【考えの足あと】堀田善衛さんの足あと
先日の「考えの足あと/社会契約」から、更に派生した考え。備忘メモ。
映画監督・宮崎駿さんによる、堀田善衛さん評。
「堀田さんは、海原に屹立している巌のような方だった。潮に流されて、自分の位置が判らなくなった時、ぼくは、何度も、堀田さんにたすけられた」(註1)
私も、20代の半ばに、宮崎さんからの上記の紹介によって、堀田さんのことを知り、それ以来、現在に至るまで、堀田さんの著作を、枕頭の書として、読み続けてきました。
今回、あらためて、堀田さんの足あとをたどることによって、また、得るものがありましたので、ここに、書き留めておきます。
1 亡命未遂 20代
堀田善衛さん。1918-1998。
出身は、富山。慶応義塾大学へ進学。上京した、その日に、2・26事件が発生。「あの経験は強烈でした。つまり、軍隊は反乱を起こすことがある、また、天皇がその軍隊を殺せと命令することもある、そういうことを認識させられたということです」(註2)。
堀田さんの学生時代は、治安維持法が、猛威を振るっていた時代。その頃の生きづらさについて、堀田さんは、小説『若き日の詩人たちの肖像』上・下(集英社文庫 1977.1.1)に、詳しく書き残しています。
堀田さんは、東京大空襲にも、遭遇。焼け跡のなかで、民衆が天皇に対して、「私たちの努力が足りませんでした」と、土下座している光景を、目撃。「謝るべきなのは、どちらなのか」。堀田さんは、日本の国民に対して、絶望したといいます(註3・註4)。
そうした絶望から、堀田さんは、日本を見捨てて、ヨーロッパへ亡命するべく、まずは、中国・上海へ。日本人居留地に滞在。そこで、後に妻となる、「れい」さんと、出会います。れいさんも、また、ヨーロッパへの亡命を志していたひとでした。
そのまま、堀田さんは、上海において、敗戦を迎えます。上海においては、特段、中国人たちからの日本人たちへの虐待も起こらず、「どうして、私たちは、こんなに居心地がいいんだろう」。滞在仲間だった武田泰淳さん、「彼らは、私たちが、また来ると思っているからさ」(註5・註6)。
敗戦後、しばらく、上海に滞在していた、堀田さん。年若い、日本の知識人として、中国の知識人たちの前で、話をする機会が。飛んできた質問。「あなたたちは、天皇制というものを、これから、どうするつもりなのか」。この質問に対して、堀田さんは、答えることが、できませんでした。堀田さんが、答えることができないことに、中国の知識人たちも、驚いている様子。「相手は、私のことを、識者として信頼して、話を聞いてくれようとしていたのに、答えることができなかった」。頬が火照るほどの、恥ずかしさ(註7)。
こうした経験からか、堀田さんは、ヨーロッパへの亡命を、取り止め。日本への帰国を、選択。「祖国を回復するためには、革命を起こさなくてはいけない」。勇んで帰国する船上、当時、日本において流行していた歌であった「りんごの歌」を、耳に。「あの敗戦ショックの只中で、ろくに食べるものもないのに、こんなに優しくて叙情的な歌が流行っているというのは、なんたる国民なのかと、呆れてしまったんです」(註8)。
2 社会運動
帰国した、堀田さん。社会主義運動家として、文筆業を開始します。
アジア・アフリカ作家会議、そのメンバーに。その活動の一環として執筆した、『インドで考えたこと』(註9)は、いまも、増刷の続く、ロング・セラー。
その後、社会主義革命の成立した中国へ渡り、そのルポルタージュ『上海にて』(註10)を、出版。
ベトナム戦争が勃発した際には、アメリカ軍から反戦のため脱走するアメリカ兵を、逗子の自宅に匿い、その亡命について、手助け(註11)。
なお、「社会主義」と「アジア・アフリカ作家会議」との関連としては、「社会主義運動」が「アジア・アフリカの各植民地国の独立運動」をも意味していた時期が、あったようです。
3 社会主義への幻滅
社会主義に対して、熱い思いを抱いていた、堀田さん。しかし、社会主義は、堀田さんの思い描いていたような、理想的な政治体制ではないことが、だんだん、堀田さんにも、分かってきます。
決定的な出来事としての、1968年、ソヴィエトによる、チェコへの侵攻。この侵攻に関し、アジア・アフリカ作家会議において、堀田さんは、次のように演説。
「ある一国が、他国で面倒が起こっているからといって、軍隊をもって鎮圧するなどということは、とんでもない話である」
この演説について、堀田さんは、後に、このように回顧しています。「そのとき、私の後ろにいたソヴィエトの議長団の目付きといったら、ものすごかった」(註12)。
4 日本への幻滅
「祖国を回復するためには、革命を起こさなくてはいけない」
そう考えていた、堀田さんは、社会主義への幻滅によって、祖国を回復するための指導理念を、失うことになります。
1971年、鴨長明の評伝である『方丈記私記』に、堀田さんが書きつけた言葉(註13)。
「『日本』の業は、深いのだ」
「私は(中略)長明とともにかかる『世』を出て行く」
5 人間もまた動物である
社会主義への幻滅。日本への幻滅。
そうした幻滅から、堀田さんたち、社会主義者が得た教訓。それは、「人間もまた動物である」という認識だったようです。
『方丈記私記』のあと、堀田さんが執筆した『ゴヤ』には、画家であるゴヤが、人間を狼として描き、風刺するデッサンが、出てきます。「人は人に対して狼なり」(註14)。
そして、同じ作品のなかに、こうした宣言も、出てきます。「あくまで理性にもとづいて、たとえ獄屋にあろうとも、いずこにあろうとも、断乎として背筋を伸ばして立ってあること、それが自由への、従って真理への道である」(註15)。
このことに関連する、宮崎駿さんの言葉。「だから、社会主義っていうのは駄目だっていうこともわかってた。だけど、社会主義の一番中心になる理念っていうのはなんだっていったら〝人間の尊厳〟っていう問題でしょ? それは変わってないんですよ。だけど社会主義っていう方法でそこに橋が架かるかなって思ったけど、これはやっぱり永遠なる地平線なんだよね。だから、その当たり前の振り出しに戻ったんです。歩み続けるしかないんだっていうね。で、そのときに相当なエネルギーがないと、これからはやっていけねえぞっていうね。社会主義もなにもない時代にも、鎌倉時代にも平安の末期のひどい時代にも、人っていうのは生きてきたわけで、どういうふうに生きてきたんだろうっていうことも含めて、もう少し奥行き深くこちらが強くならないと、つまりそういうふうな考えで映画を作らないとこの先はもう作れんっていうね。そういう当たり前の結論を噛みしめてるだけなんですよ。まあだから『豚』は簡単には変節しないぞっていう映画でね」(註16)。
6 亡命 60代
日本における、社会主義革命。その夢が挫折してから、堀田さんは、20代に抱いていた「亡命」という夢を、あらためて実現するかのように、59歳になってから、ヨーロッパへ。
以後、堀田さんは、断続的に、10年間、スペインに滞在します。
このスペイン滞在において、堀田さんが、その作品で取り上げた題材は、「流浪する人々」でした。
たとえば、長編である『路上の人』(註17)には、国家という後ろ盾を持たず、路上で暮らす人物が、主人公として、登場します。その名前は、「路上のヨナ」。この名前は、別な読み方では、「善衛の道」という意味になるそうです。
国家を捨てて、亡命して、路上に生きる。そのような生き方を、堀田さんは、その晩年において、体現したのでしょう。
このことに関連して、私自身のために、書き置き。
作家・加藤周一さんが、その最晩年の学問の集大成である、評論『日本文化における時間と空間』(岩波書店)において、日本文化から脱出する方法として、「亡命」を示唆しています。
加藤さんは、堀田さんとは、学生時代に出会って以来の友人であり、また、堀田さんと同じく、アジア・アフリカ作家会議のメンバーでもありました。
加藤さんは、同じく最晩年のエッセイにおいて、先に逝去していった堀田さんへ、友人として、呼びかける文章も、書いています(註18)。
ひょっとしたら、加藤さんのいう「亡命」というアイデアについては、堀田さんの亡命が、ひとつのヒントになっているのかもしれません。
7 自然・理性・運命
10年間にわたる渡欧を経て、堀田さんは、1988年に、日本の自宅へ帰宅。
その後に発表した、堀田さんの最晩年の大作である、『ミシェル 城館の人』全3巻(集英社文庫 2004.10.20~)。この作品において、堀田さんは、理性と自然との、バランスをとる、判断枠組を提示しています。
「人間もまた動物である」。この認識に対して、当初、堀田さんが抱いた考え、「あくまで理性にもとづいて、立ってあること」。理性の偏重。その考えからの、変化。「自然と理性との、バランスをとる」。
堀田さんが、10年間にわたる渡欧において、学び得たものが、この判断枠組だったのでしょう。堀田さんの学び得たものは、後進である私にとっても、示唆に富んでいます。
以下、私の個人的なコメントです。
8 全体主義⇐理性⇔自然⇒全体主義
理性に偏り過ぎても、いけない。自然に偏り過ぎても、いけない。
どちらかに偏り過ぎて、振り子が振り切った先に、待っているもの。それが、「全体主義」なのでしょう。
「理性」の申し子であったはずの社会主義は、スターリニズムを、生み出しました。
「理性」を排除した「自然」は、ドイツのナチズム、イタリアのファシズム、日本の軍国主義を、生み出しました。
これらの現象について、綿密に分析した業績が、ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』全3巻(新装版 みすず書房 2017.8.23)なのでしょう。
9 人は人にとって狼である
「人間もまた動物である」。この認識は、実は、数百年前の社会思想家、ホッブズ(1588-1679)が、すでに有していました。「人は人にとって狼である」(註19)。
ホッブズは、そうした動物である人間たちが、いかにして、集団で生活を送ってゆくことができるようになるのか、そのことについて、考えた思想家でした。
ホッブズの考えを基礎として、その後、ロック、ルソーをはじめとする、複数の社会思想家たちが、社会契約理論を形成してゆきました。
「人間もまた動物である」。人間社会、その長い歴史のなかで、社会主義運動を経て、ひとびとの人間認識は、また、その出発点に、戻ったようです。堀田さんの言葉、「歴史は繰り返さず、人、これを繰り返す」(註20)。
「人間もまた動物である」。であるけれども、現代においては、まがりなりにも、不備だらけではあるけれども、社会が成立している。
最初は「動物としてのヒトの群れ」だったものが、どのような思想をもって、どのような行動をもって、現代社会を形成してきたのか。その形成の経緯について、知ることは、これからの社会の再構築についての、ヒントになるかもしれません。
10 失敗の探究 ~20世紀の振り返り~
出発点に立ち返ると同時に、これまでの失敗についても、振り返ることが、大事でしょう。
これまでの社会思想の潮流について、簡単に振り返ってみます。もともとは、「社会主義VS自由主義」という、対立構図がありました。その構図のなかで、まず、社会主義が、失敗。そのことによって、新自由主義が、台頭。その新自由主義もまた、2008年の世界同時不況によって、その失敗を露呈しました。
社会主義も、失敗。自由主義も、失敗。もともと対立していた社会思想、その双方が、それぞれ、失敗を露呈。ひとびとにとっては、現状、共通して抱くことのできる理念が、見当たらない状況にあります。
ひとびとにおいて、共通する理念が見当たらないときに、台頭してくるもの。それが、ナショナリズムです。堀田さんの言葉、「不変なものが何もない、となれば、すぐにも手につかまえることの出来る、安直な藁はナショナリズムであり、部族あるいは同族主義であろう。この藁を裸の歴史の腰布として、歴史を創って行こうとする。しかし、藁は藁である」(註21)。
思えば、失敗にこそ、次に生かすことのできる教訓が、埋もれているものです。次なる社会思想を生み出すためには、世界史においても、日本史においても、「なぜ〇〇は失敗したのか」ということを、丹念に調べてゆくことが、有効なのではないでしょうか。
[世界史]
帝国主義の失敗
※ ドイツのナチズム イタリアのファシズム 日本の軍国主義
社会主義の失敗
※ スターリニズム ソ連の崩壊
新自由主義の失敗
※ 世界同時不況
[日本史]
市民運動の失敗
※ 「ベトナムに平和を!市民連合」以後の失速
日本社会党による政権交代の失敗
民主党による政権交代の失敗
11 備考1 ギリシア・ローマ
堀田さんは、『ミシェル 城館の人』において、ギリシア・ローマの古典にまで立ち返って、社会思想を考え直してみること、その重要性を、示唆しています。
ギリシアという時代、ローマという時代についての示唆は、それらの時代が、産業革命以前、宗教改革以前、キリスト教以前、という属性のある時代であることを、含意しているでしょう。
この含意、気になりますので、個人的に、書き留めておきます。
12 備考2 法学からフランス文学へ
堀田さんは、学生時代、法学部・政治学科から、文学部・フランス文学科へ、転部・転科しました。このことも、個人的に、気になっています。
(1)法律の文体
堀田さんが学生でした当時、民法など、諸法の文体は、漢字とカタカナの、混じったものでした。堀田さんの感想、「こんなの日本語じゃない」。その後、2004年に、民法は、現代語化しました。扱いやすい言葉になった分、法学も、学びやすくなっているかもしれません。
(2)渡辺一夫さん
堀田さんがフランス文学を学んでいた当時、第一線で活躍していたフランス文学者に、渡辺一夫さんというひとがいます。渡辺一夫さんは、その評論、エッセイにおいて、モンテーニュのことを、度々、取り上げていました。渡辺さんによる、モンテーニュについての紹介が、後年の堀田さんの作品である『ミシェル 城館の人』(主人公がモンテーニュ)に、どのくらい、影響しているのか。個人的に、興味があります。
なお、渡辺一夫さんについては、その名前を、加藤周一さんも、大江健三郎さんも、「自分にとって学恩のあるひと」として、それぞれの評論、エッセイに、挙げています。日本におけるフランス文学者としての、渡辺一夫さんの、存在感の大きさ。このことも、個人的に、気になっています。
(3)ポール・ヴァレリー
堀田さんが、そのエッセイ「未来からの挨拶」(註22)において紹介している「現在と過去から、未来を見い出す」(Back to the future)という考え方は、もともと、フランスの詩人である、ポール・ヴァレリーが、示した考え方であったようです。ポール・ヴァレリーは、その活動時期からすると、堀田さんにとっては、同時代に活躍した、先人だったはずです。堀田さんの思想への、フランスの文学者たちの思想からの、影響。その具合。このことも、個人的に、気になります。
さらに、ポール・ヴァレリーは、「風立ちぬ、いざ生きめやも」と、堀辰雄さんが訳した詩の、原作者でもありました。堀辰雄さんのことを、堀田さんは、『若き日の詩人たちの肖像』においても、取り上げていて、また、宮崎駿さんと司馬遼太郎さんとの座談においても、振り返っています(註23)。そして、「風立ちぬ」は、宮崎駿さんの映画のタイトルに、なりました。このような、ポール・ヴァレリーの存在感の大きさについても、私は、個人的に、興味を持っています。
以上、自分の今後の読書の指針としての、備忘メモでした。
註1 堀田善衛『時代と人間』徳間書店 2004.2 帯
http://www.tokuma.jp/bookinfo/9784198618254
註2 堀田善衛『めぐりあいし人びと』集英社文庫 ほ1-16 1999.9 14頁
http://books.shueisha.co.jp/CGI/search/syousai_put.cgi?isbn_cd=4-08-747102-0&mode=1
註3 前掲註2 22頁
註4 堀田善衛『方丈記私記』ちくま文庫 ほ-1-2 1988.9.27 60頁
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480022639/
註5 前掲註2 42頁
註6 堀田善衛ほか『時代の風音』朝日文庫 じ-1-1 1997.2.14 43頁
https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=3875
註7 堀田善衛「断層」『戦後短篇小説再発見』9 講談社文芸文庫 こ-J-10 2002.2.10 73頁
註8 前掲註2 48頁
註9 堀田善衛『インドで考えたこと』岩波新書 青版 F-31 1957.12.19
https://www.iwanami.co.jp/book/b267382.html
註10 堀田善衛『上海にて』集英社文庫 ほ1-21 2008.10
http://books.shueisha.co.jp/items/contents.html?isbn=978-4-08-746364-4
註11 その経緯については、堀田さんの娘さんである、堀田百合子さんのエッセイに、詳しく載っています。
堀田百合子「モスラの子と脱走兵」『ただの文士 父、堀田善衛のこと』岩波書店 2018.10.12 35頁
https://www.iwanami.co.jp/book/b376417.html
註12 前掲註2 73頁
註13 前掲註4 229頁
註14 堀田善衛『ゴヤ』Ⅲ 集英社文庫 ほ-1-24 2011.1.25 395頁
http://books.shueisha.co.jp/items/contents.html?isbn=978-4-08-746658-4
註15 堀田善衛『ゴヤ』Ⅳ 集英社文庫 ほ-1-25 2011.2.25 221頁
http://books.shueisha.co.jp/CGI/search/syousai_put.cgi?isbn_cd=978-4-08-746666-9
註16 宮崎駿『風の帰る場所』文春文庫 G-3-3 2013.11.10 99頁(末尾)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784168122026
註17 堀田善衛『路上の人』徳間書店 2004.2.29
http://www.tokuma.jp/bookinfo/9784198618230
註18 加藤周一「空の空」『夕陽妄語3 2001−2008』ちくま文庫 か-51-6 2016.4.10 392頁
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480433404/
註19 孫引き御免。樋口陽一『日本国憲法 まっとうに議論するために』改訂新版 みすず書房 2015.9.18 62頁
https://www.msz.co.jp/book/detail/07950.html
註20 堀田善衛『天上大風』ちくま学芸文庫 ホ-3-4 2009.12.10 21頁
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480092649/
註21 前掲註20 176頁
註22 前掲註20 272頁
註23 前掲註6 44頁