【読書】中村真一郎『芥川龍之介の世界』岩波現代文庫 ~火花のような人生~

中村真一郎『芥川龍之介の世界』岩波現代文庫 B-272 2015.12.16
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 作家・芥川龍之介。35歳で、自死。
 同じく35歳になった、作家・中村真一郎さんが、芥川の作品を通して、その世界を、読みといてゆきます。中村真一郎さんは、作家・堀辰雄に、兄事していました。堀辰雄は、芥川に、兄事していました。このように、中村さんは、芥川にとって、孫弟子にあたります。
「30代の半ばというのは中途半端な年齢である。青春期は既に終り、成熟にはほど遠い。いわば、人生をひとつの完結したものとして括ることの出来る時期はすでに4、5年前に逸し、次の宿場を模索しているはなはだ座り心地の悪い過渡期である。自分の一生に見通しをつけるには、不適当な期間である」
 この、本書の冒頭の、中村さんの言葉、私にとっても、身に沁みます。私も、ちょうど、いま、35歳です。同年代の、芥川が、そして中村さんが、どのようなことを思い、どのようなことに悩んでいたのか。そのことに興味を抱いて、この本を、個人的に読んでみました。
 読んでみると、いま、私の思い悩んでいることが、ほぼそのまま、この本に、書いてありました。

第1 内容要約

1 文学

(1)火花

 芥川は、雨中の架空線の放つ火花について、このように述べている。
「彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。が、この紫色の火花だけは、――凄まじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた」(『或阿呆の一生』)

(2)短編の名手

 芥川は、短編の名手だった。
 彼は、まさに「火花」のように、その形式が美しく完成した短編を、題材を変え、手法を変え、書き連ねていった。

(3)フィクション

 アナトール・フランス等、19世紀末のフランス文学に、芥川は、学んだ。
 19世紀末のフランス文学は、「フィクション」の文学だった。
 「フィクション」の文学とは、「作者と作品とを、切り離す」文学のこと。
 このような文学は、芥川が小説家として活躍した時代に隆盛していた「私小説」とは、対照をなす文学だった。
 「私小説」は、作者の個人的な体験を、作品に反映する文学。これに対して、「フィクション」の文学は、作者と作品とを切り離し、題材について、理知の目で見つめる文学だった。

(4)精神の多様

 「フィクション」の文学。
 作者と作品とを切り離し、題材について、理知の目で見つめる文学。
 そのような芥川の文学は、人間の精神の、その多様さについて、見事に表現している。

(5)人格の統合

 その反面、芥川の、短編を主とする、文学の方法は、「人間が、その精神の原型にそって発展してゆくこと」「人間の精神が、樹木のように伸長してゆくこと」については、適していなかった。
 芥川は、自分の個々の作品に、自分の精神を、細切れにして閉じ込めているような状態に陥り、そのことに、苦しむようになっていった。

(6)理知と感情

 また、彼の「題材について、理知の目で見つめる文学」は、彼自身の感情を題材にするためには、適していなかった。理知では、感情は、取り扱うことが、困難である。
 彼は、彼自身の抱える、感情について、短編を書いてゆくことによって、向き合ってゆくことが、できなかった。

(7)長編の失敗

 芥川は、若い晩年に、それまでの短編とは、打って変わって、長編の執筆を、試みた。
 長編の執筆。その試みは、芥川自身の、人格の統合への、試みでもあった。
 しかし、その試みは、失敗に終わった。芥川の、短編の執筆について磨き上げてきた手法は、長編の執筆には、適していなかった。
 長編の失敗のあと、芥川は、再び短編を書き連ね始め、その個々の完成について、より追求するようになっていった。

 長編による、人格の統合に失敗した芥川は、私小説の方法で、人格の幸福な統合を達成した志賀直哉に、憧れの思いを抱き、その思いについて、書き残している。

(8)人間への懐疑

 芥川の、「題材について、理知の目で眺める文学」は、自ずから、人間への懐疑を、彼に、抱かせた。
 彼の学んだ、19世紀末のフランス文学にとって、人間は、理知の目で見つめてみると、「遺伝や環境や偶然にもてあそばれる一種の動物に過ぎなかった」。
 その後、20世紀のフランス文学においては、そのような人間についての認識を、より深化することによって、かえって、人間の「人間性」を回復しようとする試みが、始まっていった。
 一方、芥川は、そのような試みには、到達し得なかった。

(9)自死

 フィクションとしての短編、その個々の美しい完成を、追求した芥川。彼は、その追求の果てに、人格の統合に失敗し、人間への懐疑を深め、行き詰まり、自死した。
 彼の自死は、短編の方法を追求した果てに到達した、美しい小傑作であった。

(10)大正文学終焉

 芥川による、短編の完成の追求。その果ての、自死。
 芥川の自死に直面した、後進の作家たちは、芥川の手法により、小説を執筆することを、避けるようになっていった。

 関東大震災の発生も、大正文学の終焉について、一役を買った。
 大正文学。「フィクション」の文学。
 作者と作品とを切り離し、題材について、理知の目で見つめる文学。
「そのような文学が、自分たちが生活してゆくにあたっての、役に立つのか?」
 この問いは、関東大震災を経験した、作家たち、読者たちにとって、切実な問いだった。
 関東大震災のあと、作家たちは、大衆小説を、書くようになっていった。

(11)戦時文学 生産文学

 その後、太平洋戦争が勃発。
 戦時下の文学は、「戦争の遂行のための文学」、すなわち、「生産文学」「国民文学」になっていった。
 そのような「建設的」な文学は、文学青年たちにとっては、かえって、文学的な精神の「衰弱」に思えた。
 当時、中村さんに対し、同年代だった堀田善衛さんは、次のように話したという。
「現在は、大正文学を、もう一度、評価し直すべきだ」
 中村さんにとっても、大正文学は、「疑いもなく文学が文学であった時代の文学」だった。中村さんは、大正文学に、「文学の精髄」を、見い出していた。

2 人柄

(1)少年のような素直さ

 芥川の知人たちは、彼の人柄について、「心の美しい、優しい、素直なひとだった」旨、書き残している。
 無垢な少年のような、育ちのいい素直さ。
 そのような芥川の心性は、彼の書いた童話に表れている。
 彼の得意とした「怪異もの」も、彼の幼時の記憶を、反映したものである。
 彼は、一人前の成人であるよりも、孤児的な人間だった。

(2)優しさ 処世 そのための問題の抱え込み

 芥川は、危機が発生するごとに、他人を倒すよりは、自分が身を引いた。
 彼は、「処世」(ひと付き合い)の重要さについて、繰り返し、書き留めている。
 そのために、彼は、その生活のなかで、あらゆる問題を、背負い込んだ。
 彼は、家長として、彼の一族をも、背負い込んだ。

 このように、芥川が背負い込んだ生活苦については、彼自身が「娑婆苦」という言葉で、表現している。
 彼の自死は、「これ以上、生活人として生き続けることを、やめよう」という意思の表明でもあった。

 彼が、彼の「家」を背負い込んだこと。そのことは、彼と同時代の、自然主義の作家たちとは、対照的だった。自然主義の作家たちは、彼らの出身した地方から、彼らの「家」を捨てて、東京へ、やって来ていた。

(3)下町文化・江戸文化

 芥川は、東京・下町に生まれた。
 下町は、当時、江戸の文化を、まだ、色濃く、残していた。
 彼の古典主義・形式主義は、その江戸の文化から、来たものだっただろう。

 このように、彼の人格は、彼自身が形成したというよりも、彼の周囲、彼を取り巻く環境が、形成したものだった。

 芥川の生まれた当時の、東京・下町のひとびとによる文化は、明治維新以降、地方から流入してくる、地方ならではの重たい「家」を背負ったひとびとによる文化に、追いやられ、衰退しつつあった。

 そして、関東大震災、東京大空襲により、下町文化・江戸文化は、消え去った。

3 恋愛・結婚

(1)失恋

 芥川は、24歳、彼が作家として出発した頃に、時を同じくして、痛烈な失恋を、経験した。
 彼と、その交際の相手とは、お互いに、結婚まで、望んでいた。
 しかし、お互いの「家」が、その結婚を、許さなかった。
 結局、彼も、交際相手も、別な相手と、結婚することになった。
 彼は、お互いが結婚した後も、かつての交際相手を、恋しがり、会いたがっていたという。

 この失恋の経験を通して、芥川は、虚無的・懐疑的・厭世的な傾向を深めた。
 そして、彼は、現実を離脱する方向へと、進んでいった。

(2)婚約者への手紙

 芥川は、失恋の後、結婚することになった婚約者(20歳前)へ、次のような内容の、手紙を送っている。
「赤ん坊のやうでお出でなさい。それが何よりいいのです。僕も赤ん坊のやうにならうと思ふのですが、中々なれません。もし文ちゃん(婚約者)のおかげでさうなれたら、二人の赤ん坊のように生きて行きませう」

 また、彼は、婚約者の叔父へ、次のような内容の、手紙を送っている。その叔父は、彼の、中学校の同級生だった。
「私は今心から謙遜に愛を求めてゐます」
「孤立の落莫をみたしてくれるものは愛の外にないと思つてゐます」
「この愛の焔を通過してはじめて二つの魂は全き融和を得る事が出来るのではないでせうか」
「僕は結婚によって我々の生活は完成を告げると思ふ」
「結婚と云ふのは宇宙に存在する二の実在が一体になる事を云ふのだ」

(3)家族のなかの孤独 人間の本源としての孤独

 結婚以降、芥川は、家族のなかでも、孤独だった。
 芥川が、小説を執筆してゆくことについて、つまりは、自己の可能性を実現してゆくことについて、家族からの理解は、なかった。
 しかし、芥川は、「家族」を題材にした小説において、家族からの理解の無さについて、取り上げなかった。その小説は、家族それぞれの立場への、共感を示している。
 芥川は、家族のなかの孤独から発して、その若い晩年には、人間の本源としての孤独に、到達していた。

(4)人妻との不倫

 芥川は、その若い晩年、人妻と、不倫した。その不倫の相手は、芥川に対して、無理難題を持ちかけ、翻弄した。
 結局、その不倫は、破綻した。

4 堀辰雄

(1)芥川の死 堀辰雄の生

 芥川の死は、大正文学の死をも、象徴していた。
 その死のなかから蘇った作家は、堀辰雄ただひとりである。

(2)堀辰雄の生き方

 堀辰雄は、芥川の死に学び、芥川とは異なる生き方を、志した。

「芥川さんは、重いものを、みんな背負い込まれたが、ぼくはなるべく身軽になろうと思った」

 たとえば、堀辰雄は、その生活の場を、下町・都市ではなく、軽井沢・地方へ求めた。都市ではなく、地方で、生きること。そのことは、彼の「家」をはじめとする、絡み合う人間関係からの解放を、意味していた。

「それ等の差し出がましい助言者にも、又ひややかな目撃者にもなりたくはない。ただ、その傍らにぢっとしていて、それだけでもって、不幸な人々への何かの力づけになっているような者になっていたい」

 更に、そのことは、文壇の主流には位置せず、文壇の外延にて、自分の仕事に静かに取り組んでゆくことをも、意味していた。

 また、堀辰雄は、芥川のように、様々な題材に、次々と取り組むことはせず、ひとつの主題について、ゆっくりと追求した。小説の執筆のみならず、読書についても、芥川のような速読はせず、入念に遅読した。

 そして、堀辰雄は、自分自身について、分かろうとは、しなかった。

「芥川さんもやはり自分を除いた我々人間を理解してゐたばかりである。我々に自分自身が分かるやうな気のしていたのは近代の迷妄の一つに過ぎない」

 このように生きてゆくことで、堀辰雄は、芥川が自殺した年代に至っても、ゆっくりと、『風立ちぬ』等を完成して、世に送り出すことができるようになっていった。

「いつのまにか、芥川さんの齢を越してしまったよ…」

(3)立原道造からの批判

 その堀辰雄の、『風立ちぬ』等については、彼に兄事していた立原道造が、次のように批判している。
「『風立ちぬ』等は、絵に描いたように、美しい。しかし、その美しい世界は、孤独な世界、独語による世界である。その独語による世界を、人間どうしの対話の成立する世界へ、引き戻さねばならない」
 堀辰雄の、正統的な、批判的継承者であったはずの、立原。彼は、その志の、道の半ばで、夭折した。

第2 中島コメント

1 フィクション

 「フィクション」の文学。
 作者と作品とを切り離し、題材について、理知の目で見つめる文学。

 本書に出てくる、このような文学の方法は、堀田善衛さんが『方丈記私記』において指摘した『新古今和歌集』の方法に、似通っています。

 堀田善衛さんと、中村真一郎さんとは、同じ年代で、同じ時代を生きた、文学者どうしでした。堀田さんも、中村さんも、お互いのものの見方から、学ぶところが、あったのかもしれません。

2 統合と放散のバランス

 芥川が、その一連の短編において示した、「人間の精神の多様さ」。このことについて、関連して、精神科医・中井久夫さんによると、アメリカの精神科医であるサリヴァンが、次のようなことを語っているそうです。
「人間には、役割の数だけ、人格がある」
 このような、人間の精神についての、見方からすると、中村さんが、本書において、繰り返し述べている、「人格の統合」は、本当に、そこまで必要なことなのでしょうか。このような疑問が、個人的には、湧いてきます。

 また、中井久夫さんは、統合失調症の、急性症状が、患者に、次のような感覚をもたらすことを、指摘しています。「ついに自己を実現した!」。
 こうしたことからしますと、ひとの人格については、あまりにも、「統合」ばかり追求しては、かえって危ういのかもしれません。「統合」と「放散」とのバランスをとってゆくことが、大事なのかもしれません。
――人間には、一個の人格がある。
――人間は、一個の人格を保つことのできる、強い個人である。
 このような、人間の見方は、フィクションなのでしょう。

 ひとの人格について、一個に統合することが必要になる場面は、おそらく、「人生の岐路に立ったとき」なのでしょう。
 日常の生活において、いちいち、人格の統合に、こだわっていたら、それこそ、そのひとは、精神を病むことになるのではないでしょうか。
 なお、「統合」に対する「放散」は、「異なる考え方に触れること」でも、あるでしょう。

3 理知と感情

「理知では、感情は、取り扱うことが、困難である」
 この指摘は、本書にも、前回のテキストである『方丈記私記』にも、前々回のテキストである『法律の学び方』にも、出てきました。
 この指摘に、繰り返し、触れているうちに、私のなかに、次のような思いが、芽生えてきました。
「感情は、いったん、理知を通してこそ、ひとに伝わるのではないか」
 たとえば、開高健さんの『珠玉』には、本当に、淋しさがこもっていました。高見順さんの「青春の健在」には、本当に、若者たちへの好意が、こもっていました。吉野弘さんの「奈々子に」には、本当に、娘への愛情が、こもっていました。
 生の、剥き出しの感情を、ひとにぶつけるよりも、いったん、その感情を、理知の目で眺めた上で、ひとに伝える方が、その感情が、ひとに伝わるのではないでしょうか。
 このように書いていて、私の脳裏には、次のようなイメージが、湧いてきました。ビールのような醸造酒が、蒸留を経て、ウイスキーのような透き通った蒸留酒に、変わってゆく。このイメージと同様に、ひとの感情に関しても、ぶくぶくと湧き上がってきた、生のままの感情について、理知の目で見つめることによる蒸留が、あったほうがいいのではないでしょうか。

 このことに関連して、堀田さんが、『ミシェル 城館の人』において、モンテーニュの、次の言葉を、紹介しています。
「私はつねに、もっとも天上的な思想と、もっとも現世的な生活の間に、奇妙な一致があることを見て来た」
 このように、理知によって抱く思いと、感情によって抱く思いとは、最終的には、一致するのではないでしょうか。

4 体系の樹立の難しさ

 本書において、中村さんは、芥川による、長編の執筆の失敗を、引き合いに出して、ひとにとって、前半生の総決算が、後半生の実りを豊かにすることに関わって、重要であることを、繰り返し、指摘しています。
 前半生の総決算。人格の、樹木のような伸長。人格の統合。
 その重要さについて、繰り返し、述べること。そのことによって、中村さんは、その重要さを、繰り返し、自分にも言い聞かせているようです。
 そして、その重要さは、私も、同じように感じています。更に、その難しさをも、私は、感じています。
 前半生の総決算。そのことに、私も、取り組もうとして、それが一朝一夕にはできないことを、あらためて感じました。35歳の私の内面においては、「私は、こういう仕事を、してきました」という経験が、若干、存在しています。しかし、そのような個々の経験は、自分の内面について、よくよく探ってみると、「花が平原に散らばって咲いている」ようなもので、「樹木のように根を張り、幹を持っている」ものでは、ありませんでした。
A 個々の仕事について、達成すること。
B 個々の仕事の集合から、経験と知識の体系を、樹立すること。
 Bについては、Aとは、また違う方法が必要であること。そのことに、私は、35歳になって、今更ながら、気が付いたところです。
 芥川の、長編の執筆の失敗も、一朝一夕に、自分の前半生の総決算ができるものと考えて、無闇に、そのことに挑んでいったことの、結果だったのでしょう。
 このことに関連して、糸井重里さんは、いわゆる「40の関所」の越え方について、「ゼロになって、ちゃんともがく」という言葉を、書いています。この言葉を、私なりに言い換えると、「自分が、体系の樹立という点では、ゼロであることを、あらためて自覚する」という言葉になります。
 体系の樹立には、樹木の伸長と同じように、長い年月が必要なのでしょう。だからこそ、芥川の失敗に学んだ堀辰雄も、芥川の自死した年代に、『風立ちぬ』等、自分の作品を、ゆっくりと、書き上げていったのでしょう。
 思えば、文学から目を転じて、法学について見てみても、学者さんたちが、入門書・体系書を著す年代は、35歳を優に超えて、40代でもまだ早く、50代・60代に至ってからであるようです。
 こうしたことからしますと、35歳は、「体系を樹立する年齢」なのではなく、「体系の樹立に『着手する』年齢」なのでしょう。ですので、35歳の私が、まず、着手するべきことは、「壮大な体系を一気に完成すること」ではなく、「これから育てることになる、小さな体系を、小さく完成すること」なのでしょう。このことは、イメージとしては、「草原に苗木を植える」ということなのでしょう。

 なお、中村さんは、前半生の総決算、体系の樹立、それらの重要さについて、早くから意識していたようです。中村さんは、本書を執筆する以前に、それらのことに取り組み、その取り組みが、『死の影の下に』という作品として、結実しているようです。『死の影の下に』、個人的に、読んでみたくなりました。

5 突き抜けたニヒリズム

 芥川が、19世紀末のフランス文学から、人間への懐疑を受け継いだこと。
 そして、その人間への懐疑を、20世紀のフランス文学が、かえって人間への認識を深めることによって、克服しようとしたこと。
 このことから、私は、堀田善衛さん、司馬遼太郎さん、宮崎駿さんの「突き抜けたニヒリズム」(『時代の風音』)を、連想しました。
 「突き抜けたニヒリズム」は、次のような考えです。「人間は、度し難い。しかし、生きることは、あきらめない」。この考えは、「人間への懐疑を、かえって人間への認識を深めることによって、克服する」という考えに、似通っています。
 堀田善衛さんたちは、芥川が受け継いだフランス文学の、その後の展開をも、きちんと受け継いできたのかもしれません。
 「人間は、度し難い。しかし、生きることは、あきらめない」。この考えは、次のような考えとして、言い換えることも、できるでしょう。
――理想は、持ちながら、現実に対しては、寛容に。

6 自死

――芥川の自死は、短編の方法を追求した果てに到達した、美しい小傑作であった。
 この、中村さんの意見に関しては、私は、その文脈については理解しつつ、結論としては、同意できませんでした。

 芥川は、自分の死が、自分にまつわる他者たちの生活に・内面に、どのような影響を及ぼすのか、想像していたのでしょうか。

 哲学者・鷲田清一さんによると、「自分」とは…
「自分にとっての自分」
「他者にとっての他者」
 この定義からしますと、芥川の自死は、「自分にとっての自分」のことのみ、追求していて、「他者にとっての他者」である自分のことについては、考えていないのではないでしょうか。そのように、私には、思えてきます。

 このことに関連して、思想家・吉本隆明さんは、そのインタビューのなかで、次のように語っています。
「死は、自分には、属していない。私が死んだかどうかについては、この社会では、私の親族と、医師とで、決めることになっている」(『悪人正機』新潮文庫)
 吉本さんによる、死についての、このような定義からしますと、ひとは、自分が自死するかどうか、単独で決めることが、果たして、できるのでしょうか。

7 文学批判 法学批判

 大正文学。「フィクション」の文学。
 作者と作品とを切り離し、題材について、理知の目で見つめる文学。
「そのような文学が、自分たちが生活してゆくにあたっての、役に立つのか?」
 このような批判が、関東大震災の発生の後に、作家から・読者から出てきたこと。そのことについて、関連して、私は、法学者・内田貴さんが『法学の誕生』において、次のように述べていたことを、思い出しました。「民法改正、その審議において、実務家たちは、学者たちからの提案を、『実務の役に立たない』として、拒んだ」。
 関東大震災の後にも、東日本大震災の後にも、「生活」(実務)からの、「理知」への疑念が、台頭してきているようです。
――歴史は繰り返さず、人これを繰り返す。
 この言葉は、堀田善衛さんの言葉です。

8 王朝文学

 太平洋戦争の最中、文学が、「生産文学」になっていたこと。文学の頭に、「生産」という文字が、くっついていたこと。
 このことから、私は、次のことを、連想しました。現代の日本の社会において、「生産性の向上」が、経済ジャーナリズムのなかでの合言葉のようになっていること。
 戦争当時も、いまも、社会の風潮は、同様のようです。
 このような「生産」の連呼に嫌気がさして、戦争当時、文学青年だった、堀田善衛さん、中村真一郎さんは、大正文学を、再び評価するようになったといいます。そして、大正文学のジャンルには、「王朝もの」があったそうです。
 『新古今和歌集』などを、堀田善衛さんに紹介した文学は、ひょっとすると、芥川をはじめとする、大正文学の、数々の作品だったのかもしれません。
 そして、「王朝もの」についての、再びの評価に関しては、堀田さんたちの胸の内に、「戦時文学が鼓吹している『日本の伝統』は、本当に、『日本の伝統』なのか」という問題意識が、あったのかもしれません。

9 子どものこころ

 芥川が、無垢な少年のような、育ちのいい素直さを、有していたこと。
 このことと、彼が「フィクションとしての文学」に没入していったこととは、個人的には、連関がありそうに感じます。
 少年のこころ、子どものこころを有していた芥川にとって、現実に合わせて生きてゆくことは、大変なことだったでしょう。だからこそ、彼は、「フィクションとしての文学」を、必要としたのでしょう。
 そして、終いには、芥川は、自死によって、自らもが、フィクションの世界の住人になりました。そのように、芥川の自死については、捉えることが、できるかもしれません。

10 文学における古典主義・形式主義

 芥川は、その短編の執筆において、古典主義、つまりは「形式を整えること」に、執心していたといいます。
 一方、井田良さんたちの『法を学ぶ人のための文章作法』第2版には、次のような指摘が書いてあります。「本来、言葉の意味は、多様なものである。多様であるからこそ、文学や哲学のような、多様なものの見方が成立する。しかし、法学においては、『多様性』よりも『正確性』が大事である」。
 芥川の文学における「形式性」と、法学における「正確性」とは、類似のものでしょう。文学にも、法学と同じく、「形式性」や「正確性」の必要な分野が、あるようです。

11 悲哀の仕事

 芥川が、24歳、彼が作家として出発した頃に、痛烈な失恋を経験したこと。
 このことが、私にとっては、興味深いです。

 精神科医・小此木啓吾さんによると、ひとは、思慕の対象を、離別・死別により、喪失したとき、猛然と、ひとつのことに打ち込むことが、あるそうです(『対象喪失』)。このように、「ひとつのことに打ち込むこと」を、「悲哀の仕事」というそうです。
 芥川にとって、次々と迸る火花のように、次々と短編を書き連ねていったことは、彼にとっての、失恋についての「悲哀の仕事」だったのかもしれません。
 本書によると、芥川の執筆した、最初の短編の内容は、「老人が、幻想の世界のなかで、かつての恋人に語りかける」というものだったそうです(『老年』)。
 恋人の喪失。そのような状況にあった芥川は、死について、自分が老人に思えるくらい、近いものとして、感じていたのかもしれません。

 また、芥川のいう「火花」についても、同様に、「対象喪失」という観点から、個人的に、興味があります。
 架空線からの、火花。そのイメージは、「電線が断線していること」を、意味しています。本来、つながっていたかった相手との、関係の、切断。その切断によって、行き先を喪った愛情が、迸っている。そのようにも、芥川のいう「火花」は、捉えることができるかもしれません。
 「電線」からの、「火花」だからこそ、イメージとしては、美しいです。しかし、このイメージは、「動脈」からの「出血」にも、転換できるでしょう。
 切れた電線から、火花が迸るままに。切れた動脈から、血が迸るままに。そのままに生きて行った、芥川。35歳、その電源が尽きたとき、その血液が尽きたとき、彼は、その生命を、終えることになったのかもしれません。

12 人格の合一

 芥川の、婚約者への手紙については、個人的に、気になる表現が、ありました。

「二人の赤ん坊のように生きて行きませう」
 この表現は、相手を、そして自分をも、子どもとして扱っています。

「結婚と云ふのは宇宙に存在する二の実在が一体になる事を云ふのだ」
 この表現は、相手の人格と、自分の人格とを、統合しようとしています。

 子どもは、自分の意識と、相手の意識とを、区別することができずに、「自分が分かっていることは、相手も分かっている」と、考えがちであるそうです。
 このような観点から、芥川から婚約者への手紙を、読んでみます。手紙において、相手との「人格の合一」を求める、芥川。彼は、自分の意識と、相手の意識とを区別せずに、まるで子どものように、生きてゆきたがっているようです。
 このようなことからしますと、芥川にとって、恋愛とは・結婚とは、次のような意味を有していたのかもしれません。
「少年が、その意識において、親から自立するべき年代になったときに、親とは別の、依存する先、くっつく先を、探すこと」
 芥川にとって、恋愛・結婚が、このような意味を有していたとすれば、前の項において触れた「火花」の意味も、より真実味を、増してきます。芥川にとって、失恋の経験は、「合一するべき人格からの、引き裂き」を、意味していたのでしょう。そして、引き裂きにあった電線から、「火花」が迸るようになったのでしょう。

 少年としての、意識の、くっつき先からの、引き裂き。その引き裂きから生じる葛藤について、自らの手で、解消することができなかった、芥川。最後まで、失恋した相手との、意識のつながりを、必要とした、芥川。そのような彼が、長編の執筆による「人格の統合」に失敗したことは、当然といえば当然の帰結だったかもしれません。
 そして、そのような彼は、中村さんのいう「人間の本源としての孤独」に、本当に、到達することが、できていたのでしょうか。
 「人間の本源としての孤独」は、堀田さんが『方丈記私記』において紹介した、「鴨長明の孤独」のような孤独を、指すのではないでしょうか。

13 中年危機

 芥川が、若い晩年に至って、人妻と、不倫したこと。
 このことから、私は、芥川の内面における、「中年危機」を、想像しました。
――自分の人生は、このままで、いいのだろうか。
 そのような思いから、自分の歩んできた道から離れて、全く新しい道へ、進もうとしたこと。しかし、上手く行かなかったこと。
 この思い、芥川と同じ35歳になった、私にも、分かるような気がします。

 このような思いが、私を捕えたときに、私の支えになっている言葉が、あります。その言葉は、経済学者・河上肇さんの、詩のなかの、一節です。
「私の一生は、他の誰とも、取り替えたいとは思はない」

14 堀辰雄 生きる希望

 芥川の死。堀辰雄の生。
 このように、両者について、対置してみると、堀辰雄の生が、ひときわ輝いて、私には見えてきます。
 堀辰雄の『風立ちぬ』等に、当時の読者たちが、生きる希望を、見い出していたこと。そのことが、当時の時代の背景とも重ね合わせて、私にも、分かるような気が、してきました。

 また、芥川と堀辰雄との対比においては、次のことも、個人的には、興味深いです。
 芥川が、愛情の対象となっていた相手の喪失について、最初の短編は別として、その後は、最後まで、自身の文学のなかで、向き合うことがなかったこと。
 そして、堀辰雄は、その代表作である『風立ちぬ』のなかで、同様の喪失に、向き合っていること。
 二人の生死を分けた、その理由のひとつに、この違いが、あるのかもしれません。

 堀辰雄による、軽井沢・地方への脱出。ひとつの主題に、ゆっくり・じっくり、取り組むこと。
 堀辰雄の生き方に、私も倣いたくなってきました。私自身の、いまの生き方は、芥川の生き方に、近いですけれども…

15 アクタガワ世代 ホリタツオ世代

 実際、私は、いまこの時代において、芥川と堀辰雄との間にあったような、世代ごとの感覚の違いを、個人的に感じています。

 私たち、いまの30代の一部は、人生の先輩たちの、サラリーマンとしての働き方から学び、そのような働き方は、あえて、とらずに、専門職・自営業になり、都市において、様々な人間関係のなかで、仕事を受注しています。
 この働き方は、自ら引き受けた働き方とはいえ、けっこう大変です。まず、芥川が短編を書き連ねたように、たくさんの仕事に取り組む必要があります。そして、芥川が処世に苦労していたように、様々な人々と関係を結んでいるために、それらの人々との間に様々な問題が発生するので、仕事とは別に、それらの問題にも、取り組んでゆく必要が生じます。

 このような、私たち30代の一部の、四苦八苦しながらの働き方について、目の当たりにしたためか、いまの20代の人々のなかからは、堀辰雄のように、地方において、のんびり・ゆったりと働いてゆくことを、志す人々が、出て来はじめているようです。

 いわば、いまの30代は、「アクタガワ世代」。いまの20代は、「ホリタツオ世代」。そのように、表現することが、できるかもしれません。
 アクタガワ世代の私としては、先にも述べましたように、「私の一生は、他の誰とも、取り替えたいとは思いません」。しかし、私の働き方は、次の世代に対する、ロール・モデルになっているとも、思いません。
 私としては、いまの20代の人々が、堀辰雄のように、地方において、働くことを、志すのであれば、そのことが実現できるように、応援してゆきたいと、個人的には考えています。

 なお…
――いまの時代に、地方において、働いてゆくにあたって、考えておいた方がよいであろうこと。
 このことに関しては、先日の記事、『方丈記私記』についてのテキスト批評のなかに、個人的に、書き留めてあります。

16 風立ちぬ 純粋な愛情

 堀辰雄の『風立ちぬ』は、私も、何度か、読んだことがあります。
 その内容について、いま、個人的に、思い返すと、たしかに立原道造が指摘したように、「絵に描いたような美しさ」がありました。
 「絵に描いたような美しさ」は、言い換えると、「純粋な愛情」です。そして、堀辰雄の表現した「純粋な愛情」について、私は、このところ、次のように、個人的に考えています。
「愛情には、憎悪も、ついてまわるのではないか」
 このことに関連して、安野モヨコさんの『鼻下長紳士回顧録』において、ヒロインであるコレットが、次のように、語っています。
「私は、小説のなかで、レオンと、幸せになろうとしていた。でも、本当は、私は、彼を、憎んでもいた。だから、私は、小説の続きが、書けなくなっていたんだ…」
 愛情も、憎悪も、こもごも、含んでいる関係。それが、ひととひととの配偶関係・親子関係・家族関係なのでしょう。
――相手に対する憎悪が芽生えたから、この関係は、お終いである。
 そのように考えることはせずに、愛情と、憎悪とが絡み合った、お互いの結び目を、ほぐしてゆくこと。そのことが、配偶関係・親子関係・家族関係においては、必要なのでしょう。

17 芥川の仕事 私の仕事

 最後に、本書の読書を通じて、芥川の死に触れた上で、私自身が、自分の生死について、どのように考えるのか、ここに書き留めておきます。

 芥川の仕事は、「小さく美しい物語を、連綿と書き連ねてゆくこと」でした。
 このように、芥川は、フィクションの世界に、ひたすら、没入していました。

 芥川の仕事に対し、私が、30代のいま、取り組んでいる仕事は、次のような仕事です。
「動かなくなっていた物事が、また動き出すように、援けること」
 私は、私の仕事について、最近、このように、定義するようになりました。
 私が、20代で、この仕事を始めた当初は、私は、私の仕事について、次のように定義していました。
「成年後見によって、超高齢社会の、社会問題を、解決すること」
 20代から、30代へ。その歳月の間に、私の、自分の仕事に関する理解は、幾分か、深まったようです。後者の理解、後者の定義は、成年後見業務のみならず、登記業務、裁判書類作成業務をも、含みこんでいます。
 30代になった私の目には、社会における、「貨幣・価値・生命」の流れが、見えてきています(「考えの足あと/経営プリズム」)。その流れのなかで、私も、自分の生命のある限り、前のひとから受け取った「貨幣・価値・生命」を、次のひとへ、譲り渡してゆきたい。そのように、個人的には、考えています。
 このような、私の人生のイメージは、芥川のイメージする「火花を吹き出しっぱなしの電線」とは、また異なるものです。
 このイメージに基づいて、私は、またしばらく、生きてみます。
 なお、「貨幣・価値・生命」の流れについて、イメージする、根拠になったエッセイは、司馬遼太郎さんの「花祭」でした(『風塵抄』)。
 また、このイメージに関しては、吉野源三郎さんの『君たちはどう生きるか』も、よく似たイメージを、紹介しています。

 本書についての読書体験は、私にとって、35歳の記念になるような、読書体験でした。
 また、この本のおかげで、私が本棚に買いためておいた、大正文学の作品たちが、私には、きらきらと、輝きを帯びて、見えてくるようになりました。
 芥川龍之介。堀辰雄。立原道造。志賀直哉。そして、中村真一郎さん。彼らの作品を、いずれ、個人的に、読んでみたくなりました。

以上

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