【法学】水野紀子『相続法の立法的課題』①②③ 有斐閣
水野紀子『相続法の立法的課題』有斐閣 2016.3
http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641137332
現代相続法の現状、その課題について、学者さんたちが結集して研究。その成果。
問題意識は、「私には、私たちの相続法が分からない」。そもそも、日本における相続法には、その基礎理論についての検討が、不足していたのではないか。
初出は、論究ジュリスト「特集 現代相続法の課題」。この特集に出た論文たちは、その後、私法学会のシンポジウムでの基調報告になった。シンポジウムを経て、新たな執筆陣も加え、さらに研究内容が充実して、本書ができた。
読んでみると、のちのち、今回の相続法の改正として結実した議論が、数々、のっていました。まだ結実していない議論も様々あり、今後の相続法制の行方を探るためにも、重要な基礎文献みたいです。
この投稿では、論文1・2・3を紹介します。
1 日本相続法の形成と課題(水野紀子)
戦前の相続は、家督相続がほとんどだった。
戦後、家督相続制度は廃止。それまで、例外的な扱いとして、ほとんど件数がなかった「共同相続制度」が、原則となり、一般化した。
しかし、「共同相続とは、どういうことか」について、理論面での検討は、不十分なままだった。また、共同相続手続を円滑に進めるためのインフラも、不十分だった。
※ なお、たとえばフランスでは、公証人が遺産承継に関与し、内容としても・手続としても、適正に承継が進んでゆくように、制度を設計している。
そうした状況の中、戦後の相続手続においては、「相続が発生したときには、即時に、債権も物権も、相続人たちに法定相続分で帰属して、それぞれ処分が自由である」というかたちで、実務が形成。各論点について、管轄する裁判所もバラバラであり、手続の分断が生じている。
遺産分割に、初めから、中立の法的プロフェッショナルが介入して、紛争を未然に防ぐことができるようにするべきである。ただ、弁護士が介入するとなると、相続人間の利益相反の問題が発生する。
〔中島コメント〕
「相続財産は、相続発生と同時に、各相続人へ法定相続分で当然に承継して、行使可能」から、「相続財産は、遺産承継手続が終了するまで、行使できない」へ。平成26年の国債・投資信託に関する判例、そして平成28年の預金債権に関する大法廷での決定は、こうした「相続財産に関する権利行使の前提として、遺産承継手続を必須とする」方向を示唆しているのかもしれません。
また、司法書士業界で、ここ数年の間に、新しく登場した業務として、「遺産承継業務」というものがあります。全相続人から委任を受けて、被相続人の遺産の承継手続を進める業務です。この業務は、フランスにおける公証人のような役割を、任意の段階で、司法書士が引き受けるもの、とみることができるでしょう。
ただ、司法書士には家事代理権がないのに、司法書士法施行規則31条という「規則」のみに基づいて、こうした業務を取り扱ってよいのか、根拠となる公的な見解は、まだ無いようです。さらに、水野先生も指摘しているように、相続人間の利益相反という問題も残ります。
こうした問題からすると、遺産承継については、任意の段階で、民間の専門職が引き受けるよりも、家庭裁判所が選任する「遺産管理人」や「相続財産管理人」の活動する場面を増やしたり、それらの権限を拡充したりする方が、家裁の監督による「中立の確保」もでき、よいのではないでしょうか。
2 信託法と相続法
新しい信託法には、その立法当時から、「信託法は、相続法の公序に抵触する」という批判が、ついてまわってきた。
では、「相続法の公序」とは何か? あらためて検討してみる。
(1)同時存在の原則
同時存在の原則とは、「ひとが死亡したとき、その財産を承継するひとは、同時に存在していなければならない」という原則のこと。
この原則に対して、「受益者連続型信託」は、「受贈者連続型遺贈」と同じように、反するものであるとする批判が存在する。
しかし、「受益者連続型信託」は、「受贈者連続型遺贈」とは違って、委託者の死亡時に受託者が存在するので、同時存在の原則には反しない。そう解釈することもできる。
「受益者連続型信託」は、「受贈者連続型遺贈」ではできないことを、時的限界を設けた上で、できるようにしたもの。そう肯定評価できるのではないか。
(2)遺言による担保権の設定
信託法では、遺言信託により、担保権の設定ができることとなっている。このことについて、「民法に基づく遺言では設定できないのに、信託法に基づく遺言で設定できるのは、おかしい」とする批判がある。
このことについて、民法の教科書を調べてみた。相続法の教科書では、「遺言で担保権は設定できると解する余地がある」。どの教科書も、用益権の設定の可否については、何も述べていない。物権法の教科書では、「遺言で用益権は設定できるけれども、担保権は設定できない」。相続法と物権法とで、解釈に食い違いがある。
果たして、「遺言による財産の処分」というときの「処分」とは、どこまでの行為を指しているのか? 定説は、ない。
(3)遺留分
信託が、遺留分による減殺対象になることについては、争いがない。
争いがあるのは、減殺の請求先。受託者に対して信託財産の減殺を請求するのか。受益者に対して受益権の減殺を請求するのか。
遺留分という制度の趣旨について、前者は「財産の確保」という理解。後者は「最低限の取り分の確保」という理解。
これら3つの問題は、「被相続人の意思処分を、どこまで認めるのか」という問題に帰着する。
〔中島コメント〕
(2)の「遺言による権利の設定」についての議論は、今般の相続法の改正での「配偶者居住権」に結実しました。用益権が設定できることになりました。
また、(3)の遺留分についての議論は、遺留分という制度に関して、その行使後の請求権を金銭債権とすることによって、「最低限の取り分の確保」のための制度であることを明確にすることに、つながりました。
「被相続人の意思処分を、どこまで認めるのか」という問題について、個人的に、気になったこと。そもそも、どうして「遺言による財産の処分」という制度が存在しているのでしょう。被相続人の死後は、厳密に言えば、被相続人と相続人との利害対立は、生じないはずです。遺言という制度があるからこそ、利害対立が生じて、その調整が必要になります。もっと言えば、被相続人の死後は、その財産は相続人のものとなるのですから、本来、その財産は相続人が自由に処分できるはずです。その「相続人による処分の権利」を排除して、「被相続人が、死後に、自分のものだった財産を処分できる」とすることについては、特別な根拠が必要となります。その根拠とは、何なのでしょうか?
3 配偶者相続権
配偶者の権利については、戦後まもなく、昭和22年の改正では、相続権どころか「夫婦共有財産制度」の導入が検討の対象になっていた。婚姻中に、婚姻関係に基づいて取得した財産は、夫婦の共有とする制度。しかし、この制度は実現しなかった。その代わりに、配偶者の相続権の引き上げが、実現した。
しかし、この結果、配偶者は、離婚するか死別するかしないと、「内助の功」が顕在化しないことになった。さらに言えば、妻が夫よりも先に死亡したら、「内助の功」は、顕在化しないままとなる。
なお、2015年の調査では、子どもが6歳未満の共働き夫婦において、8割の夫が、家事をしていない。
配偶者相続権を拡充するよりも、「配偶者が婚姻解消を待たずに、財産を取得できるようにする」べきである。
〔中島コメント〕
配偶者が、離婚するか死別するかしないと、「内助の功」が顕在化しない仕組み。この仕組みは、専業主婦である妻について、経済面で制約をかけて、離婚を思いとどまるように機能していたのではないでしょうか。
昭和61年、男女雇用機会均等法の施行以降、離婚件数は増えて、20万件を突破。その後、減少傾向ですが、20万件という水準は維持しています。共働きの夫婦が増えた結果、妻についての経済面での制約が弱まり、離婚しやすくなったのでしょうか。
こうした問題に触れると、婚姻制度は、「総力戦体制国家のなかの最小単位としての家族(会社員×専業主婦)を形成して維持するための制度」なのかもしれないと、個人的に感じます。
「愛情で結び合っている」という家族像も、国家が振りまいた幻想なのでしょうか。
そうした婚姻制度というものを、アタマから取り払った上で、個人的に考えてみたいこと。そもそも、「ひととひととがパートナーになる」ということは、一体どういうことなのでしょう。
藤田結子さんの『ワンオペ育児』についての感想のなかで、私は、鷲田清一さんの言葉、河合隼雄さんの言葉を引用しました。
「三人称の視点から『あの人は社会的にああだ、経済的にこうだ』ではなく、二人称の視点から『わたし、あなた』の関係になること。自分を賭けること」
「現実の社会において、社会的な地位に関して、どのように成功しても、『他の誰でもない固有な人として接することのできる相手』がいなければ、たましいに必要な課題を達成したことにはならない」
自分としては、それぞれ、もっともな言葉だと感じます。しかし、実際には(同じ年度での比較で)3割以上の夫婦が離婚しています。
そんなに、ひとの心がうつろいやすいものであるなら、極論としては、「チンパンジーのように、そのときたまたま気に入った相手と子どもをつくって、子どもは群れで育てることとしたほうが、大人も子どもも、のびのび生きてゆくことができる」という意見も、成立しそうです。
でも、そう個人的に考える一方で、いままで自分が人生のなかで接してきた、「深い愛情で、長年、連れ添ってきたご夫婦」(複数)のことも、思い出します。そうしたご夫婦(複数)は、「愛し合っていること」が「夫婦であること」よりも、先にあるようでした。
あらためて、「ひととひととがパートナーになる」ということは、一体どういうことなのでしょう。引き続き、個人的に考えてみます。