【映画】『劇場版 SPY×FAMILY CODE:White』 ~喜劇のチカラ~
劇場版 SPY×FAMILY CODE:White
https://spy-family.net/codewhite/
新年会が終わって、寝るまでには時間があったので、酔ったアタマで、気楽に観てみました。
21時が過ぎてからの、レイト・ショー。
観客は、私の他には、見たところ、50代・60代の方々が、ちらほら。
第1 あらすじ
1960-70年代。東西の各国は、冷戦の状況にあった。政治上の、駆け引きの繰り返しによる、かりそめの平和。そのような平和を、もどかしく感じている輩たちもいた。彼ら彼女らは、開戦のきっかけを作ろうと、暗躍していた。その暗躍を、スパイや殺し屋たちが、押し止め、開戦を未然に防いでいた。
父・ロイドは、スパイ。表向きは、精神科医。
母・ヨルは、殺し屋。表向きは、公務員。
娘・アーニャは、超能力者。彼女は、ひとの心を、読むことができた。
この家族は、3人とも、他の二人に、自分の正体を、隠していた。
その3人が、北方へ、家族旅行に。
名店の味を、楽しむ。祭りで遊ぶ。
その旅先で、アーニャが、誤って、他人様のチョコレートを、飲み込んでしまう。そのチョコには、マイクロフィルムが、隠してあった。そして、そのマイクロフィルムには、東西の開戦につながりかねない機密が、記録してあった。
連れ去られる、アーニャ。彼女をのせて、東国の飛行軍艦が、離陸してゆく。
「軍が、迷子になったアーニャを、保護しているそうです。引き取ってきます」
ロイドが、駅前に展示してあった旧軍用機に乗り込んで、飛び立ち、アーニャを追いかけてゆく。
--せっかくの家族旅行ですもの。私も、一緒に行きたい。
ヨルも、こっそりとその機体に乗り込んで、ロイドについてゆく。
軍艦からの砲撃をくぐりぬけ、ロイドの操る旧軍用機が、軍艦の機内に突っ込み、無理矢理に着艦する。火災が起こる。
艦橋へ突入するロイド。敵に包囲されての集中砲火。大ピンチ。
--ちちを助けなきゃ!
アーニャが、自分を縛る紐を、振りほどこうと、もがく。そして--
ヨルは、艦内で、東国が開発した秘密兵器と遭遇する。
ガトリング・ガンからの猛火のなか、疾走するヨル。何度も攻撃を仕掛ける。突き立てたナイフが欠ける。渾身の力で斧を振るっても、通じない。勝敗を決したのは…
「家族と共にありたい」。その思いが・行いが、戦争を阻止することに、結果として、つながっていったのだった。
第2 中島コメント
「戦争が起こってほしくない」。そのような、ひとびとの願いを根拠として、物語るような、よきエンターテインメント作品でした。
1 仕事と家族のかたち
(1)個人の集合としての家族
ア 秘密--人格の独立
臨床心理学者・河合隼雄さんが、次の趣旨のことを、述べています(『子どもの宇宙』岩波新書)。
--子どもは、秘密を持つことによって、親と自分とが、別の人格であることが、分かるようになる。
この「スパイ・ファミリー」は、3人が3人とも、秘密を持っています。その意味では、この家族は、それぞれが個人として独立した人物たちが集まってできた家族だといえるでしょう。「全員が一体としての家族」ではなく、「個人の集合としての家族」。このような家族観は、戦後日本において、「個人の尊重」が、まがりなりにも進んできたことの結果として、現れてきたのかもしれません。
そういえば、血のつながった親子であっても、子どもが生まれてきたときには、お互いに「はじめまして」なのでした。「家族が一体である感覚」は、ありうるとしても、あとからついてくるものなのでしょう。
イ ひとの心が読める子ども
そのような「個人の集合」としての「スパイ・ファミリー」においても、アーニャは、他の二人の心を読み、その秘密を知ることができています。
このことに関連して、幼い子どもは、次のように感じることが、ままあるそうです。
--自分が認識していることは、相手も認識しているはず。
この現象は、自分の人格と、他者の人格とを、分別できていないことから、起こるそうです。
アーニャの場合には、相手が認識していることを、自分も認識できていて、方向としては、逆になっています。しかし、「認識について同期する錯覚」という構造は、同様です。アーニャは、子どもならではの、人間関係についての認識のしかたを、よく体現しているキャラクターなのかもしれません。
そのような見方からすれば、作品中で、「アーニャが成長するにつれて、他者の心が読めなくなってゆく」という展開があっても、面白いのかもしれません。
また、アーニャには、「大人の顔色をうかがう子ども」のイメージを、重ねることもできるかもしれません。大人が何を望んでいるのか、察しながら、ふるまう子ども。劇中で、アーニャは、天真爛漫である一方、ロイドやヨルの心中を慮って行動することもままある、「いい子」でもあります。大人の顔色をうかがいながら、学校での成績が良くなるように、勉強に励む、子どもたち。そのような子どもたちは、観客として、アーニャに自分を投影して、親しみを感じているのかもしれません。そして、以前は自分もがそのような子どもであった、観客である大人たちもまた。
(2)「割り当てがある」ものとしての仕事/職業選択の自由
ロイドとヨルの、「表の仕事と、裏の仕事がある」という設定も、現代日本社会における、ひとびとの、次のような状況を、体現しているのかもしれません。
--新卒一括採用によって、なるべく大きな企業に就職して、企業の人事権に従って、割り当てを受けた仕事に、携わる。
それが、自分にとって、本当にやりたい仕事かどうかは、ともかくとして、従事する。そのような状況が、ロイドとヨルの、仕事についての「表と裏」の二面性に、現れているのかもしれません。
ただ、実際には、ロイドの「スパイ」や、ヨルの「殺し屋」のような「裏の仕事」があるひとは、ほぼいないでしょう。
そうであれば、「自分が取り組んでいる仕事」と、「本当にやりたい仕事」とが、合致するようにしていってはじめて、ひとは、自分の仕事と人生に、得心がゆくようになるでしょう。
そのようなことからすれば、たとえば、作中において、冷戦が平和のうちに終わり、ロイドは本当に精神科医に、ヨルは本当に公務員になって、3人が、本当に家族になってゆく。そのような結末があっても、いいのかもしれません。
付記。精神科医という仕事も、公務員という仕事も、その他の仕事も、片手間ではできない仕事でしょう。それが片手間でできているものとする、本作の仕事観は、「自分が本当にやりたい仕事」ではない「割り当てがあった仕事」への、軽視をも、含んでいるのかもしれません。
(3)世間体のための結婚/婚姻の自由
ア 愛情の伴わない結婚--結婚の標準の形態
ロイドとヨルは、世間体のために結婚しています。このような結婚について、原作のなかには、次のような言葉が出てきていました。「契約結婚」「利害のための結婚」。つまりは、「愛情の伴わない結婚」。このような結婚の形態も、現代日本社会における、ひとびとの結婚についての状況を、反映しているのかもしれません。
このことに関連して、私の周囲のひとびとが、私に対して、次のような言葉で、私が結婚するよう、促してきていた時期がありました。
--とにかく結婚しなさい。
--結婚すれば、仕事の幅が広がる。
--結婚していないということは、ひとを愛したことがないということだ。
これらの言葉は、「契約結婚」「利害のための結婚」つまりは「愛情の伴わない結婚」について、勧める言葉です。「契約結婚」等は、マンガのなかにのみ現れる、新奇な結婚の形態なのではなく、現代日本社会において、むしろ「標準」となっている結婚の形態なのかもしれません。
特に、最後の言葉については、結婚という「形式」と、愛情という「実質」とが、逆転しているように、私としては考えます。
A 「愛情」という「実質」が成立しない状況にあって、「形式」は整うように、「結婚」を優先させる。
B 「愛情」という「実質」が成立するように、「結婚」という「形式」にまつわる制度を、変えてゆく。
Bの方が、本筋でしょう。「愛情」は、「思想・良心の自由」における、「良心」の一種だからです。
イ 思想・良心の自由
「愛情」は、「良心」の一種です。
ひとは、「思想・良心の自由」に基づいて、「職業選択の自由」や「婚姻の自由」のなかで、職業や配偶者を、選択してゆきます。ひとの、その人生における選択の基礎には、「思想・良心」があるのです。
その「良心」(愛情)よりも、国家の制度としての「結婚」を優先する状況が、現代日本社会には、あるようです。そのように、私は、個人的な体験から、見受けています。
もっといえば、現代日本社会においては、「職業選択の自由」や「婚姻の自由」の基礎となる、「思想・良心」を、ひとびとがそもそも形成しないように、学校制度・職業選択制度・結婚制度ができている、といってもいいのかもしれません。
ここまで書いてきて、あらためて、私の脳裏に、「総力戦体制」という言葉が、浮かんできました。
日本の社会が、アジア・太平洋戦争の前後、総力戦体制下にあった時期には、「思想・良心の自由」の侵害もが、同時に起こっていたのでした。「特高」「思想検事」。
その後の、戦後日本における第1次ベビーブームも、総力戦体制下の、「生めよ殖やせよ」という指導理念の、その延長線上に起こった現象だったのかもしれません。その観点からすれば、「第1次ベビーブーム」は、「戦力としての経済力となる人間の大量生産」とも、言いかえることができるでしょう。その「大量生産した人間」について、まとめて養成するために、いまに至るまで続いている、学校制度・職業選択制度・結婚制度ができてきたのかもしれません。そうなのであるならば、それらの制度が、ひとびとに「思想・良心」を形成させないようにできていることも、総力戦体制下において「思想・良心の自由」の侵害が同時に起こっていたことからすれば、むしろ当然のことでしょう。
ただ、ひとは、いくら制度上の保障がなくても、その人生において、思想・良心というものを、時期の差・程度の差はあれども、徐々に形成しようとする存在であるようです。だからこそ、日本国憲法も、「思想・良心の自由」を、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」のひとつとして、各人に保障しようとしているのでしょう。そして、その保障が、制度上、不足しているからこそ、たとえば、晩婚化・未婚化の問題が、生じてきているのでしょう。この問題については、次の項目である「ウ・エ」において、もう少し触れます。
以上、「愛情の伴わない結婚」についての、私見でした。
ウ 契約結婚--すべての結婚は契約である
ここからは、「契約結婚」「利害のための結婚」について、私見を書いてゆきます。
日本国憲法は、第24条において、次のように定めています。
--婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
当事者の合意によって、両者に夫婦の関係が成立すること。そのような構図は、たとえば、当事者の合意(売買契約)によって、両者に売主・買主の関係が成立する構図と、同様です。いわば、すべての結婚は、契約なのです。
にもかかわらず、「契約結婚」という言葉が、新語として、できてきています。この新語は、おそらく、「契約」という言葉に、「取引」(ビジネス)という意味を、含ませようとしているのでしょう。「契約結婚」は、「取引のための結婚」であり、「ビジネスのための結婚である」。そのような含意からすれば、「契約結婚」と、「利害のための結婚」は、同義なのでしょう。
エ 利害のための結婚
そして、その「利害のための結婚」という言葉には、消極的・否定的な含意もあるようです。しかし、本来、結婚が「相互に扶け合うためにするもの」であってみれば、「利害のための結婚」は、むしろ「結婚の本質」のうちのひとつであって、消極的・否定的に捉える必要はないでしょう。
そもそも、ひとがなぜ、取引をするのか・ビジネスをするのかといえば、本来は、「生計を立てるため」ひいては「自分と他者とを、共に生かすため」でしょう。その本来の意味に合致する行動であるならば、ひとが、取引をして、ビジネスをして、利益を上げることは、道徳上の非難には、当たらないことであるはずです。
そして、結婚が利害のためにもするものであるからこそ、「女性が、結婚すると、経済的に自立することが、難しくなる」という現状において、晩婚化ひいては未婚化が進んできているのでしょう。
「利害のための結婚」という言葉の、消極的・否定的な含意には、「経済的な困難があっても、愛情で何とかしなさい」という含意もが、合わさっているのかもしれません。
そのような発想は、アジア・太平洋戦争において、日本の政府が、兵士たちに対して、食料の補給もないなかで、「日本精神で何とかしろ」と命じた発想に、似通っています。
しかし、困難について、誤魔化すために、「愛情」という言葉は、使うべきではないでしょう。
--衣食足りて、礼節を知る。
という言葉があります。
--衣食足りて、愛情が湧く。
ということも、あるのかもしれません。
そして、「愛情」という言葉を、「困難についての誤魔化しのために便利な言葉」として使わないようにするためには、きちんと定義しておくことが必要です。そこで、私なりの定義を、ここに書いておきます。
--相手を一人に定め、自分と相手とが、共に生きてゆくために、その関係を持続し、関係の更新が必要となったときには、自分から相手に働きかけてゆく、意思と行動。
この定義については、次の書籍が、参考になりました。
サン・テグジュペリ『星の王子さま』新潮文庫
(愛することは「世話すること」)
赤司道雄『聖書』中公新書
(愛することは「生かすこと」)
加藤秀俊『九十歳のラブレター』新潮文庫
(「自分から相手への働きかけ」による「関係の更新」)
オ 小括 社会保障制度の将来
現状では、高齢者の方々に対する社会保障給付のために、国家の財政における赤字が続いていて、その分、若者たちの結婚・出産・育児にまつわる社会保障給付が、細りがちになっています。
ただ、だいぶん将来、人口の分布が改善して、若者たちの人口における比率が上がってきた際には、結婚・出産・育児にまつわる社会保障制度について、充実を図ってゆくという方向性が、もちろん出てきていいでしょう。
そのような方向性で、社会保障制度が充実していってこそ、「愛情の伴う結婚」の、数が増えてゆくことになるのかもしれません。
付記。私は、マンガ作品である『逃げるは恥だが役に立つ』に関してのテキスト批評において、結婚について、「愛情」という、精神上の問題を、今回の批評に書いたよりも、もっと重視していました。今回の批評について、書いてみて、私は、自分が、結婚について、経済上の問題も、重視するようになってきていることを、感じました。このような、思考の変化は、スタッフさんの「結婚・出産・育児」について、私なりに支援してみて、その個人的な体験から、生じたものであるようです。やってみてはじめて分かることが、やはりあるものです。
2 警察国家形成
この『SPY×FAMILY』の舞台となっている社会は、密告が横行し、国家保安局(秘密警察)が、国民を取り締まっている社会でもあります。
このような、スパイ・殺し屋・国家保安局が活躍する社会は、フィクションの世界のみで、十分でしょう。
このことに関連して、作家・堀田善衛さんが、ロシアの作家・ドストエフスキーの言葉を、引用しています(『天上大風』ちくま学芸文庫)。孫引き御免。
--ひとは、自由を欲することから発して、ついに警察国家を形成するにいたる。
この言葉について、このところ、私なりに気が付くことがありましたので、ここに書き留めておきます。
(1)新自由主義--小さな国家
新自由主義が想定する国家は、「小さな国家」です。
「小さな国家」の役割は、主に「規制緩和」と「国防」です。
この観点から、現代日本社会の状況を、見てみます。
岸田文雄首相は、令和5年度に、防衛費を大幅に増額しました。
このことは、おそらく、次のことを、象徴しているでしょう。
--新自由主義のもとで、「小さな国家」としてできる「規制緩和」は、やり尽くした。
--あとは、「国防」によって、国家の存在を、国民に示すほかない。
(2)軍備の増強--外患の設定
「軍備の増強」は、「外患の設定」を、伴います。
ただ、外患を設定したとしても、「軍備の増強」の、もともとの目的は、「国家の意義を、国民に示す」ことですから、本当に戦争を開始するわけにはゆきません。
国民の不満の矛先として、「外患」を設定し、軍備の増強を続けることにも、限界がやってくることでしょう。
(3)内憂の設定--警察の強化
「外患」について、国民の不満の矛先とすることができなくなったとき、国家は、国民の不満の矛先として、同じ国民を、「内憂」として、設定することになるでしょう。「我々のなかに、裏切り者がいる」。そして、国民を取り締まるために、警察の機能についての強化が、進んでゆくのでしょう。
--ひとは、自由を欲することから発して、ついに警察国家を形成するにいたる。
ここまで述べてきたような順序によって、ドストエフスキーの書いたとおり、警察国家ができあがってゆくのでしょう。
そのうち、日本においても、このような、国民が国民を取り締まる、警察国家が、できあがってくるのかもしれません。
たとえば、「逮捕系Youtuber」の登場は、その予兆なのかもしれません。
そして、上記の順序からすれば、社会が警察国家形成に至るまでの、ひとびとの、心の働きの、中核にあるものは、「上手くいかないことについて、誰かのせいにしようとする、心の働き」なのでしょう。
(4)私のとる態度--やみぢにやすらう
ここまで述べてきた、この社会の将来についての、私の展望は、悲観的に過ぎるかもしれません。
悲観的に過ぎるかもしれないことも、自覚した上で、私は、自分の展望に対して、これから述べるような態度をとってゆくつもりでいます。
私のとる態度について、ちょうどよく、表現してくれている、歌がありました。『新古今和歌集』のなかの、慈円という仏僧がうたった歌です(堀田善衛『故園風来抄』集英社)。
ねがはくはしばしやみぢにやすらひてかゝげやせまし法の灯
慈円は、承久の乱を起こそうとする、後鳥羽院に対して、「秩序を保って下さい」と、説得し続けた僧侶であるそうです。
この歌に、最初に触れたとき、私は、次のような場面を、想像しました。
--慈円が、法典を手に、社会の片隅に身を潜めて、乱世を凌いでいる。
後で調べてみると、本来、この歌には、次のような含意があることが分かりました。
--御仏が、この乱世に光臨され、仏法をもって、民衆をお導きになってほしい。
ただ、私としては、第一印象のまま、あえて曲解することにします。
私の想像した慈円の姿は、方丈における鴨長明の姿にも、重なります。また、隠れ家に身を潜めた、アンネ・フランクの姿にも、重なります。そして、作家・小川洋子さんが、その作品である『密やかな結晶』に書いた、主人公の姿にも、重なります。
私もまた、社会の片隅に身を潜めて、書いて働き続けながら、混乱の続く状況を、凌いでゆくつもりでいます。
(5)未来をはじめる
私は、社会の全体を変革しようとは、とても思いません。
ただ、私の自宅や職場という、私の手が届く、ごく小さな範囲であれば、何かしら、働きかけ・変えてゆくことができるかもしれないとも、思います。
私は、2年前の、年頭の所感において、次のように、書きました。
--これから、崩壊の時代が始まる。
--崩壊の時代の後には、再建の時代が来る。
その「崩壊の時代」「再建の時代」は待たずに、私なりに、「解体」(崩壊ではなく)と「再建」を、先に始めてみます。
そのような観点からすれば、上記1において述べたような、「結婚・出産・育児」への支援に関して、私の事務所から、スタッフさんが完全に独立してゆく前に、私にできることが、まだ若干、残っているといえそうです。
付記。「崩壊」ということでいえば、昨今の、自由民主党における「派閥の解散」も、「崩壊」の一種といえるでしょう。その後に、どのような「再建」がやってくるのか、私としては、注視しています。「崩壊」の後の、いったんの無秩序のなかから、「独裁」が現れませんように。
(6)バカバカしさの持って行き先--喜劇のチカラ
「未来をはじめる」にあたって、ここに、私の正直な感想を、書き留めておきます。
ここ2年ほど、私が私の事務所における子育て支援に携わってきて、直面したこと。それは、ひとくちにいえば、「脱力」ということでした。
家族心理学者・柏木惠子さんが、『おとなが育つ条件』(岩波新書)において、次の趣旨のことを述べています。
--子育ては、「立てた計画が崩れること」の、繰り返しである。
この記述は、まさにそうでした。ただ、子どもたちには、もちろん悪気はないので、その「立てた計画が崩れること」についての「徒労感」からくる「脱力」、もっといえば「バカバカしさ」を、どうすればよいのか、私としては、思案していました。
この「バカバカしさ」の持って行き先について、この『劇場版 SPY×FAMILY』というエンターテインメント作品(喜劇)は、よきヒントになってくれました。「バカバカしさ」は、笑い飛ばせばよいのです。ひとの人生においては、「悲劇」の他に、その対極として、「喜劇」もが、存在しているのでした。
『SPY×FAMILY』の、原作は、父であるロイドが、一所懸命に知恵を絞って準備したことが、泡と消えて、彼が脱力している様子を、随所に描いています。その様子は、見ていて、可笑しいです。
私もまた、一所懸命に準備したことが、泡と消えて、脱力する、滑稽な所長として、子育て支援に、もう少し、取り組み続けてゆくことにします。
ただ、計画が、泡と消えることが、ままあるにしても、泡と消えたまま、何もしないでいるわけにも、ゆきません。
たとえば、航海において、舵がいったん狂ったとして、そのままにしておいては、船は遭難することになります。大洋を、あてもなく、彷徨うことになったり。暗礁に乗り上げたり。舵は、取り直す必要があるでしょう。
ロイドが、何度となく計画を立て直しているように、私もまた、計画を立て直し続けてゆくことにします。私が、いままでの記事において書いてきた、「最後には一人で生きてゆく」という言葉。その言葉の含意は、「私は、一人ででも、計画を立て直し続けてゆく」(私は、一人ででも、舵を取り直し続けてゆく)ということなのでした。
3 商品としての本作
(1)歴年のヒット作とのつながり
この『SPY×FAMILY』には、次のように、歴年のヒット作と共通する特徴がありました。
ドラゴンボール 「アクション」
ONEPIECE 「チーム」
名探偵コナン 「頭脳戦」「格闘ヒロイン」
逃げるは恥だが役に立つ 「契約結婚」
風立ちぬ(スタジオジブリ) 「戦争」
通俗文化における、ヒット作には、変化しつつも通底している特徴があるのかもしれません。
(2)思わぬヒット
ただ、作者である遠藤達哉さんは、上に述べた作品群のようなヒットを、本作においては、狙っていなかったそうです。
遠藤さんは、インタビューにおいて、次の趣旨のことを、語っています(『SPY×FAMILY公式ファンブックEYESONLY』集英社)。
--この作品は、自分にとって、リハビリのために書いた作品でした。
--それが、思いがけずヒットして、忙しくなり、自分でもびっくりしています。
ヒット作は、最初から、ヒットするように狙って制作できるものでは、やはりないようです。
(3)リハビリ
なお、遠藤さんのいう「リハビリ」は、次のようなことであるそうです(参考文献同上)。
--漫画家として、デビューしてから、もともと自分が描きたかったものは、描き切った。
--その後、過労もあいまって、自分が何を描けばよいのか、分からなくなった。
このような、遠藤さんの「仕事と人生」の経緯からは、次のようなことが、いえるのかもしれません。
--まずは、自分のやりたい仕事を、狭く小さな範囲であっても、とにかくやってみる。
--狭く小さな範囲であるため、満足が、予想よりも早くやってくる。
--それでも、仕事を続けてゆくうちに、狭く小さかった範囲が、広く大きくなってゆく。
つまりは、自分のやりたいことについて、やりきった後の方が、かえって、ヒットが生まれやすくなるのかもしれません。
私も、遠藤さんよりも、ずっと規模は小さいものの、同様の個人的な体験をしてきました。「司法書士になって成年後見」。その狭く小さな範囲で始めた仕事が、「私が仕事で見ている世界」で書いているように、広がっていきました。その広がりは、仕事の規模・総量の広がりにも、連動してゆきました。
(4)広告宣伝の相乗効果
『SPY×FAMILY』に関する広告宣伝について、私は、現代社会における、エンターテインメントについての広告宣伝の、その典型を見るような気がしています。
基本となる物語
→ マンガ
→ アニメ
→ 映画
→ イベント
このように、『SPY×FAMILY』という、基本となる物語が、まずあります。その物語を、各種の媒体が表現して、大衆に広告宣伝します。そして、たとえば、マンガを読んだひとが、アニメを観て、更には映画を観るようにもなってゆきます。最初に『SPY×FAMILY』に触れるきっかけが、アニメその他であるひとも、もちろんいるでしょう。
各種の媒体が、そのまま、大衆に対して、他の媒体における消費をも誘引する、広告宣伝になっているのです。
ちなみに、私は、『SPY×FAMILY』について、池袋サンシャイン60へ至るための地下道の、動く歩道に掲示してあった広告から、知りました。池袋サンシャイン60には、池袋公証役場があります。また、その周辺には、豊島郵便局(基幹局)があります。そのため、私は、先に述べた地下道を、よく通るのです。私は、その地下道を、何度も通るうちに、『SPY×FAMILY』の広告をも、何度も見かけるようになり、その作品に、興味を持つことになりました。
このように、広告宣伝のための媒体が、多様であればあるほど、多様な大衆の興味を引くことも、可能になるようです。このしくみは、大衆を消費に誘引するためのしくみとしては、よくできたしくみです。同時に、このしくみは、まるで「洗脳」(繰り返しによる刷り込み)のためのしくみでもあるようです。「広告宣伝」のために、「洗脳」にも類似するようなしくみが、できあがっていること。しかも、そのしくみは、基本となる物語が、ひとつしかないにもかかわらず、それを、各種の媒体において表現することによって、「水増し」してゆくようなしくみであること。少し話が飛びますけれども、このようなことどもについての懸念もがあって、スタジオジブリのプロデューサーである鈴木敏夫さんは、映画『君たちはどう生きるか』に関しての広告宣伝について、「ほとんど広告宣伝しない」という態度をとることにしたのかもしれません。
(5)劇場版--映画館で観るということ
上に述べたように、基本となる物語が、ひとつしかないにもかかわらず、各種の媒体による表現が、それぞれ、大衆による消費の対象として成立するのは、各種の媒体に、それぞれの楽しみ方があるためでしょう。
それでは、劇場版ならではの楽しみは、どのようなことにあるのでしょう。今回、観賞した感覚から、私なりに考えてみました。
映画館においては、大きなスクリーンが、視野いっぱいに、広がります。観客にとっては、視覚以外を遮断して、「映画を観ること」に集中できます。この「作品の観賞に集中できる」ということが、「映画館で映画を観ること」の、特色のひとつでしょう。
そして、特に、アニメーション映画においては、テレビ番組としてのアニメーション作品と比べて、十分な時間をかけて、丁寧な作画が行われます。たとえば、本作の作画に関して、原作者である遠藤さんは、次のように述べています(映画パンフレット抜粋)。
--本作の最大の見どころは、アクションシーンです。
--随所に細かい動きがたくさん入っていてびっくりしました。
--漫画の場合はアクションの流れを描く場合もありますが、紙幅を取られすぎたり、逆に細かすぎてわかりづらくなったりするので、アクションの行間を省いて決めポーズだけを描くことが多いんです。
--アニメではその行間を全部埋めて、しかもかっこよく見せてくださっています。アニメーターさんたちは本当にすごいなと思いますし、描く分量を考えただけで僕は眩暈がしてきます。
確かに、本作において、たとえば、ヨルがガトリング・ガンからの猛火のなかを疾走する場面には、とても躍動感がありました。この場面について、ヨル役の声優である早見沙織さんは、次のように述べています(映画パンフレット抜粋)。
--これまでのヨルさんのアクションシーンではアドリブを入れることがほとんどなかったんです。軽やかに動く人ですし、それほど苦戦することもなかったので。
--でも、今回の劇場版では一つひとつの動きに細かく「アドリブを入れてください」というディレクションを頂きました。それで、走ったりジャンプしたり、敵を攻撃したり身を守ったりという動きを1カット1カット丁寧に見ながらアドリブを入れていきました。
--ただ、その動きがとにかく速いんですよ(笑)。ジャンプの息を入れたと思ったら、次の瞬間には攻撃されていて、混乱しそうになりました。特に今回のアクションシーンはヨルさんがものすごいスピードで動いているので、ついていくのに必死でした。
このように、アニメーション映画における、丁寧な作画は、キャラクターたちの躍動を、表現するためのものであるようです。
そして、現代社会においては、私の見て取るところ、「動きのなかに、いのちがある」ことになっています。
アニメーション映画の観客たちは、アニメーターの方々が一所懸命に描く、視野いっぱいの、キャラクターたちの躍動のなかに、「生きている実感」を感じたくて、劇場に足を運ぶのかもしれません。
4 まとめ
以上、私としては、酔ったアタマで気楽に観たつもりが、長々とした批評を書くことになりました。そのくらい、この映画『SPY×FAMILY』という「喜劇」からは、元気をもらいました。実際、私と同じ回で、本作を観た、50代から60代の、他の観客さんたちからも、アーニャたち一家が、最後に苦難を脱したときに、小さな歓声とともに、小さな拍手が起こっていました。その様子もまた、映画とともに、微笑ましかったです。子どもに向けての、エンターテインメント作品について、大人も一緒に観ることを通じて、実は、大人もが、楽しみ、励ましを受けるということが、きっと、あるのでしょう。
この『SPY×FAMILY』は、いわゆる「スパイもの」です。ですので、『007』シリーズや『ミッション・インポッシブル』シリーズと同じように、様々な荒唐無稽な物語を、娯楽作品として、いくつも制作してゆくことができそうです。
私としては、『劇場版 SPY×FAMILY』の次回作を楽しみにしつつ、ここで筆を置くことにします。