【読書】森健『祈りと経営』小学館文庫 ~父親ができなかった経営者~

森健『祈りと経営』小学館文庫 2019.11.6
https://www.shogakukan.co.jp/books/09406716
森健×鈴木敏夫「対談 伝説の経営者と家庭」『熱風』2017年7月
http://www.ghibli.jp/shuppan/np/011269/

 小倉昌男さん。「宅急便の父」。「クロネコヤマトの宅急便」創始者。彼の生涯について、取材したドキュメント。
 なお、小倉さんの経営していたヤマト運輸株式会社は、宮崎駿さんの映画『魔女の宅急便』の、スポンサー。小倉さんと宮崎さんとの会話、「ヤマト運輸の社員教育のための映画は、作りません」「それで結構です」。小倉さんは、公明正大、誠実な人物だったと、知人たちが、口々に語っている。

1 小倉さんの生涯

 小倉さんは、父親の創業した「大和運輸」の2代目として、出生。
 父親は、母親に対して、度々、怒鳴りつける、人間だった。その怒鳴りつけに、母親は、じっと耐えていた。幼き日の小倉さん、「ああいう父親には、なるまい」。
 ただ、小倉さんの父親が、自社の管理職に厳しかったように、小倉さんも、自社の管理職に、厳しかった。小倉さんの父親は、働かない管理職を、怒鳴りつけていた。小倉さんは、働かない管理職とは、口もきかなかった。なお、小倉さんは、現場のドライバーたちの話には、真摯に耳を傾けていた。

 東京大学へ、入学。学徒出陣。戦地へは赴くことなく、敗戦。
 仲間たちと、会社を立ち上げ。その会社の事務のために雇った女性と、小倉さんは、愛し合うようになった。その会社の事業は、結局、上手くいかなかった。会社を畳んで、小倉さんは、父の経営する、大和運輸へ。
 その父が、女性との交際に、反対。駆け落ちの相談。相談しているうちに、小倉さんが、結核に。結核は、当時、死の病。女性は、小倉さんに、聖書を遺して、去っていった。その後、好運にも、小倉さんは、回復。「私は、生かされている」。そして、小倉さんは、クリスチャンになった。

 静岡での勤務時代、小倉さんは、後に妻となる、玲子さんと、知り合う。お互いに、クリスチャン。結婚した玲子さんは、小倉さんに付き添って、東京へ。

 小倉さんが取締役として在職中、父親が、脳梗塞で、半身不随に。小倉さんは、父親から、事業を引き継ぐことになる。
 当時は、大阪から東京への、大口商業輸送が主流の時代。既存の大手3社に対して、大和運輸は、遅れをとっていた。小倉さんは、それまでの自社の主力業務だった小口商業輸送から、大口商業輸送への切り換えを図り、失敗。大口商業輸送から小口商業輸送へと、主力業務を戻すも、いったん離れた取引先は、戻らなかった。経営の危機。

 いかに、この逆境を、打開するか。小倉さんは、アメリカの小口商業輸送システムを、研究。そのシステムを参考に、日本での小口家庭輸送システムを、構築。国内での事業開始にあたっては、佐川急便が先に始めていた小口家庭輸送の隆盛が、参考になった。「小口家庭輸送に、需要はある。しかし、佐川急便は、違法な方法で、輸送している。当社は、法に則って、輸送する」。
 「サービスが先、利益は、後」。ヤマト宅急便の、荷物の取り扱い数は、飛躍的に伸びていった。参入してくる他社たち。カンガルー便、ペリカン便、等々。「動物競争」。
 事業の実施、拡大のために、小倉さんは、行政訴訟も、辞さなかった。行政訴訟によって、小倉さんは、行政による独自な法解釈を、正していく。「自由の獲得」。「健全な在野」。

 宅急便の大成功。その一方で、小倉さんは、家族について、問題を抱えていた。
 小倉さんが、子どもと会うのは、朝ばかり。夕食の場には、ほぼ、いなかった。子どもと向き合わない、父親。
 父親が不在の家族。その家族のなかで、「母が娘を束縛する」問題が、深刻になっていった。
 まず、妻である玲子さんの、その母が、玲子さんを束縛。家事についても、育児についても、「ああしなさい、こうしなさい」。玲子さんの母からの、玲子さんに対する、「良い家」の「良い妻」であること、「良い母」であることの、強制。
 そして、「良い母」であろうとする、玲子さんは、娘である真理さんを、束縛。玲子さんに反発する、真理さん。真理さんは、11歳ごろから、ヒステリーを起こすようになった。真理さんが成人してからの診断は、「境界性パーソナリティ障害」。そんな真理さんと、玲子さんとが、激しい口論を繰り返すように。玲子さんは、娘からは反発を受け、母からは強制を受け、次第に、酒に溺れるようになっていった。泥酔してキッチンで寝ている玲子さんを、帰宅した小倉さんが介抱することも、度々、あったという。
 玲子さんと真理さんとの確執。その場に居合わせた小倉さんは、「まあまあ」と諫めるくらいで、二人に対する態度が、弱かった。怒鳴りつけることは、なかった。ただ、一度、小倉さんも、感情が高ぶって、グラスを振り上げたことがあった。真理さん、「投げなさいよ!」。小倉さんは、そのグラスを、真理さんには投げず、床に投げて砕きもせず、ソファに投げつけた。怒鳴らない父親、優しい父親、どうしたらいいのか、分からない父親…

 真理さんは、宝塚歌劇団に入団したあと、結婚、そして離婚。
 離婚したあとは、在日米軍の黒人兵士、ダウニィさんと交際。真理さんの交際相手について、小倉さんと玲子さんは、困惑しつつも、「ひとを、肌の色で差別してはいけない」と、自分たちを律していた。しかし、玲子さんには、周囲からの批判が集まった。「貴女が、娘を、ちゃんと育てていなかったから、ああいうひとと、交際するようになった」。心無い、差別、批判。
 ダウニィさんとの交際当時、玲子さんが、青山に洋服の店を持ちたがったことがあった。その開店のために、小倉さんが動いた。「店の切り盛りに忙しくなれば、娘の気が、交際相手から、逸れるかもしれない」。しかし、開店した後、真理さんは、店を、玲子さんやアルバイトに任せきりになり、寄り付かなくなった。
 もともと、真理さんは、小倉さんの経営するヤマト運輸で働いていたときにも、問題を起こしていた。真理さんを叱責する上司に対して、小倉さんは、「まあまあ」。論理と倫理のひとだったはずなのに、小倉さんは、娘には、甘かった。
 そして、二人は結婚。式場にて、ダウニィさんがいる前で、小倉さんは、花嫁の父親としての挨拶のなかで、自分が、その胸の内で、ダウニィさんを差別していたことについて、告白して、謝罪した。
 その後、ダウニィさんと真理さんとの間に、子どもが生まれた。孫の誕生を喜ぶ、小倉さんと、玲子さん。二人の、真理さんの交際相手についてのわだかまりは、このとき、解けた様子。

 孫が生まれた喜びも束の間、玲子さんが、急死する。そのとき、小倉さんは、泊りがけで、会合に参加していた。玲子さんと真理さんとが、激しく口論した、その後での、急死。この本では、明示してはいないけれども、玲子さんは、自ら命を絶ったらしい。「自分が、その場に居れば…」。激しく悔やむ、小倉さん。小倉さんの憔悴した様子を、近くにいた人々が、口々に語っている。

 妻の死を悲しむ、小倉さん。今度は、その小倉さん自身にも、癌が発覚。その癌は、手術で、治った。あらためて、「私は、生かされている」。この言葉を、小倉さんは、何度も口にしていた。

 妻を喪い、憔悴した日々。そんな日々のなか、玲子さんあてに、一通の手紙が届く。彼女の大学の同級生で、北海道の教会に所属している女性から。「教会の建て直しについて、寄付してほしい」。
 小倉さんは、建て直し費用について、不足している全額を、寄付した。
 続けて、小倉さんは、玲子さんの出身地の自治体にも、巨額を寄付。玲子さんの遺志、「マザー・テレサの真似事がしたい」。

 小倉さんは、保有していたヤマト運輸の株式を元手に、福祉財団を立ち上げた。最初は、事業の方向が定まらず、機会があるごとに、寄付を、散発。方向が定まったきっかけは、阪神淡路大震災で被災した、福祉団体への支援。その支援を通して、小倉さんは、障害者についての福祉団体と、つながった。「障害者の作業所で、障害者の月給を、10万円に」。このスローガンのもと、小倉さんは、「パワーアップ・セミナー」と称して、全国の福祉団体に、自分の経営についてのノウハウを、伝えてまわった。実際に、作業所では、障害者の月給について、10万円を達成。この事業の延長線上で、後に、小倉さんは、障害者の働くパン屋、「スワンベーカリー」も、立ち上げた。

 玲子さんの遺志を叶えるために、奮闘する小倉さん。その私生活においては、寂しい日々が、続いていた。小倉さんは、真理さん夫婦と暮らすために、広壮な自宅を、建築。一時は、一緒に暮らしていたけれども、数年後、真理さん夫婦は、アメリカへと渡っていった。渡っていった原因は、「言語、教育、文化の問題」だという。小倉さんは、広い家に、ひとりぼっちに。「寂しくて、暮らせないよ…」。

 そんな寂しい小倉さんの晩年を、支えた女性がいた。銀座のママ。小倉さんと女性とは、父と娘ほどにも、歳の差があった。小倉さんは、その女性の店に通いつめた。通い詰めているうちに、女性も、小倉さんの自宅へ、店員たちとともに、訪問するようになっていった。女性は、風呂で、小倉さんの曲がりにくくなった足を、洗ってあげていた。
 前記「パワーアップ・セミナー」での全国行脚には、女性も、たびたび、同行。道中で撮った写真に写っている、小倉さんは、見たことがないような笑顔。
 小倉さんは、女性に、マンションも、買い与えた。女性は、「ここまでして頂いて、いいのかしら…」。
 そんななかで、小倉さんに、再び癌が、発覚。もう、治らないだろう。入院中の小倉さんは、女性に対して、「一緒に暮らそう」。真理さんと、もうひとりの子どもである息子さんも、病院に駆け付けて、女性に対し、「父と一緒に暮らして頂けますか」。女性は、小倉さんと暮らすことを、断った。女性の返事を耳にした小倉さんは、何も言わず、それまでは嫌がっていたはずの有料老人ホームへ、入居していった。女性の述懐、「私が小倉さんに求めていたのは、『父』でした。それに、私も、小倉さんの奥さんと、同じお墓に入るのは、ためらわれました」。

 有料老人ホームにて、最期の日々を送るはずだった、小倉さん。ある日、急に決意する。「アメリカにいる、真理のもとへ行く」。酸素の吸入が必要な体調。危険な渡航。しかし、危険を冒して、小倉さんは、真理さんのもとへ渡っていった。真理さんの家では、孫たちが、小倉さんのベッドを囲んだ。小倉さんは、安らかな日々を送り、そして、眠るように、息を引き取った。

2 中島コメント

(1)自分の光(可能性)を手放さない父親

 この本での、小倉さんの評伝に触れて、個人的に、宮崎駿さんのことを、思い出しました。
 宮崎駿さんも、仕事にかかりきりで、自分の子どもたちと向き合う時間を、とることができなかったといいます。宮崎さんの息子さんである吾朗さんも、「子どもの頃、父に対しては、遊んではもらえなくても、せめて、ただ一緒に居てくれさえすればいいのにって、思っていました」という趣旨の言葉を、語っています(NHK取材班『ふたり コクリコ坂・父と子の300日戦争~宮崎駿×宮崎吾朗~』)。
 小倉さんも宮崎さんも、大きな事業を成し遂げたひとです。大きな事業という、自分の光(可能性)を、手放さなかった、父親。父親が、自分の光(可能性)を手放さないとき、その父親は、子どもと向き合わなくなるのかもしれません。

(2)母娘の束縛

 小倉さんほどのひとでも、玲子さんに対する義母(玲子さんの母親)からの束縛、真理さんに対する玲子さんからの束縛を、父親として、断ち切ることは、できませんでした。
 このような強力な束縛は、なぜ、生じているのでしょう。ひょっとすると、そもそも、「家」が「女性」を閉じ込めている、その構造が、問題の根源にあるのかもしれません。
 このことに関連して、ディズニー映画『塔の上のラプンツェル』を、個人的に、思い出しました。この映画は、母が娘を束縛している「家」から、何の家柄もない若者が、娘を救い出す、物語でした。娘にとっては、パートナーとなる男性が、「何の家柄もない若者」であることが、肝心でしょう。「歴とした家柄の王子」が、娘を救い出した場合、その娘は、結局は、「王子の家」において、また同様の束縛を、義母から受けることになるからです。
 そして、『ラプンツェル』は、西洋の物語です。西洋においても・東洋においても、欧米においても・日本においても、娘が母から束縛を受ける構造は、同様なのでしょう。
 再び、本書の内容に立ち返りますと、ラプンツェルにとってのユージーンの役割を、真理さんにとってはダウニィさんが、果たしたことになるのでしょう。実家からの決別。そして、その決別を――真理さんとダウニィさんとのパートナーシップを――親族一同の前で認めた小倉さんは、父親としての「切断」の役割を、一部、果たしたと、言えるのかもしれません。

 そして、「家」といえば、小倉さんも、「小倉家」の後継者でした。自分の育ってきた「家」について、親から子へ続く束縛について、子が自らの手で断ち切ることは、自分がその「家」のお蔭で育ってきたわけですから、難しいのかもしれません。
 こうした立場上の問題に加えて、小倉さんと「家」との関係には、経済上の問題も、あったでしょう。「小倉家」の家業を承継してゆくための、株式などの財産は、小倉さんの父親または母親が、保有していたはずです。両親との関係を、小倉さんが断ち切った場合、小倉さんによる家業の承継は、覚束なくなります。家業を承継するため、両親からの干渉が、断ち切りにくくなる。そうした問題が、家業の承継においては、生じるのではないでしょうか。

(3)「父親の規範」が無力に

 それにしても、論理と倫理のひとだった、小倉さんは、なぜ、真理さんに、父親として、社会で生きてゆくための規範を、示すことができなかったのでしょう。
 いくら、小倉さんの父親が、怒鳴る父親であって、そうした父親になりたくなかったからといって、「威力を示すこと」と、「規範を示すこと」とは、違うはずです。むしろ、威力は示さずに、規範を示すことによって、その規範の真価が、問われることになるはずです。
 この問題意識をふまえたうえで、小倉さんと、真理さんとのやりとりについて、個人的に、ここで想像してみます。
「〇〇しなさい。そうでないと、社会で、他人と信頼関係を築いてゆくことができない」
「でも、お父さんが、〇〇していたから、お父さんは、私と向き合うことができなかったんでしょう」
 このように、子どもと向き合うことのなかった父親の示す規範は、その子どもに対しては、説得力を持つことが、なくなるのではないでしょうか。
 本書によると、小倉さん自身、真理さんと向き合うことができなかったことについて、負い目を感じていたといいます。負い目を感じていたからこそ、小倉さんは、真理さんに、規範を示すことができなかったのかもしれません。
 外向きの倫理(仕事のための倫理)と、内向きの倫理(家族のための倫理)とは、ひょっとすると、違う性質を有しているのかもしれません。このことについて、政治学者・岡野八代さんが、「ケアの倫理」という概念を、提出していたことを、個人的に、思い出しました。

 なお、小倉さんは、真理さんが、ある程度の年齢に達してからは、真理さんと朝まで議論するなど、小倉さんなりに、真理さんに向き合っていたようです。
 このことから、個人的に、連想。少年少女たちの「自分でも、自分がどうしたいのか、分からない」感覚。その「分からなさ」に向き合うこと(岩宮恵子さんのいう「内面の形成」に向き合うこと)も、大人にとっては、大事なことなのでしょう。
 精神科医・大平健さんの『やさしさの精神病理』岩波新書に、こうした趣旨のことが、書いてあります。「ひとは、自分の悩みに、自分で気が付くことができないときに、心身症になる」。そして、「ひとは、自分の悩みに気が付いたら、自分で立ち直ってゆく」。悩んでいるひとに対して、必要な役割は、「答えを提示すること」ではなく、「悩みを聴くこと」なのでしょう。

(4)甘やかし ~経験の奪取~

 小倉さんが、真理さんに対して、感じていた、負い目。その負い目から、小倉さんは、真理さんに対して、父親としての規範を、提示しにくかった。ここまでは、上記(3)において、述べました。
 そして、小倉さんには、真理さんに対して、「規範を示さない」を超えた、「甘やかし」があったようです。
 ヤマト運輸に勤務した真理さんに対し、注意しようとする上司を、なだめる。
 真理さんが「店を出したい」と言えば、開店のために、小倉さんが動く。
 いずれも、真理さんにとっては、社会において、他者と関係を結んでゆくために、貴重な経験となるはずの、機会です。自分の人権と、他者の人権とが、衝突して、その調整が必要になる、機会。または、失敗したり・挫折したりして、教訓を得る、機会。その機会を、小倉さんは、真理さんから、奪い取っていました。
 まるで、小倉さんは、真理さんを、家から、自立させたくなかったかのようです。

(5)愛娘への愛着 孤独な晩年

 小倉さんの真理さんに対する愛着は、自分の最期の日々を過ごすために、真理さんのもとへ渡航したことからも、うかがうことができます。
 このことについて、スタジオジブリのプロデューサーである鈴木敏夫さんは、「真理さんが子どもだったときには、父親として、向き合うことが、大してなかったのに、自分の最期の日々は、真理さんのもとで過ごしたい」とする、小倉さんの態度について、その自分勝手さを、指摘しています。

 そもそも、真理さんは、小倉さんと一時は同居していたにもかかわらず、その同居を解消して、アメリカへ渡っています。
 愛娘に対して、同居したがり、愛着を示してくる、父親。こうした父親は、当の娘にとっては、厄介な相手なのかもしれません。父親にとっては、気の毒ですけれども…
 このことに関連して、作家・開高健さんが、こうした趣旨のことを、書き残しています。「娘が子どもだった頃、あまり、向き合うことができなかったので、娘が大人になってから、同居してみたところ、短期間で、娘から『気が狂いそうだから、別居したい』と言われた」(『一言半句の戦場』集英社)。
 晩年の父親の孤独。父親は、その長い晩年を、どのように、過ごせばよいのでしょう。

 晩年の小倉さんは、銀座の女性と、数年間を共に過ごしました。その女性も、小倉さんの最期の日々にまで、付き添うことは、しませんでした。
 こうした女性の態度に比べて、小倉さんは、本気だったようです。最後に入院していた病院にて、小倉さんの書いたメモには、「一緒に暮らそう」などの熱烈な言葉が、複数枚にわたり、書き連ねてあるそうです。
 このことに関連して、またも開高健さんの文章を、個人的に、思い出しました。開高さんの最後の小説、『珠玉』には、若い女性と遊ぶ、中年男性が登場します。中年男性は、おそらく、開高さん自身でしょう。その中年男性は、若い女性に、金銭と食事とを与えて、一緒に遊びつつも、「この娘は、やがて、近い年代のパートナーを見つけて、去ってゆくのだろう」と、達観しています。女性と遊ぶ経験の多かった開高さんと、女性と遊ぶ経験のおそらく少なかった小倉さんとの、女性経験についての多寡、その差を、二人の晩年の、女性に対する態度から、個人的に、感じます。
 なお、上記した付き添いの拒否について、著者である森さんは、「あくまでも仕事での付き合いだったとする、女性の矜持」と、解釈しています。一方、鈴木敏夫さんは、「女性も、小倉さんの態度に、娘さんに対する態度と同じような、冷たさを感じ取ったのでは」と、解釈しています。

 父と娘ほどに年の離れた女性と、晩年を、共に過ごす。この構図について、私は、宮崎駿さんの映画『風立ちぬ』のことも、思い出します。劇中の二郎と菜穂子にも、相当な年齢の差が、ありました。
 相当年下の女性との交際。こうした交際願望のある男性には、その心の奥底に、「自分の人生を、やり直したい」という、更なる願望が、潜んでいるそうです(千田有紀『女性学/男性学』岩波書店)。
 小倉さんも、上記の女性との交際を通して、自分の人生を、やり直したかったのかもしれません。しかし、金銭面・待遇面で、いくら厚遇しても、それは、相手の女性と、絆を結ぶことには、つながらなかったようです。相手と絆を結ぶためには、「相手を生かすこと」が、必要となるのでしょう(【読書】『星の王子さま』参照)。相手を生かすためには、相手と向き合い、相手が、どのように生きてゆきたいのか、その思いを汲む必要が、あるでしょう。

(6)時間の確保

 私は、いままで、「正社員×専業主婦」という、夫婦についての標準形態に関して、夫が正社員として長時間労働に従事すること、そのことによって、夫が家族と向き合う時間が無くなることを、問題視してきました。
 しかし、正社員ではなく、経営者である小倉さんもが、家族と向き合う時間を、確保することができずにいました。率先垂範、「経営者は、従業員の誰よりも、働き者であるべし」。仮に、そうだとすると、経営者こそ、長時間労働から、脱却しにくいことになるのかもしれません。
 経営者・自営業が、家族のための時間を確保するためには、どうすればよいのでしょう。時間の確保にあたって、問題となることのひとつは、経営者・自営業が、他社との競争状態にある、ということでしょう。その他社は、自社と同じく、自分たちの生計を立てるために、一所懸命に働いている、競争相手です。一所懸命に競争すればするほど、自社も他社も、家族のために確保できる時間が、少なくなってゆきます。
 ここで、個人的に気になることは、「競争」という概念が、「物を豊かにするため」の概念であって、「人が幸せになるため」の概念ではない、ということです(上林憲雄ほか『経験から学ぶ経営学入門』〔第2版〕有斐閣)。競争によって、商品の価格が下がり、その分、社会において、物が豊かになる。そのように、「競争」という概念についての生みの親である、アダム・スミスは、考えていたそうです。アダム・スミスは、「人が幸せになること」については、どのように考えていたのでしょう。

(7)小倉さんの経営手法

 本書においては、要点のみの紹介でしたけれども、小倉さんの経営手法についても、個人的に、大変興味を持ちました。主に、下記の点に関して、具体的に、更に詳しく、知りたいです。
・ 宅急便前、小口輸送から大口輸送への切り換えに失敗したあと、ヤマト運輸は、どのような状況に陥って、その状況から、どのように経営を立て直したのでしょう。
・ 宅急便という、他社にないビジネスシステムを、どのようにして、構築したのでしょう。
 ※ このことは、前回の記事で書いた、「他社にはないサービスを作り込む」(三品和広『経営戦略を問いなおす』ちくま新書)ことに、関連しています。
・ 「サービスが先、利益は後」。利益について、どのように、出るようにしていったのか。
 ※ このことは、前回の記事で書いた、「贈与から交換へ」に、関連しています。

(8)社会が置き去りにしてきたもの

 前回の『個人的な体験』についての記事で、私は、「贈与から交換へ」「交換から互酬へ」という、個人的な問題意識について、書きました。
 本書を読み、その問題意識が、更に発展しましたので、ここに、書き留めておきます。
 「交換から互酬へ」。このことは、「ひととひととがお互いに食い合うこと」から、「ひととひととがお互いに生かしあうこと」への転換を、意味しているでしょう。つまり、他者と互酬の関係を結んでゆくためには、そもそも、自分のしている仕事が、「ひとを生かす仕事」である必要があることになります。
 現代における、「ひとを生かす仕事」。そのひとつは、「これまで成長してきた社会が、置き去りにしてきたものについて、手入れをする仕事」ではないでしょうか。社会が、置き去りにしてきたもの。その具体例は、少子化、高齢化、空き家でしょう。
 少子化に関する手入れは、「子育てのできる職場にすること」。
 高齢化に関する手入れは、「成年後見」。
 「成年後見」についても、「空き家」についても、ある家族の問題が、長い年月を経て、解決しないまま、今日に至っている場面に、遭遇することがあります。その問題を、「ほぐす」。「ほぐす」ことで、その家族を、自由にする。それが、いまの私の取り組むべき、「ひとを生かす仕事」なのかもしれません。
 ひとと絆を「結んでゆく」ことと、同じくらい、ひとの絆を「ほぐしてゆく」ことも、大事なのかもしれません。

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