【読書】河合隼雄『日本文化のゆくえ』

河合隼雄『日本文化のゆくえ』岩波現代文庫 G279 2013.1.16
https://www.iwanami.co.jp/book/b255910.html

河合隼雄さんの社会観の集大成。河合さんが編集代表となった、シリーズ『現代日本文化論』全13巻を通観してまとめたもの。
初出は2002年。当時のアメリカは、ブッシュ政権。同政権は、一極主義を掲げていて、それとの向き合い方が問題になっていました。この本においても、「欧米と日本」「西洋と東洋」という二分法での発想法のもと、記述が進んでゆきます。

1 自我と自己

日本では、国家、企業、家族が頼りにならなくなった末に、自分しか頼ることのできるものがなくなり、そこから「自分探し」が流行るようになった。
欧米の社会は近代的自我(強い自我)を基礎として出来上がっている。その基礎には、キリスト教の絶対神という、強い支えがあった。近代的自我にも、それを支えるものが、必要である。日本には、近代的自我を支えるものがない。そうした状況で、どうやって自分を探すのか。
近代的自我というもの一辺倒の考え方にも問題がある。心理学者ユングは、自分も精神疾患を抱えながら、自我を探求していった末に、意識(自我)の奥に無意識(自己)が広がっていることを発見した。ユングの発病中に描いた絵が、東洋のマンダラと、よく似ていたのである。マンダラは、人間の無意識の象徴である。
自我(意識)は、自分におけるほんの一点で、その奥に自己(無意識)が広がっている。無意識の世界からは、何が出てくるか分からない。そして、無意識の世界においては、自己と他者の区別すら曖昧になる。それらの危険を覚悟しながら、探し続ける勇気が、「自分探し」には必要である。

〔中島コメント〕

「認知症高齢者の意思決定支援」という考え方が、妥当でない印象があり、いつも気になっていました。そのことについて、河合さんの文章は、考える良いヒントになりました。意識の世界が縮小して、無意識の世界が前面に出てくるようになったひとたちに、「意思決定支援」をしてゆくことは、果たして適切な対処なのでしょうか。むしろ、無意識の世界に着眼したほうが、適切な接し方が考案できるかもしれません。

2 家族

キリスト教による近代的自我を持った「強い個人」には、結婚する必要がなくなる。「個人で生きていくことができるなら、結婚する意味は?」。彼ら彼女らが結婚するには、同教の道徳による促しが必要であった。

日本では、新憲法(日本国憲法)により「イエ」制度が解体。その代わりに企業が「イエ」化した。そして長寿化により、企業が高齢者を抱えきることができなくなった。企業は高齢者を放出。孤独な高齢者が増えることになった。

「家族と生きていく」ということは、「自分の存在をかけて、相手を理解していく」ということである。※66頁の第2段落からはじまる3つの段落の文章が興味深いです※

〔中島コメント〕

「イエ」の解体の原因は、果たして「日本国憲法による新しい家族制度の制定」だったのでしょうか?
むしろ、戦時中の総力戦体制による長時間労働化・転勤命令自由化が、「イエ」解体、核家族化、単身化の原動力になってきたのではないでしょうか。
この問題は「日本国憲法が想定する家族像とは」という問題にも、つながってきます。
そして、「その家族像が、キリスト教の想定する家族像から、どれくらい影響を受けているか」ということも、興味深い問題です。

3 教育

日本における、入学した学校によって、社会における身分が決まる仕組みは、儒教的階級観の現れである。
また、日本では、「民主主義」という名目で、飛び級も落第もない「絶対平等」制度が出来ているが、民主主義の本源である欧米には、飛び級も落第もある。違うものを違うなりに扱うことが、教育における平等である。
日本の教育は、生徒を「型」にはめる傾向が強い。西洋の学問も、日本の「型」式で教える。「型から逸脱してはいけない」。しかし、「型」は骨組みである。肉付けは、生徒自身に任せるもの。肉付けまで「型」として強制すると、生徒の自主性・創造性を殺す。「教育が好き」と自称するひとたちは、子どものたましいを殺すことが多い。
総じて、日本における教育は、子どもとの関係を切断して、子どもを操作する対象として扱っている。これからの教育においては、一人一人の子どもが、どのようにして生きていこうとしているのか、その物語に寄り添っていくことが必要になるだろう。

〔中島コメント〕

学歴身分社会が儒教的階級観の現れという指摘、隣国である韓国も同様の社会であることと考え合わせますと、大変興味深いです。

「型」は骨組みである。肉付けは、生徒自身に任せるもの。
一人一人の子どもが、どのようにして生きていこうとしているのか、その物語に寄り添っていくこと。
学校教育のみならず、職場教育においても、念頭に置いておきたい言葉たちです。

こうした河合さんの言葉から、大村はまさんの『教えるということ』の内容を思い返してみると、「子どもとの関係の切断」「子どもを操作する対象とする」に、それぞれ当てはまる記述がありました。「教師は、忘れられていい」。「子どもに、社会で生き抜いてゆくための力を身に付けさせる」。

4 仕事

近代化前は、職業の順位は、士農工商。近代化後は、商工農士。儲かる仕事が良い仕事、ということになった。
近代化前は、工業も農業も、自分の作るものは、自分のいのちであり、たましいであった。

仕事に遊びを。「遊び」とは、心に余裕を持つこと。自分の行為を少し離れたところから眺めること。自分にとって意味のあることだからする、というようにすること。
キリスト教においては、「聖なること」「遊び」「仕事」を区別してきた。これらを一体化してゆくことが大事なのではないか。

職業と仕事とは、イコールではない。「職業に就く」のではなくて「仕事を作る」。自分の仕事を、いかに作り出すか。そのことが、これから重要になってくるだろう。

〔中島コメント〕

「自分の作るものは、自分のいのちであり、たましいである」。私も、自分の提案する解決、自分の作る書類が、自分のいのちであり、たましいであるように、してゆきたいものです。自分が生きてゆく上で、「ものをつくること」とは、どういうことなのか、今一度、見つめ直してみたい。そのように、このところ、考えています。

「仕事と遊び」の関係については、鷲田清一さんの『だれのための仕事』に、突っ込んだ考察がのっていました。関連して、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』を、ぜひ読んでみたいです。

「自分の仕事を作る」。いい言葉ですね。出来合いの職業カタログから、仕事を選ぶのではなく、自分にとっても他人にとっても必要な仕事を創り出す。確かに大事な発想です。

5 消費

現代日本社会は、ショッピング・アディクト社会。ショッピング・アディクトとは、「買い物・依存症」のこと。
ひとびとは、自分の本当に欲しい物が何なのか、分かっていない。だから、いくら消費しても、満足が伴わない。
また、自我に対して、外から強力な欲望規定がかかるようになっている。欲望の不自然化。欲望の自然破壊。その結果、欲望が衰退したり、欲望が暴発したりする。
「心と物」そして「生産と消費」から考えると、人間の活動は、次のように整理できる。

Ⅱ 物の生産  Ⅰ 物の消費
Ⅲ 心の生産  Ⅳ 心の消費

これらすべてについて、完璧に活動しようとすると、その人は疲れ果てるだろう。
その人その人の個性に合わせて、どのようにバランスよく労力を配分して活動してゆくかが大事。ただし、ひとの個性は、一生かけて変わってゆくもの。
また、「心と物」・「生産と消費」という二分法は、西洋の発想法。果たしてこれらがそれぞれ完全に二分できるのかという問題もある。

〔中島コメント〕

私も活動が消費に偏った人間です。
物の生産(解決の提案、書類の作成。また、料理を作ることも)や、心の生産(知識・技能を他者へ伝えていくこと。他人を世話すること)について、自分の活動のなかで、より比重をかけてゆきたいものです。

6 科学

近代科学はキリスト教から誕生した。神、そして神の創った自然から、人間という存在を切り離すことで、人間は自然を対象化して、その法則を体系化できるようになった。
その後、科学を扱う人間は世俗化して、神が科学から離れた。このことを聖俗革命という。この経緯は村上陽一郎『近代科学を超えて』に詳しい。
そして更に、科学は人間の身体から飛躍する。電子、原子、放射線など、科学は、人間の目に見えないもの、触ることができないものを、その対象とするようになった。
その結果、人間は、「どういう仕組みになっているのか、自分には分からないもの」を、日常生活のなかで使うようになった。テレビ、パソコン。人間は、自分の身体から飛躍して、自分の理解を超えたものに接するようになった結果、心身症を発症するようになったのではないか。
心身症の治療は、近代科学にはできない。近代科学は、対象との関係を切断して、因果律で物事を把握する。心身症の治療には、対象との関係性、そして偶然の出来事が、必然的にからんでくる。そうした意味で、これからは「人間の科学」が必要となってくるだろう。

〔中島コメント〕

人間が、「どういう仕組みになっているのか、自分には分からないもの」を扱うようになった、という記述、興味深いです。
確かに、私たちは、パソコンや、案件管理システム、書類作成システムについて、その仕組みが分からないまま仕事をしています。そして、パソコンやシステムが動かなくなると、それらが管理業者の作業によって復旧するまで、仕事が止まります。また、パソコンの更新、システムの更新には、更新料がかかり、無視できない金額の出費が発生します。人間の作り出したものから、人間の活動が、規定を受けています。
この状況に関する対応の方法は、二通り、あるでしょう。
(1) パソコンやシステムの仕組みに習熟して、自力で復旧できるようにする。自力でシステムを構築できるようにする。
(2) 法律事務のためのパソコン操作やシステム運用の基礎になっている、法的判断や書式体系に通暁して、パソコンやシステムに依存しなくても、仕事ができるようにする。
(2)が、着手しやすく、堅実な方法です。しかし、(1)も、無視できない方法でしょう。

「人間は、自分の身体から飛躍して、自分の理解を超えたものに接するようになった結果、心身症を発症するようになったのではないか」という指摘も、興味深いです。中井久夫さんの『分裂病と人類』を読んで、この指摘と考え合わせたくなりました。

7 異文化理解

河合さんが戦時中、軍国主義に染まらずにいることができたのは、内なる異文化(西洋文化)のおかげだった。近代合理主義、そして個人主義。だから、自然科学、特に数学を専攻した。高校教師になって一生を過ごそうとしたところ、生徒のカウンセリングのため、心理学を学ぶことになり、アメリカへ留学した。留学当初、自分には内なる文化として西洋文化が身に付いているから、何の問題もなく留学生活を送ることができるものと考えていた。しかし違った。あれこれと頻繁に起こる文化摩擦について考えていった結果、やはり東洋と西洋では人間観や世界観が違うのだと考えるようになった。それが「父性原理社会・母性原理社会」という自説に結実した。

本当に人間を変えるものは体験しかない。
異文化への一番簡単な対し方は、それを自分と「異なる」ものとして、関係を断つこと。
しかし、異文化体験は、自己実現に深く関わっている。実現するべき自己は、現在の自分にとっては全く思ってもみないような異文化性を持っている。「どうしてこんなことを」とか「なぜこんなことを」と言いたくなるような要素を体験しなくてはならないところに、自己実現の本質がある。

〔中島コメント〕

河合さんの「父性原理社会・母性原理社会」という二分法、これはこれで、西洋文化の特徴である「二分法」からの影響を受けているのかもしれません。世界のそれぞれの社会には、もっと多様性があるのではないでしょうか。
とはいえ、「父性原理社会・母性原理社会」という考え方は、興味深いです。河合さんの『母性社会日本の病理』も、いずれ読みたい一冊です。

「どうしてこんなことを」と言いたくなるようなことに、向き合うこと。
同様の趣旨の言葉が、上記2「家族」においても出てきていました。「家族と生きていくということは、自分の存在をかけて、相手を理解していくということ」。
これらの言葉が表す考え方は、これ以降の文章にも繰り返し出て来ていて、本書における通奏低音になっています。

8 夢

近代社会は、数々の夢を現実化した。月にだって行った。その結果、夢の方が貧困化した。
近代社会における現実は、近代科学による数量化により単層化した現実。数量は金銭に換算できる仕組みになっている。この社会で夢を叶えるためには、お金を稼ぐことが必要となり、稼ぐために人々は、たくさん働くことになる。その結果、なおさら夢と遊びが減ってゆくことになる。
また、お金を稼ぐためには、良い大学を出て、良い企業に就職することが大事ということになる。その結果、子どもたちの暮らしにおいても、勉学の比重が大きくなり、彼ら彼女らの夢と遊びが無くなることとなる。
しかし、夢を孕まなければ、そして遊びを孕まなければ、現実というものがおよそ成り立たないはずである。夢と遊びは、「たましいへの通路」である。たましいは、心と体をつなぐものである。
現実の社会において、社会的な地位に関して、どのように成功しても、「他の誰でもない固有な人として接することのできる相手」がいなければ、たましいに必要な課題を達成したことにはならない。

これから近代社会において夢と遊びを追求してゆくにあたって大切なものは、ボランティア精神だろう。
ボランティア精神とは、「自分を生かそうとする意志を、計算を無視して貫徹すること」。
自分を生かすことが中心でよい。そこから、他者への配慮が生まれてくる。
計算には、経済的なこと、社会的なこと、心理的なことも含む。

補足1。かつての青年たちは、社会変革への夢を持っていた。その夢は、潰えた。
いまを生きる若いひとたち、彼ら彼女らの近未来への絶望は深い。

補足2。近代社会では、近代科学の発達により、人々が宗教を信じることが難しくなった。その結果、宗教の持っていた「死後の夢」(死後の生命の物語)が、人々から失われた。「死後の夢」がないので、人々は自分の人生を短く感じて、あくせくするようになる。「死後の夢」を、どのように再び構築するかが、この社会を生きる人々の課題である。

〔中島コメント〕

近代社会における「仕事」と「夢と遊び」との対立関係について、ここにも指摘が出てきました。
河合さんの文章からは、「夢と遊び」を、「配偶者」「子ども」とともに楽しむものであるとする発想を、読み取ることができます。「夢と遊び」の「家族」との結合。それが、たましいに必要な課題。興味深い指摘です。

数量化の進んだ「仕事」に対する「ボランティア」の重要性。このことについても、鷲田清一さんの『だれのための仕事』に、より敷衍した考察がのっています。
「計算の無視」。いまの社会における「仕事」が計算ずくめなので、確かに重要な指摘ではあります。しかし、全ての計算を無視してよいのでしょうか。むしろ、計算も夢と遊びに貢献するものとして組み込むことができると、なお良いのではないでしょうか。

若いひとたちが「近未来への絶望」を抱えていること、同感です。
学生さんたちや、新社会人の方々と、自分たちそれぞれの将来について話し合う機会があり、そこで出て来た彼ら彼女らの将来像が、ほんの4~5年先までしか想像が及んでいないものばかりでした。「夢の貧困化」を実感しました。

9 芸術

現代社会は「恐怖」よりも「不安」を抱えている。「恐怖」は、明確な対象について抱く感情。「不安」は、対象が不明確であることによって生じてくる感情。

創ることは、癒すことにつながることがある。しかし、だからといって単純に、被災者に対して「絵を描け」と促してよいものではない。創ることについては、「自己」(無意識)の働きが大きい。無意識には狂気も潜んでいる。創ること、狂うこと、癒すことには、密接な関係がある。癒しのための創作活動には危険が伴うことを、認識しておくべきである。
ベートーヴェンは、私生活においては、発狂したかのような暮らしぶりの人物であった。まるで、自分の創作活動に適した環境を自ら創り出していたかのようであった。しかし、狂人じみた人物であったからといって、仮に河合さんがベートーヴェンの治療について、誰かから依頼を受けたとしても、「私は彼を『正常な人間に治そう』とは思わない」。

日本人の創造性。
欧米における創造は、「確立した自我」が行う。日本における創造は、「消失した自我」が行う。無意識の世界から来る創造性。

〔中島コメント〕

「創ること、狂うこと、癒すことには、密接な関係がある」。箱庭療法を実践してきた河合さんならではの、実感のこもった指摘です。中井久夫さんも、統合失調症の治療において、患者である方々に、絵を描いてもらっていたといいます。

何が出てくるか分からない危険はありつつも、遊びで絵を描いたり、物語を書いたり、詩や歌を詠うことも、人間の人生においては、大事なことなのかもしれません。

10 死

「二人称の死」という考え方。自分にとって親密な相手の死。
その死について、近代科学は、死因しか説明できない。たとえば、「がん」。もっと切実な問いである「どうして『私にとっての』『この人』が死んでしまったのか」には、答えることができない。
「二人称の死」を受け入れるための「グリーフ・ワーク」(悲哀の仕事)は、生前から始まる。相手が、相手にとっても・自分にとっても納得のいく最期を迎えることに、どれだけ貢献することができるか(第1段階)。それが、相手の死を受け入れることの難しさ・易しさに影響する(第2段階)。その経験は、「一人称の死」(自分の死)を迎える準備にもなる。
このように、人のいのちにおいては、死にゆくひとの生物学的ないのちだけでなく、愛する者と共有し合う精神的ないのちが、重要な要素となっている。

延命治療。
とあるシンポジウムでの出来事。河合さんはパネリストとして参加していた。
保険関係者は「全ての人に延命治療を実施すると、どの国家の財政も破綻する」。
医者・宗教家・弁護士は、「こういう場合には、延命治療を打ち切ってはいけない、ということは、言える。積極的に、こういう場合には、延命治療を打ち切ってよいということは、言えない」。
看護師の発言が異質だった。「私の看ていた患者さんで、入院時には『できる限りの延命措置をとって欲しい』と主張していたひとがいました。入院後、そのひとは、『延命装置がどんなものなのか、目にしてはじめて分かった。いままで私は、死を敵だと考えていた。それは間違いだった。死は私の友人である』。そう言って彼は、延命治療を自らの意思で拒否して、逝去しました」。
河合さんによる、まとめ。私たちは、「どう生きていくか」について考えていくと同時に、「いかに死んでゆくか」についても、考えてゆかねばならない。

クオリティ・オブ・ライフ。生命の質。
生命の質は、計測できるのだろうか? パーキンソン病の患者で、握力計では数値が「ゼロ」だったひとが、鉛筆を握って、詩歌を書くことができた。
客観的生命観と主観的生命観との折り合いをつけてゆくことが大事である。

喪の仕事。悲哀の仕事ともいう。
この仕事には、分かち合う相手が必要である。感情の高ぶり。その収まり。その経緯のなかで、ひとは死者の居場所を「あの世」に定位し、その死者との関係を構築する。そうしてはじめて、喪の仕事が終わる。

自我の確立と終焉。
自我の確立にこだわったひとは、その終焉にも直面することになる。そのとき、いかにして、その終焉を受け入れることができるか。宗教から切れた「近代人」にとっては、難しい問題である。
各地に古くからある物語が参考になるかもしれない。河合さんの好きな物語はインドの「子ザルとばあさま」である。年老いて自分の心のなかの、子ども性、動物性と共存し得る人は、安らかな死を迎えると、この物語は告げている。

〔中島コメント〕

悲哀の仕事については、小此木啓吾さんの『対象喪失』(中公新書)に詳しいです。

自分がいかに死んでゆくか。そのことを考える前提として、自分と親密なひとの死を、いかに共に迎えるか。重要な問題意識の提示です。
私個人についていえば、成年後見業務に従事していて、何人ものひとの死に、向き合う状況が続いています。「よき最期とは」。そのことを追究してゆきたいです。

延命治療についての記述からは、「生きてさえいれば、それでよい」という医療の発想が、本人を苦しめることがあるかもしれないという問題意識と、そのことから転じての、「長生きすることは、全面的に良いことなのか」という問題意識を読み取ることができます。

ひょっとしたら、欧米の国々における寿命が、日本における寿命にまで及ばないのは、欧米において、自我の終焉について、ある程度のところでよしとする文化が、日本においてよりは形成できているからなのかもしれません。

「子ザルとばあさま」。
最期を迎える心のなかでの「子ども性」「動物性」の重要さ。「子ども」「動物」は、いずれも「自然」に属するものです。
神谷美恵子さんの『生きがいについて』においても、「人間は、死を迎えるにあたって、自然とのつながりを意識する」という趣旨の記述がありました。
看取りにおける「自然」の役割について、河合さんの記述から、神谷さんの記述を思い起こし、興味を新たにしました。

11 宗教

信仰とは、「何かを信じる思い、内的確信、信念」。
宗教とは、「祈りや祝祭といった儀式、年中行事」。

宗教的態度とは、「自分自身とのかかわりを切ることなく事象に接し、そこに自分の存在を超えるもの、あるいは少なくとも自分の知的理解を超えるものを感じとり、あくまでそれを避けることなく理解しようとし続ける態度」。

宗教性は、個人で持っていてもよいし、集団に属してもよい。
宗教が集団化すると、集団の維持運営についての世俗的な要素が入り込んできたり、集団の有する標準化の力が、個々人の信仰と葛藤を生じたりする。ある宗教が生まれ、発展して立派な組織を構築してゆくのに比例して、それの持つ本来の宗教性は弱くなっていく。

キリスト教から派生した近代自我は、神との関係が切れて、その中心を喪失した。その結果、欲望を抑制できなくなった。また、自分の死を受け入れることができなくなった。

かつて、キリスト教においては、「アミニズムが多神教になり、多神教が一神教になってゆく」という発展史観が優勢だった。これを見直す動きが出てきている。宗教多元主義。
宗教多元主義は、遠藤周作の『深い河』にも影響を与えている。

現代においては、アミニズムも、多神教も、一神教も、どこか論理的に矛盾していて両立し難いものを、生きてゆく上において、共存させてゆく工夫や決意が必要である。

〔中島コメント〕

「家族」においても「異文化理解」においても出て来た、人間が生きていく上で必要な態度。それが、ここでまた「宗教的態度」として出て来ました。
河合さんは、「西洋における父性原理の要素は『関係の切断』にある」ということも指摘しています。「関係を切ることなく、理解してゆく」。この態度が、西洋化の進み過ぎた社会において生きてゆくにあたって、その根本的な態度として、重要である。そのことを河合さんは強調したかったのかもしれません。
本書以後、2003年には、イラク戦争が起こりました。アメリカ(西洋世界)とイラク(中東世界)との関係の切断。「河合さんの危惧が、世界規模で実現した」ということができるかもしれません。

欲望の抑制ができないこと。自分の死を受け入れることができないこと。
本書初出から16年が経過した2018年でも、問題状況は、変わっていないようです。これらの傾向に、拍車がかかってきているようにも、個人的には感じます。

12 倫理

道徳とは、「善いことと悪いことについての社会的な(世間的な)コンセンサス」。
倫理とは、「外部の参照軸には依拠せずに、ときにそれに抗してなされる決断。個人の選択と深く結びついている善悪の基準」。
個人のなかで、道徳と倫理は対立することがある。

日本人には、道徳性はある。倫理性はない。
道徳性は「世間の目」。横並び意識。同じ庶民の目から見て、悪いことはしない。
しかし、これが世間から離れて、高位高官になると、その立場に対応する倫理がないので、悪いことを平気でするようになる。
同じ日本人のなかに、道徳性の高い庶民と、倫理性の低い高位高官が、無関係に併存している。

複数のアイデンティティ論。
河合さんは、軍国主義の時代、軍国主義のアイデンティティだけではなく、個人主義のアイデンティティも持っていたので、軍国主義に染まらずに済んだ。
多神教においては、その性質に見合った複数の倫理を持つことができる。ただ、その複数の倫理を選択するときの基準は何であるのか。一定の基準があるのなら、それは一神教から生まれる単数の倫理と、結局は同じなのではないか。
日本人は、複数の倫理から一つのものを選択するとき、論理性よりも美意識(収まりのよさ)を優先しがちである。しかし、それでは、「世間の目」を気にすること、つまり横並び意識から、変化していないことになる。

そして、東洋において「自我の否定」による「無意識の世界」から出来上がった倫理観が、近代自我の生み出した圧倒的な物質面での豊かさのなかで、揺らがずにいることは、できるのだろうか。

〔中島コメント〕

正直なところ、河合さんの「複数のアイデンティティ論」は、いまひとつ、よく分かりませんでした。
河合さんは、東洋における倫理の複数性を問題にしていました。しかし、私は、逆に、西洋における倫理の単数性が問題なのではないかと考えます。
そこまで一貫した自我、一貫した倫理というものは、ありうるのでしょうか。
アイデンティティという言葉について考えるとき、私は、作曲家・武満徹さんの書いた、この文章を、いつも思い出します。
「音と音とは、響き合うと、お互いの波長を変え合い、お互いを違う音に変え合う。そこから音楽が生まれてくる。人間も同じ。ひとの考え方・価値観は、他者との出会いによって、変わることがある」
人間のアイデンティティも、そこから出てくる倫理も、「終始一貫」というよりは、武満さんが書いているように、他者との出会いによって、変化を続けていくものなのではないでしょうか。
そうなると、倫理として明確なものを最初に打ち立てて、それを堅持していくというよりは、その場その場で、自分の歴史観・社会観・人間観・人生観を総合して判断していって、その歩みを振り返ることで、「ああ、自分は、こういう倫理を持って生きて来たんだなぁ。ここで、こういう変化があったんだなぁ」と、自分の倫理を確かめていく、そうした生き方が、適切なのではないでしょうか。

日本文化の抱える問題点を、網羅的に検討。
考えるヒントをたくさん得ることができた好著でした。
読んで消化して、自分の考えをまとめるのに、たいそう時間がかかりました…

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