【読書】吉本ばなな『おとなになるってどんなこと?』ちくまプリマー新書 ~子どもの頃からの歩みの先にまた道が開ける~
吉本ばなな『おとなになるってどんなこと?』ちくまプリマー新書 238 2015.7.6
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卒業と入学の季節に🌸
著者は、作家・吉本ばななさん。
この本を、私は、たまたま、書店で、手に取りました。開いてみると、私が、出会った学生さんたちにいつも伝えていることと、同様のことが、書いてありました。
それで、この本を、個人的に気に入って、はじめから読んでみました。
――大人になるということは、子どもの自分をちゃんと抱えながら、大人を生きるということです。
第1 内容要約
1 おとなになるってどんなこと?
吉本さんが、自分について、「大人になった」と感じた出来事。その出来事は、中学生の頃に、あった。
当時、吉本さんは、孤独を感じていた。
姉が、大学へ進学するため、家を出た。その寂しさから、母は、ふさぎこむようになった。父は、姉が家を出たことに伴い、自分の仕事に、集中し始めた。
その頃、吉本さんは、周囲からの勧めで、行きたくもない英会話教室に、通っていた。その英会話教室で、ある日、吉本さんは、居眠りをした。
「眠るのだったら、帰りなさい」
行きたくもないのに、通っているのに、なぜ、怒られる?
吉本さんは、傷ついた気持ちで、無言のまま、帰った。
子どもにとっては、「そのことについて、わざわざ口に出して説明すると、自分が終わるような気持ちになること」が、存在するものである。
孤独。自分の意に沿わない生活。
それらに対して、吉本さんの身体が、SOSを発した。血尿が出た。
吉本さんの診察に、お父さんと、おばさんが、付き添ってくれた。
――なぜ、学校があるはずの日に、病院に来て、たくさんの水を飲み、痛い点滴をし、血を採られなければならない?
不機嫌だった、吉本さん。しかし、吉本さんは、ふと、気付いた。父にとっても、おばさんにとっても、今日は、病院に来なくて済んだはずの日。その日を、自分のために、二人は費やしてくれたのだ。そのことに気付いた吉本さんは、二人にお礼を述べ、おばさんのかばんを、代わりに持った。かばんは、重たかった。
この出来事が、吉本さんが、「自分が大人になった」と感じた、出来事だった。
2 勉強しなくちゃダメ?
吉本さんは、高校生くらいのときに、「作家になる」と、心に決めた。
それからは、学校へ行っても、自分のしたい勉強のみ、するようになった。
――机には大人しく座っていて、でも、自分のしたい勉強を、勝手にしている生徒。
先生たちにとっては、困った生徒だったろう。
それでも、吉本さんは、作家になるのであるから、作家になるための勉強にのみ、時間を費やしたかった。
みんなと同じ授業を受け、同じ生活をして、就職を目指す気持ちが、全くなかった。
――自分にとって、つまらないことは、つまらない以上、学ばなくても、仕方がない。
――自分がわくわくするようなことだったら、寝ないででも学ぶべき。
――自分の将来にとって必要な勉強なのであれば、自分が面白く学べるように、工夫するべき。
本来、人間は何かを勉強して、時間を区切ることができるものではない。10分間の休み時間のあと、急に別のことをできるものでもない。
そのようなことを、生徒たちに強いる、学校。そのような学校について、吉本さんは、振り返って、思う。「学校は、社会に順応する訓練の時間を過ごすための、場所だった」。その場所が、吉本さんには、耐え難かった。
3 友だちって何?
言葉には、2種類がある。「身体の言葉」と、「精神の言葉」。
たくさんの時間を共有して、お互いの匂いや、いやなところを知っている、「身体の言葉」。
精神的に同じ価値観を共有している、「精神の言葉」。
両方の言葉で、通じ合っていてこそ、「友だち」。だから、ひとの人生において、本当の意味での「友だち」は、できたとしても、数人くらいだろう。
「身体の言葉」のみ、「精神の言葉」のみで、通じ合っている関係も、もちろんありうる。たとえば、後者については、「作家仲間」がある。多様な関係が、あっていい。
4 普通ってどういうこと?
――あなたが感じる「違和感」を、大切にしてください。
――その「違和感」のなかに、あなたが生きてゆく上で、大切な情報が、詰まっています。
吉本さんは、若い頃、カリフォルニア・ファッションが、好きだった。
しかし、日本の街中では、そのファッションは、浮いていた。
カリフォルニアでは、普通の格好なのに。
日本は、「普通」の範囲が、狭くて小さい社会。
そして、日本の社会において、努めて「普通」にしていても、救われたり、もらったり、養われたりすることは、ない。
あなたには、「たとえ、違和感を感じる相手であっても、オープンに接することのできるひと」に、なってほしい。
5 死んだらどうなるんだろう?
死んでも、ひととひととは、つながっている。
「四十九日」という言葉がある。
そのくらいの日にちに、吉本さんの、お父さんも、お母さんも、吉本さんの夢の中に、表れた。
きっと、たまにふっと、別の世界と、私たちの世界が、接することがあるのだろう。
そういうときには、亡くなったひとの目が、自分の内側に、あるような気がする。
そして、別な世界の「時間の流れ」は、私たちの世界の「時間の流れ」とは、違うらしい。
なお、不摂生は、健康でないと、できない。
自分の人生が嫌になってきたようなときには、生活を整えよう。
朝は、決まった時間に起きる。なるべく、身体を動かす。眠れなくても、ふとんに、早く入る。
インターネットに費やす時間は制限する。
淡白で良質なものを食べる。
煩雑な人間関係、お酒、性欲には、近づかない。
そのようにして、自分の人生を生きてゆくための力を、あらためて、蓄えよう。
6 年をとるのはいいこと?
年をとると、自分のことが、自分で、よく分かるようになる。
行きたくないレストラン、飲みたくない飲み物、着たくない服、会いたくない人が、分かってくる。
そうすると、自分の人生を、自分で創造することができるようになる。
ひとは、年をとったときに、自分の若い頃を振り返って、その頃の自分にあったエネルギーを、愛おしく感じるもの。
だからこそ、いまの、自分の人生を、精一杯に生きよう。
7 生きることに意味があるの?
生きることには、意味がある。
なぜならば、死んだら、ほんとうになにもかも、なくなってしまうから。
ひとは、誰しも、自分を極めるために生まれてくる。
そして、ひとが、自分を極めると、必ず、他者の役に立つようになっている。
生きるのが、辛い、苦しい、面倒。
そのような気分は、そのひとが充分に生きていないときに、やってくる。
そして、そのようなひとには、同じく、充分に生きていないひとが、寄ってくる。
「充分に生きること」。そのことは、次のようなこと。
――次から次へとくる波に乗りながら、身体をちゃんと立てて、判断して、心は静かにある。
いつも、リラックスしている。それでいて、内面は研ぎ澄ましてある。そうでないと、命に関わる。そのように、サーフィンのように生きることが、「充分に生きること」。
そのように生きていると、そのひとは、「そのひとにとっての、本来の姿」になってゆく。
ひとびとが、「そのひとにとっての、本来の姿」になってゆくと、困る存在もいる。
そのような存在が、学校を、設けている。
いまの学校は、「みんなで会社をやっていくための練習場」。
ただ、会社にいても、ひとが「本来の姿」になることは、不可能ではない。
個人で、自分を、極めるか。会社という組織を、利用し・利用されながら、大きな規模で、自分を、極めるか。
どちらにするかは、そのひと次第。
8 がんばるって何?
「がんばれ」は、祈りの言葉。言いっぱなしでいい。その結果について、どうこう言う必要は、ない。
がんばってみて、その結果によって、ひとは、自分を計る。
あんまりがんばらなくてもできるくらいのところに、そのひとの実力がある。
「がんばれ」。そう言われたときの、感じ方も、そのひとにとっての、ひとつの目盛り。嬉しい励まし? 重荷?
「賞を取れなかったね」
「もっと、がんばれたでしょう」
「一等でなければ、がんばったとは、言えない」
このように言ってくる相手に対しては、自分の胸の内に聞いてみて、素直に答えるとよい。
「自分としてはベストを尽くした」
「確かに手を抜いてしまった」
「がんばれなかった。向いていない」
9 将来を考える
誰しも、これまで自分の積み上げてきたものが、いまの自分を作っている。
それを生かすということに、もっと目を向けて欲しい。
10歳には、10歳の。15歳には、15歳の。積み重ねがある。
そのひとにとって、得意なことは、10歳で、もう、明らかに出現している。
自分の積み上げてきたものについて、自分で、見つめてみる。親にも、見てもらう。
そのようにすることによって、相当なことが、分かってくる。
そして、そのようにしてゆくなかで、小学校、中学校、高校へと進学してゆくうちに、将来のことが、だんだんとリアルになってゆくのが、理想的な形。
なお、身近なところに将来の職業があるという意味では、親の仕事は、継ぎやすい。
ひとは、一定の年齢になると、自分の得意なことに、逃げるようになる。
しかし、そうすると、自分の得意なことも、先細りしてゆく。何かひとつのことに特化したひとは、応用がきかなくなる。
小さいうち、若いうちには、万遍なく、いろいろなことをやっておいて、苦手なことや、向いていないことも、いっぱい経験しておこう。
吉本さん自身、作家になるための勉強に、いったんは集中して、作家になったものの、「自分には人生経験が足りない」ということに、気が付いた。そして、いろいろなひとに会い、旅にも出るようにした。自分の人生においての、経験を広げるための勉強に、お金をかけるようにした。
お金はかかったけれども、このような勉強は、しておいて、よかった。このような勉強を、しておいたからこそ、表現できることが増え、小説を書き続けることが、できた。
すべてのことがつながって、いろいろなことが、豊かになってゆく。
それが、いちばんいい、イメージ。
本当の意味での自立とは、「親や兄弟姉妹に、何も言わないで、問題を解決できるようになること」。
「生計について、別にすること」は、本当の意味での自立とは、また違う。
吉本さんが、本当の意味での自立ができたのは、40歳頃だった。
なお、一生、自立しなくてもいいひとも、いる。
第2 中島コメント
1 子どもの頃からの歩みの先にまた道が開けてくる
(1)子どもの自分をちゃんと抱える
――大人になるということは、子どもの自分をちゃんと抱えながら、大人を生きるということです。
――誰しも、これまで自分の積み上げてきたものが、いまの自分を作っている。
――それを生かすということに、もっと目を向けて欲しい。
これらの、吉本さんの意見に、私も、賛成します。
私自身、子どもの頃から、自分の積み上げてきたものの上に、自分の仕事と人生とを、更に積み上げてきました。
といいますのは、こういうことです。
テキスト批評『人事管理入門』において、私は、「自分が自分に対して求める人間像」について、高校生の頃、設定した旨、書きました。そして、その人間像の定立には、司馬遼太郎さんからの影響が大きかったことも、書きました。
その司馬遼太郎さんのことを、私に紹介してくれたのは、小学校6年生のときに読んだ、少年漫画『るろうに剣心』でした。『るろうに剣心』の作者である和月伸宏さんが、単行本のなかで、「この漫画の制作にあたっては、司馬遼太郎さんの『新選組血風録』を参考にしました」と、書いていました。それで、私は、『新選組血風録』(中公文庫)も、読んでみました。それが、子ども心にも、たいへん面白かったのです。それから、私は、司馬さんの著作を次々と読むようになりました。そして、その読書の経験が、「自分が自分に対して求める人間像」の定立に、つながってゆきました。
このように、私にとっては、子どもの頃に、子どもとして読んで・楽しんでいた『るろうに剣心』が、その後の積み重ねの、原点になっているのです。
ちなみに、『るろうに剣心』や『新選組血風録』は、暴力表現があって、誰にでも勧めることのできる作品ではありません。
私としては、「イメージの世界」や「ことばの世界」への導入のために、ひとに紹介できる、健やかで・穏やかな児童文学を、見つくろっておきたいと、かねがね考えています。
(2)自分がわくわくする勉強
思えば、私は、中学生の頃、司馬さんの『花神』(新潮文庫)を、夢中になって読みながら、立教通りを歩いていて、たまたま通りかかった先生から、「おいおい、歩きながら本を読むのは、危ないよ」と、注意を受けたことがありました。
高校生の頃には、私は、司馬さんの時代小説を、たくさん読んでいたのに、日本史のテストの点数が悪くて、「あんなに読んでいるのに、なんでそんなに点数が悪いの?」と、クライメイトが、親しみを込めて、おかしそうに笑ってくれたこともありました。私としては、「出来事と、その年号」よりも、「ひとびとの生き方」が、面白かったのです。
これらの、私の思い出は、吉本さんの、次の言葉にも、通じます。
――自分がわくわくするようなことだったら、寝ないででも学ぶべき。
――自分にとって、つまらないことは、つまらない以上、学ばなくても、仕方がない。
大学では、私は、卒業要件単位を、3年次までに取得して、4年次を、「自由な1年間」として、過ごしました。その1年間を、私は、「司法書士試験の受験勉強」、「司法書士事務所でのアルバイト」、つまりは「自分の将来のための勉強と仕事」に、使いました。
そして、私は、卒業式には、出ずに、その日を、受験勉強の日として、使いました。
(3)学校が提供するもの――共有知
吉本さんが述べていますように、ひとは、学校が提供してくる選択肢のなかから、自分の進路を選ぶよりも、自分の子どもの頃からの歩みの、その延長線上に、自分の歩んでゆく道を見出す方が、充実した、仕事と人生を、送ることができるようになるのでしょう。きっと。
しかし、学校が提供するものに、全く意味がないとは、私は思いません。
このことに関して、学校について、吉本さんは、次のように書いています。
――学校は、社会に順応する訓練の時間を過ごすための、場所だった。
――いまの学校は、「みんなで会社をやっていくための練習場」。
たしかに、そのような側面も、学校には、あるでしょう。
ただ、次のような側面も、学校には、あるでしょう。
――ひとが、他者と共有することのできる知識を、提供する場所。
――ひとが、他者と話が通じる人間になるための、練習場。
といいますのは、こういうことです。
たとえば、大学について、私が、振り返って思うのは、次のようなことです。
「あの場所では、法学について、ベーシックな内容のテキストを書いている先生方が、教壇に立っていた」
そして、それらのテキストが提供している知識は、私が司法書士になって、人様と一緒に働いてゆくにあたって、基礎にできるはずの、共有できるはずの、知識でした。
学校が提供する知識には、それはそれで、やはり、意味があったのです。
それらの知識を、私は、受講する授業を絞り込むことによって、じっくりと学ぶ時間を確保して、修得しておくべきでした。それらの知識について、学生でした当時、私には、修得するための素地が、基礎知識の上でも、方法の上でも、まだありませんでした。
(4)あなたが子どもだったとき
――誰しも、これまで自分の積み上げてきたものが、いまの自分を作っている。
――それを生かすということに、もっと目を向けて欲しい。
そのことに、目を向けるためには、湯本香樹実さんの『あなたがおとなになったとき』(講談社)を、次のように読みかえてゆくことが、有効かもしれません。
あなたが子どもだったとき――
どんな歌が好きだった?
(5)なぜ作家に?
以上、吉本さんの意見に同意してきて、最後に、個人的に湧いてくる、興味があります。
――そもそも、吉本さんは、なぜ、作家の道を、選んだのでしょう?
このことについて、吉本さんのエッセイ等を読んで、探ってみたいです。
2 がんばること
――がんばってみて、その結果によって、ひとは、自分を計る。
――あんまりがんばらなくてもできるくらいのところに、そのひとの実力がある。
私も、同じ意見です。
以下、吉本さんの意見について、私なりに、敷衍してみます。
(1)「めんどうくささ」の乗り越え
私としては、「がんばる」という言葉は、「めんどうくささ」を乗り越えるためにあるのだと、思っています。
ひとは、大きなことに、取り組もうとするときに、めんどうくささを感じるものです。その身近な例としては、「夏休みの宿題」があります。
ひとは、そのめんどうくささを乗り越えて、大きなことに取り組むときに、「がんばるぞ」と、思うのでしょう。
(2)「気合」より「向き合い」
ひとが、「がんばるぞ」と思い、大きなことに取り組み始めると、あとはもう、「気合」の問題ではなく、「向き合い」の問題になります。
たとえば、学生さんのなかには、合格率が10%前半、場合によっては10%未満の資格試験について、「がんばって、一発合格するぞ」と、「気合」を入れて、勉強を始めるひとがいます。そして、不合格になって、落ち込んで、受験すること自体を、あきらめるひとがいます。
そのような学生さんの姿からは、若いひとの意気込みが伝わってきて、それはそれで微笑ましいです。
その一方で、私は、せっかく「がんばる」ことにしたのに、1回の受験で、あきらめるのは、勿体ないとも、思うのです。
資格試験の受験勉強は、勉強して、受験してみて、その結果から、「どのような勉強方法であれば、自分の身に付くのか」を、考え出すことから、始まります。言わば、最初の受験、2回目の受験については、吉本さんの述べていたように、その結果が「ものさし」になるのです。結果に、「向き合う」こと。そこから、本当の、受験勉強が、始まります。
個人的な経験からは、上記のような難易度の資格試験については、「向き合う」受験が、3回は、必要になるようです。そして、「気合」は、通常、3年も、続きません。吉本さんの述べていますとおり、「あんまりがんばらなくてもできるくらい」の勉強を、毎日、地道に積み重ねてゆくことが、大事なのでしょう。
ちなみに、作家・半藤一利さん(1930年生)は、「ひとが、ものになるには、10年かかる」と、書き残しています(『橋をつくるひと』平凡社)。作家・邱永漢さん(1924年生)も、同様のことを述べています(『お金持ちになれる人』ちくまプリマー新書)。
同様の問題について、私は、「3年」という言葉を、度々、耳にしてきました。しかし、半藤さん、邱さんは、「10年」と、述べています。戦後、ひとは、寿命が延びた一方で、生き急ぐようになってきたのかもしれません。
3 子どもの全能感
上に述べました「無茶な受験」つまりは「若者の跳躍」から派生して、個人的に、思うところがありますので、ここに書き留めておきます。
(1)全能感の喪失――人生という旅の始まり
子どもは、自分の世界が小さな分、全能感を感じているのかもしれません。
――自分は、何でも、知っている。
――自分は、何でも、できる。
そのように感じているのに、吉本さんの英会話のように、若者の受験のように、「できないことがある」となると、その全能感が崩れて、一度に、自信を、失う。そのようなことが、あるのかもしれません。
まさに、作家・中島敦さんが、『山月記』に書いた、「臆病な自尊心」です。
このことに関連して、映画監督・宮崎駿さんが、次のように語っています。
――息子がね、スイミングスクールに行けと言ったら、「泳げないからヤダ」って言ったんですよ(笑) その気持ちがね、僕には、よく分かったんですよ(笑)
そして、私は、次のように考えます。
――自分の知らないことがある。
――自分のできないことがある。
――だからこそ、この世界は、面白い。
自分の知らなかったことを、知ること。自分のできないことを、できるようになること。それらのことも、生きる楽しみの、ひとつでしょう。
そして、それらの生きる楽しみを味わうために、吉本さんの、次の言葉が、あらためて、思い浮かんできます。
――小さいうち、若いうちには、万遍なく、いろいろなことをやっておいて、苦手なことや、向いていないことも、いっぱい経験しておこう。
(2)自分についての可能性の絞り込み
また、37歳の私には、次のような思いも、浮かんできています。
――自分の人生という、小さな旅のなかで、自分の知らないことも、自分のできないことも、自分なりに楽しみつつ味わってきた。
――ふと、年齢の高まりとともに、自分の展望している山野に、黄昏が訪れ、肌が寒くなってきたことに、気が付いた。
――そろそろ、自分の足元を照らす、ランタンを、用意しよう。
この思いに関連して、老年心理学についての基本テキストである『老いのこころ』(有斐閣)には、次の趣旨の記述があります。
――ひとは、若い時代には、自分の可能性を追求して、その活動の範囲を、拡大する。
――そして、ひとは、年齢が高まると、残る自分の可能性が実現できるように、その活動の範囲を、絞り込む。
私は、いま、自分の仕事と人生についての、いったんのまとめである、「私が仕事で見ている世界」を、執筆しています。この「私が仕事で見ている世界」が、私にとっての「足元を照らすランタン」(活動する範囲の絞り込み)の、その芯となりそうです。
なお、この執筆、私にとっては「大きなこと」でして、正直な話、とってもめんどうくさいです(笑) しかし、私が司法書士試験に合格したことで、それから、私の仕事と人生が、より充実したように、私が「私が仕事で見ている世界」を書き上げることで、またあらためて、私の仕事と人生が、充実してくることになるのでしょう。きっと。
ちなみに、この私のランタンには、たくさんのひとたちが、火を分けてくれています。主に、司馬遼太郎さん、開高健さん、宮崎駿さん、堀田善衛さん。
たとえば、私の、映画批評『金の糸』における、ウクライナ侵攻についての私見は、堀田さんの分けてくれた火で、現代を照らすような思いで、書きました。
――堀田さんならば、このことについて、どのように考えるだろう。
そのような、私の思いは、吉本さんの、次の言葉とも、通じ合います。
――亡くなったひとの目が、自分の内側に、あるような気がする。
4 その他
(1)孤独―――自分が自分であること
吉本さんが、中学生の頃に、孤独を感じるようになったこと。
そして、その末に、自分が「大人になった」と、感じるようになったこと。
このことからしますと、子どもは、孤独を感じることによって、「自分という人格が、他者の人格とは結合していない、別個の人格であること」をも、感じるようになるのでしょう。
孤独を感じることは、ひとの人生において、大事な一歩であるようです。
そのとき、淋しさから、他者と、くっつこうとするひとも、いるでしょう。そのような観点からしますと、お父さん・おばさんに、あくまでも別個の人格として接した、吉本さんの態度は、見事でした。
その一方で、吉本さんは、次のような考えも、述べています。
――きっと、たまにふっと、別の世界と、私たちの世界が、接することがあるのだろう。
――そういうときには、亡くなったひとの目が、自分の内側に、あるような気がする。
異界とのつながり。人格の結合。これらは、子どもの有する感覚です。吉本さん自身、まさに、「子どもの自分をちゃんと抱えながら、大人を生きている」ひとであるようです。
(2)身体の言葉・精神の言葉
――たくさんの時間を共有して、お互いの匂いや、いやなところを知っている、「身体の言葉」。
――精神的に同じ価値観を共有している、「精神の言葉」。
「身体の言葉」は、「聞くこと・話すこと」に。「精神の言葉」は、「読むこと・書くこと」に。それぞれ通じるでしょう。
私は、フェイスブック上に、「精神の言葉」によって、つながっている仲間がいることを、感じています。
一方で、私は、自分にとっての「身体の言葉」について、人生のなかで、あまり育ててこなかったことも、感じています。
私は、自分の話し言葉について、「書くように話している」と、感じることがあります。そして、同じ印象を、作家・大江健三郎さんの話し言葉にも、感じることがあります。そのような話し言葉は、大江さんにはあくまで敬意を表しつつ、聞いている相手にとっては、まどろっこしいのです(笑)
「身体の言葉」「精神の言葉」、両方の言葉が、他者とともに生きてゆくためには、必要です。
そのような考えから、今更ながらに、「身体の言葉」について、個人的に、練習したいと、感じています。
(3)母性
――大人になるということは、子どもの自分をちゃんと抱えながら、大人を生きるということです。
このように、「大人のなかの子ども」を重視する考えは、吉本さんに限らず、小川洋子さん、俵万智さん、女性の作家さんたちから、共通して、読み取ることができます。
たとえば、小川洋子さんの『シュガータイム』(中公文庫)は、「自分が子どもだった頃」を、懐かしむような物語でした。
また、俵万智さんは、『チョコレート革命』(河出書房新社)において、大人の返事をする男性に、子どもとして恋愛を楽しもうと呼びかける短歌を詠んでいます(『あなたと読む恋の歌百首』文春文庫)。
――あなたは、大人になっても、子どものままでいていい。
そのようなメッセージは、私には、母から子へのメッセージのようにも、思えてきます。
ただ、契約社会において、子どもは「契約を守らなくていい存在」であることになっています。しかし、「契約を守る」ということがあってはじめて、この契約社会は、成立しています。
また、「契約」は、「意思」の「合致」があって、はじめて成立します。その「意思」を、駄々をこねるような方法で表明する大人がいると、その「合致」ができなくなります。
「大人のなかの子どもを組み込んでも成立する社会」とは、どのような社会なのでしょう。そのような社会の構想は、子どもを包摂する社会の構想にも、つながってゆくでしょう。そのことについて、個人的に探究してゆきたいです。
(4)会社という組織
――会社という組織を、利用し・利用されながら、大きな規模で、自分を、極めるか。
吉本さん(作家)も、私(司法書士)も、このような生き方は、していません。ですので、このような生き方について、生徒さんたち・学生さんたちの相談に、具体的にのってゆくことは、難しいです。
そのような相談にのることができるひとも、もちろん、必要でしょう。
(5)家業を継ぐ
――身近なところに将来の職業があるという意味では、親の仕事は、継ぎやすい。
吉本さんの述べています通り、「親の仕事は、継ぎやすい」かもしれません。
ただ、「親の仕事を、継ぐこと」は、「親が組み立てたシステムへの、組み込みを受けること」をも、意味します。そのシステムについて、自分よりも年長の従業員もいるでしょう中で、状況の変化に合わせて、時代の変化に合わせて、どれほど、変革できるかが、問題になるでしょう。
自分の立ち上げたい企業システムがあるのであれば、起業する方が、自分の生きたい道を、生きてゆくことに、つながるかもしれません。
そして、「企業システムの立ち上げ」という観点からは、子どもにとって、継ぐ継がないはともかく、「親は、どのようにして、いまの企業システムを立ち上げたのか」ということについて、親から教わっておくことは、有益でしょう。
(6)親の意見・兄弟姉妹の意見
――本当の意味での自立とは、「親や兄弟姉妹に、何も言わないで、問題を解決できるようになること」。
この吉本さんの意見については、私は、少し意味を変えて、次のように考えます。
――本当の意味での自立とは、「親や兄弟姉妹の意見を、主な根拠とはしないで、自分の意思を決定すること」。
親や兄弟姉妹の意見は、聞いてもいいでしょう。いけないのは、その意見を、主な根拠として、自分の意思を、決定することです。そして、その意思の決定の結果について、親や兄弟姉妹に、引き受けさせようとすることです。
自分の意思は、あくまでも、自分の意思として、決定する。
そして、その結果は、あくまでも、自分が引き受ける。
そのように生きることが、「本当の意味での自立」なのでしょう。
(7)つながる言葉たち
以下、吉本さんの言葉と、通じ合う言葉を、併記します。
――その「違和感」のなかに、あなたが生きてゆく上で、大切な情報が、詰まっています。
――「差異から情報が生まれる」(上野千鶴子『女の子はどう生きるか』岩波ジュニア新書)
――死んだら、ほんとうになにもかも、なくなってしまう。
――「あの世には、財産も、しもべも、知識も智恵も、持ってゆくことができない」(旧約聖書・伝道の書)
――次から次へとくる波に乗りながら、身体をちゃんと立てて、判断して、心は静かにある。
――「たゆたえども沈まず」(パリの標語)
――吉本さん自身、作家になるための勉強に、いったんは集中して、作家になったものの、「自分には人生経験が足りない」ということに、気が付いた。そして、いろいろなひとに会い、旅にも出るようにした。自分の人生においての、経験を広げるための勉強に、お金をかけるようにした。
――「表現するためには、まず、体験すること。体験したことのみ、ひとは、本当に表現できる」(安野モヨコほか『表現する仕事がしたい!』岩波ジュニア新書)
大事なことが、等身大の言葉で書いてある、素敵な一冊でした。