくなり、それが、うつ病の発症の原因になってゆく」そうです(『不眠とうつ病』岩波新書)。
私が、睡眠不足の状態で、パソコンのディスプレイ画面を通して、インターネットを利用しているときに、まさに、このような「不愉快なもの」に、目が留まりやすくなっていました。
ストレス・疲労
→ インターネット利用
→ 不愉快な表現に触れる
→ のめりこむ
→ 不眠
→ うつ
このような順番で、インターネットは、ひとを、不眠・うつに、引きずり込むことがあるようです。インターネットを利用し、いっしょうけんめいに仕事をしているひとがいることも、重々、承知の上で、このようなインターネットの特性には、私としては、注意しようと、考えています。
ちなみに、インターネット上の、「不愉快な表現」とは、たとえば、「ホラーゲーム実況」です。私は、若いひとから、そのようなものがあることを、教えてもらい、試しに見たことがあります。「おおー、こわい」。その怖さに感心しましたけれども、あのようなゲームは、ひとを(「ゾンビになった」という理由で)撃ち殺すゲームであるように、私としては、見受けました。ふだん、積極的に見ようとは、私としては、思えませんでした。
(4)自分で自分に依存する――最後はカウンセリングを
結局のところ、私としては、前にも書いたように、「自分で自分に依存する」ことが、適切な依存の方法であると、考えるようになりました(「考えの足あと/個人主義・その先 ~大江健三郎さん追悼~」)。
――健康な食事をとる。
――湯船につかって入浴する。
――たっぷり寝る。
そのようにすると、翌朝、朝食をモシャモシャと食べているときに、それまで行き詰まっていた問題についての、解決の方法が、思い浮かんできたりします。
そのように、自分で自分に依存しても、どうしても、行き詰まりが打開できないときには、私は、然るべき対価を支払って、臨床心理士または公認心理師による、カウンセリングを受けようと、考えています。河合隼雄さんをはじめ、カウンセラーさんたちが、ひとの相談に、真摯に対応してきていることを、私は、本を通して、知っています。私としては、相談事をするならば、そのような、「ひとの話を聞く術」を、その身に備えたひとに対して、したいです。
第5 理念
以上、私の事務所の「事業・組織・時間」について、これまでの振り返りと、今後の展望とを、書いてきました。
最後に、この項目においては、ここまで書いてきたことをふまえて、私の事務所の理念について、再度検討することにします。
1 当初の理念
私は、司法書士になるにあたり、次の理念を想定していました。
・ 社会的意義のある仕事をする。
・ 個人として生きる。
・ 学問で身を立てる。
これらのうち、「社会的意義のある仕事をする」について、次のように、変えることにします。
・ 他者を生かし、自分も生かす、仕事をする。
「社会的意義のある仕事をする」では、どうしても、「社会」の方に優先順位が傾き、自分のことはもちろん、スタッフさんたちのことも、犠牲にしてしまいがちになります。その具体例が、上記第2-3-(2)でした(葛藤の解消――ご本人たちとスタッフさんたちの遭遇)。
しかし、私が、学生時代にボランティア活動をした体験からしても、自己犠牲は、長くは、続きません。自分の体力や資源が、底をつくと、その活動は、続けることができなくなります。きちんと、人様のお役に立つ仕事をして、きちんと、対価を得る。または、相手から対価を得ることがでなくても、きちんと、資金または資源を、外部から調達する。そのように、仕事を通して、「他者を生かし、自分も生かしてゆく」ことが、事業の継続のためには、必要です。そのように、私は、考えるようになりました。
2 根本理念としての「生きねば」
ただ、上に述べた理念は、私が一人で動いていたときに、想定した理念です。スタッフさんたちと合意して設定した理念ではありません。ですので、この理念について、全的に、スタッフさんたちにも、共に抱いてほしいとは、私としては、考えていません。
最小限、私が、スタッフさんたちと共有したい理念は、「生きねば」ということです。「生きねば」ということは、もう少し具体的にいえば、「この世界は、生きようとしなければ、生きてゆくことができない世界だ」ということです。そのことについての一例は、上記の第4-2に書きました(組織の形成・資産の形成)。
私が「生きねば」と考えるに至った、個人的な体験のことを、参考のために、ここに書き留めておきます。
私が高校3年生になりたての頃、父が、事故に遭って、入院しました。1か月以上、家に父がいない状況が、続きました。夜、しんとした家のなかで、暗い天井を眺めているうちに、私の胸のうちに、次のような思いが、浮かんできました。
――今回のような事故は、偶然に起こったことではある。
――ただ、このような事故が、今後、また起こらないとは、限らない。
――そのときには、私が働いて、家計を支えなければならなくなるかもしれない。
――たとえ、事故が起こらなくても、将来、親が老いたときに、その生活を、私が支えるべき状況が、やってくるかもしれない。
そのような思いから、私は、まじめに勉強や活動をはじめることになりました。
勉強については、たしか、成績の順位が、当初は学年300人中180番台だったところ、3年生の1年間で、160人超をごぼう抜きして、13位になりました。
いま思えば、300人で構成していた序列は、大きなピラミッドのように見えて、その実、似たり寄ったりの成績の生徒たちの、その微細な差異を、顕微鏡で観察するようにして、順位づけしたものだったのでしょう。
ただ、これは、大学受験について、体験しなかった、いわば「井の中の蛙」としての、私の見方です。大学受験について、体験したひとは、もっと多人数の、受験生たちの序列について、また違った見方をすることがあるかもしれません。
卒業時に成績が13位だったことにより、私は、大学へ進学するときに、好きな学部を選ぶことができました。私は、「手に職を付けやすい」という理由から、法学部を選びました。その後、19歳で司法書士を目指すことにして、4年次には司法書士業界でアルバイトをはじめ、今に至ることは、前にも書いたとおりです。
このように、私がいまのような仕事と人生に至った、その根本となるきっかけは、「父親の入院」から、身に沁みて感じた、「生きねば」という思いでした。このような思いが、上記の第4-1に述べた「50代に備える」という考えにも、つながっているのでしょう。
なお、私が成績で13位になったのは、ほんの一時のことです。いまとなっては、私などよりも、立派に活躍している、同級生たちが、たくさんいることも、ここに書き留めておきます。
3 生きてゆく勇気・死んでゆく勇気
そのように「生きねば」と考えているはずの私が、人様の最期を看取らせて頂き、その葬送の仕事まで、させて頂いていることは、自分のことながら、不思議です。
このことについて、考えてみると、私にとって、学生時代に、大切に思っていた相手から、「私が、落ちるところまで、一緒に落ちてほしい」と言われたことが、いまも、私の胸に、残っているようです。
その後、私は、人様の老後に寄り添い、在宅での生活を続けることのできる、そのギリギリまで、付き合うことを、仕事にするようになりました。在宅での生活を、あきらめて、老人ホームへ入居すること。そのことは、ご本人にとっては、「死へ、一歩、近づくこと」でもあります。ですので、ご本人は、転んで骨折でもしないかぎり、在宅での生活を続けようとすることが、往々にして、あります。その果てに、ご本人が、ご自宅で、孤独死することも、あります。私は、孤独死の、第一発見者になったこともあります。孤独死は、警察にとっては、「不審死」です。そして、第一発見者である私は、「遺体と一緒にいた人物」であることになります。ですので、私は、その後、警察署に呼ばれ、事情聴取を受けました。
このような体験から、私が実感していることは、「ひとにとって、死んでゆくことは、生きてゆくことと同じくらい、勇気のいることなのだ」ということです。
そして、本当の、最後の最後に、意識が混濁したときには、ひとは、「生きる」とか、「死ぬ」とか、考えることすら、しなくなるようです。
私には、「中島さんなら、私にも、やさしくしてくれるのでは」と思って、近づいてきてくれる、ひとたちがいます。しかし、私の「やさしさ」は、上に述べたように、落ちてゆくひとと、とことん道連れになってゆく「やさしさ」であるようです。落ちてゆく、自分からは助けを求めてこないひとについて、「そうは言っても、それじゃ、死んじゃうだろう」と、無理矢理に助けるような、お節介でもあり頼もしくもある「やさしさ」では、ないようです。
4 世に棲むこと
「生きねば」を、根本理念とする。
しかし、私の事務所に集まってくるひとは、往々にして、「中島さんなら、私にも、やさしくしてくれるのでは」という思いで、集まってくる。
このような、理念と現実について、その両立を考えるにあたって、私は、精神科医・中井久夫さんの、次の趣旨の言葉を、思い出します(『世に棲む患者』ちくま学芸文庫)。
――患者のなかには、社会に復帰しようとするひとがいる。
――しかし、社会に復帰するということは、自分が発病した環境に戻る、ということである。
――社会は、決して、「まともである」と、言い切ることができるような、環境ではない。
――私は、患者に、まず、「世に棲むこと」を、勧めている。
――「世に棲むこと」は、「自分の居場所を確保すること」。
――自分の手に職をつけて、生計を立てることができるようになるのは、それからでいい。
――自分の居場所が確保できないまま、手に職をつけて、生計を立てることは、相当に困難なことである。
私の事務所も、まずは「自分の居場所の確保」ができて、それから「手に職をつける」ことができる事務所に、してゆきたいです。
第6 まとめ
以上、開業して11年が過ぎての、私の仕事と人生についての、振り返りと、展望でした。
これから、具体的な雇用制度の設計に、取り組んでゆきます。
皆様、今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
しめくくりに、いまの私の心境に合う、詩人・谷川俊太郎さんの詩を、引いておきます(『あさ/朝』アリス館)。
朝 谷川俊太郎
また朝が来てぼくは生きていた
夜の間の夢をすっかり忘れてぼくは見た
柿の木の裸の枝が風にゆれ
首輪のない犬が陽だまりに寝そべってるのを
百年前ぼくはここにいなかった
百年後ぼくはここにいないだろう
あたり前な所のようでいて
地上はきっと思いがけない場所なんだ
いつだったか子宮の中で
ぼくは小さな小さな卵だった
それから小さな小さな魚になって
それから小さな小さな鳥になって
それからやっとぼくは人間になった
十ヶ月を何千億年もかかって生きて
そんなこともぼくら復習しなきゃ
今まで予習ばっかりしすぎたから
今朝一滴の水のすきとおった冷たさが
ぼくに人間とは何かを教える
魚たちと鳥たちとそして
ぼくを殺すかもしれぬけものとすら
その水をわかちあいたい