【読書】小川洋子『博士の愛した数式』新潮文庫

小川洋子『博士の愛した数式』新潮文庫 2005.12.1
https://www.shinchosha.co.jp/book/121523/

 新井紀子さんの『AIvs.教科書が読めない子どもたち』を読んで、「数学って、おもしろそう」。そこで思い浮かんだのが、この小説。

 交通事故の後遺症で、記憶を80分しか保つことができなくなった、数学博士。
 彼のもとに通うこととなった家政婦と、その子どもとの間に生まれた、親交。
 穏やかで温かな物語でした。

 以下、個人的な感想です。

1 数式の美しさ

 博士の語る、数式の美しさ。変わることのない、揺るぎない存在。
 人類が誕生するよりも前から、数式は存在していて、数学者たちは、それを「発見」しようとして、知恵を尽くしている。

 小川洋子さんが著した作品の特徴は、「所与の環境を、従順に受け入れること」。たとえば、小川さんの抱く『アンネの日記』への強い好奇心からも、そうした特徴を読み取ることができます。
 そうした小川さんの特徴からすると、「数式が表している、揺るぎない秩序」は、小川さんにとって、魅力的な題材だったのかもしれません。

2 博士の記憶

 博士の特徴、「記憶の蓄積がない」ということ。
 この特徴から、岩宮恵子さんが『フツーの子の思春期』にて触れていた、「解離」という心理現象のことを思い出しました。「解離」とは、「あったことを、なかったことにする、心の動き」。
 その観点から、この小説を読むと、博士には、「解離」が、起こり続けている、ということになります。
 このことから、更に連想。博士は、まるで、家庭に不在がちな、家族との思い出の蓄積が少ない、父親のようです。
 そうした博士に対して、家政婦と、その子どもは、世話を続け、愛情を注ぎ続けます。
 どうして? そのことについての明確な心情の記述は、ありません。手がかりになるのは、博士が自分の状態について抱く悲しみに関しての、心のこもった、共感についての記述。こうした点についても、小川さんの特徴、「所与の環境を、従順に受け入れること」が、よく表れています。

3 内面の形成

 『フツーの子の思春期』には、「自分へのまなざしがあってはじめて、そのひとの内面の形成が進んでゆく」という指摘も、ありました。「自分へのまなざしは、他者嫌悪を通じての自己嫌悪によって、獲得される」ということも、書いてありました。
 そうしたことからすると、博士は、記憶を蓄積することができないことから、内面の形成を進めてゆくことができない状態になっています。
 そして、博士にとどまらず、もうひとりの主人公である家政婦についても、自分の母親や、自分と子どもを置いて消えた交際相手に対して、他者嫌悪を抱くことのない、淡々とした心情の描写が続いてゆきます。
 ひょっとすると、小川さん自身も、内面の形成のない、『フツーの子』なのかもしれません。そして、小川さんの人気も、社会に『フツーの子』がたくさんいて、彼ら彼女らから、支持を集めているから、なのかもしれません。

 その一方で、小川さんは、『物語の役割』において、「所与の環境への閉じ込めは、かえって、そのひとにとって、自分の内面への考察を深める、きっかけとなることがある」という趣旨のことも、書いています。
 自分の内面での考察を露骨に出すのか、秘めたままにしておくのか、ということも、そのひと自身の選択です。
 小川さんには、その執筆した作品には表れない、秘めたる内面があるのかもしれません。

 小川洋子さん、謎めいた作家さんです。
 味わい深くて面白い一冊でした。

4 補足1 ひとり親

 内面の形成、内面の形成、と、この感想で、書き連ねてきました。
 ただ、この作品の主人公(家政婦)のように、ひとり親として、懸命に子どもを育てているひとにとって、内面を形成する余裕が、この社会では、どれだけあるのでしょうか。
 無いものねだりなのかもしれません。

5 補足2 開高健さん

 内面の形成について、小川さんとは逆に、自分の考えについて、その過程を露骨に書き著している作家さんとして、開高健さんがいます。
 たとえば、開高さんの『ベトナム戦記』(朝日文庫)『輝ける闇』(新潮文庫)『開高健の文学論』(中公文庫)等の作品群と、小川さんの作品群とを読み比べてみると、その違いが際立って、より面白いかもしれません。

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